○東京藝術大学大学美術館 創立120周年企画『パリへ-洋画家たち百年の夢~黒田清輝、藤島武二、藤田嗣治から現代まで~』
http://www.geidai.ac.jp/museum/
日本固有の「洋画」というジャンルの、100年の歩みを振り返る企画展。この展覧会のポスターは、たぶん3月くらいから街で目にしていたように思う。台所(?)の戸口に椅子を置いて、質素な身なりの西洋人女性が、居ずまい正しく腰かけている。原画の基調色であるグレーと、控えめなアクセントになっているオレンジ色を取り出してタイトルロゴに当てたポスターのデザインが、私はとても気に入っていた(上記サイトに画像あり)。
会場に入ると、この作品が最初に掲げられているのだが、私は作者名を見て、え、黒田清輝か!とびっくりした。全く勝手な思い込みで、もっと時代が下った画家の作品のように思っていたのだ。『婦人像(厨房)』は1892年(明治25)の作。文学史なら、尾崎紅葉、幸田露伴の同時代である。黒田作品の新しさにとまどう私はアナクロニックだろうか?
これまで黒田清輝に魅力を感じたことは一度もなかった。『湖畔』なんて、つまらない絵だと思っていたが、今回初めて、ちょっといいと思った。でも、何より興味深いのは、日本に「洋画」を根付かせるために捧げられた黒田そのひとの獅子奮迅の活躍ぶりである。
明治の「洋画」移入は、急激な欧化政策とその反動を背景に、ジグザグの経路をたどった。1876年(明治9)に開設された工部美術学校は、お雇い外国人を教師とした西洋美術の専修学校であったが、1883年に廃止された。代わって1889年(明治22)に授業を開始した東京美術学校には、はじめ西洋画科が無かったが、1893年(明治26)にフランス留学から帰国した黒田清輝の努力の甲斐あって、ようやく1896年5月に設置された。
黒田は、西洋画を日本に根付かせるには、裸体画に対する偏見を取り除く必要があると考えた。1895年、内国勧業博覧会に出品された『朝妝(ちょうしょう)』(ベッドの横、鏡の前に立つ女性の全身裸像)は物議をかもしたが、貴顕の威を借りた黒田の作戦勝ちで、撤去は免れた。当該作品は、戦時中に焼失したとのことで、惜しまれる(会場では絵葉書から引き伸ばしたパネルを展示)。
その後、1900年のパリ万博の際、再会した恩師コランに「日本化した洋画」を批判された黒田は、1901年に『裸体婦人像』(静嘉堂文庫蔵!へえ~)を出品する。膝を折って、横座りに座った裸婦を、けれん味なく描いたもの。”あまりの迫力に警察が下半身を布で覆った”という解説を読んで、吹き出してしまった。確かに、腰まわりの重量感を容赦なく描き出したデッサン力は(女性の身には)意地悪いほどの「迫力」を感じさせる。
1909年の『鉄砲百合』もいい。白と緑で構成された清々しい画面に、わずかな赤が輝きを添えている。ああ、ほんとにこのひとの色彩はきれいだ。「日本の印象派の原点」という解説が、うなづける。
思わぬ新鮮な出会いで、嬉しかった。今度、上野の黒田記念館にも行ってみようと思う。この夏は、平塚市美術館で『黒田清輝展』も開かれる由。
■参考:黒田記念館
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/
http://www.geidai.ac.jp/museum/
日本固有の「洋画」というジャンルの、100年の歩みを振り返る企画展。この展覧会のポスターは、たぶん3月くらいから街で目にしていたように思う。台所(?)の戸口に椅子を置いて、質素な身なりの西洋人女性が、居ずまい正しく腰かけている。原画の基調色であるグレーと、控えめなアクセントになっているオレンジ色を取り出してタイトルロゴに当てたポスターのデザインが、私はとても気に入っていた(上記サイトに画像あり)。
会場に入ると、この作品が最初に掲げられているのだが、私は作者名を見て、え、黒田清輝か!とびっくりした。全く勝手な思い込みで、もっと時代が下った画家の作品のように思っていたのだ。『婦人像(厨房)』は1892年(明治25)の作。文学史なら、尾崎紅葉、幸田露伴の同時代である。黒田作品の新しさにとまどう私はアナクロニックだろうか?
これまで黒田清輝に魅力を感じたことは一度もなかった。『湖畔』なんて、つまらない絵だと思っていたが、今回初めて、ちょっといいと思った。でも、何より興味深いのは、日本に「洋画」を根付かせるために捧げられた黒田そのひとの獅子奮迅の活躍ぶりである。
明治の「洋画」移入は、急激な欧化政策とその反動を背景に、ジグザグの経路をたどった。1876年(明治9)に開設された工部美術学校は、お雇い外国人を教師とした西洋美術の専修学校であったが、1883年に廃止された。代わって1889年(明治22)に授業を開始した東京美術学校には、はじめ西洋画科が無かったが、1893年(明治26)にフランス留学から帰国した黒田清輝の努力の甲斐あって、ようやく1896年5月に設置された。
黒田は、西洋画を日本に根付かせるには、裸体画に対する偏見を取り除く必要があると考えた。1895年、内国勧業博覧会に出品された『朝妝(ちょうしょう)』(ベッドの横、鏡の前に立つ女性の全身裸像)は物議をかもしたが、貴顕の威を借りた黒田の作戦勝ちで、撤去は免れた。当該作品は、戦時中に焼失したとのことで、惜しまれる(会場では絵葉書から引き伸ばしたパネルを展示)。
その後、1900年のパリ万博の際、再会した恩師コランに「日本化した洋画」を批判された黒田は、1901年に『裸体婦人像』(静嘉堂文庫蔵!へえ~)を出品する。膝を折って、横座りに座った裸婦を、けれん味なく描いたもの。”あまりの迫力に警察が下半身を布で覆った”という解説を読んで、吹き出してしまった。確かに、腰まわりの重量感を容赦なく描き出したデッサン力は(女性の身には)意地悪いほどの「迫力」を感じさせる。
1909年の『鉄砲百合』もいい。白と緑で構成された清々しい画面に、わずかな赤が輝きを添えている。ああ、ほんとにこのひとの色彩はきれいだ。「日本の印象派の原点」という解説が、うなづける。
思わぬ新鮮な出会いで、嬉しかった。今度、上野の黒田記念館にも行ってみようと思う。この夏は、平塚市美術館で『黒田清輝展』も開かれる由。
■参考:黒田記念館
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/