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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

NHKアニメ『精霊の守り人』に出会う

2008-04-30 23:30:05 | 見たもの(Webサイト・TV)
○NHKアニメ『精霊の守り人』(監督:神山健治、制作:プロダクションI.G)

http://www3.nhk.or.jp/anime/moribito/

 昨日(4/29)のことだ。遅く起きて、テレビのスイッチを入れたら、教育テレビでアニメをやっていた。へえ、NHKでアニメかあ、と思って、しばらく見入った。

 マンガ雑誌の、極端にデフォルメされた絵とは異なり、比較的抑えた絵柄である。平面的なセル画に丁寧な陰影をつけて、立体感をあらわす手法が懐かしい。1970年代の終わりから1980年代の初め、本来なら、もう「子供向け」のアニメ作品から卒業するはずの私の年代が、いつまでも熱狂を続けたアニメーションの主流は、こういう絵柄だったと思う。

 加えて、セリフの日本語の美しさも気に入った。衣装や小道具が東アジアふうなので、古代史ものか?と思ったが(文字が西夏文字っぽかった)、そうではないらしい。番組表をチェックして、『精霊の守り人(もりびと)』という作品であることを知った。原作(偕成社、1996年)は、上橋菜穂子による異世界ファンタジーである。タイトルだけは知っていたが、私は、日本の作家によるファンタジーは、どうも食わず嫌いで、読んだことがなかった。

 アニメーションは、2007年にNHK-BS2で放送されたもの(全26話)。この4月から、毎週土曜日、NHK地上波(教育テレビ)で再放送を開始したのである。昨日は、放送済みの第1~4話の一挙アンコール放送だった。そして、今週土曜日放送の第5話に続くわけである。NHKの策略に、すっかりハメられたかたちになるが、これから週末の楽しみは、この作品に決めた。

 制作会社のプロダクションI.Gは、初めて聞く名前だった。スタッフにもキャスト(声優)にも、もう私の知っている名前はひとりもいない。そりゃあ、そうだなあ、私がアニメを見ていたのは、ファーストガンダム「まで」という世代なのだから…。

■精霊の守り人オフィシャルサイト(※音が出ます)
http://www.moribito.com/

■Production I.G.作品紹介『精霊の守り人』
http://www.production-ig.co.jp/contents/works_sp/1600_/
美術ボードがきれい!

■偕成社:守り人&旅人スペシャルページ
http://www.kaiseisha.co.jp/moribito/index.html
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普遍を取り戻す/逆接の民主主義(大澤真幸)

2008-04-29 23:58:10 | 読んだもの(書籍)
○大澤真幸『逆接の民主主義:格闘する思想』(角川oneテーマ21) 角川書店 2008.4

 「われわれは、一方で、ユートピアを避けなくてはならず、他方では、ユートピアを必要ともしている」という一文で始まる「まえがき」を読んで、最初は、どんな話が始まるやら、と思って首をひねった。読み終えて、この一文に戻ると、腑に落ちるものがある。

 各章の標題となっている著者の主張は、「北朝鮮を民主化する」「自衛隊を解体する」「(周辺諸国との)歴史問題を解決する」など、絶望的に不可能に見える命題ばかりだ。これがユートピアである。しかし、このユートピアは「逃避の場」ではない。われわれは「現実的」「不可避的」な選択(=グローバル資本主義)が、根本的な困難を伴っていることを半ば無意識に理解している。それゆえ、一見、荒唐無稽に見える「ユートピア」(普遍的な構想の建て直し)こそ、われわれが真に必要としている「オールタナティヴ」なのではないか。著者は、そのように、われわれを勇気づけて、各論に進む。

 たとえば「北朝鮮を民主化する」。まず、今日の国際社会の構図がハーバーマスとデリダの対立に象徴されることを確認する。他者との対話を重視するハーバーマス(ヨーロッパ)に対して、対話のテーブルに着かない「熊」の存在を前提とするデリダ(アメリカ)。しかし、25年前のヨーロッパには、現在の北朝鮮と似たような国家がいくつも存在した。北朝鮮の民主化は夢物語ではない。そうではなく、北朝鮮のような国家が現に存在していることこそ、不可能な夢なのだ。それゆえ、われわれのなすべきことは、北朝鮮の人々に対して「お前は既に死んでいる」と知らしめることである。

 著者は冗談を提案しているのではない。『裸の王様』で、任意の個人は、誰もが、王様が裸であることを知っている。しかし、同時に彼らは「他の皆は、王様が裸であることを知らない」と信じている。この認知を「第三者の審級」という。では、「第三者の審級」の転換は、どんなときに起きるのか。著者は、歴史的な実例として、ベルリンの壁崩壊の端緒となった「汎ヨーロッパ・ピクニック」を紹介する。1989年8月、ハンガリーとオーストリアの国境を開放し、東ドイツ市民を、一挙に西側に亡命させたプロジェクトである。この大量亡命の成功が、東ドイツ国内の民主化運動を引き起こした。

 このとき、民主化グループによって撮影された、印象的なシーンがある。国境を走り抜けようとした女性が、ゲート直前で赤ちゃんを落としてしまう。そこに近づいてきた警備兵は、赤ちゃんを抱き上げ、女性に手渡す。著者は、東ドイツ体制に関する「第三者の審級」が崩壊した瞬間をピンポイントで絞っていけば、まさにこのときではなかったか、という。これは感銘深いエピソードである。何か「超越的なもの」が、無名の兵士の何気ない行動を借りて現れたように思われて、私は、ちょっと敬虔な気持ちを感じた。

 つまり、北朝鮮の現体制に「死」を宣告するために必要なのは、まず日本が、北朝鮮難民を、何千人でも何万人でも受け入れる覚悟を示すことだ。そのことによって初めて、北朝鮮の内部に、自律的な民主化運動が起こるはずである。

 たぶん多くの日本人は、著者の提案を、受け入れがたい暴論と感じることだろう。けれど、私は、あながち荒唐無稽とは思わなかった。むしろ、東欧の民主化という体験に裏打ちされている点でも、本書の中でいちばん同意できたものだ。後半の「歴史問題を解決する」「未来社会を構想する」あたりは、理が勝ちすぎの感があって、受け入れにくかった。

 ともあれ、全編にわたって、今の社会の行き詰まりを打開するための真剣な思考実験が展開されている。何が「現実的」で何が「非現実的」かというわれわれの判断も、実は「第三者の審級」に属する知に過ぎない。そのことに気づくだけでも、意味のあることではないかと思う。
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板橋区立美術館・楽しい江戸絵画(榊原悟)

2008-04-27 23:51:59 | 行ったもの2(講演・公演)
○板橋区立美術館『日本美術講演会』 榊原悟「楽しい江戸絵画」

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/art/

 館蔵品展『絵師がいっぱい』にあわせた連続講演会の2回目。全6回とも日本美術ファンには垂涎の講師陣だが、とりわけ、榊原先生のお話は、どうしても聴きたかった。昨年出された『江戸絵画万華鏡』(青幻舎)が、あまりにも面白かったので。
 
 壇上にあらわれた榊原先生も、そのへんは心得たもの。「今日は、絵師や流派にこだわらず、なんでも面白い話をしてくれと頼まれたので」と前置きをして、以下のような話を始められた。司馬江漢は、日本の絵画を「酒辺の一興」と評している。これは、西洋絵画の真摯なリアリズムを学んだ江漢の、日本絵画に対する痛烈な批判である。しかし、日本絵画の遊戯性・即興性・意外性には、西洋絵画とは別の「おもしろさ」があるのではないか。

 まず、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に現れた「烏滸絵(をこえ=馬鹿馬鹿しい絵)」「おそくづの絵(春画)」にまつわる説話を紹介し、ありのままでは面白くないから「絵そらごと」を描くのだ、という絵師の発言に注目する。今日、「絵そらごと」という言葉にはマイナスのイメージが強いが、ここではむしろ、リアリズム以上の「芸術的表現」という積極的な意味で用いられている。

 そして、江戸の烏滸絵として、文化14年(1817)、葛飾北斎が名古屋で行った「大達磨図」の興行を取り上げる。さらには、席画(せきえ・せきが)、酔画、指画(指頭画)等々のパフォーマンス絵画。講師はこれを「即画」と総称する。そこには、即興ゆえに生まれる個性的な表現があり、伝統からの逸脱を目指した絵師たちの企てを見ることもできるという(参考:佐藤康宏「十八世紀の前衛神話」『江戸文化の変容』所収)。

 1時間ほどの講義のあと、スライドで作品を鑑賞。いや~「鑑賞」なんて高尚な表現が当たるのかどうか。なにせ、最初に映写されたのが『放屁合戦絵巻』中の「陽物競べ」ですから。「目が覚めるでしょ」って、先生…。『放屁合戦絵巻』というのは、おそらく平安時代に遡る古い絵巻で、「陽物競べ」と「放屁合戦」の2つのパートから成るのが標準形だそうだ。スライドについて「これはサントリー美術館にあります。というか、エヘヘ、私が勤めていたとき、買っていいというので買ったものです」と、妙に嬉しそうな講師。

 あれ?三井記念美術館の所蔵じゃなかったっけ、と思ったら、三井にあるほうが古本、サントリーにあるのは文安6年(1449)の模写だそうだ。「しかし、非常に質のいい模写です」とのこと。記憶と記録を確かめなおしてみたところ、昨年、サントリー美術館開館記念特別展『鳥獣戯画がやってきた!』で見た「陽物競べ」は三井記念美術館からの出陳、「放屁合戦」はサントリーの館蔵品だった。

 「放屁合戦」の巻末に現れる老婆には「高向秀武の女」と書き入れがあるそうで、すなわち『福富草紙』の主人公の娘という設定なのだそうだ。ああ、やっぱり日本美術はテキストと不可分で、本文が読めると、より深く楽しめるんだなあ。

 江戸絵画では、曽我蕭白、長沢蘆雪、尾形光琳などによる「即画」(即興画)の数々を紹介。すごいなあ、線にあふれるスピード。墨のかすれや畳目の跡さえ、美しさの一要素である(佐理の書みたい)。筆を執るまでには、綿密な計算があるはずだという。しかし、いったん紙に筆を下ろしたら、一気呵成に描き上げるのだ。

 講師が「これ、いいですよね」と感に耐えかねたようにおっしゃったのが、林十江の『双鰻図』。アップにすると、無造作な一筆の描写力に瞠目する。筆の返しがそのまま鰻の身の返しになっているのだ。「この板橋区立美術館は今や江戸美術の殿堂と言ってもいい。今日、取り上げた画家のほとんどの作品は、既にこの美術館で展示されています」と講師。実にそのとおりで、私が林十江という画家を覚えたのは、2005年、板橋区立美術館の『関東南画大集合』だった。なつかしい。

 遊戯性・意外性という点で、見落とせないのは「文字絵」。「へのへのもへじ」の類である。江戸時代、有名だったのは「ヘマムショ入道」と「山水天狗」。それに女文(おんなぶみ)の決まり文句「ぞんじ参らせ候」は虚無僧の姿に見えるということで「虚無僧のいくたりもいるくどい文」という川柳があるのだそうだ。笑った。「のしこし山」もスライドあり(笑)。かくて、下半身ネタに始まり、下半身ネタに終わったのである。

 この連続講演会、展覧会も含めて、全て無料という太っ腹企画である。この日は先着100人の会場が満席だったが、大半は近隣のおじいちゃん・おばあちゃんという感じ。いや、地域に根づいた活動として悪くはないのだが、最近、日本美術関連の展覧会・イベントって、むしろ若者が多いのに、広報不足じゃない? と、ちょっと不満を述べておこう。

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藤が咲きました

2008-04-26 23:58:03 | なごみ写真帖
隣りに住んでいる、アパートの大家さんは花好き。
去年のこの時期、軒先の見事な藤棚を見て、このアパートに引っ越すことを決めた。

あれから1年か。



藤波の花は盛りになりにけり ならのみやこを思ほすや君
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もうひとつの薬師寺展(薬師寺東京別院)

2008-04-25 23:39:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○薬師寺東京別院 国宝薬師寺展開催記念『もうひとつの薬師寺展』

http://www.yakushiji.or.jp/

 上野の東京国立博物館で開催中の『国宝 薬師寺展』にあわせて、東京別院で開かれている展覧会。上記サイトにあがっているポスターの、向かって左、垂髪の十一面観音は、私の好きな仏像である。東京でお会いできるとは嬉しい。

 五反田の薬師寺東京別院を訪ねるのは3回目。前回は、定例の法話の時間にぶつかって、年齢層の高い団体さんに混じって、ありがたいお話を聞くことになってしまった。今回は、お話は遠慮申し上げたいと思っていたが、会場に入ると、20人あまりの老若男女が神妙に般若心経を唱えている。また団体さんか~と思ったが、そうではなかった。お経のあと、講師のお坊さんの「初めていらした方は?」という質問に、ほとんどの人が手を上げていた。『国宝 薬師寺展』の影響力は絶大なんだなあ。

 それから20分ほど、お話を聞いた。要は写経のすすめなのだが、仏像や寺宝の解説もあり、面白かった。上野で公開中の日光・月光の両菩薩には、あわせて20トンの銅が使われている。薬師寺創建当時(680年)、銅は金にも等しい貴重な金属だった。日本で初めて自然銅が見つかったのは、708年。これを記念して、年号を「和銅」に改め、「和同開珎」という銅貨が鋳造された。したがって、両菩薩像に使われた銅は、大陸からの輸入品だろうという。ええ~20トンもの銅を、どうやって(海路で?)運んだのか、いろいろ想像してしまった。

 しかし、調べてみると、薬師寺には”移建・非移建論争”というのがある。薬師寺は、和銅3年(710)、平城京遷都に伴い、飛鳥から現在の地に移された。日光・月光菩薩を含む薬師三尊像は、飛鳥で造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説が有力だが、「平城移転後の新造とする説もなお根強い」のだそうだ。また、飛鳥で造立されたとしても、688年頃に完成していたと見る通説のほか、『日本書紀』に仏像の開眼法会の記録がある持統天皇11年(697)に造られたという説もある。そういえば古い本で、”白鳳文化(様式)”という時代区分を認めるかどうかについて議論があることを、むかし読んだ。この件、諸説をまとめて知るには、以下のサイトが便利。

■飛鳥白鳳彫刻の問題点/朝田純一(神奈川仏教文化研究所)
http://www.bunkaken.net/index.files/arakaruto/daigaku/asuka7.html

 また、「和銅」は「日本(で初めて)の銅」ではなく、「にきあかがね」つまり製錬をしなくても既に金属となっている「自然銅」の意味であること、和銅産出と和同開珎に直接のつながりがないことについては、下記の報告が詳しい。 なんだ~。どうやら、20トンの銅を大陸から輸入したというのは空想の産物のようだ。それでも、国家的な大事業だったことに変わりはないが。

■皇朝十二銭の原料と製作技術/齋藤努(国立歴史民俗博物館「歴博」144号)
http://www.rekihaku.ac.jp/research/publication/144witness.html

 さて、本展は、奈良から特別においでいただいた2体の十一面観音が見もの。博物館と違って明るい部屋で、間近に対面できるのが嬉しい。上述の私の好きな仏像は、顔面がひどく傷んでいるが、「(足元が腐って)前のめりに倒れたんじゃないですかねえ」というのはリアリティがあった。何しろ薬師寺の諸像は、一時期、雨ざらし(!)の状態にあったという話である。

 別の小さな木像は、天竜八部像の4体だという(これも重要文化財だが、ひょいと手を伸ばせば触れる状態)。創建当時の薬師寺には、法隆寺と同様、釈迦の生涯を表した塔本塑像があったが、早くに失われてしまった。鎌倉時代、これらを木像で復元しようとして造られたのが、この木造天部像であるという。ちなみに、もとの塑像の破片と、大量の人形(ひとがた)の心木が『国宝 薬師寺展』で公開されている。

 なお、小さな別室に、ひっそり置かれている展示ケースがあって、覗いてみたら、大津皇子像だった。なんだか、幽閉されているみたいで可哀相だった。ご来場の際は、お忘れなく。

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美術史の冒険/奇想の江戸挿絵(辻惟雄)

2008-04-23 22:32:52 | 読んだもの(書籍)
○辻惟雄『奇想の江戸挿絵』(集英社新書ヴィジュアル版) 集英社 2008.4

 これはすごい本である。立ち読みのつもりでページをめくって絶句してしまった。全文200ページ余、新書としては標準的なボリュームだと思うが、図版を載せていないページがほとんどない。著者の辻惟雄氏は、いまさら紹介するまでもないが、『奇想の系譜』(美術出版社、1970)で、若冲、蕭白、国芳らを取り上げ、今日の江戸絵画ブームの基礎をつくった美術史家だ。その辻先生が本書で挑むのは、江戸版本(特に読本)の挿絵である。

 読本(よみほん)とは、江戸後期(19世紀)、中国の白話小説の影響を受けて生まれた、荒唐無稽・波乱万丈の絵入り小説のこと。上方で作られた当初は文字中心だったが、出版地が江戸に移ると、意匠を凝らした口絵や挿絵が付くようになった。読本作者の二大スターは山東京伝と滝沢馬琴で、京伝は豊国、馬琴は北斎とコンビを組んで活躍した。

 豊国も北斎も、もちろん江戸絵画史には欠かせない絵師である。しかし、たとえば北斎の画業の中で、読本挿絵には、どの程度の位置が与えられているのだろう。試みに、2005年の『北斎展』の展示品リストを調べてみると、第3期「葛飾北斎期-読本挿絵への傾注」というセクションが設けられてはいるが、実際に展示された読本は5点のみで、あとは同時期の肉筆浮世絵や摺り物が主になっている。

 華麗な口絵と装丁を持つ読本は、本来、芸術作品と呼ぶに遜色ないものだろう。しかし、そこは「読み本」である。人気作品ほど、粗悪な後摺りが大量に作られ、貸本屋を通じて、広く世間の隅々まで行き渡った。多数の読者の手を経て、よれよれになった大量の江戸読本を、私は図書館の書庫で見たことがある。いわば大衆週刊誌、いや読み捨てられるコミック雑誌みたいなものだ。格調高い「美術史」の範疇に入るものとは、とても思われなかった。

 文学史では、もちろん京伝や馬琴の存在は外せない。しかし、おおよそ国文学者の関心はテキストに集中し、挿絵に目を向けることは稀なのではないかと思う。そんなわけで、文学史と美術史のはざまに落っこちていたような読本挿絵に、辻先生は果敢に手を伸ばされたのである。

 本書が取り上げた画題は、「異界」「生首」「幽霊」「妖怪」。こうして並べてみただけで、どんな世界が展開するか、多少の想像がつくだろう。いや、想像以上である。幽霊は虚空に逆立ちし、血染めの生首が哄笑する。鬼神は風雲を呼び、美女は湖水に身を躍らせる。読本挿絵の画面は、どれも「動きたがっている」と著者は指摘する。現象をスタティック(静止的)に捉えるのが西洋流だとすると、人間や妖怪や自然までを「運動の相のもとに」捉えようとするのが読本挿絵、ひいては日本絵画の特質であるらしい。

 とにかく難しいことを考える前に、ページを開いてみることである。『椿説弓張月』(馬琴作、北斎画)に使われた閃光や爆発の表現は、手塚治虫か永井豪か、1970年代以降の少年マンガの、最もすぐれた表現に匹敵すると思う。著者は「あとがき」に「漫画家の江川達也氏には、マンガの技法、表現などについて、大変貴重なご教示をいただいた」と記しているが、江川氏もびっくりだったことだろう。

 美術史家の冒険は堪能した。次は、国文学者の中からも、テキストと挿絵を一緒に読むことに挑む研究者が現れてほしいものだと思う。いや、もう現れているのかしら。
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「忠」は「恋」の気分/武士道とエロス(氏家幹人)

2008-04-22 21:58:53 | 読んだもの(書籍)
○氏家幹人『武士道とエロス』(講談社現代新書) 講談社 1995.2

 「忠」という感情は「恋」の気分と不可分だった。うまいことを言うものだ。戦国時代、男どうしの同性愛は、ありふれた習俗だった。例に挙げられているのは、宣教師フロイスの記録、武田信玄の誓文、越中神保氏が美童を送り込んで上杉謙信の暗殺を狙った話、蘆名盛隆と佐竹義重の”敵対する主将どうしの恋”(!)など。

 徳川の平和が到来すると、戦国の気風は急速に色褪せ、18世紀半ば(享保~元文)を境に男色は社会の表舞台から消えていく。文政期(19世紀初頭)、柳亭種彦は、若衆木偶(わかしゅにんぎょう=美少年フィギュア!)という骨董人形について、こういう人形は、かつては大人の愛玩物だった、と解説しているそうだ。

 明治初年、下火になっていた少年愛習俗が再加熱する。稲垣足穂は、この原因を、東京に集まった「旧藩の青年ら」がもたらしたものとと推察している。江戸中期以降も、一部の地域、たとえば尚武の気風を重んじた薩摩藩では、男色文化が保たれていたのだ。明治の実例として、里見と志賀直哉のプラトニックラブ(二人とも美少年だったらしい)をはじめ、森鴎外、徳富蘆花、大杉栄、和辻哲郎、久米正雄などの見聞と体験が示されている。けれども、大正年間には、男色熱は再び過去のものとなっていた。面白いなあ、この、繰り返す流行と衰退。

 本書で最も興味深いのは、徳川三百年の平和と繁栄の中で、男色が女色に変わられていく文化的意味を考察した段である。江戸人の証言によれば、元禄(17世紀末)以前は、20代後半になっても少年のように前髪を蓄えた大若衆(おおわかしゅ)が多かったが、文化年間(19世紀初)になると、できるだけ早く元服させて藩から扶持をいただこうとして、14歳前後で前髪を剃るようになってしまったという。美意識より経済、ということか。

 ちなみに、江戸の初めまでは、武士は30過ぎまで妻を娶らなかったそうだ(熊沢蕃山の証言)。男色が禁止されるようになると、親たちは、15、6歳の若者にも妾をあてがって、他人の妻女との間違いを防ごうとしたとか。これを読むと「むかしは成人が早かった」なんていうのは、事実の一面しか見ていないんだなあと思う。

 一方で、江戸時代には、男らしさの象徴であるヒゲも忌避された。「過剰な武闘性」と「両性具有的な美しさ」を二つながら剥奪された男性は、ひたすら地味に「灰色化」していく。人間行動学者のアイベスフェルトは、この傾向が、近代化に向かうすべての文明に共通して見られることを指摘している。また、心理学者の渡辺恒夫氏は、近代化とは「かつて両性に属していた《美》という性質が、女性へと《専門化》してゆく過程である」と説いているそうだ。しかし、私は、現代の多くの女性もまた、男性的近代化=「灰色化」の道を選んでいるように思う。

 灰色化に抗して《美》と《エロス》を身にまとうこと。それは、近代以前の社会では、女性的でも男性的でもなく、人間的な行為だったのではないか、と本書を読んで思った。その実践された姿は、本文を飾る多数の挿絵、とりわけ出光美術館が所蔵する華麗な風俗図屏風の数々に見ることができて、興味深い。
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古代・民俗・法隆寺/先住民と差別(喜田貞吉)

2008-04-21 21:09:19 | 読んだもの(書籍)
○喜田貞吉著、礫川全次編『先住民と差別:喜田貞吉歴史民俗学傑作選』 河出書房新社 2008.1

 2008年初頭、河出書房新社が相次いで刊行した喜田貞吉の本3冊の最初の1冊である。私は、2月刊の『被差別とは何か』と3月刊の『とは何か』を先に読むことになっていまい、最後に本書に行き当たった。

 本書の冒頭に、在野史家の礫川全次氏が喜田貞吉の人物紹介を書いている。「喜田貞吉は、優れた歴史家であり、非常に多くの論文を発表したが、意外にその名が知られていない。これは、彼が単行本の形で残した著作が極めて少ないことも影響しているのだろう」。なるほど。首肯できる意見である。しかし、「喜田の論文には、他の学者にない魅力がある。論旨が明白であり、内容が具体的であり、文章が読みやすい」。これも私は同意できる。

 本書は、喜田の業績を全方位的に紹介することに努めている。先住民・被差別民に関する論考のほか、考古学(周防石城山神籠石探検記)や民俗学(オシラ神、シシ踊り)、そして「法隆寺再建非再建論の回顧」を収める。いずれも、読みやすくて、おもしろい。

 素人に読みやすいのは、時に煩瑣な論証を省いて、結論だけを言い切ってしまうスタイルのせいだろう。さらには、客観的な証拠が見つかっていないのに「私はこう思う」という憶断を、しゃあしゃあと述べている段もある。学術論文として、これってどうなの?!と思わないでもないのだが、学問の世界が、今よりおおらかだった時代のことと思って、許容したい。

 それと、当時の雑誌は、「研究成果」の発表の場であると同時に、まだ十分な証拠固めに至っていない仮説を世に問うことで、在野史家たちの注意を喚起し、資料や情報を提供してもらうという、コミュニケーションの場でもあったようだ。喜田は、もちろん多数の根本史料を読むと同時に、つねに地方の郷土史家・民俗史家に情報提供を呼びかけ、また各地に”探検”にも出かけている。たぶん、大学に張り付いた歴史学者とは、ちょっと異なる「生活と研究」の生涯だったのではないかと思う。

 法隆寺”非再建論”は、喜田が最も力を傾注した研究であり、明確な論敵がいるということもあって、迫力があった。Wikipediaにいう「喜田貞吉は『文献を否定しては歴史学が成立しない』と主張した」には、何か典拠があるのだろうか。本書では、喜田の主張はもう少し穏当な言葉で語られている。すなわち、日本書紀のような正史が、わずか50年前の事実を違えるはずはない、という常識的な判断である。気になったのは、「五重の塔婆だけは元禄の際の再建と云ってもよい程までに、根本的修理の加えられたものであろう」という一節。「余輩は今以て信じている」なんて、例によって、さらりと大胆な発言をしているが、この件、現在の通説はどうなっているんだろう? 知りたい。

 ちなみに、本書には後続シリーズの広告が何も載っていないところを見ると、本書の評判がよかったので、後の2冊の出版が決まったのではないかしら? と、私も憶測で発言してみる。
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鎌倉・鶴岡八幡宮の流鏑馬2008

2008-04-20 21:47:12 | なごみ写真帖
流鏑馬(やぶさめ)が大好き。今年も鶴岡八幡宮の流鏑馬を見に行った。
武田流の皆さん、チョーカッコいい!





■大日本弓馬会(武田流流鏑馬)公式サイト
http://www.yabusame.or.jp/

あらためて気づいたけど、甲斐の武田と同じ四つ菱紋なんだな。
「笠懸」も見てみたいなー。5/25の三浦道寸祭りか、10/19の京都・上賀茂神社を覚えておこう。

終わってから、混雑を避けて、国宝館に寄る。特別展『鎌倉の至宝』を開催中。あれっ、見慣れない軸物があるな、と思ったら、常盤山文庫蔵の墨蹟が2点(中峰明本と宗峰妙超)出ていた。「笹の葉中峰」と呼ばれる、個性的な書体が面白い。和様にたとえるなら、定家に似ているかも。
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茶道具で遊ぶ/数寄の玉手箱(三井記念美術館)

2008-04-19 23:55:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三井記念美術館 企画展『数寄の玉手箱-三井家の茶箱と茶籠』

http://www.mitsui-museum.jp/index2.html

 三井家伝来の茶箱・茶籠約30点を展示する。茶箱あるいは茶籠とは、持ち運びができる小型の箱や籠に、茶碗、茶器、茶杓、菓子器など茶道具一式を組み込んだもの。野点の席で、あるいは職場や旅先で、どこでもお茶を楽しめる、モバイル茶道具キットである。

 私が初めて茶箱・茶籠の存在を知ったのは、この三井記念美術館だった。企画展『美術の遊びとこころ』で、三井家高公室・子(としこ)夫人所持の『手造籐組茶籠』と、三井高福(たかよし)公所持の『唐物籐組小茶籠』を見て、すっかり心を奪われてしまった。茶箱・茶籠の楽しみは、気軽に持ち歩ける実用性だけではない。容れ物をあつらえ、茶道具を選んで取り合わせ、自分だけの「セット」をつくるところに真の楽しみがあるようだ。

 展示品の中には、茶道具を全て銀製で揃えた『紫陽花蒔絵茶箱』(涼しげで夏向き)のような例もあるにはあるが、少数派である。茶人たちは、染付・蒔絵・黒漆など、全く異なる持ち味の道具を、どう取り合わせるかに、数寄を競う。なんだか、とても日本的な美意識の発露だと思う。西洋の高級テーブルウェアって、何から何まで同じ模様の「揃い」が基本だけど、あれってつまらないと感じないのかしら。

 上記の2つの茶籠は、やはり出色。高福の茶籠は、井戸脇茶碗・黒棗・染付茶巾筒という渋好みなのに、灰青地に赤い植物文の更紗の華やかな服紗が付いている。しかも、植物文の間に小さなリスが描かれているのが愛らしい! こういう、隙のないスーツに、よく見ると可愛いネクタイしてるおじさんとか、いるのよね。

 三井高福は、幕末に生まれ、明治以降の三井の発展をもたらした三井家中興の祖と言われる人物だが、諸芸に秀でた趣味人としても有名だったそうだ。高福ゆかりの茶箱・茶籠の中でも、『唐物竹組大茶籠』は、A3ブリーフケースほどもある大茶籠だ。内蔵品は40点余り。水指・花入・掛物まで入っている。茶碗2点、服紗4点など、複数そろえたアイテムもある。これは携帯用というよりも、自分の好みの茶道具で構成した小宇宙である。清朝の文人たちが楽しんだ「多宝格」を思わせる。彼方は文房四宝、此方は茶道具だけど。

 三井家の茶箱・茶籠には、私の好きな楽茶碗がよく使われている。高台の高い井戸茶碗などに比べれば、比較的コンパクトで携帯向きなのだろうか。また、三井家は紀州徳川家とつながりが深く、「数寄の殿様」徳川治宝は楽家を庇護し、楽旦入を紀州に招いて「御庭焼」を焼かせたりした。その関係かもしれない。

 私は美術館で茶道具を見て楽しむばかりで、実際のお茶は全くやったことがないのだが、この展示を見て、自分の茶箱・茶籠が欲しくなってしまった。帰りにミュージアムショップで、雑誌「なごみ」2006年4月号を買ってみた。特集は「茶箱は愉しい」。少し勉強して、コレクションを始めてみるかな!?
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