見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

心機一転、新生活

2005-03-31 08:34:14 | 日常生活
2年間勤めた職場を離れることになった。同じキャンパス内の別の建物に移るだけではあるが、けっこう日々の生活は一新するはずである。

これまでの職場は、比較的楽な毎日だったので、生活にメリハリをつけ、かつ、文章を書く習慣を取り戻して、少し脳を鍛えようと思って、このブログを始めた。果たして4月以降の新生活でも続けていけるかしら。

私事はできるだけ書かないブログではあるが、まあ区切りなので、覚え書きとして。
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春を待つサクラ

2005-03-27 23:51:47 | 見たもの(Webサイト・TV)
○鎌倉Today「鎌倉の桜・最新リポート」

http://www.kamakuratoday.com/plan/sakrepo.html

今日も出勤。さすがに3月最後の週末はどこにも行けない。

桜の出足が早い年は、こんなことしている間に花が終わっちゃって愕然とするのだが、今年は幸い、見ごろは4月1日以降になりそうである。気の早いサイトでは定点観測レポートが始まっているけど、まだまだ大丈夫そうだ。
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休日出勤の白モクレン

2005-03-26 22:09:52 | なごみ写真帖
3月最後の週末。
日本全国、私のように休日出勤していた人は多いことでしょう。
いつもの職場に向かう道すがら、横目に眺める白モクレンが花盛り。

帰りはもう闇の中に沈んでいました。



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忘れられた時間/冷戦文化論

2005-03-24 23:39:38 | 読んだもの(書籍)
○丸川哲史『冷戦文化論:忘れられた曖昧な戦争の現在性』双風舎 2005.3

 冷戦は「終わった」ことになっている。しかし、韓流ブームとその対極にある北朝鮮バッシング、「台湾は親日である」という無邪気な思い込みと中国脅威論は、結局、今なお日本人の歴史意識・世界認識に冷戦構造が抜きがたく残っていることの証ではないか、と著者は提起する。

 そのとおりだろう。台湾や韓国における1970年代以降の民主化運動は、冷戦構造の動揺と終結を背景に、自分たちでおとしまえをつけた感がある。それに比べて日本の場合は、冷戦の勃発によって政治的安定と経済発展という2つの恩恵を受けたことに眼を閉ざしてきた結果、「冷戦の終結」にも対応できていないように思う。

 正直なところ、私はこの時期の歴史がいちばんよく分からない。1945年の終戦から1949年までの戦後初期は、まだしも構図が単純である。1970年代以降の消費文化論はよく分かる。その間に挟まった「冷戦期」というのは、本当にお手上げである。

 お手上げの理由のひとつは、文化社会を理解するための材料(メディア)が、あまりにも今日と違うことにある。1970年代以降の文化論は、テレビ、アニメ、ネット、雑誌、広告など、今につながる文化事象に現れている。しかし、それ以前、冷戦期の人々の考え方は、小説や映画、それも今では忘れられたような作品を読み解かなければ理解できない。

 本書は、大岡昇平、清岡卓行、竹内好など、教科書どおりの「戦後」文化人にとどまらず、映画『人間の条件』『星のフラメンコ』『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』、映画の原作にもなった『肉体の門』『春婦伝』、在日二世作家・高史明による『夜がときの歩みを暗くするとき』、沖縄出身の池澤聡による『カクテル・パーティー』など、さまざまな大衆文芸作品を取り上げ、丹念に分析している。しかし、私はそれらをほとんど知らない。著者の説明をたよりに分析についていくことしかできない。情けないなあ。でもまあ、分からないことを分かった顔をしてもしかたないので、ゆるゆる行くしかないよなあ。
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大手町のチューリップ

2005-03-22 21:49:16 | なごみ写真帖
むかし、週末の大手町は、人気のないオフィスビルが続くだけだったのに、最近はお店も増えて、歩くのが楽しくなった。
足元の芝も緑色。すっかり春ですね。

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どの等伯がお好き?/出光美術館

2005-03-21 20:31:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
○出光美術館『新発見・長谷川等伯の美展』

http://www.idemitsu.co.jp/museum/

 最近、出光美術館の展示は、なかなかいい。作品そのものを美的に見せることと、それを知的に楽しむための展示方法や解説のバランスがとてもいいと思う。

 この展覧会は、新発見の2つの屏風(新たに等伯作品と認定された)を含め、長谷川等伯とその周辺の作品(狩野派、長谷川派、そして宗達)を取り上げたものである。

 会場は3部構成になっていて、まず水墨画家としての等伯が出迎える。たぶん多くの人が私と同様、国宝「松林図屏風」で等伯の名前を覚えたはずだから、無難な選択だ。

 それから、金泥屏風に華麗な花鳥を描いた色彩画家としての等伯が現れる。そうそう、これも等伯の一面なのよね。いちばん有名なのは、京都・智積院の国宝障壁画「桜図」「楓図」だろう。私は去年、初めて実物を見に行った。華麗にして繊細、「歓楽極まりて哀情多し」みたいな趣きがある。

 最後の発見が、デザイナーとしての等伯。これには参った。香雪美術館蔵「柳橋水車図屏風」・出光美術館蔵「宇治橋柴舟屏風」・同館蔵「柳橋水車図屏風」の3作品がずらり並んだところは、この展覧会の圧巻である。沈み込むような金泥。遠近法を無視して、のたりと横たわった橋の存在感。ジャズシンガーの黒人女性のように肢体をくねらす柳の木。波間の柴舟では、チアガールのポンポンみたいな柴の束が、何事かささやきあう生き物のように左右に揺れている。すごい。ニューヨークあたりのカフェの内装に置いてみたいなあ。ちょっと動悸が早くなってしまった。

 目録によれば、「等伯筆」と認められているのは香雪美術館のものだけで、あとの2作品は「不明(室町時代)」「長谷川派(江戸時代)」とある。私は3番目の作品だけは、以前、ここ出光美術館で見た記憶がある。この「写し崩れ」の江戸期の作品さえ、うわー、すごいなあ、と思って、今日まで忘れていなかった。しかし、「等伯筆」のデザインのとんがり具合は他を隔絶している。必見である。

 会場の解説に「狩野派を現代の大企業にたとえるなら、長谷川派はベンチャー企業の雄と見ることができる」とあって、にやりとしてしまった。確かに、実は長谷川等伯って、成り上がり志向の、アクの強い人物だったらしいね。ホリエモンみたいに。
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幡白(ばんぱく)展(行ってないけど)

2005-03-20 22:40:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
○杉本美術館『幡白(ばんぱく)展Part2』

http://www.sugimoto-museum.jp/

 年度末も近いので、この連休は仕事に専念する決意である。でも「行ったもの」のネタが増えなくてさびしい。そう思っていたら、NHK「新・日曜美術館」で、この幡白(ばんぱく)展の紹介をやっていた。

 杉本美術館は、愛知県出身の杉本健吉画伯の画業を展示する美術館である。この展覧会は、仏教寺院の荘厳に使われる「幡(ばん)」になぞらえた杉本作品を展示している。

 奈良のお寺をまわると、杉本画伯の作品を目にすることが多い。私の部屋の壁には、平成十五年未歳の東大寺の絵馬が飾ってある。「星の王子様」を思い出すような子ヒツジだが、これも杉本画伯の作品である。写真で見る「幡(ばん)」もかわいくて、しゃれていて、部屋のインテリアに1つ2つほしいものだ。

 この展覧会、「特別企画(愛地球博パートナーシップ事業)」だそうだ。「愛・地球博」はどうでもいいが、こっちは行ってみたい。同時開催の「昭和初期の博覧会ポスター画稿展」も気になる。「幡(ばん)」の写真は下記のサイトで。

■どんざ丸(木田金次郎美術館)
http://www13.plala.or.jp/donzamaru/scramble/takan17.htm
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少年の日々/ハックルベリー・フィンの冒険

2005-03-19 22:27:46 | 読んだもの(書籍)
○マーク・トウェイン作、西田実訳『ハックルベリー・フィンの冒険』上・下(岩波文庫) 岩波書店 1977

 子供の頃からよく本を読んできたほうだと思うが、実は読んでいない名作というのがいくつかある。たとえば「メアリー・ポピンズ」「クマのプーさん」などがそうだ。

 この「ハックルベリー・フィンの冒険」も今回初めて読んだ。「トム・ソーヤーの冒険」は大好きだったから、「ハック」を手に取らなかったはずはないと思うのだけど、たぶん、途中で飽きて投げ出したのだと思う。

 本書の訳者は言う、「『トム』はだいたい子供が読んで面白い物語であるが。『ハック』は子供が読んでも大人が読んでも面白いし、学者が研究しても面白いという広さと深さを持っている」と。

 確かに、「トム」の物語は(といっても私は子供向けのリライト版しか読んでいないが)トムにすっかり感情移入することで楽しめるが、「ハック」は、この感受性の鋭い、したたかだが純粋な少年のモノローグに、読者自身の視線をクロスさせることで、はじめて物語の奥行きを味わうことができる。

 たとえば、ハックは、一緒に旅をすることになった逃亡奴隷のジムの存在を密告すべきかどうかを悩む。黒んぼの逃亡を助けるなんて、まっとうな人間のすることじゃないと”信じる”ハックは、良心の呵責に真剣に悩む。しかし、土壇場でハックの行動は、なぜか彼の良心を裏切ってしまう。このアイロニーを理解するのは子供では無理だ。やっぱり、これは大人が懐かしむ少年時代の物語なのだと思う。

 それにしても、昨今、日本では、子供を標的にした凶悪事件が多発していて、安心して学校にも通えない状況らしい。やれやれ、いまの子供はたいへんだなあと思っていたが、「ハック」を読むと、当時のアメリカ南部の子供たちのまわりには、ごろつき、殺人、詐欺、決闘、酒乱、なんでもありだ。それでも彼らは、すばしっこく危険を回避し、楽しみを見つけてたくましく生きている。とはいえ、自分の子供にハックのような冒険をさせたいと思う日本の親はいないだろうなあ。

 信心深くだまされやすい善人から、恐れしらずの悪党まで、ハックの眼に映る人々は多彩だが、最近すっかり評判を落とした「アメリカ的精神」の原点を、さまざまな角度から見ているような気がした。
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開発とお祭り/万博幻想

2005-03-18 21:41:53 | 読んだもの(書籍)
○吉見俊哉『万博幻想:戦後政治の呪縛』(ちくま新書)筑摩書房 2005.10

 愛知万博(愛・地球博)の開幕まであと1週間だそうだ。朝の情報番組が伝えていた。

 本書は、1970年の大阪万博、1975年の沖縄海洋博、1985年のつくば科学博、そして、1980年代初頭から構想され(1981年、名古屋がオリンピック誘致に失敗したところから始まる)紆余曲折を経て、まもなく始まろうとしている愛知万博という、4つの「万博」の分析によって、日本の戦後史を振り返るものである。

 1960年生まれの私は、小学生で大阪万博に遭遇した。生まれて初めて知る「国民的熱狂」だった。実際に大阪まで行ったのは2回で、太陽の塔と、もう1つか2つパビリオンを見たはずだが、ほとんど記憶にない。それでもテレビ報道や子供向けの雑誌から、ずいぶん詳細な情報を得ることができた。そこにはSFマンガやアニメでしか見たことのない先端的な科学技術の成果があり(と思えた)、世界の国々から集った人々が仲良く笑顔をふりまき(と思えた)、未来そのままの奇抜な建物が立ち並ぶ夢の国だった。とうとう「バンパク」が終わってしまったとき、しかもオリンピックと違って「次」のないお祭りなのだと理解したときは、本当に悲しかった。

 実は、その壮大な「お祭り」に先立って、当時の知識人たちが集い、大阪万博の基本理念について真剣な討議が行われていたとは、想像さえしたことがなかった。万博のテーマ委員会を主導した桑原武夫は、核や公害、東西冷戦と地域紛争、人種間の対立などの問題を「不調和」の言葉で括り、かつ、それを乗り越える可能性を「人類の知恵(複数形)」で示している。

 しかし、結局、当たり障りのない「人類の進歩と調和」という標語が決定すると、原爆、水俣など「不調和」を示す企画は「テーマに合わない」という理由で排除され、出発点にあった批判的精神は忘れられて、ただ日本の高度成長を誇る「お祭り騒ぎ」としての万博に着地してしまう。

 この構図は、今回の愛知万博においても、何も変わっていないように思える。開催か中止か、「海上(かいしょ)の森」の環境保全をめぐって揺れ動いた中で、どちらかと言えばマスコミは、中止を求める市民グループに同調的であったが、この数日、そんな議論があったことなど、すっかり忘れたような「お祭り」報道が続いている。

 マスコミだけではない。「ヤフー!リサーチ」のネット調査では4人に1人が愛知万博に「必ず行く」「たぶん行く」と答えているそうだ(3月2日)。ええ~なんなの、これは。そこに「お祭り」があるのなら「乗り遅れたら損」という感覚だろうか。ネットには、今も愛知万博に反対する市民グループのサイトがいくつか立っているが、もはや活動をしていないのか、最近更新された様子がない。

 結局、市民も通産官僚も自治体も、トヨタという一企業の手のひらで踊らされただけなのか。愛知万博のテーマ「Beyond Development(開発を超えて)」を実現することの難しさを思った。

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教養の再生のために

2005-03-16 18:54:26 | 読んだもの(書籍)
○加藤周一、ノーマ・フィールド、徐京植『教養の再生のために:危機の時代の想像力』影書房 2005.2

 2003年7月、東京経済大学の教員である徐京植(ソ・キョンシク)氏が、加藤周一、ノーマ・フィールド両氏を講師に迎えて開いた「《教養》の再生のために」という講演会が本書の中心となっている。
  
 コーディネーターの徐京植氏は、この講演会にノーマ・フィールド氏を招いた機縁として、彼女の著書『祖母のくに』(みすず書房, 2000)に収められた「教育の目的」を紹介している。これは彼女が1998年のシカゴ大学の入学式で、学生のために行った記念講演である。自由人として「リベラル・アーツ(教養)」を学ぶことの意味を、誇らかに宣言する。私もこの講演録を読んだときは強い感銘を受けた。こんな祝辞で迎えられるアメリカの学生たちを本当にうらやましいと思った。

 いま、「教養」の価値の下落は著しい。折りしも卒業・入学のシーズンであるが、教養を身につけたいと志して大学の門をくぐる学生がどれだけいるだろうか。迎え入れる大学の側も、どこもかしこも横並びで「実践スキルアップ」「即戦力養成」が”売り”の時代である。

 確かに日本語の「教養」には、食うに困らない金持ちの道楽か、社会に背を向けた世捨て人のすねごとみたいな響きがある。そういう「教養」なら排撃されてもしかたないかなあと思う。

 しかし、加藤周一氏の「文学、芸術の世界(=人文的教養)には差別を乗り越える可能性がある」という言葉は聴くべきである。もちろん同氏も言うように、「差別を助長する教養」というものもあり得る。しかし、本当のところ、どれだけ「情報」が世界の隅々に行き渡り、さまざまな「真実」が共有されるようになっても、人文的教養、すなわち自分と異なる他者への共感可能性が、十分に熟成されないかぎり、差別は決してなくならないのではないかと思う。

 だからこそ、徐京植氏がノーマ・フィールド氏を”挑発”した、「アメリカのイラク攻撃実現は、アメリカの教養教育、つまり、リベラルアーツ・エデュケーションの失敗を意味しているのではないか」という発言があり得るのだ。

 「職業としての学問」という課題が問われて久しい。だが我々は、同時に、「教養としての学問」をも、社会の中で守り育てていかなければならないのではないか。そんなことを考えた。
 
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