見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

古さと新しさ/中華ドラマ『金庸武侠世界・鉄血丹心』

2024-07-30 22:14:59 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『金庸武侠世界・鉄血丹心』全30集(騰訊視頻)

 仰々しいタイトルになっているが、原作は永遠の名作『射鵰英雄伝』である。私は2003年(李亜鵬)版で中国ドラマ・武侠ドラマの世界に足を踏み入れ、2008年(胡哥)版2017年(楊旭文)版を見てきたので、これが4作目になるが、やっぱり面白いと思う。

 南宋末年、江南の牛家村に暮らす郭嘯天と楊鉄心の両家は金兵に襲われる。郭嘯天は命を落とし、身重の妻は草原に流れ着いて郭靖を生む。楊鉄心は行方知れず、身重の妻は金の六王爺・完顔洪烈に見初められ、その庇護の下で楊康を生む。そして18年後、郭靖と楊康の物語が始まる。…というのが導入のあらましなのだが、このドラマは、初回から郭靖と楊康が成年の姿で登場し、さらにそれぞれの伴侶となる黄蓉、穆念慈との出会いまで描いてしまう。二人の両親の物語は、その後、物語が進んだところで回想として挟まれる。

 なるほど、この長大な物語を全30集に収めるには、こういう省略もありかもしれない。しかし私は、モンゴルの草原を舞台にした郭靖の少年時代の物語が大好きなので、ちょっと残念でもあった。そこを省略してしまうと、江南七侠の師父たちとの絆も、幼なじみの哲別(ジュベ)や華筝(コジン)との関係も、父親同然のテムジン(チンギスハン)に逆らうことの苦悩が、ずいぶん薄くなってしまうように思う。まあ中国人なら、物語を全部知っている視聴者が多いだろうから、脳内補完して楽しむのかもしれないが。

 主人公の郭靖は「笨」(愚か、不器用)が本分である。少年時代は、いくら修行をしても武芸が身につかないのだが、その素直さを誰からも愛され、さまざまな秘儀を授けられる。郭靖を演じた此沙は、今どきのイケメンという認識だったので、合わないんじゃないか?と思っていたが、繊細で誠実な人柄が感じられて意外とよかった。包上恩は、気の強さも茶目っ気も、一途な愛情もまさに黄蓉。この二人なら、ずっと助け合って、どんな困難も乗り越えていくだろうなあと後半生がイメージできた。

 王弘毅の楊康はちょっと線が細いと思ったが、その分、闇落ちして破滅していく姿に哀れを感じた。本作は、楊康も欧陽克も、死の間際に愛する人の幻影が迎えにくる(欧陽克の場合は母親)演出で、悪役に優しかった。楊康は、漢人と金人のアイデンティティに引き裂かれてしまったわけで、不幸な生い立ちだったと思う。趙の完顔洪烈も、報われない愛情に執着するところが人間的で大変よかった。『射鵰』の映像作品は、金人やモンゴル人の描き方も見どころ。本作の金人男性は編み込みのツインテールみたいな髪型だったが、あれは正しいのかな? モンゴル人は、チンギスハン(王力)はよいとして、ジュベやコジンがあまりモンゴル系らしくないのは不満だった。

 黄薬師(周一囲)、洪七公(明道)、欧陽鋒(高偉光)、段智興(何潤東)は、全体に若い配役だなあと思ったが、悪くはなかった。それより大収穫!と感じたのは、老玩童・周伯通の田雷と裘千仞・裘千丈2役の趙健。どちらも魅力ある滑稽さを演じなければならない難役。田雷は『大江大河』の史紅偉、趙健は『三体』の魏成を演じた俳優さんである。これからも気にして追いかけたい。

 本作の映像は、構図も光の使い方も凝っていたが、ハッキリした高画質の美しさではなく、むしろ古い映画を見るような、黄色っぽい画面が多かったように思う。あと、アクションを接近カメラで撮ることが多くて独特だった。登場人物の内面の葛藤や覚醒を宇宙空間のようなCGで表す演出も面白かった。いろいろな意味で古さと新しさが同居した作品である。

 なお、この『金庸武侠世界』には、監督の異なる「東邪西毒」「南帝北丐」「華山論剣」「九陰真経」という4単元(全30集)が含まれると聞いている。全編公開が待ちどおしい。

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関東大震災に先立つ経験/災害の日本近代史(土田宏成)

2024-07-28 22:23:35 | 読んだもの(書籍)

〇土田宏成『災害の日本近代史:大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(中公新書) 中央公論新社 2023.7

 20世紀初頭は、世界的に大規模な自然災害が相次いだ時期だった。災害は他国にも報道され、国境を超えた義援、救援、調査研究などが整備されていった。本書は、まず序章で1902年のプレー山噴火(カリブ海フランス領)を簡単に紹介する。約3万人の死者を出した大災害で、フランス公使の本野一郎から、主要国はフランス政府に弔辞と義援金を送っているので我が国も送るべき、という連絡が入り、外相の小村寿太郎は天皇に意見を具申した。こうやって日本は文明国の外交を実地に一歩ずつ学んでいったわけである。

 本書に取り上げられている国内外の災害は以下のとおり(◆=日本)
◆1905年秋、日本の東北地方で大凶作
◇1906年4月、アメリカのサンフランシスコ地震
◇1906~07年、中国の中部で水害と飢饉
◇1908年、中国の広東地方で水害
◇1908年12月、イタリアのメッシーナ地震
◇1910年1月、フランスのパリで大洪水
◆1910年8月、日本の関東地方で大水害
◆1914年1月、日本の桜島大噴火
◆1917年9~10月、日本の東京湾岸を中心に高潮被害
◆1923年9月、日本で関東大震災

 日本人と日本政府は、他国に義援を行ったり、義援を受け入れたりする経験を積んでいく。中国への義援金は、日本製品ボイコットを鎮静化するための「人心緩和剤」でもあったが、期待した効果は得られなかった。一方、パリの大洪水では、天皇の義援金が当地の各新聞に掲載され、良好な感動をフランスの人々に与えたと評価された。

 国内の災害に関して、私が特に興味深く読んだのは、東京下町を襲った、1910年の水害と、1917年の高潮災害である。1910年8月、東京は8日から豪雨が続き、10日から河川の氾濫や土砂被害が起きた。錦糸町駅付近で搾乳業(牛飼い)を営んでいた伊藤佐千夫の文章、亀戸付近の写真が惨禍の凄まじさを伝える。このとき、閣僚は夏季休暇中で東京を離れている者も多く、初動の遅れにつながったという。災害対応の軽視は、日本政府の伝統なのかね。

 それでも桂太郎首相は、この水害を契機として、近代日本初の治水長期計画を立案し、1911年から荒川放水路の開削事業をスタートさせる。放水路が1930年に完成し、荒川の本流となることで、東京東部の水害リスクは大幅に低減された。江戸川区生まれで、今は江東区に住む者としては本当に感慨深い。

 また関東大水害では、応急復旧工事費を調達するための地方債を、郵便貯金を原資とする大蔵省預金部が引き受ける仕組みが作られ、その後の災害にも適用された。こういう仕組み、いまの制度ではどうなっているのか、よく分かっていないので気になる。

 1917年9月30日から10月1日の東京湾台風では、防風と高潮によって、現在の江東区・江戸川区などに大きな被害が出た。東京府知事の井上友一は、救援・復旧につとめた。まずは被災者の収容、物資の無料配布、落ち着いてきたら、生活必需品の廉価販売と職業の紹介、資金の貸付けなど。また、災害時には軍隊が出動し、食料の配給や各種工事・作業に従事していたこと、青年団や在郷軍人会に協力が呼び掛けられている点は、関東大震災との関連でも興味深い。

 そして1923年9月1日の関東大震災。東大地震学教室の今村明恒助教授は、大学に出勤していて地震に遭うが、なんだかのんびりした対応が手記に綴られている。天井の抜けた(落ちた)東大図書館の写真は初めて見た。著者は「戒厳令」の適用が、かえって人々に不安と混乱を引き起こしたのではないかと推測する。この是非はよく分からない。

 国内外からは多くの義援金が寄せられた。民間で義援活動の中心になったひとりが渋沢栄一である。実は、関東大震災以前も、東京で何か災害があると、必ず登場するのは渋沢で、毀誉褒貶はあるけど、この点ではやっぱりえらい人だなと再認識した。

 日本のように自然災害の多い国では、災害の記憶は「上書き」されてしまうという。戦前の日本については、関東大震災の存在が大き過ぎて、それ以外の災害について語られる機会は非常に少ない。けれども、少なくとも自分の居住する地域については、小規模・中規模の災害の記憶も気にかけていきたいと思う。

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掘れば化石の宝庫/恐竜大国 中国(安田峰俊)

2024-07-25 22:41:15 | 読んだもの(書籍)

〇安田峰俊著;田中康平監修『恐竜大国 中国』(角川新書) 角川書店 2024.6

 まるで縁のなかった分野の著書だが面白かった。現在、世界で最も多くの恐竜が見つかっているのは中国なのだという。中国国内で骨格の化石が見つかり、2020年12月までに学名がついた恐竜は合計322種、近年はおおむね10種の新種が毎年報告されている。私は、そもそも恐竜学という学問の対象が、ある程度、固定化した段階にあると思っていたので、中国に限らず、毎年、そんなに多くの新発見が相次いでいるということが新鮮な驚きだった。

 私が頻繁に中国旅行に出かけていたのは、1990年代から2000年代なのだが、あるとき、ツアー参加者の中に「私は恐竜のタマゴに興味があって、中国ツアーに申し込みました」というおじさん(おじいちゃん?)がいた記憶がある。変わったおじさんだと思ったが、実は最先端の情報通だったのかもしれない。本書によれば、中国が恐竜大国であることは、一般の日本人には知られていないが、研究者の間では「常識」なのだという。また、ドラえもんの長編映画第1作『のび太の恐竜』(1980年)には、竜脚類のマメンチザウルスをはじめ、中国の恐竜たちが多数登場しているのだという。知らなかった。2019年に江南ツアーに参加したときは、常州のサービスエリアがジュラシックパーク仕様でびっくりした。江蘇省の常州市は、全く恐竜化石が出ていないが、温泉とショッピングモールが併設された娯楽施設「中華恐竜圏」が人気を博しているという。本書の「おわりに」に紹介されている。

 全体としては、どこから読んでもかまわない作りになっており、世紀の大発見(羽毛恐竜、「巨人」恐竜、琥珀の中の軟組織)、化石発見者や恐竜研究者のエピソード、中国恐竜の命名ルールと珍名恐竜、中国全土(+香港、台湾)の恐竜事情など、どれも面白かった。

 近年の恐竜図鑑では、小型獣脚類の仲間はほぼ例外なく身体に羽毛が生えた状態で描かれているという情報には、知識をアップデートできていない私はびっくりした。ちなみに映画「ジュラシック・パーク」が公開された1993年には、恐竜が羽毛を持つことはまだ「仮説」だった。ところが、1996年、中国遼寧省でシノサウロス・プリマ(原始中華龍鳥)の化石が発見されたのを皮切りに、多様な種類の羽毛恐竜が相次いで発見された。遼寧省は、やっぱり寒冷地だったのだろうか。

 中国ではかつて化石が「龍骨」と信じられ、中国医学の薬として用いられてきたことはよく知られているが、そのほかにも仙人の歩いた跡(雲南省)とか、巨大なニワトリ(=「述異記」にいう天鶏)の爪痕(四川省、陝西省)と伝えられてきたのが恐竜の足跡だったという話にはロマンを感じる。恐竜には、足跡化石やタマゴ化石というものがあるのだな。

 2016年にミャンマー東北部で掘り出された琥珀の中から、小型獣脚類の尾の化石が生前の軟組織を残したままで見つかったというのは、ロマンの極北のようなニュース。ミャンマー東北部は、もともとカチン人の反政府ゲリラの支配地だったが、2017年6月からミャンマー中央政府軍に制圧され、欧米世論から琥珀研究に厳しい批判が向けられる。これに対して筆者が、ミャンマー東北部は単なる無法地帯ではなく、一種の秩序らしきものが存在すること、この「秩序」は、日本人や欧米人の人権概念からは理解が難しいが、中国人は「肌感覚の理解が可能」と述べているのは興味深かった。

 中国で発見された恐竜には、地名や人名が使われることが多いが、ピンインベースの表記がラテン語読みの学名では、全く違った発音になってしまう。本書では、中国名(漢字表記)を見て、なるほどと思ったものも多かった。ファンへティタン(黄河巨龍)、ケイチョウサウルス(貴州龍、貴州=guizhou)など。マメンチサウルスは馬鳴溪で発見されたのだが、発見した博士の発音が訛っていたので「建設馬門溪龍」と呼ばれるようになってしまったという(ほっこり)。しかし日本語圏で「帝龍」を「ディロング」と読ませるのはどうなの? 筆者は、重々しくて強そうで気に入っているというが。

 新世代の恐竜研究者、邢立達(1982年生まれ)の話もおもしろかった。こういう中国の恐竜研究者や恐竜ファンが自由に活動できるフィールドが守られてほしいと切に願う。中国の自然科学系の博物館にも行ってみたくなった。

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2024年7月関西旅行:和歌山県立博物館、和歌山市立博物館

2024-07-21 21:04:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

 前日は大阪・堺駅前のホテルに宿泊。朝イチに南海電車で和歌山へ。

和歌山県立博物館 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」登録20周年記念特別展『聖地巡礼-熊野と高野-. 第I期:那智山・那智瀧の神仏-熊野那智大社と青岸渡寺-』(2024年6月15日〜7月21日)

 同館は、2004年7月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録されてから、20周年の節目を迎えることを記念し、今年は5期にわたって熊野・高野の文化財をテーマとした展示を行う。第1期は、熊野三山のうち今なお神仏習合の景観を留める那智山、熊野那智大社と青岸渡寺を取り上げる。5期全部見たいなあ…と思いながら、とりあえず第1期を見に来た。展示規模は小さめ(全43件、企画展示室のみ)だが、熊野那智大社に伝来する最古の神像=女神坐像(平安時代)など、興味深いものを見ることができた。この女神坐像、髪は唐風に結い上げているが、きっちり膝を揃えて正座(大和座り)している。ただし膝の部分は別材なので、後補だったりしないかしら?と思ったが、よく分からない。同じくらいの大きさの男神坐像もあった。

 時代が下るが、桃山時代の熊野十二所権現古神像は全15躯。1躯だけ、剣を立てて構える童子形の立像(黄泉津事解男神像)で、あとは髭をたくわえ、尺を持つ束帯姿の男神坐像。なのだが、神名を見ていくと、天照大神坐像も男神の姿で作られている。伝承の混乱があるようで面白かった。

 那智瀧の経塚から見つかった銅仏の数々も展示されていたが、その中には、昭和5年(1930)に参道入口の枯池(からいけ)から見つかった、中国・唐時代の銅製の観音菩薩立像もあった。どうやって日本に伝来し、誰が何を願って埋納したのか、想像を誘われた。

 ちょうどこの前日(7月14日)、那智大社では「那智の扇祭り」という祭礼が行われていたらしい。大和舞や田楽が奉納されるのだそうだ。展示には、お田植式で使われる牛頭(牛役がかぶるお面)の古いものが出ていた。

和歌山市立博物館 陸奥宗光伯生誕180周年記念企画展『陸奥宗光と和歌山-宗光を支えた紀州の賢人-』(2024年7月6日~9月8日)

 続いてもう1ヶ所。近代モノだが、陸奥宗光は、以前から気になる人物だったので見ていくことにした。陸奥宗光(1844-1897)は、紀州藩・徳川治宝の側近だった伊達宗広(千広)の子どもとして生まれる。宗広は治宝の死によって失脚、一家は和歌山城下を追われ、一時期は高野山のふもとで暮らしたらしい。やがて江戸へ出て、坂本龍馬らと交友。明治に入ると和歌山で藩政改革に取り組み、藩が廃止されると新政府に出仕する。しかし土佐立志社の政府転覆計画に関わったことで、山形監獄→宮城監獄に収容される。獄中では学問に励み、出獄後は海外にも留学し、外務大臣として不平等条約改正に尽力した。

 思ったよりも苦労人で、明治になってから投獄経験があるというのを知らなかったので、びっくりした。高野山の奥の院に行くと、なぜか陸奥宗光の供養塔が弘法大師御廟の近く(御廟の橋を渡った先)にあるのが不思議だったが、窮乏時代に高野山の世話になっていたというのを知って、ちょっと納得した。陸奥の墓は鎌倉の寿福寺にあるのだな。今度、お参りしてこよう。

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2024年7月関西旅行:東洋陶磁美術館、大阪歴史博物館

2024-07-21 18:32:51 | 行ったもの(美術館・見仏)

大阪市立東洋陶磁美術館 リニューアルオープン記念特別展『シン・東洋陶磁-MOCOコレクション』(2024年4月12日~9月29日)

 4月のリニューアルオープンからずっと気になっていた記念特別展をやっと見に来ることができた。基本的には以前の構造を残しながら、現代的なエントランスホールが増築され、展示ケースや照明も整備された。ウェブページに「自然光に近く陶磁器本来の魅力が最もよく引き出せるとされる『紫』励起LED照明を導入」という説明があるが、確かに青磁は青磁らしい、粉青は粉青らしい色味の美しさを感じることができて感激した。美術館の「リニューアル」って必ずしも成功しない例を見てきたので、これは本当にうれしい。大阪市、ありがとう。施工業者はどこなんだろう?

 なお、この朝鮮陶磁のネコちゃんがキャラクターに採用されたらしく、館内のあちこちにさまざまなポーズで登場していた。

MOCO(モコ)ちゃんという愛称も付いているらしい。ぜひグッズ化してほしいな。

 今回の展示、各室のテーマが漢字四文字で統一されており「天下無敵」「翡色幽玄」「清廉美白」「陶花爛漫」などは、ふんふんと納得していたのだけど、最後の中国磁器が「皇帝万歳」なのに笑ってしまった。いいのか、それで。

大阪歴史博物館 特別展・難波宮発掘開始70周年記念『大化改新の地、難波宮-古代日本のターニングポイントー』(2024年7月5日~8月26日)

 山根徳太郎博士の主導によって難波宮跡の第1次発掘調査が始まった昭和29年(1954)から70年の節目の年にあたることを記念し、難波宮と、そのゆかりの「大化改新」にスポットを当てる特別展。私が小中学生時代に習った「大化改新」は、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮において蘇我入鹿が誅殺された事件(乙巳の変)を言ったが、現在は、後に続く一連の政治改革全体を指す。変の直後に即位した孝徳天皇が遷都を決めたことにより、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)(前期難波宮)が主な舞台となった。

 難波宮の所在地は第二次世界大戦後まで不明だった。戦前に法円坂で重圏文・蓮華文軒丸が発見されていたが、軍用地だったため、戦後にようやく学術調査の機会が訪れたのだという。はじめに前期難波宮の遺構が見つかり、続いて後期難波宮(神亀3/726年、聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした)の遺構も発見された。聖武天皇、恭仁京や信楽だけでなく、難波にも手を伸ばしていたんだっけ。ちなみに重圏文軒丸瓦は後期難波宮で使われたもの。蓮華文や唐草文に比べると、斬新でモダンなデザインだったのかもしれない。

 大阪歴史博物館は、まさに難波長柄豊碕宮の上に建てられているので、多くの出土資料を所蔵しているのは当然なのだが、瓦・土馬・木簡など多数の原品を見ると、想像が広がって興味深かった。最古の絵馬(?)だという木片には馬の脚らしきものが描かれていた。常設展示でも地図や模型で復習し、古代の難波について理解を深めた。

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2024年7月関西旅行:大山崎山荘、大阪中之島美術館ほか

2024-07-20 22:58:59 | 行ったもの(美術館・見仏)

 関西旅行、初日の夜は京都市内に適当な宿が見つけられなくて、JR山崎駅前のホテルに泊まった。まわりは静かな住宅街だったが、駅前にコンビニもあって不自由はしなかった。

水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)

 2日目は、せっかく山崎に泊まったので、朝の散歩がてら、後鳥羽院に敬意を表して水無瀬神宮に参拝に行く。ちなみに山崎駅は京都府だが、水無瀬神宮は大阪府なので、知らないうちに県境を越えていた。境内では多数の風鈴を吊るした「招福の風」行事が行われていたが、全く風が無くて、チリンとも鳴っていなかった。あと、前回来たときは気づかなかったのだが、本殿の向かって右には日本酒の樽、左側にはウィスキーの樽が捧げられていた。

 これはJR山崎駅前の離宮八幡宮。油の専売特許を持つ油座として栄えた(滋賀の油日神社を思い出す)。名前は嵯峨天皇の離宮「河陽宮」に由来するとのこと。

大山崎山荘美術館 愛知県陶磁美術館コレクション『中国やきもの7000年の旅-大山崎山荘でめぐる陶磁器ヒストリー』(2024年6月1日~9月1日)

 これも予定になかったのだが、せっかくなので大山崎山荘美術館を初訪問。阪急大山崎駅が始発となる無料送迎バスで坂を上がって門前まで連れていってもらう(定員13名のワゴン車なのでJR山崎駅では乗れないお客さんもいた)。トンネルのような入口の前で少し待ち、開館時間になると、スタッフが門を開けにきてくれる。鎌倉文学館のアプローチのような雰囲気。しばらく緑陰の遊歩道を進んでいくと、美術館本館となっている山荘が現れる。関西の実業家・加賀正太郎(1888-1954)が、別荘として自ら設計を監修したものだという。本格的に英国風ですごく素敵。

 現在の展覧会は、愛知県陶磁美術館(改修工事のため休館中)のコレクション約80点により、中国新石器時代から清朝にいたるまで7000年に及ぶ中国陶磁の歴史を概観するもの。どちらかというと古代多め。大きな三彩駱駝が露出展示になっていて、ドキドキした。

大阪中之島美術館 開創1150年記念『醍醐寺 国宝展』(2024年6月15日~8月25日)

 大阪へ出て、中之島美術館の醍醐寺展へ。今回の旅行で一番楽しみにしていた展覧会だったが、正直イマイチだった。もちろん貴重な寺宝が出ているのだが、現地の霊宝館を知っていると、あれもこれも来ていないのか、というガッカリ感が先立ってしまう。メインビジュアルの如意輪観音坐像は、2018年サントリー美術館の『醍醐寺展』でも主役だったもの。華やかで、謎めいていて、密教の寺・醍醐寺らしい感じがする。彫刻は快慶作の不動明王坐像、閻魔天騎牛像など。絵画は『文殊渡海図』あり。後期に『閻魔天像』が出る。同館、近代日本美術の展覧会はいつも素晴らしいのだが、古美術はもう少し頑張ってほしい。

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2024年7月関西旅行:京博、龍谷ミュージアム、京都文博

2024-07-18 22:15:07 | 行ったもの(美術館・見仏)

京都国立博物館 常設展示

 三連休初日の土曜日は、まず京博へ。特別展の間(はざま)なので、常設展が見られると思うと楽しみでわくわくする。3階の「陶磁」は茶入がミニ特集らしかった。乾山の『色絵氷裂文角皿』を久しぶりに見た。隣りの「考古」には埴輪がたくさん。この秋、東博の特別展にも来てくれるのかな?と思って眺める。兵庫県たつの市出土の須恵器の壺には、小さな人物(相撲をとっている)や動物がたくさん貼り付けられていて、中国の土器みたいだった。

2階「絵巻」の『法然上人絵伝』は「あまり公開される機会のない巻をご紹介します」というだけあって、記憶にないものだった。巻2は出家のため上京した法然(勢至丸)が忠通の一行に出会って問答するところ。巻18は女人往生を説いた法然のもとに女性たちが集うところ。巻38は法然の死去に臨んで、ゆかりの人々が見た夢、法然は童子(聖徳太子?)に導かれて西へ向かう。最後は法然の廟に集う人々。鹿杖をつく法師、裹頭した僧侶などが見える。「仏画」は「日本の羅漢図」で滋賀・大練寺に伝わる、やまと絵風の温和な『十六羅漢像』12幅がメイン。比較として、奇怪な宋元風の『十六羅漢図屏風』も出ていた。

 「中世絵画」は「関東水墨画」で、雪村の『鍾馗図』を見られて嬉しかった。式部輝忠の『巌樹遊猿図屏風』はテナガザルの楽園の趣きあり。細い笹か竹につかまって、ゆらゆら揺れている子が可愛かった。「近世絵画」は「狩野山雪」特集。『蘭亭曲水図屏風』は、ちゃんとガチョウがいたり、お酒を盗み飲みしている童子がいたりで楽しい。金地墨画(わずかに彩色)の『洛外名所図屏風』は圧倒的な山の姿が目立つ。目ざとく「愛宕山や」とつぶやいていたのは、京都人のお客さんかな。「中国絵画」は「来舶清人の絵画」で、張莘筆『四季花卉図押絵貼屏風』が印象に残った。椿椿山を思わせる、繊細で上品な花の絵。

 1階の大展示室(彫刻)は、蘆山寺の如意輪観音半跏像が中央だったと思う。面白かったのは、左右の展示台をやや前に出して(ルンバみたい)、参観者が展示台の後ろにも回り込める配置になっていたこと。新しい試みだと思う。このほか1階では、豊臣秀次公430回忌・特集展示『豊臣秀次と瑞泉寺』(2024年6月18日~8月4日)が開催されていた。秀次公といえば私は『真田丸』の新納慎也さんのイメージである。三条河原で処刑された妻子たちを弔った品々(辞世和歌を表装した瑞泉寺裂)が展示されていたが、こんなに妻妾がいたのか~とあらためて驚いてしまった。

龍谷ミュージアム シリーズ展「仏教の思想と文化-インドから日本へ-」特集展示『阿弥陀さん七変化!』(2024年7月13日~8月18日)

 西方極楽浄土の教主で、浄土教の広がりとともにアジア各地で信仰されてきた阿弥陀如来。多彩に変身する阿弥陀さんの造形を紹介する。「これもアミダ!あれもアミダ?」とか「来迎でGOGO!」とか、龍谷ミュージアムだから許される(?)くすぐりの数々だけでなく、彫刻は滋賀・梵釈寺の木造宝冠阿弥陀如来坐像(平安前期)、絵画は京都・永観堂禅林寺の『阿弥陀三尊像』(南宋時代、張思恭)など名品揃い。文字の中にカラフルな図像をちりばめた『六字名号曼荼羅』(江戸時代)のデザインセンスも楽しかった。

京都文化博物館 特別展『日本の巨大ロボット群像-鉄人28号、ガンダム、ロボットアニメの浪漫-』(2024年7月6日~9月1日)

 日本のアニメーションにおける巨大ロボットのデザインとその映像表現の歴史を辿る。この展覧会、横須賀美術館でやっていたとき、気になりながら行き逃してしまったものである。私は巨大ロボットアニメ全盛期を体験した世代だが、なぜか巨大ロボットには惹かれなかった。おもしろいと思った作品は、初代ガンダムとダイターン3くらいである。なぜ自分が巨大ロボットに惹かれなかったのかを考えながら展示を見たが、結局、よくわからなかった。総合展示は『祇園祭-山鉾巡行の歴史と文化』(2024年6月5日~8月4日)と『天平の都 恭仁宮(くにきゅう) 最新の発掘調査成果から』(2024年6月8日~7月28日)。恭仁宮は、出土文物の展示が少なくて、拍子抜けだった。

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2024祇園祭・新町通曳き初め

2024-07-16 21:22:34 | 行ったもの(美術館・見仏)

 三連休は関西で遊んできた。初日の13日は京都の博物館巡りを予定していたが、調べたら新町通りで山鉾の惹き初めがあるというので行ってみた。少し早めに山鉾町エリアに入って、うろうろする。大きな鉾は既に姿を現しているが、まさに設営中の山も多かった。

 私の好きな蟷螂山。昨年、前祭の宵々山に訪ねたら、Tシャツも扇子も完売だったことを思い出して、今年こそはと期待して行ってみたら「祭礼授与品の頒布は14日10時からです」の貼り紙。うう、今年もご縁がなくて残念。

 四条通りの函谷鉾で「タペストリー」だか「ゴブラン織り」だかの文字を見つけて立ち止まる。そうだ、16世紀の西洋風の図柄の毛織物を懸装品に使っている鉾だったな、と思い出して、久しぶりに鉾に上がっていくことにする。見学料金1,000円は諸物価値上がりの折、かえってお手頃に感じられた。函谷鉾の小冊子と団扇付きで、この団扇、10年以上前(もしかして2008年?)に貰ったものと同じデザインだった。京都産業大学の札を付けた学生さんたちに手際よく案内されて、会所に上がる。

 これは旧約聖書のイサクの結婚の物語絵。中央の大きな画面では、心優しい女性リベカがイサクの老僕に水を与えている。この下段には、イサクがリベカに求婚のしるしとして腕輪を与える場面を描く。

 右隣りには、全く同じ図柄の複製品も飾られていた。16世紀半ばの作と見られた原本は、十数年前に一度、巡行で使われたことがあるとのこと。巡行当日、朝の6時頃にセットすると、褪色した淡い色合いが朝陽に照らされてとても美しかったそうだ。

 昨年の「前掛け」には、皆川泰蔵氏の『モン・サン・ミッシェル』が使われており、今年は『イサクの嫁選び』(複製)ではないかという。説明してくれた話好きのおじさんが「まあ当日、理事長の判断だけど」ともおっしゃっていた。理事長、そんな権限があるのか。

 「見送り」は弘法大師真蹟の『金剛界礼懺文』の予定と聞いた。これも複製品で、ほとんど文字の見えなくなった原本が併せて展示されていた。

 うろうろしているうちに曳き初めの時間(15:00)になってしまったので、慌てて新町通り南端の岩戸山を目指す。北に1ブロックくらい移動した山鉾が、人々に曳かれて戻ってくるところ。小学校低学年か幼稚園児くらいの子供たちがたくさん綱を握っていて楽しそうだった。調べたら、本番の巡行では、今でも搭乗者や曳き手は成人男子しか認められていないのだな。

 続いて北側の船鉾の曳き初めも見学。やっぱり1ブロックほど北に行って戻ってくる。山鉾は動いているところを見ると胸が躍る。

 曇り空を背景に鈍く光る金色の鷁(げき)。

 ちょっとだけど祇園祭の雰囲気が味わえてよかった。

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謎解きは半歩ずつ/中華ドラマ『慶余年2』

2024-07-15 21:58:33 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『慶余年』第2季:全36集(上海騰訊企鵝影視文化伝播有限公司他、2024年)

 2019年の第1季から待つこと5年、ようやく続編が公開された。私は配信開始から少し遅れて視聴を始めたので、第1季と比べて辛めの評価を受けていることは、漏れ聞こえていた。しかしそれは期待値が上がり過ぎた結果で、公平に見れば、十分おもしろかったと思う。

 南慶国の勅使として北斉国に送られた范閑は、その帰路、二皇子の使者・謝必安から二皇子の謀略の次第を聴かされ、同僚・言冰雲の刃を受けて倒れる(ここまでが第1季)。范閑死すの報せは、たちまち南慶国に伝わるが、これは范閑と言冰雲が仕組んだ芝居だった。范閑はひそかに南慶国に潜入し、二皇子に捕えられたと思しい、亡き滕梓荊の妻子を探すが見つからない。

 范閑は再び勅使の列に戻り、生きていたことを明らかにして堂々の帰国。皇帝を偽った罪は不問に付され、監査院一処の主務に任命される。さらに科挙の責任者の大役を果たして宮廷の重臣となり、林婉児との結婚も許される。この厚遇には理由があり、范閑が慶帝と葉軽眉(監査院の創設者)の間の子供だったことが本人に明かされ、周囲も知るところとなる。

 おもしろくないのは、范閑と敵対する二皇子。都を追放された長公主とのつながりも消えていない。一方、太子とその生母の皇后は、二皇子一派に対抗するため范閑との友好関係を保っていたが、范閑も皇子の一人と知って動揺する。慶帝は、范閑以外の臣下や皇族たちへの冷酷な振舞いを徐々に垣間見せる。

 林婉児と結婚した范閑は、南慶国の財力の根本である「内庫」を相続するが、その内庫には全く資産がないことが判明する。そこで南慶国の商人たちに投資を呼びかけ、当面の資金を調達するとともに、内庫の商品を製造している江南の実情を探りに出かける。江南で范閑を待ち受けていたのは、この地方を牛耳る明家の老婦人と息子の当主・明青達。范閑は旅立ち前に慶帝を狙った刺客と大立ち回りを演じて負傷し、まだ内力が回復していない。あわやの危機を救ったのは、北斉国から駆けつけた海棠朶朶。持つべきものは友人である。

 というのがだいたいの粗筋だが、問題は何ひとつ解決せず(むしろ雪だるま式に増えて)第三季に持ち越した印象である。まあ范閑の父親が明らかになり、林婉児と結婚したことが多少の「進展」と見做せないわけではないが。滕梓荊の妻子の安否は不明のまま。監査院院長の陳萍萍が何を考えているかは相変わらず謎(今季は妙に筋トレに励んでいたのと贅沢な私生活を送る自宅が出て来た)。范閑の守護者・五竹は、彼にそっくりの「神廟使者」との一戦があって、尋常の人間ではない(ロポットかアンドロイド?)ことだけは明らかになった。科挙の縁で范閑の門下生になった史闡立の活躍はこれからかな。彼の故郷・史家鎮は、長公主と二皇子が私腹を肥やすための密貿易の現場だったが、太子が捜査の手を伸ばしたときは、村ごと焼き滅ぼされていた。この真相究明も道半ば。

 北斉行で活躍した高達の出番が序盤だけだったのは残念。新たな登場人物では、辺境暮らしが長く、太子と二皇子の権力争いから一歩身を引いた大皇子に好感を持った。大皇子に嫁入り予定の北斉大公主は、美人なのにちょっとトロくて微笑ましい。演じる毛暁彤うまいなあ。監査院一処で范閑の下僚となった鄧子越を演じる余皑磊も好きな俳優さんなので嬉しい。陳萍萍や范閑らの収賄・蓄財を批判して慶帝に嫌われ、あっという前に消された硬骨の老臣・頼名成を畢彦君など、名優を贅沢に使うドラマである。明青達の寧理は第三季の活躍に期待していいのだろうか。

 第一季に比べるとアクション(武闘)シーンは少なめだったが、見せ場(范閑vs刺客、五竹vs神廟使者)はスリリングで手抜きがない。あと、若若がただの貞淑な女子ではなく、外科医の才能に目覚めるのも面白かった。

 本編が、大学生の長慶が葉教授に読ませる創作物語の形式を取っているのは第一季と同じ。ただ冒頭で葉教授が周りの人々に「范閑は死んだんですか?」と繰り返し聞かれていたり、第二季を読み終わったあと「また何年も待たされるの…」とため息をつくなど、メタ物語に念が入っている。第三季、配役をなるべく変えずに作ってほしいなあ。

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2024夏の花

2024-07-10 21:04:39 | なごみ写真帖

暑い暑い。東京の夏は長いが、夏の始まりの7月が一番暑い気がする。

先々週(かな?)東中野の黎明アートルームに行ったときに路地裏で見かけたノウゼンカズラ(凌霄花)。たぶん夏の花の中で、私がいちばん好きな品種。漢字表記も美しい。そういえば、途中まで見て中断してしまった中国ドラマ『以家人之名(家族の名において)』の男性主人公の名前が凌霄だった。「霄(そら)を凌(しの)ぐ」の意味になるのだな。

これは東中野の山手通りの歩道の道端に咲いていた芙蓉。こんな道端に堂々と咲いているのを見たのは初めてで、ちょっとびっくりした。

これは我が家の近くの小さな緑地で、毎年、花をつける大輪の黄色いユリ。詳しい名前はよく分からないのだが、コンカドール(イエローカサブランカ)だろうか?

昨年の様子

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