徳政令というのは、債務破棄、すなわち借りたお金を「返さなくてよい」という法令である。小学生の頃、日本史を扱った学習マンガでその存在を知ったときは、現代人の常識とかけ離れた法令でびっくりした。しかし、私はあまり道徳的に潔癖ではなかったので、そういうことがあってもいいかも、と受け入れた。
本書は、15世紀から16世紀に至る徳政の200年間の歴史を追うことにより、債務破棄が肯定的に見られていた中世の社会から、借金は返さなければならないという観念を共有する社会(近世→現代)が、どのように生まれてきたかを考える。
まず15世紀初頭。正長元年(1428)近江の馬借が徳政を求めた騒動が醍醐に波及し(満済准后日記に記載あり)、大和、河内、播磨など畿内各国に広がった。大和国では、なかなか徳政令を出さない興福寺にしびれを切らした周辺部で自主的に独自の徳政令が出され、そのひとつは柳生・春日社の疱瘡地蔵の岩に碑文が刻まれている。中世社会というのは、一揆蜂起の緊急事態に限らず、「借りたお金は返すべし」という法と「返さなくてもよい」という法、公権力の法と在地社会の法が、同じ重さで併存できたのだという。なんだか想像しがたい社会だが面白い。
正長元年の徳政一揆の拡大には、馬借や海民のネットワークが大きな役割を果たした。その背景には、農民ばかりでなく馬借も海民も債務超過に苦しめられていた社会状況がある。
そもそも中世の金融業者は、13世紀以来「借上(かしあげ)」あるいは「土倉」と呼ばれてきた。彼らの本業は荘園の代官請負業で、金融は副業でしかなかった。またお金の貸し借りも基本的に親しい間柄で行われることのほうが多かった。ところが14世紀初頭には、人々の土倉への依存が進み、地域金融の崩壊から金融需要が都の土倉に集中し、祠堂銭金融という新たな資金運用が呼び覚まされるなど、さまざまな要因によって、都の土倉=債権者と、鄙の住人=債務者の間に過剰な不均衡が生まれていた。そのことが、バランスの回復を求める正長元年の徳政一揆につながったと見ることができる。
次に嘉吉元年(1441)足利義教が赤松満祐に暗殺された嘉吉の乱の混乱に乗じて、徳政一揆蜂起が起きた。京都は一揆軍に封鎖され、室町幕府は初めての徳政令を発令した。これが「徳政の大法」「有名の法」として広く社会に認知されるようになったことは、中世の社会と法の関係上、大きな変化だったと言える。この背景には、足利義教が民事訴訟制度を整備したことで、訴訟が幕府法廷に集中し、幕府法の権威を高めた(寺社法の上という認識が広まった)ことも影響している。
享徳3年(1454)またも徳政一揆が蜂起し、幕府は徳政令を発令する。この徳政令は「分一徳政令」と言って、借金を帳消しにする代わり「〇〇分の一」を幕府に収めよというもので、幕府の財政再建策でもあった。当初は分一銭の回収が進まなかったが、次第に組織・制度が整備された。また応仁の乱直前の文正元年(1466)の徳政令は、京都に集結した武士たちによる兵糧強奪を追認するものであった。こうなると、もはや誰のための徳政か分からない。著者は「徳政令の政策化」と述べている。
さらには、頼母子講とか坂の葬送利権とか人身売買とか、よく分からないものも徳政令の対象となっている。もう苦笑するしかない。そして徳政令は忌避されるものとなり、徳政の脅威を一掃できる公権力、集権的な国家への待望が近世社会を招き寄せた。この最後の結論は、ちょっと飛躍があるようにも思われ、当否はよく分からない。
とりあえず、2018年の大河ドラマ『おんな城主直虎』を見て以来、徳政令について知りたいと思っていた希望は満たされた。借りた金を返さなくてもいいという法令が、子供の頃、安直に考えたほどいいものではなく、社会にさまざまな害悪をもたらすことは分かった。一方で、利子を払い続けても続けても解放されない借金(たとえば奨学金ローンとか)で苦しんでいる人々のことを思うと「(一定の条件を満たした場合)借金を返さなくてもいい」制度があってもいい気がする。それから、強い公権力によって社会がスタティックに安定するのはいいことだが、やっぱり歪みは溜まっていくもので、どこかでバランスを回復する運動は必要なのではないか。