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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

食べたいから食べるのか/エビと日本人(村井吉敬)

2013-11-30 14:47:39 | 読んだもの(書籍)
○村井吉敬『エビと日本人』(岩波新書) 岩波書店 1988.4

 この本、いつかは読んでみようと思っていた。最近、偽装表示問題で、エビに関心が向き、さらに先日読んだ遠藤哲夫さんの『大衆めし 激動の戦後史』にも、冷凍エビフライの開発やエビ料理の大衆化のいきさつが書いてあって面白かったので、名著の評判の高い本書を思い出し、読んでみることに決めた。

 本書の刊行年は1988年。バブル景気まっただなかの頃だ。アジア太平洋資料センター(PARC)に発足した「エビ研究会」の約6年にわたる研究成果をまとめたものである。「プロローグ」には、戦後の食卓におけるエビ消費の変遷が短く紹介されている。終戦直後、高級食品の代名詞だったエビは、1961年に水産物では初めて輸入が自由化された。それから四半世紀後の1986年、日本は21万トンのエビを輸入している。一人当たりのエビ消費量は世界一(!)で、日本人は年に平均して70尾近く、週に1回は確実に大型エビを食べている計算になるという。ええ、実感ないなあ。そして、今や(1988年時点)エビは安い輸入食品に仲間入りし始めている。

 では、日本の食卓に上るエビは、実際にどこでどのように獲られ、どんな人たちの手を経て、加工され、運搬されてくるのか。著者は、エビ漁の現場であるインドネシアの海に赴く。日系企業の買い上げを期待して、エビ漁に励む零細漁民たち。トロール漁によって、環境や天然資源の破壊が起きているにもかかわらず。

 一方、海岸添いの汽水(海水と淡水の混合による低塩分の水)域にはエビ養殖池が作られ、養殖池主の下で小作人や孫小作人が稚エビを育てている。池主の上層には、集買人や大集買人がいて、外の(外国の)資本とつながっている。伝統的な村落共同体のしくみを残すインドネシアと異なり、台湾には、効率的なエビ養殖基地が作られ、その成功は、東南アジアやオーストラリアにも転移されつつある。

 また、インドネシアの日系エビ冷凍工場では、若い女性たちが多数働いている。彼女たちは、日本の消費者の嗜好に合わせて、エビの腰を伸ばし、見栄えよく並べて箱詰めする作業に従事している。実は、ここまでのルポルタージュを読んでも、あまり気持ちは動かなかった。本書の刊行当時はともかく、21世紀の今日では、日本人が常食している食材の多くが、アジアやアメリカ、あるいはアフリカの遠い海や野山で収穫され、日本人好みに加工されて運ばれてくることは、あまりにも常識化している。低価格な食品の流通が、現地の低賃金労働(と多少の安全リスク)を引き換えに成立していることは、私でもうすうす気づいているのだ。

 最終章は、この四半世紀(1960~1985)に起きた「エビ食」の急激な増加を、あらためて貿易統計等から読み解いた章で、考えさせられる点が多々あった。確かに日本人は昔からエビが好きだったが、限られた地方の地場商品で、それ以外の人々にとっては目を楽しませる縁起物でしかなかった。1960年には、日本は3000トン以上のエビを輸出していた。それが上述のように、大量のエビを輸入し、消費するようになったのは、本当に「自然の流れ」なのか。ひょっとすると私たちは「エビを食べさせられている」のではないだろうか。

 私たちは誰に強制されたわけでもなく、自分の嗜好にしたがって、日々の食べるものを選んでいると思っている。でも、実は、総合商社、水産業者、大手スーパー、外食産業、冷凍食品業界、そして、それら業界をバックアップする政府の「仕掛け」が、私たちの食生活を決定しているのではないか。怖い話だが、間違っていない気がする。私たちが「自由意思」だと思っていることが、本当にそうなのかは、注意深く疑ってみる必要があるだろう。

 輸入エビは食べ過ぎではなかろうか?と、著者は静かに問いかける。エビだけではなくて「からだの半分は輸入カロリー」といわれるほど、私たちは輸入食で暮らしている(本書刊行当時の数値)。食料自給率の低さを懸念すると同時に、生産国であるアジア・発展途上国との関係の歪みにも、目を向けるべきだろう。

 1988年刊行の本書の内容が、すでに古くなっていることは否めない。気になる数字はネットで最新動向を確かめながら読んだ。引き続き、2007年刊行の『エビと日本人 II』を読んでみるといいのかもしれない。しかし、本書に表明されている著者の懸念や提言は、流通のグローバル化が進む今日でも色褪せていないと感じられた。
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批評、和歌、日本語/別れの挨拶(丸谷才一)

2013-11-26 23:49:59 | 読んだもの(書籍)
○丸谷才一『別れの挨拶』 集英社 2013.10

 丸谷才一さんが亡くなられたのは、2012年10月13日のことだ。私は少し遅れて訃報を知って、2010年5月刊行の『文学のレッスン』を読み、個人的な哀悼の意の表明とした。あれから一年。札幌の書店で、なつかしい和田誠さんのイラストの表紙、細い輪郭線の中を色絵具で満たした明朝体の「丸谷才一」の著者名を見つけたときは、狐か狸にだまされたかと思った。

 え?あれ?という気持ちで手に取り、「最後の〈新刊〉」というオビの文句が目に沁みた。巻末の解題によれば、2010年9月以降に発表された文章を中心に、それ以前に書かれた単行本未収録のものを加えて編集されたものだという。編集にあたった集英社文芸部の刈谷政則氏と村田登志江氏は、「できるかぎり丸谷さんの編集術を手本にしたつもりだが、評価は読者の判断にゆだねたい」と控えめに記して、解題の末尾に小さく名前を残すのみである。

 だが、私は目次を見て、胸に火がともるような喜びを感じた。「I 批評と追悼」「II 王朝和歌を読む」「III 日本語、そして男の小説」「IV 書評15篇」「V 最後の挨拶」。この構成――どれも丸谷さんの生涯の仕事であり、私が読みたかったジャンルの全てである。そして、この目次立てをした編集者は、丸谷さんの仕事を熟知している愛読者に違いないと思って(仲間を見つけて)嬉しかったのだ。ここに御礼を申し述べておく。有難う。

 あとはページをめくって、閑雅なひとときを楽しんだ。「英国人はなぜ皇太子を小説に書かないか」という酒の席の閑談にちょうどよさそうなエッセイは、渡辺淳一『失楽園』の売れ行きに始まり、ジョイスの『ユリシーズ』をかすって、『源氏物語』と日本文明(とイギリス王室)論に帰着するのだが、最初の問いの答えよりも、ヴィクトリア女王をめぐる馬鹿馬鹿しい笑い話のほうが記憶に残ったりする。

 王朝和歌、丸谷さんの評釈は非常に論理的で、文明の伝統を抑えていて、要するに感覚的でなく知的である。でもぱさぱさと乾いたところがない。書評でこれは読もうと思ったのは、五味文彦さんの『後白河院――王の歌』。評伝『後鳥羽院』を書いた丸谷さんであるが、後白河院のことはどんなふうに見ていたのかも知りたい。

 気持ちよく笑ったのは「日本語、そして男の小説」に入っている「御礼言上書を書き直す」で、文化勲章をもらったとき、受章者のうちで最年長の著者が御礼言上の役をつとめることになった。宮内庁の役人が用意した原稿を渡されたが、違えてもよいということなので引き受けた。そして、もとの原稿と著者が書き直した原稿が並べて掲載されている。簡にして要領を得た口語文というのが、よく分かる実例である。

 クラシック音楽好きは昔から著者の嗜好だが、絵画に関する本格的な論考は、あまり無かったような気がするので、未完の「クリムト論」が収められているのは、とても残念な気がした。クリムトの風景画が好きで、そのほとんどが正方形のキャンヴァスなのはなぜか、というところから始まる予定だったようだ。いかにも丸谷さんらしい着眼! いまネットで「クリムト 風景画」を検索してみたら、ほんとに正方形の画像ばかり出てきて、びっくりした。誰かこの謎を書き継いでくれないか。でも誰かが謎を解き得たとしても、丸谷さんが導きたかった「答え」は永遠の謎になってしまった。すでに下りた幕の後ろで微笑んでいる著者の姿が浮かぶような気がする。
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東京旅行・行ったものメモ(2013年11月)

2013-11-26 21:57:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
22日(金)に半日休暇をもらって、札幌(新千歳空港)14時発の飛行機に乗った。

羽田に着いて、東京国立博物館に直行。本館を流し見して、東洋館の『上海博物館 中国絵画の至宝』(2013年10月1日~11月24日)の後期を見る。前期に一度来ていたけど、南宋の『人物故事図巻』、元・張渥の『九歌図巻』など、展示替えがあったので、後期も見たかったのである。そして、この日は18時から板倉聖哲先生のギャラリートークが予定されていた。

まあ中国絵画だし、人が集まってもそこそこだろう、と思っていたら、この中国絵画展示室では、かつて経験したことのない混みっぷりで、びっくりした。最近、中国文物の展覧会は入りが悪いと思っていたが、絵画ファンがこんなに増殖していたとは。江戸絵画ブームの余波だろうか。

夕食は丸の内の「やちむん」で友人と沖縄料理。

23日(土)は、五島美術館『光悦-桃山の古典(クラシック)-』→静嘉堂文庫『幕末の北方探検家 松浦武四郎』→金沢文庫『東大寺-鎌倉再興と華厳興隆』。

24日(日)は、山種美術館『古径と土牛』→永青文庫『古代中国の名宝-細川護立と東洋学』→出光美術館『江戸の狩野派-優美への革新』。そして、18:50発の飛行機で帰るはずが、約2時間遅れで21:00発。新千歳空港→札幌のJR最終列車になんとか間に合ったものの、ハラハラでくたくた。やっぱり目先の利益につられて、格安航空会社を選ぶのはやめよう。
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政治学者、映画を語る/これは映画だ!(藤原帰一)

2013-11-18 23:36:54 | 読んだもの(書籍)
○藤原帰一『これは映画だ!』 朝日新聞社 2012.3

 藤原帰一先生の著書は好きなので、だいたい読んでいる。なので、あ、まだ読んでいない新刊、と思って、本書を読むことにした。2007年から2012年まで、雑誌「AERA」に連載された映画評コラム225本をまとめたものである。1本あたりの分量は、2段組の1頁。800字くらいか。非常に短い。だからこそ、批評家の芸の見せ所と言える。

 実は、私はほとんど映画を見ない。本書の読者としては、全く申し訳ないくらい。同様に、小説をほとんど読まないにもかかわらず、私は小説評を読むことは好きだ。そして、書評が気に入ると、いつかこの作品は読んでみようと、心の中にリストアップする。ごくごくまれに、その小説を読み始めてしまうこともある。

 本書掲載の作品の中に、私が映画館で見たことのあるタイトルは1本もなかった。テレビ放映時に「流し見」した記憶があるものが数本と、タイトルだけは知っているものは十数本くらいか。世の中には、私の知らない映画作品が、こんなにあるのかということに、呆れ、驚いた。そして、恥ずかしいからタイトルは言わないけど、著者の批評に感銘を受けた数本は、いつか見てみたい作品として、胸の中に刻んだ。

 本書には、『アバター』『トランスフォーマー』みたいな興行的に文句なしのヒット作品、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』『トイストーリー3』のような子ども連れファミリー向け作品も取り上げられているけれど、やっぱり著者の本業に近い、戦争や戦場、移民やアメリカの格差社会などの社会問題にかかわる作品が目立つように感じた。ドキュメンタリーだけではなくて、ロマンチック・コメディだったり、ファンタジー、不条理劇など、手法はいろいろ。でも、どんな挑戦的なテーマを選んでも、エンタテインメントとして失敗してはダメなんだな、と感じさせる解説は勉強になる。

 映画のさまざまなパーツ「音楽」「脚本」「スター」「監督」などに焦点をあわせた短編エッセイ「映画の見方」数編が、ところどころに挟まれている。これは、それぞれのパーツについて、私にとってまだしも身近なテレビドラマと映画を比較して考えることができて面白かった。テレビドラマでは、脚本って、かなり圧倒的に重要だと思うのだが(私は脚本家でドラマを見るか見ないか決めることが多い)、映画は違うんだなあ、など。
 
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台所から考える日本の食/大衆めし(遠藤哲夫)

2013-11-17 15:08:22 | 読んだもの(書籍)
○遠藤哲夫『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』(ちくま新書) 筑摩書房 2013.10

 NHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』が面白いので、欠かさず見ている(朝は忙しいので、オンデマンドで)。それもあって、ふと目にとまった「食」の本を買ってしまった。

 本書の導入部で語られる時代は、もう少し新しい。1943年生まれの著者が、70年代初めに食品・飲食店のプランナーとなって以来、つぶさに見て来た大衆食の風景が中心である。かなりの部分が、私の個人史とも重なる。

 冒頭に登場する魚肉ソーセージ。1954年のビキニ水爆実験の結果、放射能汚染マグロが消費者に忌避され、水産各社は余剰マグロを原料とする魚肉ソーセージの生産に力を入れるようになった、という前史は初耳だったが、魚肉ソーセージが、おやつにもなれば、おかずにもなる手軽な食品だったことは、よく覚えている。1970年前後から、コールドチェーンの確立によって、鮮魚や鮮肉が大量に出回るようになると、クジラの缶詰や魚肉ソーセージなどの加工食品は「貧しい過去のニセモノ」扱いされて、衰退に向かった。ああ、この変化も、懐かしくほろ苦い記憶の中にある。

 カレーライスが「即席ルー」とともに日本の家庭の隅々に広がったのもこの頃。さまざまなクックレス食品の登場によって、日本の台所仕事は激変した。ボンカレー、ククレカレー、かに風味かまぼこ、永谷園の「さけ茶漬け」、日清のカップヌードル…いずれも、私の小学生時代に登場した「クックレス」食品だ。著者が実際にレトルトごはんや冷凍エビフライの開発にかかわって苦労した話も、興味深く読んだ。

 そして、ファストフード店の登場。1968年発行『新訂 東京の味』には、マクドナルド三越店、ダンキンドーナツ、ケンタッキーに加え、ラーメンや均一ずし(にぎり40円均一)も紹介されているという。今から見ると驚きだが、当時は、こうしたファミリー&ヤング向け格安外食店が、東京に出現したばかりのオシャレなライフスタイルだったのだろう。70年代後半になると、エビ料理やハンバーグは日常の食事に退き、ワインとチーズ、ピザやパスタが食のファッション化を牽引する。うんうん、このあたりも、まさに同時代史である。

 しかし、洋食も中華も各種エスニック料理も、すっかり身近になった今日に至っても「甘鯛のかぶら蒸し」的な伝統的な「日本料理」は、庶民の生活から最も遠いところにある。一体、なぜか?という疑問に始まり、本書後半は、時代をさかのぼって、近代→近世→中世へと視点を広げていく。

 そもそも「日本料理」とは、台所料理(めしのおかず)と全く違うものであったと発見する驚き。日本料理は料理屋料理であって、包丁文化が淵源にある。料理屋の日本料理を「割烹」ともいうが、これは「割主烹従」からきており、「割鮮」(包丁で新鮮な素材を裂くこと)が最も重視され、「烹」は、素材の色を逃がさない、見た目重視の技巧的な煮物が良しとされる。

 そこで「日本料理」と全く関係のない、日本の生活料理(これは著者と、食文化史家の江原恵が広めた言葉)の一例として「野菜炒め」について考察する。野菜炒めはいつごろ普及したか。台所の火が気に重要だ。1943年生まれの著者は、10歳頃まで薪と炭の台所で育ったという。薪と炭でもじんわり油で「炒め煮」することはできた。代表的な料理は、カレーライスときんぴらとけんちん汁である。しかし、野菜炒めには安定した強い火力が必要で、ガスが普及するまでは一般的にならなかった。そうかー。野菜炒めよりカレーライスのほうが「ハイカラ」なイメージがあるが、新しい料理の普及には、素材の流通と並んで、台所の「火力」が大きなカギとなるのだな。それに比べたら、味覚の適応なんて、大したハードルではないのかも。

 最終章は「食の豊かさ」について、著者からの苦言。食べてマズイと思う感心しない食品が、大量に流通する社会に批判を目を向けながら、「食育」「日本型食生活」の推進で万事が解決するというような、政府や有識者のご都合主義にも疑問を呈する。著者の同志、江原恵は、食文化の混乱にあっての料理の基本は「創意や工夫や意欲や感覚を、自分の生活の中で血肉化すること」だと述べている。これを受けた著者の呼びかけは「まずは、台所に立とう」。確かにそこからだ。毎日でなくても、自分のいまの生活に無理のない範囲で、この呼びかけに応えることは需要だと思った。
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史料は語る/大坂の非人(塚田孝)

2013-11-14 22:19:46 | 読んだもの(書籍)
○塚田孝『大坂の:乞食・四天王寺・転びキリシタン』(ちくま新書) 筑摩書房 2013.10

 序章に言う。読者の多くの方々の江戸時代のイメージは「士農工商」の身分制で縛られた窮屈な社会であり、百姓や町人の不満をそらすため「えた」身分が政治的に作られたというものではなかろうか。…うーん、それはちょっと旧弊すぎるかな。私の江戸時代イメージは、もう少し自由闊達である。

 しかし、続けて「江戸時代のは、もともと貧人という語でも表現され、乞食(こつじき)で生きざるを得ない人たちのことであった」という一文が目に留まったときは、初めて聞く説で驚いた。え、貧人(ヒンニン)→(ヒニン)なのか。そういえば、古地図にの居住区が記載されるときは、カタカナ表記が多かったかもしれない。古代の浮浪(流民)から現代のホームレスまで、仕事や住居を失い、生活困難に陥ることは、いつの時代も、誰にでも起こり得ることだ。別に特殊な血統に限る話ではない。

 本書は、現代の大都市・大阪につながる大坂の集団の実相を、史料から実証的に解き明かしたもの。同じくと呼ばれていても、地域によって、そのあり方は異なった。江戸と大坂を比べても、かわた(えた)身分との関係等に、大きな差異があるという。

 私は、そもそも江戸時代の都市生活に対して基本的な知識がないので、生活の基礎単位は道路を挟んだ両側の家持(いえもち)で構成される「町」であった(借家人は町人に入らない)とか、大坂には、特定の商品の営業権を認められた株仲間や、職人の仲間組織が形成されていた、という社会背景の概述を読むだけで、ずいぶん勉強になった。そして、多様な仲間集団のひとつに、身分の「垣外(かいと)仲間」があり、天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所(しかしょ)に存在していた。

 序章で、いきなり驚かされたのは、「大坂の集団には転びキリシタンとその子孫が仲間の中核にいた」という記述。詳しくは第1章で詳述されている。へええ「転切支丹存命ならびに死失帳」なんていう史料があるのか。

 それから、四天王寺とのかかわり。近世の四天王寺が、単なる寺以上の存在であったことは、文楽などの芸能を通じて、うすうす感じていたが、著者によれば、内部に大規模な寺院組織を有するとともに、周辺地域のさまざまな人々を秩序づける磁極の位置にあったという。垣外仲間は、彼らの中に自律的な集団秩序を持ちつつ、四天王寺を頂点とする秩序の一端にも組み入れられていた。

 19世紀に入ると、垣外仲間は、町奉行所の下で(今でいう)警察関係の「御用」をつとめる比重が高まり、犯罪捜査だけでなく、政治レベルに及ぶ情報収集にもかかわっている。

 史料研究が込み入りすぎていて、単なる好奇心で読み通すには、ややつらいところもあるが、新しい知識の手がかりがつかめて、興味深かった。いちばん感じ入ったのは、といえども家族を成し、家督を継いでいたことだ。家督は財産(家屋敷)であると同時に、義務(各種の御用を勤める)をともなっており、相続者を欠くと、整理統合されることもあった。しかし、現代社会のワーキングプア(住むところも持てず、結婚もできない)より、ずっとまともな生活をしていたのではないかと思った。

 それから、集団の人々が、町方・村方の医者にかかるため、町方に居住したり、人別を移すことがあったという記述も意外で、私の先入観を砕いてくれた。「」という言葉(表記)におののいて、史料が伝える事実から目を覆ってしまわないようにしたいものだ。
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2013秋@朱漆「根来」(MIHOミュージアム)

2013-11-12 23:58:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
MIHOミュージアム 2013年秋季特別展『朱漆「根来」-中世に咲いた華』(2013年9月1日~12月15日)

 前後の覚え書きが長くなるので、興味のない方は【会場】レポートのみどうぞ。

【往き】
 この展覧会、必ず行こうと決めていた。ところが関西へ出発直前、同館のホームページを見たら、「交通」のページに小さく「JR石山駅南口発MIHO MUSEUM行きバス --- 運休(県道16号通行止のため)」という情報が掲載されているではないか。えええ!!! 9月中旬、近畿地方に甚大な被害をもたらした台風18号の影響らしいが、マイカーのない身で、ほかにどうやって行けというのだ。

 「JR京都駅発 MIHO MUSEUM 直行ツアーバス --- 4000円 ※要予約」と「タクシー利用 --- 信楽高原鉄道信楽駅より 約20分(片道約2000~3000円)」という代替案が示されてはいるが、ほかにオプションはないのだろうか? 念のため、三連休の2日目、MIHOミュージアムに電話をかけてみた。「石山からバスがないということは、草津からJRで貴生川に出て、また信楽高原鉄道に乗り換えて…」と確認したら、「いま信楽高原鉄道も運休中で、代替バスが運航しています」との説明。なんと! 余計にショックを受けてしまった。「信楽駅からはタクシーしかないんですか?」と聞いたら「あ、10:49発のバスがあります(1日1便だけ)」とのこと。しかし「帰りのバスは?」と聞いてみたら「ええと、MIHOミュージアム発11:09の1便だけです」と恐縮しながらいう。それじゃあ片道はタクシーにせざるを得ない。(※この情報が混乱含みだったことは、後段で)

 翌日は旅行最終日で、帰りの飛行機が決まっているので、京都駅発ツアーバスも使えないし、諦めようかどうしようか、すいぶん迷った。石山発のバス運航再開は12月上旬を予定しているそうで、展覧会の会期中に間に合うかどうかは微妙。復旧が間に合っても、私が札幌から来られないし~。

 結局、見逃して後悔するよりは、と腹を決めて、JR某駅からタクシーを使うことにする。某駅としたのは、観光案内所で「ここからタクシーでMIHOミュージアムまで行けますか?」と聞いたら、「行けますけど、ずいぶん(運賃が)かかりますよ」と同情していただき、1枚だけあった根来展の招待券を「お使いなさい。でも言わないでね」とこっそり下さったので。タクシー代は7000円くらいかかった。道中、山崩れの跡を何度も見かけ、運転手さんが「あそこのおばあさんは亡くなりはった」などと話すのが痛々しかった。

【会場】
 開館の10:00少し前に到着。マイカー客や、観光バスの外国人ツアー客ですでに賑わっている。美術館としては、商売上、さほど痛手はないのかもしれないけど、車のない個人客にも少しは配慮がほしいものだ。

 会場は、作品保護のため、かなり暗くしている。暗闇の中にぼうっと浮き上がるような根来。黒く掠れた朱塗りの漆器。導入部の展示ケースでは、ところどころ、書画の軸や法具を取り合わせて、中世の美学を再現している。根来の角切盆に戸隠切(癖の強い定信の筆)に金銅塗香器など。あるケースなどは、壁に兀庵普寧の墨蹟。隅に置かれた根来の瓶子には、椿の蕾と赤い落葉樹(なんだろう?ハナミズキ?)の大きな枝が活けてあった。何の展覧会を見にきたのか、忘れてしまうような、根来の控えめな存在感。でもこれが、歴史をくぐりぬけてきた根来の器の、本来のありかたなのだと思う。

 奥へ進むと、会場はいよいよ暗く、巨大な朱の盤が闇の中に浮かんでいた。直径は60~70cmもあるだろうか。縁は摩耗し、荒々しい木肌が露出している。根来の王者とでも呼びたい朱の円盤で、不気味に妖怪じみている(伝東大寺伝来、松永耳庵旧蔵の由)。六本足の唐櫃も、見ていない隙に、コホロと鳴って、歩き出しそうだ。年を経た器物に生命が宿るという付喪神の説が、実感として迫って来る。

 前半は「祈りの造形」と題し、神事や仏事で使われてきた根来の姿に着目する。二月堂練行衆盤、二月堂机、春日卓など。取り合わせにも経筒や仏画、神像が使われていて、奥ゆかしい。妙にアイラインのくっきりした、印象的な仏画があったんだけど、阿弥陀如来坐図(鎌倉時代)だったかしら。ふと思ったけど、正倉院の華やかな螺鈿蒔絵の法具もいいが、私の最近の好みはこっちだ。簡素を極めた「中世」の美学だ。

 後半は「華やぐ器物」と題し、祈りの空間を出て、日常生活に入り込んだ根来の消息を追う。会場は、前半より明るくなる。酒器、湯桶、茶道具(天目台)など、造形の幅が広がる。轡、枕、なんと琵琶まで!

 なお、本展は根来産漆器を「根来塗」と呼び、良質で洗練された朱漆器の総称を「根来」と呼び分けている。図録の冒頭には、河田貞氏の論稿「『根来』概説」が掲載されているが、これは2009年の大倉集古館の根来展図録から再録したものとのこと。あの展覧会もよかったなあ。以上、大満足。やっぱり来てよかった。

【帰り】
 当然ながら、もう11:09のバスは出ていたので、タクシーを呼んでもらおうとフロントに頼みに行く。すると「お急ぎでなければ、12:20発の信楽駅行きのバスがありますが」という。え?狐につままれた思いで、昨日、電話で聞いたときは、11:09発の1便しかないと言われたことを告げた。すると、たいへん申し訳ながって「11月から12:20と13:30の便も復旧したところです」と言う(前の1便とはバス会社が違うらしい)。

 ありがたいので、12:20発のバスに乗ることにする(乗客は私ひとりだった)。信楽駅からは、信楽高原鉄道の時刻表に合わせて代替バスが運行しているので、12:54信楽駅発→13:17貴生川着、13:21貴生川発→13:40草津着のJRに乗り継げるだろう、と教えてもらった。

 初めて体験する信楽周辺の風景は楽しかった。古代の紫香楽宮跡だから、一度来てみたいとは思っていたのだ。ところが、貴生川駅に到着すると、JRのホームを出ていく列車の姿。バスの到着がやや遅れ気味だったため、乗り継げると言われたJRに乗れず(待ってくれないのねー)、冷雨まじりの風が吹きつけるホームで、次発を30分ほど待つことになった。

 うーむ。実は、朝の信楽駅発10:49発のバスも、どうも代替バスからの乗り継ぎに余裕がなさすぎて、不安だったので、頼ることをやめたのである。ただ、信楽駅周辺は、私が危ぶんだよりも都会だったので、バスに乗れなければタクシーを呼ぶことに問題はなさそうだった。

 というわけで、この展覧会、マイカーがないと極めて行きにくいが、行けば満足することは請け合い。たくさんの方に見てほしいです。
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2013秋@再発見!大阪の至宝(大阪市立美術館)

2013-11-11 22:24:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
大阪市立美術館 特別展『再発見!大阪の至宝』(2013年10月29日~12月8日)

 正倉院展と薬師寺東塔水煙降臨展を見て、近鉄で鶴橋→JRで天王寺へ移動。これも今回、外せないと思っていた展覧会。何しろ、「大阪市の美術館や博物館が所蔵する主要な美術コレクションと、大阪を発祥とする私立美術館の代表的作品や、大阪市立美術館寄託の国宝作品を一堂に展覧する名品展」(パンフレット)だというのだから、見るほうの期待も盛り上がる。

 薄暗い会場に入ると、だだっ広い展示室の隅に、ぼうっと浮かび上がる小さな水墨画。米友仁の『遠岬晴雲図』だった。メルヘンのようにやわらかなタッチ(→中国語サイトに画像あり)。大阪市立美術館の自慢の中国絵画コレクション(阿部コレクション)の逸品である。別の隅には、国宝・油滴天目茶碗。大阪市立東洋陶磁美術館の安宅コレクションからの出品だ。この展覧会、ふだんは異なる美術館に展示されている名品が同居する楽しさがある。

 特に前半(1階)は、大阪市美の中国石造彫刻コレクションと、東洋陶磁美術館の中国・韓国陶磁器のコラボが新鮮で、楽しい。陶磁器を360度全方位から鑑賞できる展示ケースが多かったのも嬉しかった。

 気になった作品は『天発神讖碑(てんぱつしんしんひ)』。原碑は三国時代の呉(3世紀)に建てられたが、清の嘉慶10年(1805年)に焼失し、拓本のみが残されているという。師古斎・岡村蓉二郎氏のコレクション。一銀行員として、私財を投じて、大好きな中国拓本を集めたというエピソードに泣かされる。

 2階は日本美術。1つ目の展示室に入ると、奥の展示室の入口に、豊臣秀吉ゆかりの『富士御神火文黒黄羅紗陣羽織』がもう見えていて、自然と気持ちが吸い寄せられていく。最近、NHK日曜美術館が富士山の美術を特集したとき、この陣羽織を取り上げていて、どうしても見たい、と思っていたものなのだ。うーん、カッコいい! そのまま自分の周囲に欲しいデザインである。

 小西家伝来の尾形光琳関係資料には「大阪市立美術館所蔵」のキャプションがついていて、あれ?思ったが、いろいろ紆余曲折があって、同館と京都国立博物館に分蔵されることになったそうだ。

 木村蒹葭堂旧蔵の『破笠細工蒔絵箱入貝類標本』はすごい。小川破笠の作品はいくつか見たことがあるが、その極限みたいな貝文様の蒔絵箱がすごい。しかし、その箱に納められた蒹葭堂の貝類標本コレクションはもっとすごいっ! ドロップみたいにスイートな色彩の貝殻もあって、夢のよう。へえ、大阪市立自然史博物館が所蔵しているんだ。

 蒹葭堂日記(羽間文庫本)(大阪歴史博物館所蔵)を見ることができたのも嬉しかった。几帳面な文字。「羽間文庫」というのが、天文学者・間重富の間家(羽間家)に由来するらしいことを初めて知った。そして旧跡がまだ現存することも。大阪の歴史は、知らないことが多いなあ。もっと街歩きに励みたい。

 東京ではあまり見ないような気がする上方浮世絵のコレクション、陶磁器の鍋島、禅画、近世文人画、近代洋画まで、バラエティに富む。絶対、図録を買って帰ろうと思ったら「ありません」のつれないひとこと。さまざまな美術館から出陳を願っているだけに、調整が難しかったのかなあ。私の前にいたおじさんも怒っていたけど、残念きわまりない。各美術館・各コレクションの由来と特徴を解説した折本仕立てのパンフレット(無料)が唯一の記念品である。
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2013秋@薬師寺東塔水煙降臨展

2013-11-10 12:13:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
薬師寺 『薬師寺 東塔水煙 降臨展』(2013年9月16日~11月30日)

先月、奈良に行った友人から「絶対おすすめ」と聞いていたので、正倉院展のあとは薬師寺に向かう。雨が強くなってきたので、駅前でビニール傘を買った。

時間がないので水煙降臨展だけ見て行ければいいと思ったが、そういう選択肢はあり得なくて(伽藍のみ拝観は可)「お得な共通券」(白鳳伽藍・玄奘三蔵院伽藍・水煙降臨展)1000円を購入。玄奘三蔵院伽藍の平山郁夫画伯の襖絵を久しぶりに見ていく。ふと振り返ったら、白鳳伽藍の方角に、サーカス小屋みたいなストライプの巨大なテント(覆屋)。修復工事中の東塔が、すっぽり収まっているわけか!と理解するのにしばらくかかった。



水煙降臨展は、東院堂の手前の仮設会場で行われている。



本物の水煙。精巧な模造品は、展覧会で何度か見たことがあるが、実際に塔頂に据え付けられて、陽にさらされ、雨風に打たれてきたものだと思うと、感慨深い。



ちなみに、この展覧会「撮影自由」なのである。薬師寺の英断に感謝!

水煙の下に続く九輪。でも、あらためて写真で数えてみたら、輪が六つしかない。バラバラにして、一部は修復調査中なのだろうか。



これ! 九輪の柱の最下部に刻まれている、薬師寺創建の歴史を示す銘文(擦銘)。個人的には水煙より、こっちの本物を見ることができたことに興奮した。 



塔の修理(復興)に使用されるのは台湾檜なんだな。日本国内では、もう良材が手に入らないということだろうか。



東塔内の四方仏(江戸時代)および四天王像(平安時代)も、水煙降臨展の会場に展示されている(撮影自由)。

大宝蔵殿の『玄奘三蔵1350年御遠忌記念 玄奘三蔵展』(2013年9月16日~11月30日)は別料金。料金よりも時間が気になって割愛してしまったが、やっぱり寄ってくるべきだったかと少し後悔している。旅の続きは大阪へ。
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2013秋@正倉院展(奈良国立博物館)

2013-11-09 23:41:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 特別展『第65回正倉院展』(2013年10月26日~11月11日)

 連続参観を続けて12年目。昨今、ちょっとマンネリ?と思っていたが、今年のポスターになっている『漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)』はインパクト絶大で、なんとしても行きたくなった。「23年ぶり二度目の出陳」だという。

 今年は三連休初日の朝を避けて、11/2(日)の朝、8時半くらいに行ってみたら、もうピロティの下には並べなくて、列はテントの下に長く延びていた。あ~あ。でも開館と同時に、制限なくどんどんお客を入れていくので、ほとんど待たずに館内に入れた。すぐそばに、毎年来ているというおじさんがいて、「今年の宝物(漆金薄絵盤)は平成5年の図録に載ってたわ」とおっしゃっていたが、奈良博ホームページの説明によると「漆金薄絵盤は甲・乙2基あり、今年出陳される品は甲です。乙は平成5年に一度出陳されています」とのこと。

 さて、入口付近の展示室はいちばん混んでいるので、ちょっと途中をスキップして、『檜和琴(ひのきのわごん)』から見始める。控えめな螺鈿細工がきれいだ。附随する『玳瑁絵(たいまいえ)』(実際の素材は牛角?と推定)は小さすぎて、よく分からない。拡大写真で精巧な細工を確認。

 すぐ隣りのケースには、簡素な尺八、横笛。笛吹袍。このへんは「音楽」に関する宝物を集めているらしい。さらに伎楽面が3件。どう見ても日本人の顔ではないが、こういう異相を「人」と認識できたのはなぜなんだろう、と不思議に思う。それから投壺(とうこ)の銅製の壺と投げ矢。投げ矢の鏃(やじり)は丸いんだな。お正月の羽根つきの羽根みたいだ。漆弾弓(うるしのだんきゅう)は、以前、弓身に小さく唐散楽図を描いたものを見た記憶があるが、これは別物。

 東新館の前半が少し空いてきたようなので、戻ってみる。螺鈿の鏡が2件か、と思って、アッサリ見てしまったが、あとで図録を読んで、「最も保存状態のよい」1件と、寛喜2年(1230)に盗まれ、割られてしまったが、明治期に修復された1件だったことを知った。もっとよく違いを見てくるんだった。『鳥毛帖成文書屏風(とりげじょうせいぶんしょのびょうぶ)』は、1979年以来の出品。なんとなく見覚えがある気がして調べたら、平城宮跡資料館に復元品が展示されているらしい。しかし「父母不愛不孝之子(父母は親不孝な子供を愛しはしない)」をはじめ、書かれている成句が身も蓋もないほどストレート。出典を調べたが分からなかった。日本人が作った漢文なのだろうか。

 今年の見もの『漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)』がないなあ、と思ったら、西新館の第1室が、同品の特集展示に当てられていた。最前列で見るための待ち時間は30~40分くらい。これは細部をよく見たいので、並ぶ。列が進んでいく間、壁にいろいろ参考パネルが飾られているので、飽きない。面白かったのは、日本香堂の協力による「お香実験」のパネル。はじめ、『漆金薄絵盤』と関係があると思わず読んでいたら、この『盤』の上で、唐草文に型抜きしたお香を焚いたのではないか、という想定実験であると分かって、興味が増した(※関連記事:YOMIURI ONLINE 2013/10/22)。なお、『盤』の蓮弁は下向きになっているので、現物を見るより、鏡になった展示台を覗き込むほうが見やすい。そして、鏡面を覗き込むには、最前列でないと難しいように思う。

 このあとも、今年は様々な法具類、香炉、如意、献物箱、献物台、盆、皿など、美しい細工物が多く出ていた。私のお気に入りは『白石火舎(はくせきのかしゃ)』。四頭の獅子に支えられた大理石の香炉である。人の身長ほどもある『椿杖(つばきのつえ)』には、卯日の儀式用の杖=卯杖の遺品という説明がついていた。「枕草子」など古典に出て来たことは記憶していたが、実物を見るのは初めて。さらに調べてみて、京都の神社には、いまも卯杖祭の習俗が残っていることに驚く。

 文書類は少なめだったが、意外に熱心な観客がいた。写経生の給与支払いとか前借りに関する文書で、やっぱり金銭がからむと、切実な親近感が湧くのかもしれない。『綱封蔵見在納物勘検注文(ごうふうぞうけんざいのうぶつかんけんちゅうもん)』は、永久5年(1117)に南倉の宝物の点検が行われた際の記録。「正倉院塵芥文書」には、後世の正倉院宝物の管理や点検に関する記録も貼り継がれて、伝わっている。ちなみに鳥羽天皇の(というより白河法皇の)御代である。このほか、元禄年間に調進された古鑰(錠と鍵)、慶長年間に徳川家康が造進させた慶長櫃(けいちょうき)なども展示されていた。

 最後は華やかな『花喰鳥刺繡裂残片(はなくいどりのししゅうぎれざんぺん)』に魅入られ、疲れを忘れる構成。もうちょっと空いていればなあ、とは毎年思うのだが、まあお互い様なので、譲り合って楽しみたい。
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