○吉見俊哉『夢の原子力:Atoms for Dream』(ちくま新書) 筑摩書房 2012.8
本書を見つけたときは、吉見先生、相変わらずチャレンジングだな~!と思った。議論百出のこのテーマ(原子力)に、いったい、どういう角度から斬り込んでいくのか、興味津々で、すぐに本書を買って、詠み通した。
全体としては「歴史」を主とした叙述になっているので、福島第一原発事故の責任者探しとか、今後の原発推進是か非か、という類の問題設定に、早急な回答を求めている読者には向かない。あとがきに言うように、「昨年3月11日以来、1年余の間にこの国で起きていることを、過去60年、ないしは約1世紀の歴史の歴史のなかに位置づけること」を著者は「本書の使命」と考えており、「この社会がこれからどの方向に進むにせよ、そうした歴史的想像力をもって歩んでいってほしいと思う」と説く。
したがって、第1章は、一気に歴史を遡行して、18世紀末から1世紀に及ぶ「初期電気技術」の発展期から始まる。発見されたばかりの電力は、魔術と科学の間にあって、人々を魅了し、熱狂させていた。電力は革命であり、資本であった。あるときは帝国主義と、あるときは共産主義、また民主主義とも結びつく政治性を有していた。このように、一見、牧歌的に見える「原子力以前」の「電力」そのものに、現在の「原子力」と通底する問題が潜んでいたことが指摘される。
第2章は、いよいよ原子力の登場。第二次世界大戦において、脅威の「原爆」として人類の前に現れた原子力が、いかにして「夢の原子力」(平和利用)に焼き直されたかが、本章の課題となる。主体となったのは、もちろんアメリカ。そして、ターゲットとなったのが日本である。二度の原爆投下に加え、第五福竜丸という三度目の被爆を体験した日本であればこそ、その国民が原子力の平和利用を受け入れることは、国際世論に大きな影響を与えると考えられた。
ちなみに本書の副題「Atoms for Dream」は、1953年12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った歴史的演説「Atoms for Peace」に依っている。「Atoms for Peace」とは、原子力の平和利用と核兵器の世界配備の両面作戦で、覇権を打ちたてようとするアメリカの世界戦略の別名でもあった。
というわけで、第2章で紹介されるのは、1950年代の日本で繰り広げられた、核アレルギー払拭と「夢の原子力」イメージ構築のための様々な試み。原子力博覧会、原子力広報映画。真面目に学習し、反応する復興期の日本国民。ある意味、それはアメリカの「思う壺」だったわけだが…。
さらに第3章は、ポップミュージック、マンガ、テレビドラマなどの大衆文化における「原水爆イメージの日常化(時には崇高化)」を扱う。この章がいちばん面白かったな~。強い酒、セクシーな女性を歌った「アトミック・カフェ」「アトミック・ベイビー」、原爆オリエンタリズムむき出しの「フジヤマ・ママ」など、脳天気な歌詞のポップソングの数々(楽曲も同様らしい)。かなり呆れながら読んだ。
私は水着の「ビキニ」が、ビキニ環礁での水爆実験をもとに、その(セクシーな)破壊力から名づけられた、ということを初めて知った(ちなみにWikiでは、ビキニ型水着の考案のほうが早いということからこの説を否定しているが、本書によれば、1940年代末、その種の水着は、もっと直接に「アトム」と呼ばれていたという)。
50年代のアメリカでは、原水爆によって太古の恐竜がよみがえったり、昆虫等が巨大化する映画が次々につくられた。しかし、これらとは全く異なる位相から生まれた『ゴジラ』は、戦後日本を代表する名作映画となる。私は、1960年代以降、急速に「カワイイ」化し、人気を失った「ゴジラ」映画を見て育った世代なので、初代『ゴジラ』は、よく知らない。むしろ私は『鉄腕アトム』で育った世代である。アトムは、電子脳と原子炉を内蔵したロボット、つまりコンピュータと原子力の結合したシステムが、いかに人類の平和と発展に寄与しうるかを表象する存在であった。ちなみにドラえもんもガンダムも原子力ロボットであると読んで、あらためて日本の戦後大衆文化と原子力(の平和利用)が不可分なものであったことに気づかされた。
しかし、日本のマンガやアニメは、原子力の平和利用イメージを蔓延させる一方で、70年代以降、「核戦争後の世界」を執拗に描き続けてきた。古くは手塚の『火の鳥』。『AKIRA』しかり、『ナウシカ』しかり。うむ、そうかもしれない。この国のサブカルチャーは、「Atoms for Peace」という虚構の時代の果てに「何らかの崩壊が起きるであろうことを予見し始めていた」のではないか、と著者は言う。であれば「3.11」以降の私たちは、ようやく虚構の時代を抜け出し、夢から覚めて、現実の中に丸裸で置かれた状態であると思う。これからどちらに向かうべきかについて、本書は明確な答えはくれない。ただ過去を振り返りつつ、各自が答えを出すことが求められている。
本書を見つけたときは、吉見先生、相変わらずチャレンジングだな~!と思った。議論百出のこのテーマ(原子力)に、いったい、どういう角度から斬り込んでいくのか、興味津々で、すぐに本書を買って、詠み通した。
全体としては「歴史」を主とした叙述になっているので、福島第一原発事故の責任者探しとか、今後の原発推進是か非か、という類の問題設定に、早急な回答を求めている読者には向かない。あとがきに言うように、「昨年3月11日以来、1年余の間にこの国で起きていることを、過去60年、ないしは約1世紀の歴史の歴史のなかに位置づけること」を著者は「本書の使命」と考えており、「この社会がこれからどの方向に進むにせよ、そうした歴史的想像力をもって歩んでいってほしいと思う」と説く。
したがって、第1章は、一気に歴史を遡行して、18世紀末から1世紀に及ぶ「初期電気技術」の発展期から始まる。発見されたばかりの電力は、魔術と科学の間にあって、人々を魅了し、熱狂させていた。電力は革命であり、資本であった。あるときは帝国主義と、あるときは共産主義、また民主主義とも結びつく政治性を有していた。このように、一見、牧歌的に見える「原子力以前」の「電力」そのものに、現在の「原子力」と通底する問題が潜んでいたことが指摘される。
第2章は、いよいよ原子力の登場。第二次世界大戦において、脅威の「原爆」として人類の前に現れた原子力が、いかにして「夢の原子力」(平和利用)に焼き直されたかが、本章の課題となる。主体となったのは、もちろんアメリカ。そして、ターゲットとなったのが日本である。二度の原爆投下に加え、第五福竜丸という三度目の被爆を体験した日本であればこそ、その国民が原子力の平和利用を受け入れることは、国際世論に大きな影響を与えると考えられた。
ちなみに本書の副題「Atoms for Dream」は、1953年12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った歴史的演説「Atoms for Peace」に依っている。「Atoms for Peace」とは、原子力の平和利用と核兵器の世界配備の両面作戦で、覇権を打ちたてようとするアメリカの世界戦略の別名でもあった。
というわけで、第2章で紹介されるのは、1950年代の日本で繰り広げられた、核アレルギー払拭と「夢の原子力」イメージ構築のための様々な試み。原子力博覧会、原子力広報映画。真面目に学習し、反応する復興期の日本国民。ある意味、それはアメリカの「思う壺」だったわけだが…。
さらに第3章は、ポップミュージック、マンガ、テレビドラマなどの大衆文化における「原水爆イメージの日常化(時には崇高化)」を扱う。この章がいちばん面白かったな~。強い酒、セクシーな女性を歌った「アトミック・カフェ」「アトミック・ベイビー」、原爆オリエンタリズムむき出しの「フジヤマ・ママ」など、脳天気な歌詞のポップソングの数々(楽曲も同様らしい)。かなり呆れながら読んだ。
私は水着の「ビキニ」が、ビキニ環礁での水爆実験をもとに、その(セクシーな)破壊力から名づけられた、ということを初めて知った(ちなみにWikiでは、ビキニ型水着の考案のほうが早いということからこの説を否定しているが、本書によれば、1940年代末、その種の水着は、もっと直接に「アトム」と呼ばれていたという)。
50年代のアメリカでは、原水爆によって太古の恐竜がよみがえったり、昆虫等が巨大化する映画が次々につくられた。しかし、これらとは全く異なる位相から生まれた『ゴジラ』は、戦後日本を代表する名作映画となる。私は、1960年代以降、急速に「カワイイ」化し、人気を失った「ゴジラ」映画を見て育った世代なので、初代『ゴジラ』は、よく知らない。むしろ私は『鉄腕アトム』で育った世代である。アトムは、電子脳と原子炉を内蔵したロボット、つまりコンピュータと原子力の結合したシステムが、いかに人類の平和と発展に寄与しうるかを表象する存在であった。ちなみにドラえもんもガンダムも原子力ロボットであると読んで、あらためて日本の戦後大衆文化と原子力(の平和利用)が不可分なものであったことに気づかされた。
しかし、日本のマンガやアニメは、原子力の平和利用イメージを蔓延させる一方で、70年代以降、「核戦争後の世界」を執拗に描き続けてきた。古くは手塚の『火の鳥』。『AKIRA』しかり、『ナウシカ』しかり。うむ、そうかもしれない。この国のサブカルチャーは、「Atoms for Peace」という虚構の時代の果てに「何らかの崩壊が起きるであろうことを予見し始めていた」のではないか、と著者は言う。であれば「3.11」以降の私たちは、ようやく虚構の時代を抜け出し、夢から覚めて、現実の中に丸裸で置かれた状態であると思う。これからどちらに向かうべきかについて、本書は明確な答えはくれない。ただ過去を振り返りつつ、各自が答えを出すことが求められている。