見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2024札幌大通り・ミュンヘンクリスマス市

2024-11-30 21:46:04 | 北海道生活

水曜から札幌1泊→広島2泊という、無茶な出張に行ってきた。5年ぶりの札幌、ほとんど自由時間はなかったけれど、大通り公園のミュンヘンクリスマス市だけは覗いてきた。

札幌在住だった2013年と2014年、それから2019年に来ているので、見慣れた商品を扱うお店を見つけるとなつかしい。おそらく店員さんは変わっていると思うけれど。

ロシアのマトリョーシカを扱うお店が出ていたのは、感慨深かった。ロシアは、良くも悪くも北海道にはとても近い国なのだ。早く平和と友好が戻ってほしい。

食べもの屋さんは、以前より増えたような気がした。私は大好きなローストアーモンドを見逃すことができず、カカオ味とシナモン味のSサイズパックを購入。出張中のホテルで夜食に半分くらい食べてしまった。

華やかなイルミネーションも堪能。12月の札幌なのに雪が全くなく、例年なら10月末の気温だと現地の友人が言っていた。しかし関東と違って冬の空気がしっとりしているのはいいなあ。

またプライベートで来よう!

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王の墓の守護者/はにわ(東京国立博物館)

2024-11-26 22:52:36 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 挂甲の武人国宝指定50周年記念・特別展『はにわ』(2024年10月16日~12月8日)

 埴輪(はにわ)の最高傑作とも言える『挂甲の武人』が国宝に指定されてから50周年を迎えることを記念し、東北から九州まで、全国約50箇所の所蔵・保管先から約120件の至宝が集結する特別展。なかなかの人気で、連休に出かけたら、入館まで小1時間待たされてしまった。私はあまり埴輪に興味を持っていないので、会場内の混雑ぶりに、見に来たことを後悔しかけたが、ゆるい気持ちで見ていくと、いろいろ発見があって面白かった。

 冒頭には2体並んだ『埴輪 踊る人々』。東博の公式キャラクター「トーハクくん」のモデルにもなった有名作品である。意外と小さい。出土地が埼玉県熊谷市であることは初めて認識した。私の場合、埴輪と聞くと、この「踊る人々」が浮かんでしまうのだが、実は一口に埴輪と言っても、単純な円筒形や壺形から、人物・動物・魚(!)・船・家など、多種多様な造形が残されている。

 埴輪は、古墳時代の3世紀から6世紀にかけて作られ、王(権力者)の墓である古墳に立てられた。はじめに奈良県、熊本県、群馬県などの古墳から出土した副葬品の刀剣や武具、金属製の沓などを展示。続いて、王の墓に立てられた埴輪が登場する。奈良県桜井市のメスリ山古墳からは、高さ2メートルを超える巨大な円筒埴輪が出土している。展示室の壁いっぱいに、古墳の全景写真が掲示されていたのはとてもよかった。あとで場所を調べたら、聖林寺に近いあたりなのだな。大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は大きさばかり注目されがちだが、愛らしい『埴輪女子』や水鳥形、犬形の埴輪も出土していることを初めて知った。

 埴輪の造形で特に気に入ったのは、三重県松阪市宝塚1号墳出土の船形埴輪。縄文の火炎型土器みたいにいろいろな装飾がくっついた姿がゴージャスで、呪力を感じさせる。展示は模造品だったが、よくできていたので問題なし。珍しかったのは椅子形埴輪(群馬県伊勢崎市)。椅子に座るべき人物を表現しないのが面白い。

 後半の始まりは『挂甲の武人』の特集だった。東博が所蔵する『挂甲の武人』(埴輪武装男子立像)は群馬県太田市で出土。これと酷似する完形の武人埴輪は4例あり、本展には5件の『挂甲の武人』が勢ぞろいした(うち1件は米国シアトル美術館から里帰り)。いずれも頬宛てのついた衝角付冑(しょうかくつきかぶと)を被り、小札甲(こざねよろい)をまとう。大刀(たち)に手をかけていることはすぐに分かるが、よく見ると短い弓を持っており、多数の矢を収めた靫(ゆき)を背負っているのが興味深かった。やっぱり古代の武人は、剣より弓矢だったのではないかな。

 人物埴輪には、武人以外にも、盾を持つ人、琴をひく男子、力士など、多様な姿が写し取られていた。驚いたのは『ひざまずく男子』(群馬県太田市)。中国の跪拝俑は知っていたが、日本にもあるんだ~と興奮した。

 馬形埴輪には、どれも鐙(あぶみ)が付いていた。最近、松岡美術館の展示で、唐代の三彩馬は鐙を表現することが珍しいという解説を読んだので、比較すると面白いと思った。

 さまざまな動物埴輪をパレードふうに並べた展示は、中国の博物館でも見たことがあった。牛・馬・犬・猪(豚)・水鳥など、だいたい登場する動物の種類は似通っていたが、羊はいなかった(推古天皇紀に献上の記録はあるらしい)。魚形埴輪(千葉県芝山町)には笑った。こんなの、後世のフェイクだと言われたら信じてしまう。

 あと、親子の愛情を表現した埴輪はわずかだが関東限定で出土するという解説があった。むかし、奈良の百毫寺に向かうルートに、子供を背負ったお母さんの埴輪が立っていたのだが、あれも後世の模造品だったのかなあ、と懐かしく思った。

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増築リニューアルオープン/與衆愛玩(荏原畠山美術館)

2024-11-25 22:05:58 | 行ったもの(美術館・見仏)

荏原畠山美術館 開館記念展I『與衆愛玩-共に楽しむ-』(2024年10月5日~12月8日)

 荏原製作所の創業者・畠山一清(即翁、1881-1971)のコレクションを所蔵する「畠山記念館」は、2019年3月から施設工事のため休館していたが、このたび「荏原 畠山美術館」(半角空けが正しいらしい)に名称を変更し、リニューアルオープンした。ウェブサイトのURLも変わったようだ。

 好きな美術館の1つではあったけれど、あまり熱心には通えていなかった。最後に訪問したのは2016年のようだ(つくばに住んでいた頃だ)。休館中に京博で開催された特別展『畠山記念館の名品』は見ていて、コレクションの質と量に驚いた記憶がある。

 これまでは高輪台駅を使うことが多かったのだが、今回は白金台駅から歩いた。高級住宅街の代名詞みたいな町だが、狭い道がうねうねと入り組んでいて、高い樹木が多く、鎌倉あたりの裏道を歩いているような気がした。そして懐かしい門前。丸に二つ引きの畠山氏の家紋。塗り直された(?)白壁が美しい。

アプローチに沿って進むと、これも以前の面影を残した玄関。

 ロビーには着物姿の畠山即翁の大きな木像が置かれていて、思わず心の中で「お久しぶり!」と声をかけてしまった。チケット売り場のお姉さんが順路を説明してくれるのを聞いて、来るときにチラリと見えたのが、増築された新館であることを理解する。靴を脱がなくてもよくなったのだな、という変更も理解。

 階段で2階へ。片側の壁に軸物が数点。おおお、継色紙(きみをおきて)だ!「きみをおき/て あだし/こころをわ/がもたば/すえの/松山/なみもこえな/む」という、完全に意味を無視した行替えのリズム、全体が左に傾いた不安定さもよい。むかしはこの壁の前は畳敷きの広縁(?)になっていて、上がって展示品に近づいてもよく、お抹茶をいただくこともできたのである。記録のために書き残しておく。その左奥の茶室「省庵」は残っていて、中に上がることができた。床の間には即翁筆「波和遊」が掛けてあった。これ「How are you?」だそうで、川喜田半泥子にも同じ書があるみたい。

 この展示室は茶道具が中心。伊賀花入「銘:からたち」が素晴らしくて息を呑んだんだけど、実は京博でも見ていたことにさっき気づいた。でも京博の人工的な照明で見るより、軽く自然光が差し込む畠山美術館の展示室のほうが、絶対に映えると思う。備前とか信楽とか、長次郎の赤楽茶碗「早船」(赤くない)とか、全体に私好みのやきものが多いなあと思った。

 絵画は『清滝権現像』(鎌倉時代)に驚く。どこかで見たことがあると思ったが、自分のブログで検索したら畠山記念館しか出てこなかった。白地に丸紋の着物、唐風の冠をつけた女神が引き戸を開けて姿を現したところ。手には緑色の宝珠。戸の外側に垂髪・緑の着物に緋の袴の小さな女性が控えている。圧倒的な身長差が、女神の御稜威を印象づける。解説によれば、荏原製作所がポンプの会社なので、水に縁のある女神像をコレクションに加えたという。

 そして、きょろきょろしてしまったが、以前はなかった出口(たぶん)から外へ出ると、新館への渡り廊下がある。廊下は、完全に密閉された空間でないのが面白かった。新館2階には能面と能装束を展示。即翁が実際に能を舞っている写真や動画もあった。いいなあ、このおじさん、東京帝国大学の機械工学科出身で、多数の機械を発明し、製造販売に成功しつつ、この数寄者っぷり。

 地下1階は、即翁の女婿で荏原製作所二代目社長の酒井億尋(1894-1983)の洋画コレクションを紹介。梅原龍三郎、安井曾太郎など。新館ができたことで、ずいぶん展示の幅が広がった気がした。ちなみに基本設計の新素材研究所は、現代美術作家の杉本博司と、建築家の榊田倫之によって設立された建築設計事務所である(実施設計は大成建設)。また来ます!

追記。展示の書画に必ず全文翻刻が添えてあり、表具の説明があるのがとてもよかった。

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昭和天皇の肉声/象徴天皇の実像(原武史)

2024-11-24 22:24:52 | 読んだもの(書籍)

〇原武史『象徴天皇の実像:「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書) 岩波書店 2024.10

 『昭和天皇拝謁記』は、戦後、宮内府長官および宮内庁長官を務めた田島道治(1885-1968)の日記・書簡等の記録をまとめたもので、2021年から23年にかけて岩波書店から刊行された。この中には「まるでテープレコーダーに録音していたのではないかと思われるほど詳細に」田島と天皇のやりとりが記録されているという。貴人に仕える者としての、記録への執念というか責任感が生んだものかと思う。

 本書は、近代の天皇制について多くの論考のある著者が、この『拝謁記』から読み取った昭和天皇の人間像を「天皇観」「政治・軍事観」「戦前・戦中観」「国土観」「外国観」「人物観(皇太后節子、他の皇族や天皇、政治家・学者など)」「神道・宗教観」「空間認識」のテーマで分析したものである。

 正直なところ、そんなに意外な記述はなく、だいたい、こういう人なんだろうなと想像していたとおりの印象だった。昭和天皇は、日本国憲法の制定によって「象徴」となったが、その意味を突き詰めて考えた形跡はないという。政治・軍事中心であったものを今後は文化、学問芸術を中心にしようとか、過剰な警備を止めて国民に接近しようとは考えている。いやなことを進んでやり、道義上の模範となるよう修養を心がけているというのも嘘ではないだろう。しかし、やっぱり統治権の総覧者、大元帥としての意識が抜けていない。忠君愛国は悪くないとか、教育勅語はあったほうがよいという思考は、令和になっても残っているくらいだから、この人が内心でそう思っていたのは、まあしかたないだろう。

 民主主義に関しても、あまり賛意を表明していない。平和、民主、自由のような美名よりも、大事なのは「祖国防衛」である。民主主義は、戦争の時にすぐ動けないのが「弊の一つ」であると述べている。昭和天皇は再軍備論者でもあった。その背景には、共産主義への強い危機感・警戒感がある。共産主義は軍備の弱い日本に易々と侵入することができ、大学や会社などの組織の中にひたひたと勢力を広げていると考えていたようである。ロシア革命の例もあるので、君主(象徴だけど)の立場として共産主義を恐怖することは分かる。しかし再軍備が叶わないなら米軍に守ってもらわなければならいので、沖縄でも内灘(石川県)でも浅間山でも米軍に提供することにためらいがない発言をしているのは、ちょっと驚いた。

 皇太子の進学先をめぐっては、容共的な姿勢の南原繁総長を戴く東大は絶対に嫌だったようだ。皇太子は学習院大学に進学するが、天皇制に批判的な清水幾太郎を教授にしておく安倍能成学長に不満を漏らしている。このへんは天皇家の家庭内事情だから、何を言ってもいいと思うけれど。著者が、昭和天皇の共産党認識を、後期水戸学がキリスト教に対して抱いた危機感に通じると分析しているのは面白かった。

 また、朝鮮半島に対しては、戦後も露骨な蔑視を伴う発言を残している。しかしこれも当時の多数の日本人(知識人を含めて)の標準的な感覚だったとも言える。晩年の昭和天皇は全斗煥大統領と会うわけだが、もし反共主義について言葉を交わしていたら、十分意気投合できたのではないかと思う。

 天皇家の人々について。昭和天皇が皇太后節子を強く恐れていたことは、著者の『皇后考』にも書かれていたが、皇太后が亡くなった後、父・大正天皇と母・貞明皇太后の関係を語っている箇所は、宮内庁は外に出してもよかったのかしら。宮中では大正天皇の時代から一夫一婦制が確立されたことになっていたが、実態はそうではなかったという。その点では、一夫一婦制の実態を確立した(と思われる)昭和天皇はえらい。しかし宮中の儀礼(血の穢れを忌む)との関係で皇后の生理を完全に把握して話題にしていることに、著者は驚きと違和感を述べている。確かに夫婦としては非人間的なようだが、生物学者でもあるしね。

 皇太子明仁(東宮ちゃん)については、天皇となることを不安視する発言を繰り返していたが、天皇明仁が「象徴」の務めを熟考し、沖縄訪問、中国訪問など、先代の「負の遺産」の解消に努力されたことは周知のとおりである。それで、今上はどうなんだろう。年代的には一番近い今上の考えていることが、今ひとつ私には分からない。

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美味しそうな色とかたち/福田平八郎×琳派(山種美術館)

2024-11-23 21:38:20 | 行ったもの(美術館・見仏)

山種美術館 特別展・没後50年記念『福田平八郎×琳派』(2024年9月29日~12月8日)

 斬新な色と形を追求した日本画家・福田平八郎(1892-1974)の没後50年を記念し、同館では12年ぶりに、平八郎の画業をたどる特別展を開催する。併せて、平八郎が敬愛した、琳派の祖・俵屋宗達の作品など、意匠性と装飾性にあふれる琳派の世界を紹介する。

 自分のブログを検索したら、初めてこの人の名前が出てくるのは、2010年の『江戸絵画への視線』展。2012年の『福田平八郎と日本画モダン』も見ている。特に誰かに習ったわけではなくて、主に山種美術館で作品に出会って、徐々に好きになった日本画家だと思う。

 会場の入口に掛けてあったのは『筍』。黒いまっすぐな筍が二本生えており、背景の白い地面には、一面に散り敷いた竹の葉がパターンだけで表現されている。まさに意匠性と装飾性にあふれたカッコいい作品。福田は晩年まで写生を重視したが、写生の結果として、現実よりも自由で美しい色とかたちを生み出している気がする。

 たとえば何度も描いている『鮎』の黒っぽい背中と尾びれの黄色、『桃』の赤みがかった黄色を見ていて思った。これは和菓子の色に似ている。現実にあるものを真似ながら、現実よりも愛らしくて美味しそうな和菓子の色。『竹』にアップで描かれた3本の竹の幹は、緑・黄色・オレンジのビタミンカラーに塗り分けられていて、駄菓子屋のラムネ菓子を連想した。晩年の『鴛鴦』にはオス3羽、メス2羽が描かれているが、ひな祭りの砂糖菓子(金花糖)みたいに華やかな色をしている。『紅白餅』は明るい水色を背景に白いマルとピンクのマルが並んでいて、夕焼け雲?と思ったら餅だったので笑ってしまった。前述の『筍』もだんだん羊羹かチョコレートに見えてきて、まあとにかく美味しそうな作品が多かった。

 琳派は、伝・宗達筆『槙楓図』、抱一筆『秋草鶉図』、其一筆『四季花鳥図』と、3つの屏風が並んだところは圧巻。この中では其一の屏風が色数も多く華やかで好き。王朝物語を踏まえた、抱一の『宇津の山図』、其一の『高安の女』も面白かった。宗達の墨画淡彩『軍鶏図』(個人蔵)は初めて見たかなあ。縦長の画面いっぱいの大きな軍鶏が、全身「たらしこみ」の技法で描かれている。トサカと顔のまわりに薄く朱を用いる。

 最後の「近代・現代日本画にみる琳派的な造形」も面白かった。見てすぐ、確かにこれは琳派だよねと分かる作品もあれば、え?これが?としばらく考えるものもあった。橋本明治の『双鶴』は、2羽の鶴の頭部を並べて描いたもの。琳派の絵画というより蒔絵デザインに通うものがあるかもしれない。安田靫彦作品のそばに、靫彦が宗達を大絶賛した言葉が添えてあって、一瞬、安易な「日本スゴイ」論かと警戒したのだが、よく読むと言いたいのは「宗達(だけが抜群に)スゴイ」であることが分かる。宗達は、4-500年間何人も顧みなかった、否、解することができなかった古大和絵の中から、同時にこれと骨肉の間柄である古い工芸、殊に蒔絵などの中から、自己の新しい生命を発見したのである、という。

 私の大好きな小野竹喬『沖の灯』がここに並んでいたのも嬉しかった。年配のおばさまたちが「88歳の作品ですって」「その年齢でこんな新しい表現をねえ」と頻りに感歎していた。福田平八郎も絶筆とされる『彩秋遊鷽』は79歳のときだし、奥村土牛の例もあるし、彼らの作品を見ると、まだまだ私も老け込んではいられないかな、という気持ちになる。

 第2室にあった牧進『寒庭聖雪』は、白一面の屏風に、うっすら大きな雪の結晶を浮かび上がらせ、下の方に小さなスズメと赤い実をつけた百両を並べる。この屏風の前でクリスマスディナーを食べられたら素敵だろうな。そしてこの意匠性と装飾性は、やっぱり琳派の遺伝子なのかもしれない。

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表具に仕覆に舞楽衣装/古裂賞玩(五島美術館)

2024-11-19 01:02:30 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 特別展『古裂賞玩-舶来染織がつむぐ物語』(2024年10月22日~12月1日)

 古裂愛玩といえば、まず思い浮かぶのは茶道具を包む「仕覆」だが、私はあまり関心がないので、今回の展覧会は行かなくてもいいかな、くらいに思っていた。それが、行ってみたら、展示室の壁にさまざまな墨蹟や唐絵の軸が掛けてある。え?どういうこと?と思ったら、これら書画の名品の表具に着目し、よく似た名物裂を収めた裂帖や裂手鑑が下に置いてあった。これは嬉しい。私は表具を見るのが大好きなのだ。展覧会の図録に表具の写真が載らないのを、いつも残念に思っている。

 墨蹟の表具は全体に控えめだけど、一部にキラリと華やかな布を使っていたりする。織物に型紙を当てて糊を引き、金箔・金粉を置いたものは印金というのだな。紺など地色が暗いほうが金色の模様が際立つ。伝・牧谿筆『叭々鳥図』は何度も見ているはずだが、「紺地大黒屋金襴」の天地と「白地牡丹文金襴」の中廻しの華やかさに、しみじみ見とれてしまった。MOA美術館の伝・牧谿筆『叭々鳥図』(枝に止まっている)は、同じ「紺地大黒屋金襴」を一文字に使っているみたいだった。

 本展には、書画も茶道具も、他館所蔵の名品が多数出陳されている。徳川美術館所蔵の伝・胡直夫筆『布袋図』と伝・無住子筆『朝陽図』『対月図』もその一例で、室町時代の三幅対の表装のありかたを伝えているということだった。五島美術館所蔵の『佐竹本三十六歌仙絵・清原元輔像』は近代に表装されたものだが、大柄な模様の「鳳凰蓮花文金紗」がめっぽう華やか。ちょっと歌人の元輔に合わない気もするが、所蔵者の熱烈な思い入れが伝わる。

 展示室の入口には大きな平台の展示ケースが置かれていて、東博所蔵『赤地花菱繋文金襴裲襠』(舞楽衣裳、「散手」と墨書あり)と円覚寺所蔵『縹地花卉造土文金紗座具』(敷物?)が出ていた。名物裂を集めた裂帖・裂手鑑のうち、最も大部な(木箱入り)『前田家伝来名物裂帖』は九博の所蔵だった。現存最古の名物裂手鑑と見られる『文龍』は個人蔵だった。B5版くらいの小型サイズで、貼られている裂も小さく、丸や三日月形など多様な形をしていた。

 中央列の平台ケースは、茶道具の仕覆や包み裂が多かったが、更紗がまとまって出ていたのが嬉しかった。五島美術館の更紗包み裂コレクションは大好きなのである。展示室2には、個人蔵の更紗袱紗もたくさん出ていて眼福だった。大名家に伝わった裂手鑑にも、かわいい更紗を貼っているものが散見された。忘れられないのは『鹿手更紗袱紗』。唐草模様の間に、よく見ると小さな鹿が遊んでいる。奈良のお土産物に復刻してほしい。

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明るい独裁者/全斗煥(木村幹)

2024-11-18 01:54:00 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『全斗煥:数字はラッキーセブンだ』(ミネルヴァ日本評伝選) ミネルヴァ書房 2024.9

 「あとがき」によれば、著者は2011年から5年間「全斗煥政権期のオーラルヒストリー調査」という研究プロジェクトに関わったが、2010年代後半には、まだ多くの政権関係者が生存しており、その証言や回想が揺らいでいた。しかし2021年秋に盧泰愚と全斗煥が相次いで病死したことで、著者は本書の執筆を思い立ったという。盧泰愚と全斗煥が2021年に病死したというのは、全く自分の記憶になくて、少し驚いた。両人とももっと古い時代の政治家だと思っていたので。

 全斗煥(1931-2021)は慶尚南道の貧しい農村に生まれ、陸軍士官学校に進む。学業は芳しくなかったが、スポーツを通じて同輩の人望を得、高級将校の人脈を掴み、アメリカにも留学。1961年、朴正熙が軍事クーデタで政権を掌握すると、クーデタ勢力の一員となることに成功し、権力の階段を駆け上がっていく。

 1979年10月の朴正熙暗殺事件、12月の粛軍クーデタの記述は、映画『KCIA 南山の部長たち』や『ソウルの春』を思い出しながら読んだ。映画と史実には異なる点も多いのだが、小さな史実が取り入れられている点もあって面白かった。

 さらに興味深く思ったのは、粛軍クーデタ~光州事件におけるアメリカのジレンマと、全斗煥による自己正当化の理屈である。冷戦期のアメリカは「自らの側に立つ発展途上国の権威主義政権を、その非民主主義的な性格を度外視してまで、支援してきた」(本書)。しかし、これらの権威主義政権は、現地の人々の反感を買い、民主化運動が反米運動と結びつく状況が生まれてしまう。だからアメリカは、韓国の情勢にも強い懸念を示した。全斗煥は、光州の学生運動には「北朝鮮の介入」が認められるという「極秘情報」を挙げて、その鎮圧行為を正当化した。これは、昨今、沖縄について言われる「中国の介入」と同じ理屈で暗い気持ちになった。

 そして政権樹立と新憲法制定。ちなみに本書の副題は、大統領任期を7年に定めたときの全斗煥の発言である。なお、朴正熙は、あらゆる問題について閣僚から詳細な報告を求め、具体的な指示を下す指導者だったが、全斗煥はこれと見込んだ人物を抜擢し、職務を長く任せるスタイルを好んだという。1980年、アメリカに保守派レーガン政権が誕生したことは全斗煥の追い風となる。中曽根政権の日本とも関係が改善。そうか、昭和天皇との晩餐会に出席したのも全斗煥だった。

 国内では、カラーテレビ放送が解禁され、プロスポーツが始まり、ソウル五輪誘致に成功する。全斗煥は、大衆受けの良い文化政策を行う事により、民衆の関心を政治から娯楽へと誘導し、政権への不満をそらそうとしたと本書は解説するが、日本人にとって韓国イメージが明るく親しみやすいものになっていくのは、おそらくこの時代が始まりだと思う。

 しかし再び政権批判と民主化の機運が高まり、学生運動や野党の活動が活発になる(金泳三の民主山岳会、おもしろすぎる)。全斗煥は、盟友・盧泰愚を後継者に指名し、引退後も背後から政治を操縦することを考えていたと思われるが、盧泰愚は「民主化宣言」を発表することで一気に脚光を浴び、野党勢力を抑えて大統領に当選する。国民から全斗煥政権への不満が噴出する中で、盧泰愚は全斗煥カラーの払拭に迫られ、全斗煥は盧泰愚への不信を募らせた。盧泰愚は全斗煥に海外亡命を提案したが拒否、全斗煥は江原道の山中の百潭寺でしばらく謹慎生活を送る。

 1992年の大統領選挙に勝利した金泳三は、盧泰愚を収賄容疑で逮捕、さらに粛軍クーデタと光州虐殺を罪状として全斗煥を逮捕する。無期懲役が確定したのは1997年、しかし恩赦によって自邸に戻った全斗煥は、長い晩年を過ごすことになる。この間、本格的な政治活動こそ行わなかったものの、宗教活動など様々な活動に関わったという。知らなかった。

 2000年代、ドラマ『第五共和国』で全斗煥を再発見したファンたちが全斗煥の生家を訪問するというエピソードがあった。映画『ソウルの春』は、決して全斗煥に肩入れさせない描き方をしているというが、やっぱり少し離れて眺めるこのひとには、どこか魅力がある。そして盧泰愚とはついに和解しなかったのだと知ると、あの映画に描かれた両者の親密さも、違った味わいが感じられる。

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2024深川・富岡八幡宮の酉の市

2024-11-17 19:49:55 | なごみ写真帖

今日は二の酉。「酉の市」という年中行事は、知識としては知っていたけれど、長年、身近にはなかった。それが門前仲町で暮らすようになって、富岡八幡宮に酉の市が立つことを知ってから、すっかり生活カレンダーに組み込まれたイベントになっている。

暗くなり始めた頃に行ってみたが、ちょうど日曜に当たったこともあって、私の知っている去年や一昨年より人の姿が多かった。大型の熊手がどんどん売れて、手締めが繰り返されていた。寿家、菱沼など、熊手商のテントは例年どおり。参道の入口にベビーカステラの屋台が出ていたのも同じ。

境内社の大鳥神社にもお参りしてきた。夏祭や正月と違って、人も少なく、うらぶれた雰囲気が、冬を迎えるこの季節に合っていて、私は好きだ。

今年は三の酉まである年。俗諺だけど、火事に気を付けよう。

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展覧会芸術の三兄弟/オタケ・インパクト(泉屋博古館東京)

2024-11-16 23:46:55 | 行ったもの(美術館・見仏)

泉屋博古館東京 特別展『オタケ・インパクト 越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム』(2024年10月19日~12月15日)

 尾竹越堂(おたけ えつどう 1868-1931)、竹坡(ちくは 1878-1936)、国観(こっかん 1880-1945)の三兄弟を東京で紹介する初めての展覧会。名前を聞いても全く作品の浮かばない三人だったので、怖いもの見たさみたいな関心で見に行った、三人は、明治から昭和にかけて文展(文部省美術展覧会)をはじめ、様々な展覧会で成功を収め、「展覧会の申し子」として活躍したという。

 展覧会制度の導入によって変質した日本絵画を、やや批判的に「展覧会芸術」と呼ぶことは、確か2023年の同館の展示『日本画の棲み家』で私は学んだ。しかし尾竹三兄弟は、積極的に「展覧会芸術」の枠組みに乗り込んでいったようで、豊かな色彩で精緻に描き込まれ、見栄えのする大作がたくさん並んでいた。

 最初の一周では三人の差異がよく分からなかったが、二周目は作者名をチェックすることで、それぞれの個性が少し分かった気がした。末弟・国観は、小堀鞆音に師事したというのも納得で、歴史画・人物画の名品が多い。『油断』(東近美)は、敵の来襲に慌てる武士の群像(屋敷の奥に女性たちもいる)を描く。特定の歴史的な事件を想定せずに構想したものだというが、背景の幔幕には木瓜紋。甲冑や馬具が細部までリアルで、古絵巻の画像にはない躍動感がある。『絵踏』は禁制のキリシタンを見つけるための踏絵を描く。立ち上がろうとする女性を見守る群衆の中には南蛮人や清国人(官服姿)も描かれている。この作品は、展覧会に出品されたが岡倉天心との衝突によって撤去され、所在不明となっていたもの。2022年に国観の遺族から同館に寄贈され、修復を経て公開となった。

 次兄・竹坡は作風も性格も一番エキセントリック。特に岡倉派と袂を分かったあと、大正末年(1920年代)には未来派に接近して、前衛的な日本画を生み出す。第2展示室の入口にあった『月の潤い・太陽の熱・星の冷え』3幅対は、SF小説のカバーデザインみたいで度肝を抜かれた。でも本質は川端玉章に学んだ円山四条派の写生と、やわらかな色彩にあるように思う。晩年の『梅』と『山つつじに双雉図』がとても好き。あと『ゆたかなる国土』は、福富太郎コレクション展で見たことを思い出した。

 長兄・越堂は歌川派の浮世絵を学び、売薬版画や新聞挿絵など「生活(たつき)のため」の絵画を多数手がける(弟たちも同様)。三兄弟の中では文展デビューが最も遅く、評価もあまり高くないように見えるが、私はけっこう好みだ。文展落選の『徒渡り』は波立つ広々した水面を主役に、さまざまな姿勢の人物を小さく配したもの。福田平八郎の『漣』を思い出したが、福田のほうが遅いのだな。福島県立美術館所蔵の『[失題]』は不思議な作品で、神話的な男女と2羽の青い鳥(カワセミ?)を描く。晩年の『赤達磨』『さつき頃』もよい。三兄弟と親交のあった住友春翠の仏前に捧げられたという『白衣観音図』の生真面目な宗教性も好き。

 作品の所蔵館を見ると、富山・新潟・福島・宮城など地方の美術館・博物館のほか、個人蔵が非常に多い。この展覧会を逃すと、次はなかなか見る機会がないだろうなあと思うと、後期も行ってみたくなっている。

 参考までに自分のブログを検索したら、尾竹国一(越堂)の名前は太田記念美術館の『ラスト・ウキヨエ』で出て来た。また『芸術新潮』2013年6月号の特集「夏目漱石の眼」によれば、漱石は尾竹竹坡の『天孫降臨』に対し「天孫丈あって大変幅を取っていた。出来得べくんば、浅草の花屋敷か谷中の団子坂へ降臨させたいと思った」という皮肉な美術批評を書いているらしい。『天孫降臨』は本展には出ていないが、見てみたいものだ。また、調べているうち、竹坡が目黒雅叙園の室内装飾に関わったことも分かった。今でもレストラン渡風亭には「竹坡の間」があるそうだが、10-14(17)名様用で室料24,200円か。うーん、利用の機会はなさそう。

※富山県博物館協会:尾竹竹坡の画業における目黒雅叙園室内装飾について(遠藤亮平)

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民主主義の覇権国家/アメリカ革命(上村剛)

2024-11-15 23:26:52 | 読んだもの(書籍)

〇上村剛『アメリカ革命:独立戦争から憲法制定、民主主義の拡大まで』(中公新書) 中央公論新社 2024.8

 このところ仕事が忙しくて読書レポートが書けていなかったが、11月5日の大統領選挙より前に読み終えていたものである。現実の選挙結果のインパクトが重くて、本の内容を忘れてしまいそうになったが、気を取り直して書いてみる。

 アメリカ革命とは、アメリカ合衆国の始まりを意味する。具体的には、植民地時代を前史とし、独立戦争、独立宣言(1776年)から連邦憲法制定会議を経て、帝国化と民主化が拡大する1840年代までの約70年間(その先に1860年代の南北戦争がある)を本書は記述する。

 むかし中高の授業では、イギリスからの植民者たちは、本国政府の圧政と重税に怒って立ち上がり、めでたく独立を勝ち得たというストーリーを学んだ。そんなに単純でないことにはうすうす感づいていたが、本書は、見過ごされてきた多くの複雑な視点を教えてくれる。たとえば、アメリカ大陸には、スペイン、フランス、オランダなど、イギリス以外の国々からやってきた植民者もいたこと。イギリス系の植民者にも王党派(イギリスからの独立に反対した)など、さまざまな政治的立場の人々がいたこと。さらに先住民や奴隷の存在も忘却されてきた。

 そうしたゴタゴタの状態で独立戦争に勝利したアメリカだが、戦後処理は前途多難で(領土は拡大したが、統治の仕組みが行き渡らず、歳入を得る権限も脆弱)内部崩壊の危機にあった。その唯一の解決策として期待されたのが連邦憲法の制定だった。著者によれば、政治思想史的には、立法者は一人のカリスマであるべきなのに「立法者たち、つまり多くの人間が基本法の制定に関わったにもかかわらず、それでも国家運営が軌道に乗った」ことがアメリカの面白さであるという。確かに4ヵ月に及ぶ会議での、意見の対立(北と南、大邦と小邦)、駆け引き、妥協の顚末は大変おもしろい。案がまとまったあとも、署名を拒否する委員がいたり、各邦の批准会議での論戦というドラマが続く。

 そして、ついに憲法が批准されるが、成文憲法が書かれたのは「世界においてほぼ前例のない革新的な出来事である」という指摘も重要だと思った。成文憲法のある国家って、わずか200年ちょっと前に生まれたものなのだな。アメリカ建国者たちは、引き続き憲法の運用、実践という新たな問題に立ち向かっていく。連邦憲法の主眼は、いかに野心を持った邪悪な政治家が登場しても、それを抑えられるような統治機構を確立する点にあったという(いまこの箇所を再読すると背筋が凍る思いがする)。同時に、新たな憲法体制は、初代大統領ワシントンの振舞いを先例とすることで確立された面もある。ワシントンは独立戦争で起死回生の反撃を成功させた軍事の才もあったみたいで、本書でかなり興味が湧いた。

 新生アメリカ合衆国では新聞や世論が発達し、民主政(デモクラシー)が徐々に肯定的に捉えられるようになった(建国当時は、むしろ共和政のほうが評価されていた)。一方、ワシントン政権がスタートした1789年にはフランス革命が起こり、国際情勢が国内政治の党派対立を激化させた。また、「内なる他者」先住民の排斥・隷属化には、公的主体だけでなく、利益を求める民間の商人たちも加担した。このように初期のアメリカを「帝国」として理解することは、従来の近代史理解に見直しを迫るものでもある。「実は独立後のアメリカがやっていたことはイギリスの帝国政策の再来」にすぎない、という指摘にも考えさせられた。

 最終章、1800年代前半で全く知らなかったのは1812年戦争(第二次米英戦争)。カナダには王党派のイギリ人が多く移住していたが、アメリカ軍はカナダの首都(現・トロント)に攻め込み、焼き払った。カナダ側には、カリスマ的な指導者テムカセが指揮する先住民部族の連合軍がついていたが、アメリカ側も対立する先住民の軍隊を組織した。ああ、こういう先住民部族の軍事利用って東アジアだけではないのだな。

 最終的にアメリカは欧州列強から外交的独立を果たし、内政においては、今なお世界のモデルと見做される民主政治体制を確立する。表面的には見事なサクセスストーリーだが、その影の部分を見落としてはならないだろう。

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