見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

建築物で知る台湾/台湾へ行こう!(藤田賀久)

2018-11-28 23:55:54 | 読んだもの(書籍)
〇藤田賀久『台湾へ行こう!:見えてくる日本と見えなかった台湾』(スタディーツアーガイド 1) えにし書房 2018.10

 今年も年末に台湾へ行く計画を立てている。2泊3日のショートツアーだから、見られるものは限られているのだが、そろそろガイドブックでも買おうと思っていて、この本を見つけた。豊富なカラー写真と、一般の観光ガイドでは見たことのない珍しい建物・史跡の数々が気になって購入を決めた。

 実際に読んでみたら、冒頭に「台湾の至る所に残る『過去の日本』に気づけば、日本と台湾の深い結びつきに足を止めたくなります」という一節がある。私は、過去の日本と台湾の深い結びつきを見つけることが、いつも嬉しく懐かしいとは思わない。時には胸の痛みを感じさせるものもある。それから台湾の魅力も、日本との結びつきが全てだとは思わない。基本は中華文化圏だし、原住民文化もあるし、南島文化圏の一部とも捉えられるし、台湾にはいろいろな顔がある。そのように理解した上で、台湾に残る「日本の痕跡」に私は興味を持つ。

 本書は、台北・台中・台南・嘉義・高雄に金門島まで、台湾全土にわたって、日本統治時代と関係する建築物を紹介する。現在の中華民国総統府が旧・台湾総督府であるなど、台北の官庁街に日本統治時代の建築物が集まっているのはよく知られたところ。全く知らなかったのは、たとえば国立中正紀念堂の裏手から大安森林公園までのエリアに、和風建築が多く残っていること。リノベートされた和風レストランや和風喫茶店もあるそうだ。ほかにも西門街の近くには、西本願寺派台湾別院があった場所に日本風の鐘楼が再建されているとか、MRT剣潭駅の近くに圓山水神社の碑と石灯籠が残っているとか、興味深い。

 もっとすごいのは桃園神社で、台湾で唯一社殿が残っている。写真を見ると、日本のどこかの風景にしか見えない。「台湾に残る神社の足跡」には、九份の金瓜石黄金神社(行っていない)や台南の林百貨店の屋上にある末廣社(ここは行った)などが紹介されている。まあしかし、旧統治時代の神社については、荒廃するにせよ復元されるにせよ、現地の人たちに任せてそっとしておくのがいいんじゃないかと思う。

 なお本書には、日本統治とあまり関係のない建築物も混じって紹介されている。台北でいえば、清代の街並みである剥皮寮(ポーピーリャオ)。まあ台湾全土が日本統治時代を経験しているので、この剥皮寮も日本統治とまるで無関係とは言えないのであるが。台南の鄭成功祖廟や安平のゼーランディア城、高雄の鳳山旧城の説明も詳しい。近代の史跡では、桃園に蒋介石・経国父子の眠る両蒋文化園区がある。かつては台湾中に蒋介石像が建てられていたが、次第に嫌われるようになった彫像が各地から集められ、現在219体が展示されているという。これ、木下直之先生はご存じだろうか? ぜひルポを書いてもらいたい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仁政の回復を求めて/百姓一揆(若尾政希)

2018-11-26 23:29:46 | 読んだもの(書籍)

〇若尾政希『百姓一揆』(岩波新書) 岩波書店 2018.11

 百姓一揆の歴史像は、研究の進展によって大きく転換した。かつて日本近世といえば、領主権力の専制的・集権的な性格が強調され、抑圧された民衆の憤懣が積み重なって一揆が勃発すると考えられていた。多くの研究者が、百姓一揆を研究すれば、歴史の中で革命を希求してきた変革主体としての「人民」に会えるという思いを持っていた。しかし、近世社会の常識的イメージは、1970年代半ばから80年代にかけて徐々に変わっていった。私はまさにこの時代に学校教育を受けた世代だが、高校で日本史を取らなかったこともあって、幸か不幸か「人民闘争史観」の影響をあまり受けなかった。『カムイ伝』は好きだったけど、あれは完全にフィクションとして読んでいた。

 現在では、「領主は百姓が生存できるように仁政を施し、百姓はそれに応えて年貢を皆済すべき」という相互的な関係意識があったという「仁政イデオロギー論」が支持されている。一揆とは、生存を脅かされた百姓が仁政の回復を求める行動であって、体制の打倒を目指すものではない。まあ、それはそうだろうという穏当な結論で、これが大転換だったというのが不思議なくらいだ。

 1970年半ば以降の百姓一揆研究で解明されたことはいろいろある。たとえば「百姓一揆とは何か」ということが実は自明でないこと。日本近世においては、天草・島原一揆を最後に「一揆」という文言が使われていないのである。「竹槍蓆旗」はつくられたイメージであること。得物は農具や棒が多く、鉄砲を携えることもあったが、合図のためであって殺傷に使われることはなかったことなど、細部の研究がとても面白い。

 著者は百姓一揆の訴状が寺子屋での手習いの教材(目安往来物)として流通していたことに注目する。中世の一揆は、神仏に誓って結束した集団が実力を用いて世俗権力に抵抗した。近世の一揆はこれと異なり、まず訴訟・訴願によって紛争の解決を求める行為だった。

 さらに著者は百姓一揆の記録(物語性の強いものは「百姓一揆物語」と呼ばれる)を読んでいく。プロットはだいたい共通していて、凶作と厳しい年貢の取り立てに苦しむ百姓たちが一揆を企てる。その原因は、邪悪な代官・大庄屋等が介在したためで、領主はこれを取り除き、仁政を回復させる。これは「君側の奸」という構図ではないか。日本人は、お殿様は何も悪くありませんでした、という物語がよほど好きなんだなあ。しかしそれでも、生存が脅かされたときは訴え出てよい、武器を持って意思表示してよい、と考えている点で、現代日本人よりましかもしれない。

 また百姓一揆物語は『太平記』をはじめとする軍書(軍記物語)の影響を大きく受けている。著者は、一揆物語の著者にとっても読者にとっても軍書が身近な存在だったから、と解説しているが、軍書はすなわち史書そのものであり、歴史記述に倣って当代の出来事を記述したのではないかと思う。

 『太平記』には『太平記評判秘伝理尽鈔』という注釈書があって、はじめ大名たちに広まり、のちには民衆にも影響を与えた。『理尽鈔』は、民に仁政の施すことは領主の責務であり、それは「天道」からの要請だと説く。仁政によって諸人の貧苦を救い、百姓に支持された理想の治者が楠木正成であった。え?『太平記』(むかし読んだ)の正成って、そんな人物像だったかしら。ともかく後世になると、この理想的治者論が、領主層だけでなく村落指導者層に広がり、さらに修身・斉家、自己形成論に応用されていく。

 正成を介して成立した名君像は、次に正成を離れて、あるべき指導者像として自立していく。たとえば徳川吉宗。18世紀半ばは、名君が必要とされた時代であり、一揆物語の結末が、必ず仁政の回復という「めでたしめでたし」で終わることと表裏の関係にあるという指摘も面白かった。仁政というか、秩序の回復で終わるというのは、多くの浄瑠璃や歌舞伎狂言にも共通する性格だと思う。

 18世紀半ば頃から、百姓を主人公とした新しいタイプの一揆物語がつくられ始める。『佐倉義民伝』(歌舞伎・読み物)が惣五郎ブームを引き起こし、日本各地で「義民」の顕彰が盛んになる。一方で、19世紀になると「悪党」どもが一揆を主導し、打ちこわしなど、無法で暴力的な騒動も多くなる。この近世的世界の終焉ともいうべき、「義民」と「悪党」の活動は、もう少し詳しく論じてほしかった。

 百姓一揆物語と『太平記』の関係など史料読みにかかわる考察が多く、タイトルから想像するよりもブッキッシュな内容であることは、好みが分かれるところだと思う。それから、2000年に国立歴史民俗博物館で開催された企画展『地鳴り山鳴り:民衆のたたかい300年』に触れた記述がある。この印象的なタイトルは記憶に残っているが、見には行っていない。見ても分からなかったかなあ、と思いながら少し残念。やっぱり展覧会は一期一会だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018深川・富岡八幡宮の酉の市

2018-11-25 20:33:51 | なごみ写真帖
東京の酉の市と言えば、新宿の花園神社や浅草の鷲神社が有名だが、近所の富岡八幡宮にも市が立つ。去年は平日で行けなかったが、今年は三の酉が日曜に当たったので、はじめて行ってみた。

参道には熊手を売るお店が5、6軒。あとベビーカステラとわたあめの屋台を見たけど、ふだんの縁日のほうがずっとにぎやか。







でも、熊手を買った人にはちゃんと「お手を拝借」の手締めをしてくれるし、襟を抜いた着物姿のお姐さんも歩いていて、のんびりした中に江戸の風情が感じられた。

気が早いけど、来年もいい年になりますように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018年11月@関西:櫟野寺ご本尊大開帳など

2018-11-24 23:37:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇油日神社~福生山 櫟野寺(甲賀市甲賀町)秘仏本尊十一面観世音菩薩大開帳(2018年10月6日~12月9日)

 櫟野寺(らくやじ)のご本尊大開帳に行ってきた。33年に一度の大開帳に合わせて、2016年6月から本堂と文化財収蔵庫(宝物殿)の改修も行われた。その間、2016年の秋から冬にかけて東京国立博物館で特別展『平安の秘仏-滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち』が開催されたのは記憶に新しいところである。

 大開帳は33年に一度であるが、実は秘仏十一面観音のお厨子が開いたことは何度かあって、私は2004年に拝観に来たことがある。今から14年前だ。そのときは油日駅から40分ほど歩いたが、今回は大開帳期間に合わせて臨時バスが運行されているので、甲賀駅前9:56発のバスを利用することにした。



 祝日ということもあって車内はほぼ満席。10分ほどで櫟野寺に到着するのだが、1つ手前の油日神社で下りる。前回、櫟野寺を訪ねたときに立ち寄った神社で、記憶に残っていたので、再び寄ってみようと思ったのだ。私のほかにも数名が下車した。



 ホームページの由緒書によれば、ご祭神・油日大神の名前は記紀に見えないという。かえって古い信仰を残していて、尊いことに思われる。廻廊が取り付く中世の神社建築の形式を残す。拝殿には三十六歌仙の額。これは記憶になかった。



 楼門の裏側に積み上げられていた油缶。灯油缶かと思ったが「ごま油」「サラダオイル」の文字が見える。レトロなデザインのものが多かった。



 なお、ホームページの情報によれば、映画・ドラマのロケ地としてずいぶん使われているようである。大河ドラマ『平清盛』や朝ドラ『ごちそうさん』などでも使われた由。どの場面だろう? 神社に隣接する甲賀歴史民俗資料館の情報もホームページにある。白洲正子の著書『かくれ里』に登場する福太夫の面とずずい子人形、国友の鉄砲など、面白いものを見ることができた。管理人の方に「ここは新しいんですか?」と聞いたら「昭和55年からやっています」というお答えだったので、前回、私が来たときもあったのだろう。ただ、必ず毎日開館している施設ではないそうである。

 油日神社を後にして、田園風景を見ながら櫟野寺へ向かう。人家が途切れ、歩いている人の姿も見えないが、しきりに車が通るのでそんなに寂しくない。10分ほど歩くと、突然、山の中に人家の密集した集落が現れる。14年前、この風景に驚いたことは今でもよく覚えている。国旗と仏旗(六色仏旗)の翻っているところが目指す櫟野寺である。



 櫟野川に架かる観音橋を渡る。橋の左手は駐車場で、背中に法輪をつけた法被姿の人たちが交通整理をしている。油日神社の資料館の方が「朝から駐車場がいっぱいらしいですよ」と噂していたとおりだ。参道の入口にも華やかな仮設ゲート。



 本堂前のテントで拝観券を購入する。大きなにゃんこが椅子の上に座っていた。飼い猫ではなく近所の猫だそうだ。本堂の石段を上がり、中には入らず、赤い手すりのついた縁側をまわって、本堂の裏に続く宝物殿に入る。



 宝物殿の正面には、いきなり巨大な厨子があって、秘仏本尊・十一面観音さまがおいでになる。東博では厨子を出たかたちで展示されていたので、受ける印象が少し違う。厨子の直線に仕切られた感じも嫌いじゃない。ただ、頭上の十一面をはっきり見ることができたのは東博限りだったのだなあとあらためて思う。

 お厨子のまわりには、ご本尊以外の仏像が21体。この中には、ずっと東博に寄託されていた吉祥天立像も含まれる。東博の櫟野寺展で「奇跡の再会」を果たしたと思ったら、この大開帳のため、故郷にお戻りになっていたのだ。よかった。えっと大好きな毘沙門天像は?と探したら、あとのほう(厨子の右後方)にいらした。足もとの左右に小さな狛犬が座っていて可愛かった。あと白象もいた。宝物殿には若いお坊さんが待機していて、15分に1回くらい、ご本尊の像容を中心とした解説を繰り返してくれていた。

 櫟野寺に着いたのは10時半過ぎだったので、サッと拝観すれば11:25のバスに乗れるか?と思っていたが、周囲の混雑ぶりを見て諦めた。納経所にも長い列ができていた。ただ、待っている間、東博の特別展に向けて諸仏を搬出したときの記録映像が流れていたので飽きなかった。納経所では二人の女性がご朱印を書いていたが、だんだん列が長くなってきたので、黄色い衣を来たお坊さんも助けに入り、私はお坊さんに書いていただいた。

 次の12:25のバスまで少し時間があったので、奥書院の庭を拝見し、イベント広場の物販を覗き、すでにこのご開帳に来た友人に聞いていた近所の阿弥陀寺にも行ってみた。やはり平安時代の古仏を有するという話だったが、住職がいらっしゃる時だけ拝観が可能なお寺で、この日は人の姿がなかった。再訪を期したい。



 写真は臨時バスの記念乗車券(と櫟野寺境内案内図)である。「18→51」は今回の大開帳2018年と次回33年後の2051年を表す数字だ。ううむ、2051年はさすがに難しいだろう。中開帳あるよねえ。

 京都に戻り、慌ただしく三十三間堂(蓮華王院)に寄った。現在、博物館などに貸し出されていた千手観音像が里帰りし、26年ぶりに1001体が全て揃った状態であると、これも友人から聞いていたためである。また堂内には高さ1.2メートルの「秋雲壇」が設けられているともいう。壇は、中尊の左手(奥)に進んだところに2間ほどの長さで設置されていた。これに上がると、いちばん奥の列の観音さままで、はっきり顔が見える。見たことのない光景でとても面白かった。これ、ときどきやってほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018年11月@関西:和歌山県立博物館、近代美術館

2018-11-23 23:33:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

和歌山県立博物館 西行法師生誕900年記念 特別展『西行-紀州に生まれ、紀州をめぐる-』(2018年10月13日~11月25日)

 今年の特別休暇があと1日余っていたので、なんとか木曜に休みを取って、1泊2日でまた関西に行ってきた。この秋、どうしても行きたかった2箇所。1日目はまっすぐ和歌山へ。平安時代の歌人西行法師を特集する特別展を見る。受付で「今日(11/22)は和歌山県ふるさと誕生日なので入館無料です」と言われる。確か去年も「関西文化の日」で無料だった。1年に1回しか来ないのに申し訳ない感じ。

 冒頭には、西行入寂の地と伝える大阪・広川寺が所蔵する木造の西行坐像。老齢にもかかわらず、頸も太く肉厚で頑健な肉体の持ち主につくられていて、歌人のイメージからは遠いが、かえってこんな人物だったかも知れないと思わせる。はじめに書や和歌、同時代の記録や伝説から西行の事蹟をたどる。ちょっと面白かったのは『蹴鞠口伝集』という書物に西行の名前が見られること。弓馬の故実に詳しかったのは知っていたが、蹴鞠にも精通していたのか。西行をとりまく人々として、京都・安楽寿院所蔵の『鳥羽法皇像』『美福門院像』に加え、白峯神宮所蔵の『崇徳上皇像』も出ていて興味深かった。この崇徳院は太りじしで茶色い衣に埋もれている。法金剛院蔵の『待賢門院像』は残念ながらパネル写真のみだった。

 西行、俗名・佐藤義清(1118-1190)を生んだ佐藤氏は、紀伊国那賀郡に経済的基盤を持ち、義清の弟・仲清は、摂関家が所有する田中荘という荘園の預所(現地の代官)をつとめていた。ということで、田中荘(和歌山県紀の川市)に関する文書、絵地図、有力寺院に伝わる仏画や仏像が示される。へえ、全然知らなかった。図録のコラムに「西行自身は、自らの故郷について一切語るところがない」という一文があるように、私は西行の和歌は多少読んでいるが、紀伊国とのつながりは全く考えたことがなかった。

 さらに西行が、出家後、約30年にわたって高野山に草庵を結んでいたというのも知らなかった。吉野や熊野へは高野山を拠点にめぐっていたのか。「現在、高野山上には西行桜と呼ばれる桜が三昧堂の前に植えられている」というのにもびっくり。桜の季節の高野山には行ったことがないので見落としていた。西行は、金剛峯寺方と大伝法院方の融和を図るべく、蓮華乗院(大会堂)を壇上に移し長日談義を始め、三昧堂建立の奉行をつとめたという。「大伝法院」といえば、覚鑁上人を筆頭とする勢力である。覚鑁は鳥羽上皇の庇護を受けていた。いろんな知識がつながって興味深い。天野社にも西行堂があるんだな。一度行ってみなくては。

 そのほか、紀州を離れて西行が訪ねた地といえば、まず讃岐。白峯寺と崇徳院廟、なつかしいなあ。ここでも白峯寺所蔵の『歌仙切 崇徳上皇像』が出ていた。細面の神経質そうな崇徳院を描いた小幅。伊勢でもしばらく暮らしたことがあって、二見安養寺に滞在したと考えられている。その安養寺跡からは、平安時代から鎌倉時代後半にかけての遺構が見つかっており、土器片、絵を描いた木片、下駄、しゃもじ、箸など生活用品が出土しているのが面白かった。それと当時の地図を見で、今よりずっと五十鈴川の存在感が大きい(海に続いている)ことが分かった。

 のちの時代には、伝説化した西行物語が、絵巻、絵画、芸能などを通じて享受された。特に絵巻は、今治市河野美術館所蔵の着色本(江戸時代)、サントリー美術館所蔵の白描本など、珍しいものを見ることができて満足。また、江戸時代につくられたり描かれたりした西行像には、笠を携え、風呂敷包みを背負った(両肩よりもかなり下の位置で背中にまわす)旅姿のものがある。そして、この旅姿の西行像の小さな塑像(立像・坐像あり。首が取れているものも)が10体余りも並んでいると思ったら、東大本郷キャンパスの構内遺跡で発掘されたものだという。へええ、知らなかったが、「西行人形」で画像検索すると、今でも伏見人形にあるらしい。ちょっとほしい。西行入寂の地・弘川寺も一度行ってみたい。やっぱり桜の季節がいいだろうなあ。

和歌山県立近代美術館 創立100周年記念 特別展『国画創作協会の全貌展 生ルヽモノハ藝術ナリ』(2018年11月3日~12月16日)

 お隣りの近代美術館もこの日は入館無料。ダブルで申し訳ない。1918(大正7)年に野長瀬晩花、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰という5人の日本画家が国画創作協会を創立して100年を迎えることを記念する特別展。なんと1993年に京都国立近代美術館が開催した『国画創作協会回顧展』の開催趣旨をネットで読むことができ、その解説に詳しいが、文部省美術展覧会(文展)のありかたに疑問を持った若手の画家たちが、新しい日本画の創造を目指して結成したものである。1918(大正7)年の第1回展から、中断を挟んで1928(昭和3)年まで7回の展覧会を開いたが、会員間の確執等あって活動を停止した。

 私の憶測かもしれないが「大正らしさ」を感じる作品が多かった。明るい色とかたち、自由でのびやかで、少し軽佻浮薄な雰囲気。小野竹喬の初期の作品は、色彩が明快すぎて銭湯のペンキ絵みたいだと思ったが、よい感じに枯れていく。土田麦僊は『大原女』(三人が座っているもの、京都近代美術館)の完成品と大下絵(完成品と同サイズ)を見比べることができて興味深かった。明るい色彩の下に隠された確かな形態の把握がよく分かった。『舞妓林泉』もすてき。

 野長瀬晩花は和歌山県田辺市生まれの画家。よく知らなかったけど、大作『初夏の流』が気に入った。大正らしいなあと思って眺める。今年6月に千葉市美術館で見たばかりの岡本神草『口紅』が出ていたのには驚いた。こんなに早く再会するとは。そして、同じ展覧会で見た甲斐庄楠音や梶原緋佐子の作品に出会えたのも嬉しかった。甲斐庄楠音は、気味の悪い絵を描く画家だと思っていたが、『母』『娘子』は全然そうではなかった。入江波光の『彼岸』もどこかで見たことをすぐに思い出した。京都市美術館の開館80周年記念展であるようだ。やはり京都市美や京都近美からの出品が多く、関東人にはなかなか見る機会がない作品を、まとめて見ることができてよかった。

 この日は大阪に出て江坂泊。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銭不足の中世/撰銭(えりぜに)とビタ一文の戦国史(高木久史)

2018-11-20 23:30:32 | 読んだもの(書籍)
〇高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(中世から近世へ) 平凡社 2018.8

 『貨幣が語るローマ帝国史』を読み終えたところで、引き続き貨幣の歴史を読む。「はじめに」にいう。本書は、銭を主人公とし、銭が英雄たちをどう振り回したのか、英雄たちが動かした歴史ではなく、英雄たちを動かした現実にアプローチする。最後まで読み終えて再びこのページに戻ると、納得できて味わい深い宣言である。

 なお、銭(ぜに)とは金属製の、円形で中央に方孔のある塊をいう。銭の貨幣単位は「文(もん)」で、金貨銀貨に比べて少額の貨幣であるから、銭の流通具合を見ることで、庶民経済の発展を知ることができる。

 日本では13世紀後半から14世紀にかけて銭が不足したため、民間で中国の銭が模造されるようになった。これを「偽造」と表現するのは適切でない。政府による供給が十分でない場合、民間が不足する交換手段を自律的につくりだすことは、しばしば起きる現象である。15世紀から16世紀、室町時代の盛期から戦国時代にかけても模造銭は造られ続けた。15世紀には日本独自の貨幣、無文銭も登場する。日本では錫が取れず、錫が少なく銅が多い銭は文字がはっきり出にくいのだという。ただし無文銭は特定の地域内の売買でのみ用いられ、中央政府や地方政府は、おおむねその使用を禁じた。

 教科書には、足利義満が明と国交を樹立し、銭を輸入したと記述されているが、室町幕府が輸入した銭の量は大きくない。実は日本は琉球へ銭を輸出し、それが中国へ再輸出されることもあったらしい。これはびっくり! そして、日本国内では、銭の不足を補う手段として、100文未満の銭の束を100文として扱う省陌(せいはく)、割符(さいふ)や祠堂銭預状(しどうせんあずかりじょう)など一種の紙幣、掛取引、信用取引などが行われた。

 15世紀後半から16世紀になると、1枚1文という銭の等価値使用原則に反する現象が目立つようになる。一つは撰銭(えりぜに)で、15世紀後半になると銭種による撰銭が頻発した。新しい銭より古い銭が好まれたことは、理由を聞くと納得がいく。しかし明の洪武通宝は九州で好まれたとか、永楽通宝は九州と関東では好まれたが機内では嫌われたなど、よく分からない地域差があるのは面白い。二つ目は「銭の階層化」で、1枚1文の基準銭に対し、1枚1文未満の減価銭が通用するようになった。なお、ある地域の基準銭が、別の地域では減価銭として扱われることもあった。そのため京都では銭そのものを売買する市場も成立した。目を白黒するような話で、中世における「銭」が、現代の貨幣とはかなり異質だったことが分かる。

 中央および地方政府の為政者たちは、まず撰銭に対しては、これを規制し、「悪銭」の使用を禁じたり、非基準銭を一定の割合まで混ぜることを許容した組成主義を適用したりした。これらは食糧の売買において、買い手(銭の所有者)の購買力を保護することを目的とした施策である。

 次に「銭の階層化」に対しては、この慣行に乗って財政を運営せざるを得なかった。ここから、信長、秀吉、家康というおなじみの戦国の覇者が登場する。信長は銭の不足に直面した結果、基準銭と各種減価銭の換算比を公示して、基準銭以外も積極的に流通させることにした。一方、米を交換手段として用いることを禁じ、食糧としての米を確保した。これらは特に信長の独創ではなく、現実を受け入れ、慣行に乗ったものだという。そして信長が羽柴秀長の名で発した法によって「ビタ建て」が登場する。ビタとは、従来の基準銭以外を指したらしいが、次第に価値が上がって基準銭になっていく。

 秀吉は無文銭の使用を禁じたが、それ以外の狭義のビタを基準銭とする路線を受け継いだ。家康は「慶長貨幣法」によって、金貨・銀貨・銭の比価を定め、基準銭であるビタの範囲を定義した。それでも現実の取引では、ビタを上銭・中銭・下銭に階層化する慣行が根強く残ったという。そんな中で、彦根藩ではビタを全て等価とする江戸幕府法に準拠して会計を処理していたという小さな余談には、さすが井伊家!と微笑んでしまった。

 17世紀初め、徳川家光は1枚1文の寛永通宝を発行する。17世紀は東アジアの各国が、それぞれ独自の銭を発行するようになった時代である。寛永通宝が流通するようになると、ビタは市場から姿を消し、銭における長い中世に終わりが訪れた。

 以上に摘記しなかった点にも、興味深い記述が多数あり、今後、博物館などで日本の銭を見るときの参考になると思う。中世の銭を知ることによって、現在の貨幣のありかた(等価値使用原則とか、国家ごとに貨幣があるとか)が、実は今の時代に限定的なものだということを教えられた。同時に、電子マネーとかユーロのような統合通貨とか、未来の貨幣がどう変わっていっても不思議ではないと感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇帝の肖像はなぜ描かれたか/貨幣が語るローマ帝国史(比佐篤)

2018-11-18 21:56:28 | 読んだもの(書籍)
〇比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史:権力と図像の千年』(中公新書) 中央公論新社 2018.9

 ローマ帝国については高校の世界史程度の知識しかないのだが、このように具体的なモノから入る歴史記述なら私にも読めるかもしれないと思って読み始めた。新書にしては図版が豊富なのも気に入った。

 ローマ帝国の貨幣といえば表面に皇帝の肖像が描かれたものを想像する。全ての貨幣がそうだったのかはよく知らないが、世界史の資料集などに「〇〇皇帝」の肖像として貨幣の図像が掲載されていたことを記憶している。為政者の肖像を描くか否かは前近代における日本と西洋のお金の大きな違いである。と著者は述べているが、むしろ「東アジアと西洋の違い」と言いたいところだ。

 ローマ人が自ら貨幣を造り始めたのは前3世紀で、ギリシア貨幣の伝統を受け継ぎつつ、独自性を発揮していく。戦争に関わる図像が多いのはそのひとつ。絶え間ない戦争によって勢力を拡大したローマ人は戦争での勝利を何よりも重んじたためだという。また、前2世紀前半から、下級役人である造幣者(造幣三人委員)の名前を記した貨幣や、造幣者の家系や祖先の功績を図像で示す貨幣が現れる。ただし自分自身を称えるような貨幣は出現しない。

 前2世紀(共和政期)のローマ社会は、単独統治者、つまり独裁者の登場を登場を強く恐れた。市民集会が行われるローマ中心部の広場から、許可なく建てられた人物像が撤去されたほどである。したがって、貨幣に自己の肖像を描出することも独裁への意欲ありと見なされ、不人気につながることから忌避されたと考えられる。英雄神や、すでに亡くなった祖先は独裁者になる心配がないので許容された(しかし祖先の肖像は駄目)。へええ、共和政時代のローマ人って面白い。

 だが、前1世紀には貨幣を通じた自己宣伝が激しくなり、ついにカエサルのライバルであったポンペイウスの功績(ヒスパニアの反乱鎮圧)を描いた貨幣が鋳造される。この背景には、ポンペイウスが、指揮官と個人的に結びついた志願兵の軍団を率いたことがある。志願兵である市民たち、あるいは公職者たちも、実力者の庇護の下に入るため、強者を顕彰する貨幣が造られ始める。続いてポンペイウスの肖像を描く貨幣が現れ(ただし死後)、ついに存命中に貨幣に肖像を描出された人物が現れる。カエサルである(前44年頃)。これはカエサルの意思というより、カエサルの庇護を願う下位の人々がおこなった一種の追従だった。意外なようで、よく考えると納得がいく。

 カエサルの死後も、オクタウィアヌス(アウグストゥス)、カリグラ、ネロなど皇帝の肖像を描出した貨幣が造り続けられた。表面には皇帝の肖像、裏面にはいずれかの神を描いた貨幣が一般的となる。造幣者の名前は貨幣から消えていく。細かく見ていくと、前帝の姿によって帝位継承の正当性をアピールしたり、自分の後継者をアピールしたり、いろいろな意図が読み取れて面白い。

 なお余談だが、ローマ皇帝「家」は、帝国財政の大半を私的な財産によって担っていた。もちろん皇帝直轄州やいくつもの農地・鉱山・工場から得られる収入も莫大だったが、市民への富の配分(え?)、神殿への供物、首都の建築物の建造と修復、ローマ軍・警備隊・消防隊への給与支払いなど、支出も膨大だった。うーん、いったい統治機構がどうなっていたのか、非常に興味が湧いてきた。たとえば中国のような東洋の帝国とどのように違うのか。

 次にローマ属州のバラエティに富んだ貨幣を見ていく。ヘレニズム時代(前323-前30)、地中海世界の諸都市は、臨機応変に諸王国の権威を利用していた。やがてローマがヘレニズム諸王国を滅ぼすと、諸都市はローマの「権威」に服するようになる。しかしローマは「小さな政府」を国是とし、問題が起きない限り各都市の自治を認めた。そのため、都市ごとに貨幣、特に市民の日常生活に必要な銅貨の鋳造が続けられた。ただし3世紀末には、ローマ帝国の行政改革、公職者の増員が行われ、属州に対する介入が強まり、属州諸都市が独自に貨幣を発行することは認められなくなる。

 最終章はキリスト教と貨幣について。4世紀初めにキリスト教が公認されると、キリスト教に関わる図像がローマの貨幣に登場する。キリスト教は普遍的な単一神を信仰するという点で、ギリシアやローマの土着的な多神教とは異質である。ただし、キリスト教以前に一神教がなかったわけではない。エジプトに出自を持つセラピス神は、ギリシアの神々がローマ土着の神々に置き換えられたのと異なり、セラピス神のまま、各地で各民族に信仰された。普遍的な単一神という点で、かなりキリスト教に似ている。この章は貨幣の図像を材料に、もっぱら古代地中海世界の信仰について語っており、初めて知ることが多くて示唆的だった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018年11月@関西:大津市歴史博物館

2018-11-17 22:59:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
大津市歴史博物館 湖都大津十社寺・湖信会設立60周年記念・日本遺産登録記念企画展(第77回企画展)『神仏のかたち-湖都大津の仏像と神像-』(2018年10月13日~11月25日)

 昭和33年(1958)に大津市内の観光社寺により発足した湖信会(※ホームページあり)の設立60年と、平成27年(2015)に「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産-」が文化庁の「日本遺産」に認定されたことを記念する企画展。仏像・神像・書画など約50点が展示されている。

 全国の仏像ファンが誰でも知っているような、国宝級のスター仏はいないのだが、地域に根付いた多様な信仰のありかたが窺える、面白い展覧会だった。展示キャプションが非常に詳しく、仏像の形態的な特徴のどこを見れば何が分かるかが、非常に勉強になる。明らかに仏像ファンに向けて書いてくれていると思う。思わずメモしてしまったのは「(立像の)裙(くん)を引きずる表現は13世紀前半から」「裙のあわせめが背面に来るのは快慶工房のくせ」「(体の前で)U字にかかる天衣が膝下にあるのは平安後期以降」「装飾的な臂釧(ひせん、腕輪)は10世紀によくみられる」など。そこに注目すると時代が分かるのかーというのが興味深かった。できるだけメモしてきたが、どうやら全て図録に収録されてるので、これからじっくり読もうと思う。

 展示には、1年に1日しか公開されない安楽寺の薬師如来坐像(平安時代)、12年に一度、数日しか公開されない法楽寺の薬師如来坐像(平安時代)、西教寺客殿の薬師如来坐像(白河天皇が建立した法勝寺から移されたもの)などの「秘仏」も含まれる。もちろん初めて拝見した。

 「これは見たことがある」と確実に分かったのは、園城寺(三井寺)の訶梨帝母倚像。しかし、訶梨帝母の子供のひとりと思われる愛子像は知らなかった。「お母さ~ん!もっとかまってくださいよ」というキャプション見出しに笑った。ちなみに、楽しいキャプション見出しも全て図録に収録。延暦寺の維摩居士坐像(西域人っぽい)は、先日『至宝展』で見られなかったもので嬉しかった。それから、京都八瀬・妙傳寺の弥勒菩薩半跏像がいらしていた。しれっと「朝鮮三国時代」と紹介されていたが、泉屋博古館で見た『仏教美術の名宝』展によれば、もとは江戸時代の仏像と思われていたものである。

 延暦寺の不動明王立像と四明王像(鎌倉時代)は、ソツなく整った造形。同じく延暦寺の四天王立像は「現在は国宝殿に安置」とあったので『至宝展』で見たものかなあ、と首をひねったが、違うみたい。安楽寺の四天王立像は、素朴な造形で親しみやすい表情。「よろいがぱっつぱつなのは、10世紀頃の流行です」という解説に笑った。確かにぱっつぱつで動きにくそうな四天王像っているなあ。

 仏画も非常によいものが出ていたことは特筆しておきたい。立木山安養寺の『仏涅槃図』(室町時代)は多くの弟子・動物が精緻に描かれている。隅のほうに白黒ぶちの猫もいる。新知恩院の『阿弥陀二十五菩薩来迎図』(鎌倉時代)は、体をくねらせてノリノリで踊る菩薩たちが楽しい。心なしか往生者(武士)も嬉しそう。石山寺の『文殊菩薩像』(南北時代)は、劣化のせいもあるが金身の文殊菩薩があやしい。延暦寺の『普賢延命菩薩像』(南北朝時代)も金身・二十臂の普賢菩薩で、不思議な色彩感覚の仏画。石山寺の『愛染明王像』は赤と金を基調に、力ある者を豪奢に描いたストレートな迫力が、鎌倉時代らしさを感じさせる。神像は建部大社の女神像をはじめ10点ほど。全体に怖いのだが、表情のあるものもあった。

 併設の大津市制120周年記念企画展(第76回企画展)『60年前の大津』(2018年10月2日~11月25日)も駆け足で参観した。大津市には縁もゆかりもないのだが、何度も来ているので、写真に残る風景が懐かしい。特に琵琶湖文化館の屋上のトンボが光を放っている光景には驚いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大寺ミュージアムのカフェ

2018-11-16 23:50:50 | 食べたもの(銘菓・名産)
東大寺ミュージアムにあるカフェ「茶廊・葉風泰夢(ハーフタイム)」。葉風泰夢といえば、新大宮の同名のホテルの1階にあり、奈良国立博物館の地下回廊にも出店していて、奈良のリピーターにはなじみ深いお店。東大寺ミュージアムのカフェも系列店であることは、先日、初めて気づいた。



写真の和菓子・青蓮(せいれん)は、蓮根をつかったモチモチした皮で北海道産小豆の皮むき餡を包んだもの。2つセットで多いかな?と思ったけど、上品な甘さでつるりとお腹に入る。3つでも4つでもいけそう。

生菓子なので日持ちしないかと思ったら、数日は大丈夫そうなので、次回はお土産に買って帰りたい。

「東」の茶器もいいねえ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018年11月@関西:西福寺、泉屋博古館

2018-11-15 23:02:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
■桂光山敬信院 西福寺(京都市東山区)

 この週末は、ちょうど「京都非公開文化財特別公開事業」の期間だったので、1箇所くらい寄ってみようと思っていた。あまり目新しい公開寺院がない中で「初公開」(この事業では)の西福寺という名前に目が留まった。拝観したことはないはずだが、なんとなく名前に覚えがある。地図をたよりに訪ねてみて、ここか~と思い当たった。



 東大路通から松原通を西に進んで六波羅蜜寺を目指すと、たどりつくお寺なのだ。写真の左端の白い壁の先が六波羅蜜寺である。六波羅蜜寺には何度も参拝しているので、当然、この風景は何度も見ている。しかし西福寺に参拝したことは一度もなかった。卍印のちょうちんが下がった門を入ると、子育て地蔵尊のお堂があり、その右奥に本堂がある。拝観料を払って玄関に上がると、三間続きで、手前の座敷には江戸後期の『洛中洛外図屏風』(六曲一双、東山を描く一隻のみ展示)。かなり高い視点からの「鳥瞰図」なのが新しい。たぶん京都文化博物館の『京(みやこ)を描く』展で見たなあと思い出す。

 次の座敷は仏間。ご本尊は落ち着いた感じの阿弥陀如来坐像だったが、遠くてよく見えなかった。奥の座敷には、海北友松の『布袋図』などを展示。檀林皇后ゆかりの『九相図』は江戸ものらしい。江戸時代に刊行された世界地図『南瞻部洲万国掌菓之図』も面白かった。

泉屋博古館 特別展『フルーツ&ベジタブルズ-東アジア 蔬果図の系譜』(2018年11月3日~12月9日)

 「描かれた野菜・果物」をテーマに、日本をはじめとする東アジア絵画の一面に光をあてる。前回展に来たとき、この展覧会のチラシを見て「これはよい企画!」と思ったのだが、期待をはるかに上回って面白かった。冒頭から見たことのある絵が出ていると思ったら、東博の『草虫図』(元時代)だった。この間、特集陳列『中国書画精華』に出ていたもの。さらに根津美術館の『林檎鼠図』(室町時代)、高麗美術館や栃木県立博物館からも、日本・朝鮮・中国の草虫画や蔬果図の名品が集まっていて、テンションが高まる。

 若冲の『菜蟲譜』が佐野美術館から来ていることはポスターを見て気づいていたのだが、さりげなく八大山人の『安晩帖』が出ているのを見つけたときは、意表を突かれて驚いた。「冬瓜鼠図」は、昨年、泉屋博古館分館(東京)の『典雅と奇想』でも見たもの。本展のキャプションは「瓜鼠図」になっている。朝鮮の墨画『瓜に鼠』(高麗美術館)は白ネズミと黒ネズミが並んでいて可愛かった。雪村の『蕪図』「元信」印『蕪菁図』には、これらのもととなった伝・牧谿の『蘿蔔蕪菁図』という作品が三の丸尚蔵館にあることを知った。見てみたいが、いま検索すると、同作品の保存修理の競争公告がヒットするので、1年くらい公開はなさそうだ。

 若冲の『菜蟲譜』は冒頭から茄子が描かれたあたりまで。会期後半に巻替えの予定がある。薄墨色の背景に浮かび上がる野菜と果物の、宝石のように艶やかで美味しそうなこと。そして魂と感情が宿った生きもののように、もの言いたげに見える。江戸絵画は、鶴亭、呉春、応挙など個性の競演。『桃果綬帯鳥図』の作者・戸田忠翰は知らなかったけど、印象に残った。富岡鉄斎の『野菜涅槃図』は、あると聞いていたけど初めて見た。若冲と違って墨画淡彩なので、野菜らしさが勝って涅槃図に見えにくい。若冲の『果蔬涅槃図』も会期後半には展示される予定。うーむ、もう1回見に来たい。若冲の『蔬菜図押絵貼屏風』も出ていて、どの絵も好きだが、特に大根を大胆な構図で超アップに描いた1枚が好き。

 岸田劉生は、ほのぼのした南画ふうの『四時競甘図』や『塘芽帖』(コロンとした茄子)もよいのだが、油彩の『冬瓜葡萄図』がよかった。小さな葡萄の房は焦茶色の背景にほぼ沈み込んでいて、白っぽい緑色の大きな冬瓜が、まるで宇宙に浮かぶ地球のように存在感を際立たせている。たいへん楽しい企画で、コンパクトサイズの図録は可愛いし、荷物にならないのでありがたかった。ただ、変型判の図録は保存に苦労するのだ…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする