見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

至福のひととき/ぶらり近江の観音めぐり(玉城妙子)

2010-07-30 20:48:16 | 読んだもの(書籍)
○藤森武写真、玉城妙子著『ぶらり近江の観音めぐり』 小学館 2006.12

 久しぶりに関西に来ている。今日は京都泊、明日は南彦根に泊まって、目的は8月第1日曜日、長浜市高月町内一円で開かれる「観音の里ふるさとまつり」である。普段は公開していないお寺さん、予約しなければ拝観できない仏様が、この日一日だけ、一斉に特別公開されるのだ。今年は計24ヶ所(→高月町商工会ブログ)。

 湖北の「ふるさとまつり」については、以前から気になっていたのだが、ネット上の情報がいまいち少なくて、様子が把握できなかった。今年は、とうとう心を決めて来てしまったのだが、各寺の情報がまだよく分からない。夕方、京都について、四条通りのジュンク堂で参考文献を探していてら、この本が目についた。さすがだなあ。東京の書店では、なかなかこういう本は目につくところになかったのに。著者のことはよく存じ上げないが、藤森武さんの写真は素晴らしくよい。カラーも白黒も。今夜はホテルで本書を眺めながら、日曜日の攻略方法を考える予定。嗚呼、至福のひととき。
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子規庵の朝顔(その2)

2010-07-29 23:00:10 | なごみ写真帖
根岸の子規庵で買って来た朝顔。

その後も、毎朝、花をつけている。けれど、半透明の砂糖菓子のような筒状の花は、これ以上は開かない。

含羞の風情が奥ゆかしい。



3日間、自宅でネットが使えなくない状態だったが、なんとか解決。
またUP待ちの記事がたまってしまった。やれやれ。週末は久しぶりの関西。
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イメージ消費という暴力/風景の裂け目-沖縄、占領の今(田仲康博)

2010-07-26 23:58:22 | 読んだもの(書籍)

○田仲康博『風景の裂け目-沖縄、占領の今』 せりか書房 2010.4

 先だって、ジュンク堂新宿店で行われた著者のトークセッション(2010年7月16日)を聴いた。私は、お相手の吉見俊哉氏のファンで聴きに行ったのだが、トークセッションの内容に非常に感銘を受けて、本書を買って帰った。読みにくい本ではない。必要以上にもってまわった言い方は、決してされてないと思う。けれど、「沖縄」を語るには、絡み合う糸を注意深くほぐしていくような、忍耐強い思考を要求される。こういう「しんどい」作業に付き合い切れない人々は、沢山いるだろうなと思いながら読んだ。

 たとえば、沖縄上陸の1年前から米軍におかれた研究チームは、沖縄の歴史や文化を称揚することによって、「日本人」と「琉球島民」の間を乖離させ、沖縄統治を正当化することをねらっていた。その政策の行く末に(いまは国立大学法人の一である)琉球大学も生まれる。米軍占領下の1950年、第1回入学式で学生たちに配布された『大学便覧』の序文冒頭には、「本大学は、日本のものでもなく、米国のものでもない」と記されている。

 ある研究者は、この序文に、文字どおり「日本のものでもなく、米国のものでもない」、ハイブリッドな大学の創造を見ようとする。しかし、著者は、この文章に政治的意味合いを認めない解釈こそが「極めて政治的なものと言わざるを得ない」と厳しく切って捨てる。日本にもアメリカにも属さない「宙吊り」の大学は、先の分断政策の装置として、占領軍の目的に奉仕することを運命づけられていたと見るべきだと本書は説く。

 しかし、あからさまな「占領政策」の時代について考えるのは、むしろ易しいかもしれない。それは、後半の「メディアに表象される沖縄」を読みながら思ったことだ。いま、多くの日本人は、沖縄といえば、青い空と青い海、歌と踊りを好む陽気な人々、ノスタルジックな祝祭空間、「癒しの島」というイメージを想起し、消費し続けている。それは、アカデミックな場で生まれた南島論(日本の古層 etc.)が、メディアや観光という回路に乗って、行き着いた先でもある。そして、沖縄の住人自らが、外部からの視線に合わせた自分を演じ始めているという。

 これは沖縄に限ったことではなく、「文化の差異の経験を求めて訪れる観光客のために地元の文化が展示される行為を通してその社会のメンバーにとっても『ナショナル・ヘリテージ』としての認識が定着していく」(吉野耕作、スコットランドの分析)と一般化することができる現象である。なんか、近年、中国の観光地で起きていることも、この理論で説明できるな、と思った。活気あふれる文化と芸能、うまくいけば刺激される消費→潤う地域経済、そこに生まれる誇り…。一見、何も悪いことはなさそうだが、「文化」の前景化によって、後景に退いていくのは「政治」なのだ。

 今や「基地の街」さえも、「アメリカ気分を満喫できる」「エキゾチックな沖縄」として語られることが普通になっている。消費社会の暴力は、占領の暴力よりもたちが悪いかもしれない。私たちは、何をもってすれば、この新しい暴力に立ち向かうことができるのだろう。そのヒントになるかもしれないのは、著者が、自分の個人史を織り交ぜながら語ってくれたいくつかの章段である。「祖国復帰」とは、沖縄を船で引っ張っていって、本土にくっつけることじゃないかと考えた(友達がいた)小学生時代。2004年、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した際、「何の反応もできません。頭おかしいのかな、と思いながらも、まだ無関心のなかにいる自分がいます」と述べた学生。いずれも「型どおり」から外れた反応だが、だからこそ、そこに真実があるともいえる。批判的視点に立ち続けるために必要なのは、まず身体的経験と記憶を失わないこと(奪われないこと)ではないかと思った。

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山種美術館・Cafe椿で一服

2010-07-25 23:22:19 | 食べたもの(銘菓・名産)
山種美術館1階の、通りに面して見晴らしのいいカフェで一服。

「日本画の美術館」らしく、カフェメニューも和菓子がメインというのが嬉しい。

しかも、毎回、展示作品に合わせた創作菓子を用意してくれる。写真は『四季草花下絵和歌短冊帖』にちなんだ「ひさご」(あれ?瓢箪図なんてあったか?)。まあ、美味しかったからいいわ…。


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琳派、岩佐又兵衛/江戸絵画への視線(山種美術館)

2010-07-25 19:45:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 開館記念特別展VI『江戸絵画への視線-岩佐又兵衛《官女観菊図》重要文化財指定記念-』(2010年7月17日~9月5日)

 2009年10月に恵比寿(広尾)に新装開館した山種美術館。え~と、実は特別展III『大観と栖鳳』に行ったのだが、記事を書き落としてしまった。なので、これが新美術館初のレポートになる。今回は、「近代・現代日本画専門の美術館」として知られる同館にはめずらしく、江戸絵画コレクションを紹介する展覧会。

 冒頭には、宗達画・光悦筆の『新古今集鹿下絵和歌巻断簡』。益田鈍翁旧蔵、もとは全長20メートルの巻物を分断したもの。これは、西行の「心なき身にもあはれは知られけり」(三夕歌の一)に、うつむき加減の「もの憂い風情の牡鹿」(解説)という取り合わせで、優品だと思う。光悦の筆跡は、ちょっと重い感じがするけど…。表具が素晴らしくいい! 鹿の絵に合わせた金泥色の地に桜の古木を刺繍した中廻し。細い一文字には、小さな雁の姿が見える。

 さらに、『四季草花下絵和歌短冊』も宗達画・光悦筆のコラボで、全18面の短冊から成る。不思議だったのは、宗達画(短冊の文様)のテーマは、梅→柳→桜→卯の花…という具合に四季の移り変わりに合っているのに、梅や柳の図柄の短冊に書かれているのが、どう見ても秋歌だったこと。図柄と歌の内容を、わざと「はずして」いるのだろうか。桜柄の短冊の「花見にとひとやりならぬ野辺にきて 心のかぎり尽くしつるかな」(経信)は、桜の歌かと思ったが、調べてみたら、これも秋歌だった。不思議…。

 同館には、琳派、特に酒井抱一の優品が多い。私はあまり抱一には興味がなかったのだけど、『宇津の山図』の緊迫した構図、『月梅図』のくらげみたいに現実離れした白梅など、ちょっと気に入ってしまった。『秋草鶉図』はフットボールみたいに細身の月が涼やか。照明がほどよいので、金屏風が映える。

 岩佐又兵衛の『官女観菊図』は、以前の山種美術館でも見たことがあると思うが、薄い展示ケースを使用しているので、作品に肉薄できてうれしい。細く丁寧な線、薄い墨色が、鉛筆かクレパスで描いているみたいだ。又兵衛って、ほつれ毛フェチだよなあ、と思う。この作品、福井の豪商金谷家という旧家に伝来した六曲一双の押絵貼屏風であったそうだ。会場には、この「旧金谷屏風」をCGで復元した図が掲げられていた。『官女観菊図』は左隻の左から2枚目で、出光美術館所蔵の『野々宮図』や、昨年、道教の美術展で見た『老子出関図』(東博)も一連の作品であるらしい。左右両端の『雲龍図』と『虎図』(東博)が見たいなあ。こういうのって、リクエストすると効果はあるんだろうか。

 ほかに気に入ったのは、椿椿山の『久能山真景図』。私は一度だけ久能山に行ったことがあるが、あ、あの坂だ、とすぐに記憶がよみがえった。「真景」とことわるだけのことはある。緑陰の坂道を登っていくピンクの僧服の人物が愛らしい。伝・蘆雪の『唐子遊び図』は期待していったんだけど、これは違うなあ、と思った。

 近代絵画を常設する第2室で、同館随一の名品、速水御舟の『名樹散椿』が見られたのは眼福の余禄。この作品も、フラットな画像で見たときと、屏風として立てたときの印象は、ずいぶん違うように思う。今村紫紅、福田平八郎など、童心の清々しさを感じさせる近代絵画が多かった。
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心の涼を求めて/いのりのかたち(根津美術館)

2010-07-24 00:02:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 新創記念特別展 第7部『いのりのかたち 八十一尊曼荼羅と仏教美術の名品』(2010年7月10日~8月8日)

 休日出勤の代休を木曜に貰った。暑い。外に出たくないけど、せっかくだから、あまり歩かないで見に行ける同館に出かけた。竹の生垣に縁取られた日陰のアプローチに達するとほっとする。水で満たされた岩船が涼を添える。館内は、採光がいい割には、きちんと断熱されていて、「家の作りやうは、夏をむねとすべし」の美術館であることを実感する。

 今回は仏教美術の名品展。冒頭は金銅仏。冷たい金属の質感に、少し汗が引く。中国・唐時代の『五尊仏坐像』がすごい。型に銅板を当てて像容を浮き出させるというが、完全に「レリーフの域を超えた立体的な仕上がり」である。あり得ないでしょ、これ!

 仏画は、平安~鎌倉時代ばかり。むかし、改装前の根津美術館で、室町・南北朝の仏画勢揃いを見た記憶(記事あり:2005年)があって、面白かったけど、今回はさらに特別展の名に恥じないお蔵出し感あり。途中に高麗仏画が3点挟まれている。『阿弥陀三尊来迎図』は、脇侍のニ尊が宝冠から足元に垂らした、半透明のベールが、花嫁のようで美しい。

 大徳10年(1306)の『阿弥陀如来像』には「伏為/皇帝万年三殿行李速還本国之願部画成弥陀一頓」云々(翻刻をメモ)という墨書があり、元の大都に滞在していた高麗忠烈王一行の帰還を祈願したもの、と説明されていた。高麗と元の関係も複雑だったなあと思って調べてみたら、忠烈王とは、クビライの公主を娶り、親元政策を貫いた人物。元に日本侵攻を執拗に進言したことが「高麗史」に記載されているそうだ。よく見ると、この像、胸に卍印がある。京都・安楽寿院のご本尊も胸に卍印があって「卍の阿弥陀」と呼ばれていたが、あれは高麗様式なのだろうか。

 和ものでは、タイトルロールの『八十一尊曼荼羅』がやはり見もの。鎌倉時代とは思えない色彩の鮮やかさ。まわりの表具が、三鈷杵を十字に組み合わせた密教法具「十字羯磨」の文様なのもいい。曼荼羅の枠線が三鈷杵の連続なのと合っている。曼荼羅の四隅に半身をのぞかせ、両手を広げて円を支える4人の神人(?)は、緑・黒・白・赤の体色で、東・北・西・南に対応しているものと思われる。諸仏の間に配された、ダリアか、光琳菊みたいな赤い花が愛らしい。滋賀の金剛輪寺に伝来し、円仁が中国からもたらしたものを鎌倉時代に写したと伝えるそうだ。美術館TOPページに特大細画像を公開中。大サービスだな!(順次、変わります)

 14世紀の『愛染明王像』もいいねえ。見開いた両目、口の中にのぞく鋭い犬歯と深紅の舌、「安定感のある姿に怒気がみなぎる優品」とは巧い表現である。上方左右の墨書は後醍醐天皇の宸筆と伝える。よく読めないが、梵字と漢字が見えた。これも迫力ある大画像を公開中。

 13世紀の『大威徳明王像』もいい。水牛の背に法輪を載せて踏みつけ、片側の三本足で立ち上がり、六本の腕を翼のように広げて弓を引く姿。振り返った水牛の目線に緊迫感がある。同じく13世紀『五大尊像』の「降三世明王」は、なぜか踏みつけられた女神(大自在天の妃である烏摩)が、ハッシとその足を受け止めている。 

 展示室2は『絵過去現在因果経』(画像公開中)も可愛いが、『十二因縁絵巻』を取り上げたい。セッタ王という王様が、12の羅刹(鬼)を訪ね歩き、ついに苦悩の根本である無明羅刹を征服する物語だという。抜身の剣を構える王様に「セッタ王、○○羅刹を責める」という簡潔なキャプションの繰り返しが、緊迫した雰囲気を伝えているのだが、「セッタ王、速疾金翅鳥羅刹を責める」の図だけは、なぜか王様が、興味津々、金翅鳥のつばさと握手しているみたいで、思わず、おい、責めてないだろ!と吹き出したくなってしまった。飄々とした羅刹たち(大阪弁をしゃべりそうだ)が可愛いよ~。いよいよ無明羅刹登場!の前で終わっているので、あれっラスボスは?と思ったら、錯簡で、途中に登場していた。こういう絵巻資料を一気に見せてくれるのはめったにないことなので、必見。解説によれば、平安後期から、奈良の諸寺院で南都六宗の復興運動が活発化し、こうした模写が作られたそうである。

 3階は、久しぶりに古代中国の青銅器を見て、やっぱり分かっている出土地って河南省だよね、ということを確認(東博の『誕生!中国文明』展を復習しつつ)。展示室5は、夏にふさわしく、涼を感じさせる大皿が集められていた。特に呉州赤絵と呉州青絵は童心にあふれ、自然と元気が湧いてくる。展示室6で「夕さりの茶」のしつらえを見終えた頃、すっかり汗もひいていたのは、冷房のせいだけではないと思う。
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旅は歩くもの/ニッポンの海外旅行(山口誠)

2010-07-23 00:00:50 | 読んだもの(書籍)
○山口誠『ニッポンの海外旅行:若者と観光メディアの50年史』(ちくま新書) 筑摩書房 2010.7

 「最近の若者は海外旅行に行かなくなった」といわれるが、本書によれば、20代の海外渡航者が最多を記録したのは1996年であり、当時4人に1人の割合で海外を旅行していた20代の若者が、10年あまりで半減しているという。1996年に何があったか――みなさん、覚えていますかね。私は本書の第5章を読むまで思い出せなかった。まずは、日本人にとっての「海外旅行のかたち」をなぞっていこう。

 戦前まで、日本人にとって海外は、視察と留学の地、あるいは労働(移民)の地であり、観光のための海外旅行は稀少だった。戦後も、50年代末の海外渡航は、学術研究を目的とした探検隊や調査隊に限られた。60年代、『どくとるマンボウ航海記』の北杜夫、『何でも見てやろう』の小田実、『青年は荒野をめざす』の五木寛之など、先鋭的な若者の探検記があらわれる。これに刺激された若者たちが、海外を「歩く旅」を始めるのが70年代である。

 需要のあるところにビジネスが生まれ、学生向けの低価格の航空券を販売するさまざまな仕組みが生み出された。大学生協連が71年から、「自由交歓旅行」を謳い文句にした割引航空券の販売を始めたのもそのひとつ。思えば、私が80年代初頭に始めて行った海外旅行(中国ツアー)も大学生協の商品だった。そして、「お金がない、英語も、現地の言葉もしゃべれない人が、それでもどうやって旅をするか」を主眼にしたガイドブック「地球の歩き方」が登場する。

 80年代には、秀インターナショナル(現HIS)、マップ・インターナショナル、四季の旅社など、新興の旅行会社が続々と起業し、学生援護会の雑誌「BLANCA」、リクルート社の雑誌「ab-road」が出現する。懐かしい~。私の学生時代は、まさにこの80年代に重なるのだが、最初の海外旅行から2度目まで、10年近い空白期間を過ごすのもこの時代だ。80年代の画期となるのは、沢木耕太郎の「深夜特急」(84年より新聞連載)。著者は、70年代の小田実らのヨーロッパ旅行記が、見聞を主とする「アクションの旅」であったのに対し、沢木のアジア旅行記を、自分の心の動きを主とする「リアクションの旅」だったと説明している。沢木の影響下に「自分探し」を特徴とする第二世代のバックパッカーたちが出現する一方、超円高時代の到来とともに、全く異なる旅のかたちも登場した。短期間で効率よく都市型消費を楽しむスケルトンツアーである。

 90年代、バックパッカーには第三の世代が現れる。彼らの旅は、「日本=日常」からの逃避行ではなく、むしろ「われわれ日本人」という集団アイデンティティを確認する行為だった。そして、著者の言う「1996年の爆発と到達点」とは、無論、猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」である。彼らが旅の果てに手に入れたのは「理不尽な困難を素直に受け入れ、ときには感謝を口にするような、そして日本に帰国しても『やっていける』ような、素直で謙虚な『日本人の好青年』の姿だった」という分析は興味深い。

 これ以後、若者の海外旅行離れが進んだのは、バブル崩壊、国際事件の続発などの悪条件よりも、海外旅行という商品そのものが、魅力を失ってしまったことが大きい。バックパッカーの貧乏旅行はひとつの極点に達し、スケルトンツアーは、行き先も旅のかたちも固定化して、1、2回行けば飽きるものになってしまった。そこで著者は、「買い・食い」志向からの脱却と、旅先の文化や歴史に触れる「歩く」旅の再考を促して本書を終える。

 著者の結論には何の異論もない。私は、ツアーでも個人旅行でも出張でさえ、知らない街に行けば、寸暇を惜しんで外に飛び出し、ホテルの周りを30分でも歩きまわってくることが好きなので…。こういう私の性癖は、70~80年代にメディアを通じて刷り込まれた「海外旅行=歩く旅」のイメージから来ているのかもしれない、と思った。そうすると、スケルトンツアー全盛以降に成人した若者たちが、「歩く」海外旅行を再発見する日は、果たして来るかなあ。心もとない。
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二度目のアイスショー"Prince Ice World 2010"(東京公演)

2010-07-22 09:09:58 | 行ったもの2(講演・公演)
プリンスアイスワールド/Prince Ice World 2010(東京公演)(2010年7月17日、11:30~)

 「生まれて初めて、アイスショーなるものを見てきた」のが、7月10日、新潟のFaOI(Fantasy on Ice)。それから1週間もたたないうちに2回目を経験することになってしまった。もうね、情報に動かされているとしか言えない。アイスショーというのは、出演者が確定するのが遅く、さらに演目は、当日、スケーターが登場するまで分からなかったりするらしい。

 ところが、本人(プルシェンコ)がtwitterで「タンゴ・アモーレやるよ!」とつぶやいてくれたのだ。今年のバンクーバー五輪のFSで滑った曲。と言っても、そのときは全く関心がなかったのに、その後、動画サイトで、さまざまなバージョンを繰り返し見て、見れば見るほど、大好きになってしまった演目である。これは見たい。このチャンスを逃したら、絶対後悔するに違いない。というわけで、3連休の2日間は出勤というのに、フリーの1日を、またアイスショーに捧げることになり、西武線・東伏見のアイスアリーナに行ってきた。(若者と違って、お金より時間の方が貴重なのだが…)

 いやーよかったなあ。席は東側。出演者の登場口は西側で、真正面からリンクの長辺を一気に滑走してくると迫力があった。FaOIの会場となった新潟の仮設リンクに比べると、ずっと狭い。だが、それがよくて、出演者の表情がはっきり分かる。今回はSS席の最前列で、通路を隔ててすぐ前がEXシートだったので、ちょうどスケーターの視線の高さに合っていたように思う。それでも、日本人スケーターは、客席にそんなにはっきりしたアピールはしないのだが、プルシェンコが、ガーッとものすごいスピードで滑走しながらも、はっきり視線を客席に、というか観客のひとりひとりの顔に向けている、と感じられたのは、ぞくぞくする体験だった。

 FaOIで滑った「アランフェス」は、広いリンクを狭く見せる、氷上の皇帝の趣きだったが、この「タンゴ・アモーレ」は狭いリンク向きだと思う。いい意味での場末感というか、猥雑さがあって、モーツアルトのオペラとか、シェイクスピアの演劇、あるいは江戸の歌舞伎でもいいのだが、今日では大芸術と目される多くの作品が、観客と演者の距離の近い、小さな劇場で生まれたことを思わせる。この曲、指笛が飛ぶこともある、というのも分かる分かる。

 PIW(Prince Ice World)東京公演は、終了後に「ふれあいタイム」というのがあって、出演者が観客と握手をしたりプレゼントを受け取ったりしながら、リンクを一周する。プルシェンコは、30分以上かけて(午後の部の客入りが始まっちゃうだろう、とハラハラした)欲張りなファンのリクエストに、信じられないほど丁寧に応対していて、私はこれにも感銘を受けた。



 この1公演だけでもいろんな表情が見られて楽しかったのに、全8公演(4日間×2回)、自分からさまざまなアイディアを実行して、観客も共演者も楽しませてくれたらしい。



 ジェーニャ、お疲れ!またね!



 どうもこの調子だと、近いうちに"三度目のアイスショー"にも行ってしまいそうだ。韓流とかジャニーズにハマる同世代の友人たちを笑えないなあ。
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幕末維新の人々/古写真-人物を写す(東京国立博物館・本館16室)

2010-07-21 23:04:22 | 読んだもの(書籍)
○東京国立博物館・本館16室(歴史資料) シリーズ「歴史を伝える」特集陳列『古写真-人物を写す-』(2010年7月13日~2010年 8月1日)

 『誕生!中国文明』と一緒に見てきた。古写真シリーズの何回目か。今回は、被写体としての「人物」に焦点をあて、江戸幕府の遣欧使節、明治の元勲たちを紹介する。1人1枚の、大判のポートレート写真が多い。幕末歴史好きなら、おおおっ!となる人物写真が大集合。勝海舟、岩倉具視、三条実美、大久保利通など、顔も名前もよく知った写真もあれば、聞いたことがある名前だけど誰だっけ?としばし考える人物も混じる。たとえば、森山多吉郎



 プチャーチン、ペリーの応接通訳をつとめたが、維新後は新政府に仕えることはなかった。明治4年没。彼の英語塾の門下生には津田仙、福地源一郎、沼間守一などがいるという。テクノクラートらしい、さわやかな表情をしている。

 資料の撮影は禁じられていないが、節度を守ってね。
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中原に歴史を追う/誕生!中国文明(東京国立博物館)

2010-07-20 22:01:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『誕生!中国文明』(2010年7月6日~9月5日)

 始まってまもない同展、あまり盛り上がってないなーと思いながら行ってきた。何が目玉なのか、よく分からないのである。基本的に言うと、伝統中国の中心地域、いわゆる中原(ちゅうげん)、いまの行政区分では「河南省(かなんしょう)」の協力のもとに行なわれる展覧会のようだ。が、ということが、速やかに理解できる日本人は少ないだろう。たぶん「河南省」をどう説明するか?という企画会議の席で、中国最初の王朝である夏(か)、その次の王朝、商(しょう)=殷(いん)ゆかりの地なので「誕生!中国文明」でいいんじゃない?という話になったのではないか、と想像する。

 第1部「王朝の誕生」は、「夏」王朝から始まる。70年代後半、私が高校で習った世界史は「殷」が始まりで、教えてくれた先生は「私が学生のときは、周が最初の王朝で、殷は伝説だったのよ」とおっしゃっていたなあ、と感慨にふける。青銅器、玉器などの古代遺物が中心だが、西周時代(紀元前11~12世紀)の『灰釉豆』は、珠光青磁みたいな灰緑色の釉薬がかかったやきもので「原始青磁とも呼ばれる」に納得(1998年出土)。

 本展では、最新の出土品も多数公開されており、1997年出土の『九鼎八簋』は、巨大で精巧な青銅器のセット。横長の巨大な展示ケースに並んでいるが、出土したときの写真では、幅を取らないように積み重ねて(入れ子状態で)格納されていた様子が分かる。2002年出土の編鐘(全14件)も整然と美しく、若い中国人のお母さんが抱きかかえた赤ちゃんに「中国真励害!(ほんとにすごいね~)」と話しかけながら通り過ぎていったのが印象的だった。でも、無愛想な青銅器の美しさを最大限に引き出した照明&配置の美しさに関しては、日本の博物館の仕事ぶりも「励害!(すごい)」と称えたい。

 第2部「技の誕生」も、冒頭は紀元前の明器(副葬品)の楼閣模型などで、ゆったり古代的な雰囲気に浸って見ていたら、突然、白磁(磁州窯)の枕があらわれる。汝窯ふうの天青色の『青磁套盒』、鈞窯ふうの『澱青釉碗』など。あれっ?とキャプションを見直すと、いずれも北宋11~12世紀とある。いつの間にか、一気に1400~1500年をワープだ。確かに、河南省の魅力は、古代文明だけではないのだけど、この年代感覚、分かるのかなー。

 第3部「美の誕生」は、再び紀元前の青銅器世界に遡行。春秋時代(前6~5世紀)の『神獣』は、いろいろくっつき合っていて、諸星大二郎的な妖しさが満ち満ちている。「怪物の世紀」の香気フンプン。これに比べると、漢代(前1~後3世紀)は、すっかり「人間の世紀」に変貌を遂げた後という感じだ。中国文明って、ほんと成長が早いなあ。ここは、仏像あり、塑像あり、磁器あり、三彩ありでバラエティに富む。一番びっくりしたのは、”彩色”画像磚6点。凸状の文様に、木版画の版木のように色を載せる。クレパスみたいな単純な配色が、地蔵盆のお地蔵さんみたい。青龍が青くない(黄色い!)のも気になる。「彩色をよく留めた貴重な資料」ということは、南北朝時代(5~6世紀)の色なのか!? そもそも画像磚って、無彩色だと思っていた…。

 私は、河南省には何回くらい行っているだろう。中国の中心部なので、東西南北の各省を目的地とした旅でも、河南省を通過することが多いのだ。懐かしいのは10年くらい前に行ったきりの開封市。北宋の都だ。繁塔、ツアーの空き時間に自力で行ったんじゃなかったかな~。公園(奈良の平城宮跡)みたいに整備された殷墟にも行き、その中の遺跡、婦好墓も見た。登封市の法王寺は、少林寺の近くだったな…と思って検索をかけたら、「遣唐使『円仁』の名刻んだ石板、中国で発見」というニュースがヒットしてびっくりした。10日ほど前か。全然、気づいていなかった。

※asahi.com:遣唐使「円仁」の名刻んだ石板、中国で発見(2010/7/10)

※展覧会公式サイト「誕生!中国文明」(音が出ます)
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