○竹内洋『立身出世主義:近代日本のロマンと欲望』 世界思想社 2005.3 増補版
この本の結びの部分を読んだとき、今から10年ほど前の経験を思い出した。私がまだ一介のヒラ係員だった頃のことだ。職場の先輩との会話で、あんなこともしてみたいし、こんなこともしてみたい、という将来の希望を何気なく語ったとき、つくづく感に堪えかねたように「貴方は上昇志向だねえ~」と論評されたことがある。趣味に生き、万事ほどほどを尊ぶ小さな公務員社会(中央官庁ではない)では、よほど珍しかったのであろう。そうか、私は「上昇志向」なのか、とその言葉を胸に刻んだ。
さて、本書は、NHK人間大学のテキスト『立身出世と日本人』をもとにした書き下ろし(日本放送教会 1997)の増補新装版である。話題の中心は、例によって、受験生とその後身たる旧制高校生、そして帝大生であり、しばしば漱石の小説を例に引いているのが面白い(三四郎のその後の人生とか)。漱石の小説が、すぐれた風俗小説であったことがよく分かる。その一方、本書は「立身出世」という思想を、より幅広い社会的文脈に位置づけようとしている。
近代日本の立身出世主義の「推進力」は何であったか。それは社会的ダーウィニズムであると言えよう。同じ頃、アメリカでブームとなった成功主義は、聖書とピューリタニズムに多くを負っているが、「ダーウィンやスペンサーの影響はほとんどなかった」という。そうか、社会的ダーウィニズムって、世界的な流行ではなかったのか~。
ダーウィニズムが表すものは「優勝劣敗」つまり、大きな成功の可能性と大きな失敗の可能性だった。明治初期の日本人は、そこに、成功の希望と同時に落伍の恐怖を感じ取っていた。明治30年代以降、一足飛びの社会的階層移動(立身出世)の機会は減少するが、立身出世熱は冷めることなく「保温」される。立身出世の目標は、大臣や大将になるという大望(アンビション)でなく、町工場の経営者や小学校の校長など、ささやかな上昇移動(キャリアリズム=小さな成功の可能性)に縮小された。
さらに昭和40年代以降、ダーウィニズム的世界観を崩壊させる豊かな社会が出現した。そこには、ドラマティックな成功も無いかわりに、ドラマティックな失敗も無い。立身出世の物語は、「豊かさのアノミー」によって終焉したのである。
最後に著者は、日本は本当に学歴偏重社会であるのか?と問いかける。実際には、日本において地位や収入が学歴と結びつく度合は低く、もはや学歴の背後に立身出世のような大きな物語がないことを、多くの日本人も自覚している。にもかかわらず、システム化された受験社会は、目的を空白にしたまま、大衆を過熱し続けてきた。
いわば「空虚な主体」「精神の官僚制化」の蔓延と裏腹の現象として、出世主義は悪であり、組織のトップになりたいなどとは「考えていません」と答えるのが、戦後日本人の正しい回答だった。しかし、「このような社会はどこか病んでいないだろうか」と著者は言う。「競争のための競争」でもなく「脱落の恐怖」でもなく、これからは、構想力という希望を背景にした、新しいアンビション(立身出世)の時代となってほしい、という著者の願いに、私は同意し、「明るい格差社会」の到来をひそかに待ち望むものである。
この本の結びの部分を読んだとき、今から10年ほど前の経験を思い出した。私がまだ一介のヒラ係員だった頃のことだ。職場の先輩との会話で、あんなこともしてみたいし、こんなこともしてみたい、という将来の希望を何気なく語ったとき、つくづく感に堪えかねたように「貴方は上昇志向だねえ~」と論評されたことがある。趣味に生き、万事ほどほどを尊ぶ小さな公務員社会(中央官庁ではない)では、よほど珍しかったのであろう。そうか、私は「上昇志向」なのか、とその言葉を胸に刻んだ。
さて、本書は、NHK人間大学のテキスト『立身出世と日本人』をもとにした書き下ろし(日本放送教会 1997)の増補新装版である。話題の中心は、例によって、受験生とその後身たる旧制高校生、そして帝大生であり、しばしば漱石の小説を例に引いているのが面白い(三四郎のその後の人生とか)。漱石の小説が、すぐれた風俗小説であったことがよく分かる。その一方、本書は「立身出世」という思想を、より幅広い社会的文脈に位置づけようとしている。
近代日本の立身出世主義の「推進力」は何であったか。それは社会的ダーウィニズムであると言えよう。同じ頃、アメリカでブームとなった成功主義は、聖書とピューリタニズムに多くを負っているが、「ダーウィンやスペンサーの影響はほとんどなかった」という。そうか、社会的ダーウィニズムって、世界的な流行ではなかったのか~。
ダーウィニズムが表すものは「優勝劣敗」つまり、大きな成功の可能性と大きな失敗の可能性だった。明治初期の日本人は、そこに、成功の希望と同時に落伍の恐怖を感じ取っていた。明治30年代以降、一足飛びの社会的階層移動(立身出世)の機会は減少するが、立身出世熱は冷めることなく「保温」される。立身出世の目標は、大臣や大将になるという大望(アンビション)でなく、町工場の経営者や小学校の校長など、ささやかな上昇移動(キャリアリズム=小さな成功の可能性)に縮小された。
さらに昭和40年代以降、ダーウィニズム的世界観を崩壊させる豊かな社会が出現した。そこには、ドラマティックな成功も無いかわりに、ドラマティックな失敗も無い。立身出世の物語は、「豊かさのアノミー」によって終焉したのである。
最後に著者は、日本は本当に学歴偏重社会であるのか?と問いかける。実際には、日本において地位や収入が学歴と結びつく度合は低く、もはや学歴の背後に立身出世のような大きな物語がないことを、多くの日本人も自覚している。にもかかわらず、システム化された受験社会は、目的を空白にしたまま、大衆を過熱し続けてきた。
いわば「空虚な主体」「精神の官僚制化」の蔓延と裏腹の現象として、出世主義は悪であり、組織のトップになりたいなどとは「考えていません」と答えるのが、戦後日本人の正しい回答だった。しかし、「このような社会はどこか病んでいないだろうか」と著者は言う。「競争のための競争」でもなく「脱落の恐怖」でもなく、これからは、構想力という希望を背景にした、新しいアンビション(立身出世)の時代となってほしい、という著者の願いに、私は同意し、「明るい格差社会」の到来をひそかに待ち望むものである。