○黒嶋敏『海の武士団:水軍と海賊のあいだ』(講談社選書メチエ) 講談社 2013.9
水軍とか海賊と呼ばれる人々に対しては、むかしから高い関心を持っている。正直言って、実態はよく知らない。東アジアの海を舞台に活躍した「倭寇」については、最近(私の目に入る)書籍が多いが、日本の海域で暮らした人々について読むのは、本書が初めてではないかと思う。
書名の「海の武士団」は、「中世の沿岸部に展開し、海を通る者たちから収益を上げていた集団」の意味で定着しつつある用語だが、本書は、多様な内実を抱える問題点を指摘し、本文では「海の勢力」という呼び方を採用している。
まず描かれるのは鎌倉時代後期。日本の産品を積み込み、元との交易に向かって五島列島の港を出発した「唐船」が日島(ひのしま)という小島の沖合で難破し、立ち往生してしまう。すると島の住人たちが小舟で駆けつけ、多くの積み荷を持ち去ってしまった(鎌倉遺文)。呆気にとられる話だが、「寄船慣行」といって、漂着船の積み荷は「無主」のものと見なされ、その土地の人々が自由にすることができた。漂着どころか、海水で濡れた積み荷は漂着物と見なされて没収されたともいう(フロイス『日本史』など)。いや~中世って厳しい時代だな(嫌いじゃない)。わけのわからない「美しい日本」を標榜する人たちに、ぜひこの事実を学んでほしい。
こうした難癖を避けるには、はじめから「津料(つりょう)」を収めて、寄港地での安全を確保する必要があった。また航海の途上では「上乗(うわのり)」が行われた。通過海域を支配するメンバーを買い上げて同乗させるシステムであるが、「過所旗」で代替させることもあった。図版の「過所旗」はどこかで実物を見た記憶があるが、こんなに切実なリスクが背景にあるとは思っていなかった。
しかし通行者から金品を徴収するローカル勢力に対し、全国政権である鎌倉幕府は統制を強めていく。当初は撫民思想に基づき、過酷な「田舎の習」を否定し、合理的な「中央の法」による政治刷新を目指すが、結局、下向した地頭たちは「田舎の習」に一体化してしまう。なお、網野善彦氏が、南北朝の動乱において各地の海の勢力が後醍醐天皇を支持したことから、北条氏による海上交通の統制の厳しさを指摘しているというのは、とても興味深かった。歴史って、社会の全方位に目配りしないと気づかないことがたくさんある。
室町幕府は、全国規模の内乱を終息させるため、守護に大きな権限を与えた。この政策によって、海の勢力は在地の守護のもとに編成され、事実上の被官に近い存在となる。やがて戦国時代を迎えると、戦国大名は領国の経済的安定を図るため、小規模な在地ローカルの論理を厳しく規制していく。これによって、海の勢力の活動は縮小を余儀なくされる。一方で、海上交通を担う新たな集団「廻船衆」が台頭してくる。彼らは大名と直接に結びつくこともあった。15世紀後半は、社会体制の変革期であるとともに流通網の変質期でもあり、十三湊、大野湊、草戸千軒などの海上交通の拠点が廃絶・縮小した時期であるという。私は、中世の海の勢力から近世の廻船衆が育ってきたように思っていたので、両者のギャップの存在を初めて意識した。
最終的に豊臣秀吉の「海賊停止令」と関所の廃止政策によって、日本社会は静かな安定に向かう。そして、この時期、日本の沿岸部から姿を消した海の勢力の一部は、倭寇に便乗して大陸に渡り、または朱印船を経営する側となり、または東南アジアに向かったと見られている。
日本中世史の基本をきちんと理解していない私には難しい面もあったが、意外な事象の連関性が示されていて面白かった。それから、たまたま本書を読み終わった直後に、村上水軍ゆかりの尾道、草戸千軒のあった福山、さらに京都を追放された足利義昭が政務を執った鞆の浦(鞆幕府→本書で初めて知った)などに寄る機会があり、本書の内容を楽しく反芻できた。