○鎌倉国宝館 特別展『荏柄天神社九百年―鶴岡八幡宮古神宝類とともに―』
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/
最近、仕事がおもしろくない。「羅生門」で雨止みを待つ下人の気分である。1人2人殺して飛び出したいという誘惑にかられながら、その決断もつかずに拱手している。そんな鬱屈した気分で、この展示に出かけた。
天神さんには憤怒の像が多い。しかし、明王系の仏像のように、外に向かって爆発する憤怒ではない。きちんとした束帯を身につけ、威儀を正して直立する天神さんの憤怒は、三白眼の目とか唇を噛んだ口元にわずかに表現されているだけだ。注意深く向き合わないと、ほとんど見落としてしまいそうである。
考えてみると、武士の生き方は単純である。敗北は即ち死だ。本来、怨みも何も溜めている暇はなかろう。
平将門は怨霊になった。しかし、将門の場合は、生前に始めた戦いを死後も一直線に続けているようなものだと思う。彼は現世の死と同時に、超人的な怨霊パワーを手に入れ、ますます京の貴族たちを震え上がらせる。
崇徳上皇はいきなり配流先でブチ切れて、「我、日本国の大悪魔とならん」と志し、「舌を噛み切り、流れる血で大乗経の奥に呪詛を書きつけて海底深く沈め、髪も爪も伸ばし放題」というエキセントリックな振舞いに出る。天皇というのは、武士ではないが、文官ともちょっと違う人種であると思う。
それらと比べたとき、文官(=普通の人間)は惨めなものだ。敗北にも華々しさがない。太宰権帥への左遷なんて、生殺しもいいところである。道真は詩を詠み和歌を詠み、長らく悲嘆にくれた挙句、天拝山で祈りを捧げ、粛々と手続きを踏んで、ようやく、怒れる天神(雷神)への変身を手に入れる。北野天神絵巻の清涼殿落雷の図に描かれた道真は、もはや人間とは似ても似つかない、蓬髪裸体の鬼神である。
しかし、後世の人々は、この恐ろしい鬼神像ではなく、変身以前、内なる憤怒をじっと掻き立てている体の道真をもって天神さんのイメージとした。おもしろいような、哀しいような。もしかすると最近の私も、ひとりでいると不機嫌きわまって、こんな表情をしているかもしれない。
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最近、仕事がおもしろくない。「羅生門」で雨止みを待つ下人の気分である。1人2人殺して飛び出したいという誘惑にかられながら、その決断もつかずに拱手している。そんな鬱屈した気分で、この展示に出かけた。
天神さんには憤怒の像が多い。しかし、明王系の仏像のように、外に向かって爆発する憤怒ではない。きちんとした束帯を身につけ、威儀を正して直立する天神さんの憤怒は、三白眼の目とか唇を噛んだ口元にわずかに表現されているだけだ。注意深く向き合わないと、ほとんど見落としてしまいそうである。
考えてみると、武士の生き方は単純である。敗北は即ち死だ。本来、怨みも何も溜めている暇はなかろう。
平将門は怨霊になった。しかし、将門の場合は、生前に始めた戦いを死後も一直線に続けているようなものだと思う。彼は現世の死と同時に、超人的な怨霊パワーを手に入れ、ますます京の貴族たちを震え上がらせる。
崇徳上皇はいきなり配流先でブチ切れて、「我、日本国の大悪魔とならん」と志し、「舌を噛み切り、流れる血で大乗経の奥に呪詛を書きつけて海底深く沈め、髪も爪も伸ばし放題」というエキセントリックな振舞いに出る。天皇というのは、武士ではないが、文官ともちょっと違う人種であると思う。
それらと比べたとき、文官(=普通の人間)は惨めなものだ。敗北にも華々しさがない。太宰権帥への左遷なんて、生殺しもいいところである。道真は詩を詠み和歌を詠み、長らく悲嘆にくれた挙句、天拝山で祈りを捧げ、粛々と手続きを踏んで、ようやく、怒れる天神(雷神)への変身を手に入れる。北野天神絵巻の清涼殿落雷の図に描かれた道真は、もはや人間とは似ても似つかない、蓬髪裸体の鬼神である。
しかし、後世の人々は、この恐ろしい鬼神像ではなく、変身以前、内なる憤怒をじっと掻き立てている体の道真をもって天神さんのイメージとした。おもしろいような、哀しいような。もしかすると最近の私も、ひとりでいると不機嫌きわまって、こんな表情をしているかもしれない。