○京都国立博物館 特別展覧会/開館110年記念『美のかけはし-名品が語る京博の歴史-』
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
京都に行ってきた。前回、味をしめた方式で、金曜の夜に京都に入って一泊する。すると翌日は、朝から活動できて、合理的である。
というわけで、京都国立博物館には9時35分頃に入ったのだが、開館からわずか5分で、既に第1室は人が詰まっている。それなら後半を先に見ることにしよう、と思った。
最初の数室をすっ飛ばして、奥に進む。と、いきなり、巨大な木彫が目に入って、足が止まってしまった。一目見て、ああ、博物館の正面の破風飾りの原形だ、と分かった。男神と女神が、半身を起こして寝そべっている。変な比喩だが、トドかセイウチくらいデカい。木槌を持った男神は毘首羯磨(びしゅかつま)、書物らしきものを持った女神は技芸天だという。古代日本と西欧の伝統への憧れが、矛盾なく共存しており、健康的な威厳に満ちていて、「明治」という時代の、いちばん好ましい精神を表現しているように思われた。
同じ部屋には、明治の頃の模写や蔵品目録などがあって、興味深かった。また、天正8年(1592)の年記の入った写本『保元物語』があったが、花山院家に伝わったことを示す旧蔵者印「華山蔵書之印」に、堂々と消印が押してあるではないか(本文の墨色、旧蔵者印の朱色を潰さないよう“配慮”して、緑色のインクで押してある)。うわ~。明治の役人は、やることが大胆である。
さて、名品セクションに至ると、宗達の『風神雷神図屏風』がある。うれしい。私は、この作品、やっぱり宗達がいちばん好きだ。湧き上がる黒雲を蹴立てて、左側方から踊り込んでくる風神。これに対して、雷神の足元の雲は少ない。斜め上方から滑り落ちてきて(砂丘の斜面を駆け下るように)踏みとどまったポーズのように見える。足の指先にまで力が漲っている。宗達作と言われる作品は、細部に目を凝らすと、上手いのか下手なのか、よく分からないところがあるのだが、それでもなぜか、途方もなく魅力的なのである。
私は、荒削りな面白さに弱い。笠川正誠氏寄贈の李朝陶器2点にも、そんな魅力を感じた。『鉄砂雲龍文壺』は、雲龍と言いながら、龍であることがサッパリ分からない。解説に「エビか何かに見える」とあったけれど、私には寿司ネタのシャコに見えた。
嬉しかったのは、岩佐又兵衛『堀江物語絵巻』との対面。美々しい甲冑を身に着けた武者軍団が、どこかの屋敷に攻め入っている。抜き身を下げた髭武者の前に、緋の袴をまとった人物(長い髪、女性か)の、首を切り落とされた骸がころがる。青畳に流れる赤い血潮。深紅の母衣(ほろ)を背負った白面の若武者は、父母の仇討ちを遂げた、主人公の月若だろうか。血とエロスの絵師・岩佐又兵衛の真骨頂を味わえる場面だが、大丈夫なのか、子供の多い夏休みシーズンにこんなものを展示して。私の隣で小学生の男の子がじっと見入っていて、ちょっとドキドキしてしまった。
狩野元信の『四季花鳥図絵』とか、廣瀬都巽氏寄贈の和鏡コレクションとか、語りたい名品はたくさんあるのだが、割愛して、冒頭に戻ろう。
第1室は「東山の光と影」と題して、博物館の周辺にゆかりの品が集められている。その中に、土に埋まったままのしころ(兜の一部)があった。実は、博物館の周辺は、後白河法皇の御所、法住寺殿のあったところだ。この品は、博物館のすぐ南の土地から出土したもので、木曽義仲による法成寺焼討ちに遭った院方の武将か、と推定されているそうだ。
後白河法皇は、私の好きな天皇のひとりである。政治力はともかく、芸術的なセンスは飛び抜けた人物だったと思う。三十三間堂の建立、多くの絵巻物の製作、『梁塵秘抄』の編纂など、実作者としてよりも、パトロンあるいは観賞家としての眼力に魅力を感じる。その後白河法皇の故地に、千年の王城・京都の「宝蔵」としての博物館が建っているのは、なかなか好ましい因縁だと思った。
倉橋由美子の小説に、主人公の女性のデート相手、「藤原さん」という初老の紳士が、時空を超えて生きている藤原定家そのひとである、というストーリーがあった。京博の特別室にも、嘱託扱いの謎の紳士がいたりして。たまに出勤して、書類に眼を通して帰っていく。普段は仕事らしい仕事もないが、よほど鑑定の難しい物件があると意見を求められる。限られた職員しか知らないけど、それが実は後白河法皇だったりして――なんて埒もない夢想をしてみました。
さて、私が本展の最後に出会ったのは、博物館の竣工当時に収められた巨大な棟札。これは感動だった。明治28年(1895)でも、まだ棟札の風習って残っていたのだな。書き尽くせないので、もしかしたら続く。
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京都に行ってきた。前回、味をしめた方式で、金曜の夜に京都に入って一泊する。すると翌日は、朝から活動できて、合理的である。
というわけで、京都国立博物館には9時35分頃に入ったのだが、開館からわずか5分で、既に第1室は人が詰まっている。それなら後半を先に見ることにしよう、と思った。
最初の数室をすっ飛ばして、奥に進む。と、いきなり、巨大な木彫が目に入って、足が止まってしまった。一目見て、ああ、博物館の正面の破風飾りの原形だ、と分かった。男神と女神が、半身を起こして寝そべっている。変な比喩だが、トドかセイウチくらいデカい。木槌を持った男神は毘首羯磨(びしゅかつま)、書物らしきものを持った女神は技芸天だという。古代日本と西欧の伝統への憧れが、矛盾なく共存しており、健康的な威厳に満ちていて、「明治」という時代の、いちばん好ましい精神を表現しているように思われた。
同じ部屋には、明治の頃の模写や蔵品目録などがあって、興味深かった。また、天正8年(1592)の年記の入った写本『保元物語』があったが、花山院家に伝わったことを示す旧蔵者印「華山蔵書之印」に、堂々と消印が押してあるではないか(本文の墨色、旧蔵者印の朱色を潰さないよう“配慮”して、緑色のインクで押してある)。うわ~。明治の役人は、やることが大胆である。
さて、名品セクションに至ると、宗達の『風神雷神図屏風』がある。うれしい。私は、この作品、やっぱり宗達がいちばん好きだ。湧き上がる黒雲を蹴立てて、左側方から踊り込んでくる風神。これに対して、雷神の足元の雲は少ない。斜め上方から滑り落ちてきて(砂丘の斜面を駆け下るように)踏みとどまったポーズのように見える。足の指先にまで力が漲っている。宗達作と言われる作品は、細部に目を凝らすと、上手いのか下手なのか、よく分からないところがあるのだが、それでもなぜか、途方もなく魅力的なのである。
私は、荒削りな面白さに弱い。笠川正誠氏寄贈の李朝陶器2点にも、そんな魅力を感じた。『鉄砂雲龍文壺』は、雲龍と言いながら、龍であることがサッパリ分からない。解説に「エビか何かに見える」とあったけれど、私には寿司ネタのシャコに見えた。
嬉しかったのは、岩佐又兵衛『堀江物語絵巻』との対面。美々しい甲冑を身に着けた武者軍団が、どこかの屋敷に攻め入っている。抜き身を下げた髭武者の前に、緋の袴をまとった人物(長い髪、女性か)の、首を切り落とされた骸がころがる。青畳に流れる赤い血潮。深紅の母衣(ほろ)を背負った白面の若武者は、父母の仇討ちを遂げた、主人公の月若だろうか。血とエロスの絵師・岩佐又兵衛の真骨頂を味わえる場面だが、大丈夫なのか、子供の多い夏休みシーズンにこんなものを展示して。私の隣で小学生の男の子がじっと見入っていて、ちょっとドキドキしてしまった。
狩野元信の『四季花鳥図絵』とか、廣瀬都巽氏寄贈の和鏡コレクションとか、語りたい名品はたくさんあるのだが、割愛して、冒頭に戻ろう。
第1室は「東山の光と影」と題して、博物館の周辺にゆかりの品が集められている。その中に、土に埋まったままのしころ(兜の一部)があった。実は、博物館の周辺は、後白河法皇の御所、法住寺殿のあったところだ。この品は、博物館のすぐ南の土地から出土したもので、木曽義仲による法成寺焼討ちに遭った院方の武将か、と推定されているそうだ。
後白河法皇は、私の好きな天皇のひとりである。政治力はともかく、芸術的なセンスは飛び抜けた人物だったと思う。三十三間堂の建立、多くの絵巻物の製作、『梁塵秘抄』の編纂など、実作者としてよりも、パトロンあるいは観賞家としての眼力に魅力を感じる。その後白河法皇の故地に、千年の王城・京都の「宝蔵」としての博物館が建っているのは、なかなか好ましい因縁だと思った。
倉橋由美子の小説に、主人公の女性のデート相手、「藤原さん」という初老の紳士が、時空を超えて生きている藤原定家そのひとである、というストーリーがあった。京博の特別室にも、嘱託扱いの謎の紳士がいたりして。たまに出勤して、書類に眼を通して帰っていく。普段は仕事らしい仕事もないが、よほど鑑定の難しい物件があると意見を求められる。限られた職員しか知らないけど、それが実は後白河法皇だったりして――なんて埒もない夢想をしてみました。
さて、私が本展の最後に出会ったのは、博物館の竣工当時に収められた巨大な棟札。これは感動だった。明治28年(1895)でも、まだ棟札の風習って残っていたのだな。書き尽くせないので、もしかしたら続く。