見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

韓国古蹟めぐり2008【補遺】

2008-08-30 23:08:59 | ■アジア(中国以外)
■inoue's website 神と仏の世界
http://www.bken.or.jp/inoue/

 仏像・神像の写真を撮り続けている井上芳明氏のサイト。「portfolio」韓国の項を開くと、瑞山磨崖仏・泰安石仏・掘仏寺・修徳寺など、私が今回訪ねた石仏・寺院の写真が多数掲載されている。「guide」の地図も詳しくてありがたい。

 このサイト、以前は別のURLにあって、私の「お気に入り」だったが、いつの間にか閉鎖されてしまい、悲しい思いをしていた。たまたま、今回の韓国ツアーに関わる地名を検索していて、移転先を発見したのである。作者(井上芳明氏)のことは、このサイト以外、何も存じ上げなかったが、2003年9月の個展に行ったら、ご本人がいらしていて、お話をさせてもらったことがある。以前のサイトは、かなり高画質の画像を公開されていたので「(無断ダウンロードとか)大丈夫なんですか?」とお聞きしたら「よく心配されるんですけどね」と笑っていらしたが、その後、やっぱりトラブルがあったようだ。とにかくも、ウェブ上に作品の公開が続けられていたと分かって嬉しい。心してご愛顧のほどを。
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韓国古蹟めぐり2008【最終日】帰国

2008-08-27 00:00:01 | ■アジア(中国以外)
 7日目、私にとってはツアー最終日。ほかの3人は、まだソウルでのフリータイムが2日間残っている。悔しいが、仕事が待っているので仕方がない。朝の2時間をどう過ごすか、いろいろ考えたが、やっぱり見ておきたかったのは、今年の2月に炎上した南大門の現状。トランクを引きずりながら、地下鉄で南大門に向かう。無残な焼け残りは見えないように囲われていた。発掘調査と修復が終わるのは、2012年の予定だそうだ。


※ありし日のイメージで囲われた南大門。

(8/30記)
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韓国古蹟めぐり2008【第6日】江陵、五台山→ソウル

2008-08-26 23:59:23 | ■アジア(中国以外)
 6日目、江陵市内で客舎門と烏竹軒を見学。烏竹軒は、儒学者・李栗谷と、賢母・申師任堂の故地でもある。ちなみに韓国の5,000ウォン紙幣には、李栗谷の肖像が使われているが、まもなく発行される50,000ウォン紙幣には、母の申師任堂が使われる予定だそうだ。

 ”乗り鉄”の友人の希望もあって、江陵駅から1区間だけ鉄道に乗る。隣りの正東津(チョンドンジン)駅は「最も海岸に近い駅」としてギネスブックに登録されているそうだが、それよりも、ソウルの光華門の真東に位置するので「正東津」と呼ばれているという名前の由来のほうが、私には興味深い。市街地が切れると、青く明るい海岸線が続く。東海(日本海)である。岩場と砂浜の入り込み具合が、鎌倉の由比ガ浜~和賀江島あたりを思わせ、江ノ電気分。けれども、時には北の潜水艦が現れる、ちょっと物騒な海岸でもあるのだ、泳いでいる人の姿がないのは、もう水が冷たいからだろうか。再び江陵市内に戻り、烏竹軒のそばにある市立博物館へ。昼食は豆腐料理とマッコリ酒。


※特別仕立ての観光列車。1等車の座席は全て海側を向いている。
 
 食後は五台山国立公園に向かう。中国山西省の五台山と同じく、文殊菩薩の聖地だそうだ。海抜1400~1500メートル級の5つの峰が連なり、ドライブとハイキングを楽しむ観光客の姿が多い(ただし、日本人は皆無)。まず、最も標高の高い上院寺(サンウォンサ)へ。車を降り、肌を刺す寒さに慌てたが、雲が切れて陽が射すと、すぐに気温が回復した。新羅時代の銅鐘が名品。

 次は車で山道を下りながら、「史庫址」を探す。朝鮮王朝時代には、歴代国王の実録がつくられた。当初はソウルの春秋館及び忠州、星州、全州の史庫に各1部ずつ保管されていたが、文禄・慶長の役で多くが失われてしまった。しかし、宣祖年間、残った全州史庫本をもとに再刊行が行われ、新印3部+全州史庫にあった原本+校正刷の計5部の実録は、五史庫(昌徳宮、江華島、妙香山、太白山、五台山)に保管されることになった。もちろん各史庫には、実録以外の貴重書も多数保管されていたようである。

 五台山史庫に保管されていた実録は、朝鮮総督府により東京帝国大学に移管された(といわれている)が、関東大震災により大半が焼失した。焼け残り(74冊)の一部は、京城帝国大学を経てソウル大学の奎章閣に保管され、別の一部は東京大学に保管されてきたが、2006年7月、ソウル大学に移管された。というわけで、何かと日本と縁の深い五台山史庫址を一度見てみたかったのである。

 到着した史庫址は、山の斜面を申しわけに切り開いた、猫の額ほどの平地。近年復元された二階建て(高床式)の楼閣が縦に並んでおり、手前には「史閣」、奥には「璿源宝閣」という扁額が掛かっていた。むしろ狭いトウガラシ畑に埋もれた「五台山史庫守直舎あと」の石碑のほうが、往時を偲ばせるように思う。



 さらに車で山道を下って、月精寺(ウォルジョンサ)に到る。この月精寺は、さきほどの史庫と直接の関係はないらしいが、日本に対して文化財の返還請求を盛んに行っている。山門には明成皇后の肖像を掲げた大きな横断幕が掛かっていて、『朝鮮王室儀軌』(宮内庁書陵部所蔵、明成皇后の国葬の次第が記録されている)の返還を求める宣伝ではないかと思われた。境内には、高麗時代の高い石塔が残る。ガイドのチェさんの話では、そのそばに、石塔を見上げるようなポーズの愛らしい石仏があったが、最近、境内の博物館に移されてしまったとのこと。

 ちなみに、この五台山は、朝鮮戦争の際、北軍の根拠地になることを恐れた南軍によって、多くの文化財が焼き払われたという。『朝鮮王朝実録』をはじめとする典籍類を、もしも日本が持ち出さなかったらどうなっていたか? 焼失したか、それとも北朝鮮に移されていたのだろうか。朝鮮半島の文化財の運命は、とにかく過酷である。

 かくて五台山を後に、再び西へ折り返す。ソウルの手前の利川(イチョン)で夕食。名物のもち米ごはんが美味。ソウル市内のホテルに到着したのは、夜の10時頃だった。

(8/29記)

■参考:東京大学総合図書館旧蔵「朝鮮王朝実録」画像データベース
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/jitsuroku/
東京大学総合図書館旧蔵本についての説明あり。
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韓国古蹟めぐり2008【第5日】温陽→江陵

2008-08-25 23:58:20 | ■アジア(中国以外)
 5日目の午前中は、中清南道の古寺・磨崖仏めぐり。このあたりは、昨日の慶州=新羅の都から一転して、百済の故地である。のどかな丘の上に放置されたような花田里四面仏に、心がなごむ。徳崇山修徳寺は、百済創建と伝える尼寺。本堂の中で仔猫が飼われていたのにびっくりした。

 瑞山の三尊仏は、韓国で最も有名な磨崖仏のひとつ。韓国最古の磨崖仏だというが、はっきりした線刻がよく残っている。ひときわ堂々とした中尊の釈迦如来は、幸福そうな「百済の微笑」が印象的である。その影に寄り添うような観音菩薩。ちょっと離れて、半跏思惟姿の弥勒菩薩。発見されたときの逸話では、付近の村人は、山の神様とその妻と妾、と解していたそうだ。



 最後に見た泰安の磨崖三尊仏は、風化がいちじるしかった。山上から、はるかに黄海(東シナ海)を遠望する。昼食は手打ちうどん。

 午後は進路を東海岸に向けて、再び北上。ちょうど東西の中間あたり、忠州市に中原高句麗碑がある。1978年に発見され、1979年になって高句麗の石碑であることが判明したものだ。これで、このツアー、金官伽耶に始まり、新羅・百済・高句麗の古代三国の遺跡をめぐったことになる。


※中原高句麗碑を収めた碑閣。

 そばを流れる南漢江を渡って、中央塔とよばれる、巨大な七層の石塔も見学。最終目的地の江陵までは、さらに高速道路をひた走る。途中、ドライブインで簡単な夕食。江陵の宿は、夜行列車の灯りが旅愁を誘う、線路際のホテルだった。

(8/29記)
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韓国古蹟めぐり2008【第4日】慶州→温陽

2008-08-24 23:54:28 | ■アジア(中国以外)
 昨日の登山の後遺症が足に残る4日目。東南部の慶州から北西に向かって、半島を斜めに横切る。観光ポイントは2箇所のみ。最初は軍威の三尊石仏。断崖の中程にある自然窟を利用したもので、慶州の石窟庵になぞらえて「第二石窟庵」とも呼ばれる。断崖には梯子が掛けられているが、一般の観光客は登らせてもらえないのが恨めしい。門前に店を広げたおばさんから、五味子(オミジャ)を購入。小豆ほどの赤い実で、水出ししたものをお茶として飲用する。昼食は山菜ビビンパとチヂミに、トンドン酒を追加。

 俗離山(ソンニサン)国立公園に位置する法住寺は、新羅時代に創建された古刹。壬辰倭乱(文禄の役)の際、豊臣軍に対する抵抗の拠点となったため、建物は焼失したが、磨崖仏・石塔・石灯など、興味深い石造彫刻が残っている。とりわけ、阿吽形の2匹の獅子が支える双獅子石灯がかわいい。韓国の国宝第5号に指定されている(ガイドのチェさんの話では、高校生の頃、国宝第1号から10号までを暗記させられたそうだ)。


※降伏する倭兵(豊臣軍)を描いた壁画。

 「捌相殿」の扁額を掲げた五重塔は、朝鮮時代(17世紀)の建造。上層を小さく、下層を大きく作ったピラミッド型のフォルムは、日本にはない様式である。魚を下げた風鐸や、屋根の四隅を支える隅鬼など、細部の見どころが楽しい。門・塔・大雄宝殿が一直線に並んだ伽藍配置は、四天王寺式と言えるのかな?


※火災避けの意味をもつ魚の風鐸。


※屋根を支える隅鬼。現地ガイドさんは「トッケビ」と呼んでいた。法隆寺や唐招提寺など、日本の寺院にも、ときどき潜んでいる。

 今夜も温泉町の温陽に到着。夕食はプルコギ。ホテル前のコンビニで韓国産ワイン(焼酎のJinroブランド)の小瓶を購入し、テレビで北京オリンピックの総集編を見ながら嗜む。

(8/29記)
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韓国古蹟めぐり2008【第3日】慶州

2008-08-23 23:42:21 | ■アジア(中国以外)
 好天の戻った3日目。釜山から1時間ほど車で走って慶州へ。慶州は新羅の故地。ひなびた古都の面影がよく残り、前回の韓国旅行でいちばん好きだった町である。初めに向かったのは、金庾信(ユシン)将軍墓。小高い円墳のまわりを、獣頭人身の十二支神のレリーフが囲んでいる。文官装束で立ち姿であるところが、キトラ古墳の壁画によく似ている。



 続いて、新羅の太宗武烈王、金春秋の陵墓へ。小山のように大きな円墳で、周囲に小さな陪葬墓(?)が点在している。どちらの墓の前でも、丁寧に叩頭して拝礼する集団を見た。韓国は、まもなく祖先の墓参りの季節なので、それぞれの子孫を自認する人々だったのかもしれない。韓国人は、お墓の正面でなく、斜め前で拝礼するのが正しい作法と考えているそうだ。

 金庾信は金官伽耶国(金海金氏)の出身だが、のち、同国を併合した新羅(慶州金氏)に仕えた。金庾信の妹を娶ったのが、新羅の武烈王こと金春秋で、両人は、新羅による朝鮮半島統一の基礎を作った立役者である。7世紀東アジアの複雑な国際関係を背景に、日本の古代史ファンにもなじみが深い名前であるはずだ。私も、久しぶりに『日本書紀』が読み返したくなった!

 金庾信、金春秋を主人公にした歴史ドラマを作ったら面白いだろう。金春秋は、即位前の王子時代、唐、高句麗、そして日本(孝徳天皇の代)にも赴いているのだから、日中韓の合作ドラマもできそうである。もっとも、ガイドのチェさんの話によれば、いま、韓国は、古代国家「高句麗」の帰属をめぐって中国と激しく争ってるため、国民の関心を高めようと、『太王四神記』『朱蒙』など、高句麗ドラマが流行りなのだそうだ。だとすると、新羅ものは、当分ないかなあ。

 続いて、ガイドブックに「健脚向き」と書かれた神仙寺に向かう。ワゴン車の運転手さんは、かなり頑張って未舗装の細道を慎重に走ってくれたが、いよいよ車が進めなくなり、2キロほどの山道を徒歩で登る。現れたのは、10メートルを超える巨大な天然石を利用した石窟の跡。新羅で最古最大の磨崖仏群が残る。金庾信が山神から授かった神剣で岩を断ち割った(柳生宗厳みたいだ)とも、新羅花郎の修行場だったともいわれている。


※円の中は供養人の図。

 キサシクタン(技師食堂)と呼ばれるドライバーさん向けの軽食堂で、豆乳そうめん(?)の昼食後、堀仏寺址の四面石仏を見て、栢栗寺(ペクユルサ)へ。新羅時代を代表する薬師如来像が伝わった由緒ある寺だが、今は国立慶州博物館にあるという。と、ガイドのチェさんが尼さんに聞き込みをしていると思ったら、「皆さん、この寺の裏山にも磨崖仏があるそうですが、行ってみますか?」とのこと。ただし、正確な場所は尼さんも知らないという。尾根道には、軽微なアスレチック用具が据え付けてあり、健康増進に励む人々の姿が目についた。ガイドのチェさんが聞き込みを続け、通りがかりのおじさんの情報で、阿弥陀三尊仏の磨崖仏を発見する。降り出した雨を避けて、慌てて下山。最後は、遠願寺(ウォンウォンサ)址。緑したたる松林の中に、十二支神と四天王のレリーフを持つ東西二塔が立っていた。


※ここの十二支神は坐像。

 夕食は、骨つきカルビ焼肉。慶州の宿も温泉つき。明日は筋肉痛だろうなあ、と観念しつつ、就寝。

(8/28記)
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韓国古蹟めぐり2008【第2日】釜山、金海

2008-08-22 22:17:49 | ■アジア(中国以外)
 2日目、不安定な天気の下、釜山広域市の隣りの金海市へ。3世紀から6世紀中頃にかけて、この一帯には、伽耶(かや)と呼ばれる小国家群が存在していた。とりわけ、金海市は、前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった金官伽耶(きんかんかや、または加羅、駕洛=から)国の故地である。もっとも、こういったことは、1970年代以降の発掘調査によって分かってきたことで、私が小学生の頃、愛読した学習マンガには「任那(みまな)日本府」の存在が書かれていたのだが。

 その金官伽耶国の始祖、首露(スロ)王陵は、街の中にあって、よく整備されていた。続いて王妃陵に向かう途中、(予定には入っていなかったが)1990年代に発見された大成洞古墳と古墳博物館を見学。高速道路や高層団地群の真ん中に、ぽっかり浮かぶ島のような古墳公園である。

 首露王妃陵は、市街地を見下ろす丘陵地にあり、向かって左に伸びた尾根が、建国神話の地、亀旨(クジ)峰に連なっている。風水学的にはでは、王妃陵のある丘陵が亀の体、亀旨峰が亀の頭に当たるそうだが、日韓併合時代、亀の首の部分にトンネルが穿たれたそうだ。朝鮮の古代神話では、亀旨峰に空から6個の金の卵が下り、その1つから首露王が生まれたとされる。私は、亀旨峰って、雲に隠れるような高い峰を想像していたら、実は公園の築山に毛がはえた程度の丘でしかない。な~んだ、大和三山みたいなものか。


※頂上付近の岩。表面(円の中)に「亀旨峰石」と刻まれている。

 住宅街の食堂で、冷麺またはカルビタンの昼食。国立金海博物館を見学。釜山市に戻り、梵魚寺に向かう頃は、大雨。この夏は、韓国でも「ゲリラ雨」が多いそうだ。梵魚寺には「韓国三十三観音聖地・第二十五号」の看板あり。これは、日本人観光客誘致のために、最近、始まったばかりの事業らしい。韓国に根づくかなあ。ご朱印がもらえるなら、私は嬉しいけど。



 夜は韓定食(ただし、釜山風で海鮮多し)。この日も大浴場を楽しむ。雨避けの下の露天風呂が気持ちいい。

(8/28記)
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韓国古蹟めぐり2008【第1日】釜山

2008-08-21 21:43:46 | ■アジア(中国以外)
 むかしは海外旅行に行くたび、詳細なレポートをものしていたのだが、最近は、すっかり手を抜くようになってしまった。けれども、この夏は5年ぶりの韓国旅行で、前回の記憶をたどろうとすると、心もとないこと、このうえない。やっぱり書き残しておくに限る、と思ったので、以下に記す。

 1日目は、JAL午前便で釜山へ。わずか2時間のショートフライト。空港でガイドの崔(チェ)さんに迎えられる。我々の予定を見て「お坊さんのツアーか、金海金氏の子孫かと思った」とのこと。確かに今年のツアーは、磨崖仏・石仏と、金海金氏ゆかりの史跡に焦点をしぼっているのである。ワゴン車の運転手さんは白髪の目立つおじいさん。釜山市の博物館をゆっくり見学して、温泉街のホテルに入る。夕食は、韓国人の好きなフグ鍋料理。ホテル併設の、スーパー銭湯みたいな大浴場でくつろぐ。


※韓食は野菜が多くてヘルシー。でも美味しいので、つい食べ過ぎる。

(8/28記)
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【ただいま夏休み中】今年は韓国1週間

2008-08-20 23:44:14 | なごみ写真帖
明日より、夏休み。今年は例年より短めの1週間。
行き先も、いつもの中国ではなく(北京オリンピックの喧騒を避けて)韓国にした。
思えば、初詣の高麗神社で「旅行安全御守」をいただいたのも、何かのご縁だったのかも。
もちろん、これを持って行きます!



しばらくブログの更新はありません。
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神話から近代まで/歴史物語 朝鮮半島(姜在彦)

2008-08-19 23:06:47 | 読んだもの(書籍)
○姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書) 朝日新聞社 2006.9

 建国神話に始まり、古朝鮮→三国時代(高句麗・百済・新羅)→統一新羅→後三国時代→高麗王朝→李氏朝鮮→大韓帝国→日韓併合まで、およそ二千年の朝鮮半島史を概観したもの。

 私は、もともと好きだった古代史と、最近、関心の高い近代史については、多少の知識を蓄えてきたが、その間が全くの空白だった。本書によって初めて、統一新羅の繁栄と退廃、後三国の鼎立と、高麗による国土再統一、李氏朝鮮の長期支配と、なんとか「間」がつながった感じだ。

 最近、韓国の歴史ドラマが日本でも放映されているが、『チャングム』『チェオクの剣』など、近世もの(朝鮮時代)は、だいたい架空の人物が主人公である。歴史実在(?)の英雄を主人公にしようとすると、『太祖王建』(10世紀)の高麗とか、『朱蒙』『太王四神記』など高句麗王朝(紀元前~7世紀)まで遡ってしまう。ありえねーだろう、と思っていたのだが、本書を読んで、よく分かった。朝鮮の場合、中世以降は、文官貴族の支配力が強くて、日本の戦国時代のような、胸躍る「武士の時代」がないらしい。

 わずかに武人の活躍が見えるのは、ひとつは高麗末期の「武臣の乱」。しかし、「武臣たちは政治的経験がなく、相互間に自滅的な権力争うを繰り返し」わずか62年間の崔氏武臣政権が続いただけだった。日本では、源頼朝以後、670余年も武士政権が続いたのと、何とも対照的である。ちなみに、この「武臣の乱」を扱った韓国ドラマに『武人時代』というのがあるそうだ。なお、この短命の武臣政権が、モンゴル軍との戦闘から国土を守ったというのも興味深い。もう1例、朝鮮王朝の太祖・李成桂も、武勲によって頭角をあらわし、武力クーデターで高麗を倒している。李世民とか趙匡胤みたいだ。ドラマの主役になってもよさそうだが、晩年は息子たちの王位争いに嫌気がさして、念仏三昧の生活をおくったというから、ちょっと可哀想な人物である。それで人気がないのかしら。

 近代化に向かう朝鮮の歩みについては、同じ著者の『西洋と朝鮮』(朝日選書、2008)や、最近読んだ岡本隆司『世界のなかの日清韓関係史』(講談社選書メチエ、2008)と重なるところがあって、理解しやすかった。ただし、ただの洋夷嫌いだと思っていた大院君が、党派争いの温床である書院650余りの撤廃など、大胆な内政改革を断行していることは初めて知った。

 閔妃暗殺(1895)から韓国併合(1905)までの15年間は、最終章の30ページほどで語られているのが、この間については、まだまだ私の知らないことが多いと実感した。独立協会と皇国協会の集団的暴力による攻防、「第二次日韓協約」(保護条約)締結の具体的ないきさつ(本書の記述が本当なら、韓国では「皇帝も首相も承認していない」と言い分にも理があると思う)、義兵と言論による抵抗運動など。続けては、同じ著者の『日本による朝鮮支配の40年』を読むべきだろう。
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