見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

いまどきの新聞漫画/まんが政治vs.政治まんが(佐藤正明)

2016-09-28 21:29:03 | 読んだもの(書籍)
○佐藤正明『まんが政治vs.政治まんが:七人のソーリの10年』 岩波書店 2016.8

 2005年9月から2016年7月までの間に、中日新聞・東京新聞・西日本新聞に掲載された政治風刺まんがから約170点を収録。登場する「七人の総理」は、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦。安倍晋三(第二次&第三次)に関する作品の量が圧倒的に多いのは、単純に在任期間の長さに比例しているのだろう。

 作品は1コマだったり4コマだったり、もっとコマ割りをしてストーリー漫画の1ページみたいだったり、形式はいろいろであるが、1コマまんがのほうが、メッセージが単純で面白い感じがする。個人的には、オバマの核軍縮演説を諷刺した「空念仏か」みたいな、セリフもない1コマものが好き。

 しかし、期待したほどには面白くなかった。「あとがき」に中日新聞・東京新聞政治部長の金井辰明氏が「中日新聞(東京新聞)の政治まんがはとても面白い」と言われる、という話を書いているが、なんだか内輪褒めだなあ、とげんなりした。年齢層の高い新聞読者には面白いのかもしれないが、私は、諷刺の毒が弱い気がして物足りなかった。SNSなどに流れる、毒の強い諷刺マンガや写真コラに慣れ過ぎてしまっているのかもしれない。いや、本書でカリカチュアライズされている政治家のキャラクターも、現実のほうがずっと強烈な気がする。

 それから、日本の政治の劣化が、もはや笑っていられない状態に突入しているためでもある。この10年の政治状況を振り返っていると、ああ、このときが「ポイント・オブ・ノー・リターン」だったかもしれない、という記憶がよみがえって、どんどん辛くなってくるのだ。政治まんが家にも、読者にも辛い時代である。
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パーフェクト櫟野寺(らくやじ)/滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち(東京国立博物館)

2016-09-27 23:36:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『平安の秘仏-滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち』(2016年9月13日~12月11日)

 東博で櫟野寺展があると知ったときは驚いた。福生山(ふくしょうざん)自性院櫟野寺(らくやじ)は滋賀県甲賀市に位置する、天台宗総本山延暦寺の末寺。我が国最大を誇る坐仏の十一面観音(秘仏)のほか、平安時代の木造仏を多数所蔵する。仏像好きには愛されているお寺だと思うが、全国的に、どれだけ知られているか…。

 私は、2004年に一度だけ現地を訪ねたことがある(※当時の記録)。「何度かガイドブックで写真を見たことがあった」と書いているけど、何を見たのか忘れてしまった。かなりマニアックなガイドだと思う。『見仏記:親孝行篇』(2002年)に櫟野寺の記事があるというから、直接には、そのへんに影響されたのではないかとも思う。油日の駅から長い道のりを歩き、櫟野寺の集落が見えてきたときのわくわく感は今でも思い出すことができる。のちに職場で、この近隣の出身だという女性に会って「櫟野寺に行ったことがある」と言ったら、ものすごく驚かれたことも、楽しい思い出である。

 さて、展覧会の会場は、本館の大階段の裏の特別5室。入口を入ると(正確には目隠しのパネルに沿って少し歩くと)金色に輝く巨大な十一面観音菩薩坐像に正対する。像高3メートル余りとのことだが、高い蓮華座に座っているので、結跏趺坐した膝が、ようやく目の高さくらいにくる。柿の葉のような縦長の光背が、さらに視線を上方に誘導し、光背の頂上までの総高は5メートルを越える。初めて見たときも思ったが、手が大きく、指も太い。目・鼻・口も大きくて、顔の造作がはっきりしている。ただ、正面からの写真だと太めの腹まわりが強調されるが、会場で下から見上げると、もう少しすっきりした印象になる。

 会場では、みうらじゅん&いとうせいこうの音声ガイドを、ぜひお使いいただきたい。ご本尊については、表情のはっきりした、頭上の十一面に注目を促す。会場には頭上面全てのアップ写真も展示されているが、「一番の見どころは真後ろの暴悪大笑面。横からちょっと見える」とのアドバイスにしたがって、左側面にまわってみると、確かに少し見える。ほとんどの観客が気づいていないものを盗み見るようなスリル。そして、瞋怒面×3も牙上出面×3も、ぞくぞくしていいわー。

 本尊同様、金色の輝きを失っていないのが、おだやかな定朝様の薬師如来坐像と、腹帯地蔵とよばれる、腹のリボン結びがかわいい地蔵菩薩坐像。ほかに、金箔や彩色のほぼ落ちた、大小の木造仏が17体。右手に宝棒、左手に宝塔を捧げ持つ毘沙門天立像はかなり個性的。目の高さに掲げた宝塔をじっと覗き込むポーズを、音声ガイドの見仏コンビが「ワイングラスを持った裕次郎」と表現していて、吹きそうになった。この毘沙門天像が好きだったという、先代住職・三浦皎英(こうえい)さんの思い出話も楽しい。確かに住職さんって、お寺の魅力の一部だと思う。

 櫟野寺とその周辺に残る仏像は「甲賀様式」と呼ばれ、細身長身で目の吊り上がった厳しい表情の「前期様式」(11世紀前半)と、ずんぐりした体型でおだやかな表情の「後期様式」(11世紀後半~12世紀)があるという。私は、後期様式のほうが好み。ぽってりした唇が魅力的な吉祥天立像とか、利かん気の金太郎みたいな二重顎の観音菩薩立像とか。あと、ずんぐり体型ではないが、年代的には後期に入るのだろう、両腕を肩から失っている十一面観音菩薩立像や、顎の細い逆三角形顔の吉祥天立像も好きだ。

 この展覧会には、本尊を含め、櫟野寺が所蔵する平安仏20体が全てお出ましになっているが、実は、唇美人の吉祥天立像は、ずっと東京国立博物館に寄託されている。それが再び一堂に会したこの会場は「the perfect 櫟野寺」であると、いとうさんいわく。すかさず、みうらさんが、故人となった先代住職・三浦皎英さんを思って「the perfect 櫟野寺 without 皎英 だけどね」と言い直すところが好き。さらっと「コーエイさん上から見てるよね」と言い添えるところも好き。思わず、会場の高い天井をちらっと見上げてしまった。現在の住職は三浦密照(みっしょう)さんとおっしゃるそうだが、私が2004年に拝観したときに案内してくださった方かなあ。

 落ち着いた赤と黄色を配した会場の装飾もゴージャスでよかった。ひとつ不満をいうと、グッズの「Tシャツrakuyaji」が購入できなかったこと。売り切れとは考えにくく、未入荷なのだろうか? それから、図録の解説によると、櫟野寺には、平安時代の男神坐像と鎌倉時代の獅子・狛犬像もあるそうで、今回、展示されなかったのは残念。現在、本堂・文化財収蔵庫(宝物殿)の改修をおこなっているというので、それが済んだ平成30年(2018)10月、ご本尊十一面観音の33年に一度の大開帳にぜひ行ってみたいと思う。その頃、私はどこで何をしているかしら。
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秘仏五大明王を東京で拝観/松島 瑞巌寺と伊達政宗(三井記念美術館)

2016-09-26 22:42:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
三井記念美術館 特別展『松島 瑞巌寺と伊達政宗』(2016年9月10日~11月13日)

 東日本大震災復興を祈念し、瑞巌寺国宝「本堂」の平成大修理完成と伊達政宗生誕450年を記念する特別展。瑞巌寺の寺宝のほかに、仙台市博物館等から、伊達家ゆかりの文書や武具・美術品なども出陳されている。

 展示室1~2で目についたのは、てのひらに収まるくらいの小さな水晶の五輪仏舎利塔。北条政子が頼朝の菩提を弔うために寄進したもので、寄進状も残っている。線の太い、でも柔らかでおおらかな仮名書きの書で、なんとなく政子の性質を彷彿とさせる。平安時代、松島には慈覚大師円仁の開創を伝える天台宗の延福寺があり、平安末期には見仏上人(!)という仙人のような高僧が滞在していた。鎌倉時代に入ると、北条時頼が延福寺を禅宗の円福寺につくりかえる。開山は発身性西。二世には、建長寺開山の蘭渓道隆が就任した。なるほど~そういうわけで、北条政子の寄進状や蘭渓道隆の頂相が伝わっているのか。

 そして、早くも伊達政宗ゆかりの品々が登場。手習いなのか、徒然草の一部を巻紙に書写したもの。墨つきの濃淡の配置を意識した、装飾的で京(みやこ)ぶりな筆跡。しかも「花は盛りに」の段だというのが心憎い。『吉野懐紙』は、秀吉が吉野の花見の折に開いた歌会の記録で、政宗の五首が、本人の筆で書き留められている。最初の一首のみ読めたが「おなじくは あかぬこころにまかせつつ ちらさで花を 見るよしもがな」。おお、ちゃんと伝統を踏まえた和歌になっている! 政宗って勇猛な武将のイメージしかなかったのだが、ずいぶん文化人だったんだなあ。そして、このひとの筆跡、流麗すぎてげんなりするところが(笑)ちょっと乾隆帝を思い出させる。

 茶室の模型をつかった展示、さすが伊達家ゆかりの茶道具は趣味がいいなあ、と思って、床の間を見上げたら、三井記念美術館所蔵の『高野切(第二種)』。これは何のサービスかと思ったら、解説によると、天保10年(1839)三井家が仙台伊達家に財政上の便宜を計らったことに対する謝礼として、御紋服とともに拝領したものと思われ、三井家(新町家)に伝わったのだそうだ。もとは伊達家の伝来品だったのか。この由来を知っただけでも、この展覧会、ためになった。

 さて、ひろびろした展示室4は、瑞巌寺本堂の障壁画(前後期展示替えあり)に加え、五大明王像(平安時代・10世紀後半)と不動明王三尊像(鎌倉時代)が並ぶ。五大明王は33年に一度開帳される秘仏で、次回の開帳は2039年の予定だという。もとは華やかな彩色があったのかもしれないが、今はかすかに赤や金の色目が残る程度である。熱を帯びたような木の質感が、背景の深い藍色とよく合っている。五大明王像は、いずれも1メートル足らずだが、力強い。一部に鉈彫りのような荒々しさも見られるが、腕と指先の造形が、例外なく繊細で美しい。手の込んだ深い切れ込みで火焔のゆらめきを表現した、おそろいの光背も見どころ。あと大威徳明王の座っている牛は、つい頭を撫ぜたくなる(ガラスがあるのだけど)。不動明王三尊像は、二童子が、そのへんにいる子どものようで愛らしい。

 伊達政宗ゆかりの品の中で、『紫羅背板地五色水玉模様陣羽織』(9/10-9/23展示)が見られたのは嬉しかった。むかし仙台市博物館に行った時も、残念ながら見られなかったもの。五色の水玉のランダムな配置が絶妙で、これは何か複製品が欲しくなるよねえ。

 なお、毎週土日と土日に連続した祝日には、受付横で五大明王像の特別出開帳のご朱印を頒布しているそうだ。私は飛び石連休の22日に行ってしまったので、GETできず。残念。まあ私は2006年の瑞巌寺開帳に出かけて、御朱印も貰い、五大明王も拝観しているはずなのである(※2006年8月:御開帳ルポ)。しかし、言い訳ではないが、大混雑で押せ押せの御開帳だったので、五大明王の印象はほとんど残っていない。今回、ほぼ初見の気持ちで、ゆっくり拝観することができて、本当にありがたかった。
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海外と国内での歴史戦/海を渡る「慰安婦」問題(山口智美他)

2016-09-25 23:58:17 | 読んだもの(書籍)
○山口智美、能川元一、テッサ・モーリス-スズキ、小山エミ『海を渡る「慰安婦」問題:右派の「歴史戦」を問う』 岩波書店 2016.6

 「歴史戦」と称して、日本の右派が「慰安婦」問題を中心とした歴史修正主義のメッセージを海外に向けて発信する動きが活発になっているという。確かにこの数年、特にリベラルな立場の在外研究者のSNSなどで、そうした動きを伝え聞くことは多かった。

 はじめに能川元一氏は、「歴史戦」の誕生と展開を歴史を遡って解説する。画期となったのは、1996年から1997年の時期で、歴史教科書に日本軍「慰安婦」問題が記述されるようになったことで、右派論壇から反論・反発が噴出した。同時期に中国系アメリカ人アイリス・チャンの『The Rape of Nanking』と、ドイツ人ジョン・ラーベの日記が刊行された。慰安婦を戦時性暴力の事例と認めた「クマラスワミ報告」が提出されたのも1996年である。これらが右派勢力には、歴史認識問題に関する「反日包囲網」と認識され、中国系アメリカ人の市民運動が「敵」として発見される。

 政治ゲームでは「声の大きいものが勝つ」「論証において怪しくとも、熱心、かつ声高に、さらには確信的に自説を唱えるのが有効である」と、ある右派の論客が書いているが、なんだか宗教の勧誘みたいだ。そして、どうして歴史戦に勝たなければいけないかというと、「南京大虐殺」や「慰安婦強制連行」が真実として定着したら、日本人は未来永劫「犯罪国家」「犯罪民族」の咎を負うことになるというのだが、私は申し訳ないが、この論理が全く分からない。論理としても感覚としても、サッパリ理解できない。

 アメリカ在住の小山エミ氏は、2014年、カリフォルニア州グレンデール市に始まった「慰安婦」碑をめぐる騒動をレポートする。日本人の子どもに対するいじめが頻発しているという報道が週刊誌等であったが、何の根拠も見つからなかったこと。日本の保守派が組織した「慰安婦」否定のイベントに対して、さまざまなグループが連携して抗議運動を展開するようになったこと。

 看過できないのは、2014年末から翌年1月にかけて、アメリカで使用されている世界史の教科書について、日本政府が著者や出版社に記述の修正を求めたという件。いや、もしかしたら歴史戦の仮想敵国は、そのくらいえげつないことをやっているのかもしれないが、それでも文明国たる日本がやってはいけないことでしょうに。2015年5月には、米国の日本史専門家、日本研究者による、日本政府による歴史研究への介入を非難する声明が発表された。翻訳された著作を愛読している研究者の名前もあって、強い衝撃を受けたことを記憶している。

 テッサ・モーリス-スズキさんの著作は、好きでいくつも読んできた。日本の歴史のとらえ方、過去への向き合い方について、いつも教えられることが多かった。そして本書への寄稿は、静かだが強い怒りに満ちている、と感じた。安倍首相は「七〇年談話」で河野談話を継承するとしながら、その実、河野談話に示された「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題(※慰安婦問題)を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意」を全く捨ててしまった、と断じる。

 2015年10月には、著者のもとに参議院議員であり国際政治学者である猪口邦子氏から二冊の本が送られてきた。のちにこれは、自民党が「積極な情報発信」のために、英語圏のジャーナリストや研究者に向けて送付したものと分かるが、「戦前のプロパガンダそのまま」「恥ずかしい歴史修正本」と著者の評価は厳しい。そして、著者のように、時には厳しい批判も呈するけれど、研究対象としての日本の歴史や文化に深い理解と愛情を持っている人たちが、日本からこんな仕打ちを受けて、どれだけ憤懣やるかたないかを想像すると、本当につらい。

 山口智美氏によれば、自民党の議員らが訪米する際も、これらの書籍を持って(持たされて?)面会する要人などに配布しているのだという。やめてほしい。本気で恥ずかしい。右派が海外をターゲットにした英語による情報発信を強めている背景には、「日本国内では『慰安婦』問題は勝利した」という確信があるらしい(能川元一氏にも同趣旨の記述あり)。

 しかし、本書の例証を見るだけでも、日本の右派の主張が国際社会に受け入れられる現実的な見込みがないことは分かると思う。にもかかわらず、日本国内では、確かに右派の「歴史戦」が成果を上げつつあることを認めざるを得ない。世界と逆方向に進んでいく日本が、すごく心配である。
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人口動態と家族観の変化/喪失の戦後史(平川克美)

2016-09-23 20:52:53 | 読んだもの(書籍)
○平川克美『喪失の戦後史:ありえたかもしれない過去と、ありうるかもしれない未来』 東洋経済新報社 2016.9

 声と語りのダウンロードサイト「ラジオデイズ」が企画した全六回の講演をもとに戦後史を中心とした話をまとめたもの。著者の名前や発言は、SNSを通じて以前から知っていたが、著書を読むのは初めてである。そして著者紹介を見て、経済に関する本を多数書いているということも初めて知った。

 書き出しによれば、戦後の日本の経済を追いながら、日本人の価値観の変遷、特に家族に対する考え方の変化を中心に戦後史を語ることが本書の眼目である。そして経済を眺める指標として、著者が重視するのは「人口動態」である。第二講には、西暦800年を起点とする超長期的な人口動態のグラフが示される。著者が「驚いたこと」は、今日(2009年以降)急激に人口が減っていることではない。「本当に驚くべきことは、日本の歴史が始まってから、2008年に至るまで一度も人口が減ったことがなかった」ことであり、人口減について「日本人は誰も、これまで歴史の中で考えてきたこともない」のだという。冷静に考えると、飢饉や戦乱で日本の人口が激減したことは何度かあったはずだ。しかし「自然に人口が減っていく」というのは、確かに歴史上、はじめて経験する事態ということになるだろう。「現在の日本に続く、すべてのシステム、考え方は人口増を所与として考えられてきた」という指摘は首肯できる。

 そして「経済的に苦しい時代ほど、実は子どもをたくさん生んでいる」というのも、感覚的に同意できる。将来に対する不安が増大すると子供は増える。経済的に豊かになったことが少子化につながっているので、「金目」で人口は増やせない。う~ん、これは半分真実で、半分間違っているように思う。経済的援助が充実したからといって、三人も四人も生もうという女性は少ないかもしれないが、一人目を生む選択の後押しにはなるのではないか。

 さて、家族形態は、そのエリアの共同体(会社、国家)のフレームワークになっているのではないか、と著者は述べ、「Y軸:親子関係が自由主義的か権威主義的か」「X軸:兄弟関係が平等か不平等か」の組み合わせによって、4つのパターンを例示する(エマニュエル・トッドに教えてもらった、との説明あり)。親子が自由主義的で兄弟が平等=フランスの一部。親子が自由主義的で兄弟が不平等=英米。これらの国は核家族が絶対で、個人という概念が生まれやすい。親子が権威主義的で兄弟が不平等(長子相続が原則)=日本。ドイツ、スウェーデンもこれに近い。親子が権威主義的で兄弟が平等=中国・ロシア・ベトナム・キューバ。大家族を形成する国で、社会主義化した国は全部ここ。うまく説明がつきすぎて、ちょっと眉唾な感じはある。でも、いい悪いでなくて、伝統的な家族形態に似せた政治形態が国民にとっていちばん居心地がいい、というのは分かる気がする。

 日本の権威主義的家族主義の価値観はかなり堅牢で、敗戦によって表面的には否定されたが、内面に残り続けた。これが完全に払拭されるには、高度経済成長期以後の、社会の構造的変化を待たなくてはならなかった。

 高度経済成長は、貧しさと旺盛な食欲(購買欲)、そしてGHQが主導した「自由な空気」によってもたらされた。1973年にエンゲル係数が30%まで落ちることで、高度経済成長は終わり、日本経済は相対的安定期に入る。1973年は石油ショックの年でもあり、経済学者の下村治は「もはや経済成長は望めない」と予測していた。ところが、石油ショック以後、再び成長軌道に乗った日本経済に、世界の投資マネーが押し寄せる。73年までの日本経済は「ものづくりの資本主義」であったが、これ以降「マネー資本主義」が始まる。

 74年から90年までの間、週休二日制が定着し、コンビニエンスストアが生まれ、労働派遣法が成立し、人々の生活スタイルと価値観(労働中心から消費中心へ)を変えていく。核家族化が進行し、個人主義的な生き方が普通になり、さらに80年代後半から90年代にかけて、「金目」が全てと考える人々が出現する。

 90年代以降、日本経済は低成長またはマイナス成長が続き、長期デフレの時代となったが、前日銀総裁の白川氏は、このデフレはそれほど悪いものではない、と述べていたそうだ。著者はこれを解説していう。デフレとは物価がどんどん下がっていく状況をいうが、2008年から2015年まで、日本は賃金も上がらないが物価も上がらず、固定化した状態が続いていた。欧州経済危機だのリーマン・ショックだの、世界は激しく動いており、国内では東日本大震災もあったが、一般の日本人は、まあまあ普通に暮らしていられた。これは白川さんの功績ではないだろうか。この評価は、私の実感にかなり近い。

 ただ、それは私が安定した職を有していたからで、今の生活に満足できていない人々は「現状を変える」「特権を暴き出す」と主張する政治家に吸い寄せられていまうのだろう。しかし、人口が減少する社会では「縮小均衡」を上手に生きるしかない。人口減少は経済発展の帰結なのだから、昔に戻すことはできない、と著者は断言する。果たしてこれが正解なのかは、もう少し考えてみたい。
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カミとほとけの姿(岡山県立博物館)+尾道浄土寺ご開帳、他

2016-09-22 20:30:49 | 行ったもの(美術館・見仏)

岡山県立博物館 特別展『カミとほとけの姿-岡山の信仰文化とその背景-』(2016年9月9日~10月16日)

 三連休中日は岡山からスタート。本展は、彫刻を中心に岡山を代表する宗教美術を紹介するもので、展示替えを含め64件を展示。近年は、こうした展覧会がさまざまな地域で開かれていて、仏像好きにはたいへんありがたい。もっとも、滋賀(近江)や島根(出雲)と違って、岡山と聞いて思い浮かぶ仏像は全くなかったのだけど、とりあえず来てみた。

 受付で「2階から始まります」と教えられる。2階の2部屋と1階の2部屋、要するに常設展示を全て取っ払って、館内全てをこの特別展に使っているらしい。2階の第1展示室は「仏の造形」で15点あまり。倉敷・安養寺の小さな誕生仏像(天平時代)と銅造の如来立像(白鳳~天平)は例外として、平安時代の古仏がけっこうある。整っていて美しいなあと感じたのは、岡山市・明王寺の観音菩薩立像。腰から下の裳と弧を描く天衣の表現がリズミカルで華やか。つぶれたお団子みたいな頭髪の結い方もかわいい。

 第2室は神像。壁に沿った展示ケースには、小さな坐像が並んでいたが、中央に大人の背丈ほどの大きな男神像一対があった。津山市・高野神社(たかのじんじゃ、美作国二宮)の随身立像である。どこで見たのか思い出せなかったが、調べたら、2013年の『国宝 大神社展』で見ていた。随身門に安置されていたものというが、めったな気持ちで門をくぐれないくらい、厳しい顔をしている。

 1階に下り、第3室は浄土信仰を背景にした中世の造形。各時代の仏画も楽しめた。第4室は密教仏。曼荼羅、十二天像など絵画が中心だが、真庭市・勇山寺の巨大な不動明王と二童子像(平安時代)には圧倒された。彫刻としてはバランスが悪く、顔つきも悪相だが、異様な迫力がある。展示図録はいちおう買って帰ったが、もう少し詳しい解説がほしかった。

大本山 浄土寺(広島県尾道市)秘仏御本尊・十一面観世音菩薩御開帳(秋期:2016年9月18日~11月20日)

 開創1400年と平成の大修理完成を記念して、今年は春と秋にご開帳が行われている。本来、ご本尊は33年に一度の開扉で、近年のご開帳は2001年4月13日~15日とのこと。かなり本格的な秘仏である。私が訪ねたのは秋期ご開帳の初日で、午前中は開扉式が行われていたらしく、まだ本堂の外陣に白い布が敷いてあったり、落ち着かない雰囲気だった。机を据えただけの拝観受付で、おばさんが「えっと、本堂と阿弥陀堂と宝物館のセットで○○円、庫裏と庭園(?)を加えると○○円」と早口に説明してくれたので、安い方のコースを選択。本堂のご本尊は小さなお厨子に収まり、幕(戸帳)を左右に分けて中央を開けただけなので、正面に立たないとお姿が見えない。しかし、内陣のお厨子の前まで行けるので、じっくり拝観することはできた。

 平安初期の端正な十一面観音立像。右手は胸の前で水瓶を持ち、長い左手は体の側面に垂らしている。どちらの手も指先に流れる音楽のような表情があって美しい。顔つきにあまり人間味が感じられない(超越的である)のと対照的だ。曖昧な記憶なのだが、もとは左手に錫杖を持つ長谷寺式の十一面観音だったという説明がお堂の中にあったような気がする。

 廊下伝いに隣りの阿弥陀堂に入って、阿弥陀如来坐像(平安末期)を拝観。それから別棟の宝物館に入る。各種の聖徳太子像などがあったが、一番面白かったのは、巨大な仏涅槃図。鎌倉時代の作だというが、集まった動物や鳥の表情が、どことなく蘆雪の画風に似ている感じがした。カピバラにしか見えない動物がいたのだが、イノシシだったのかしら…。



 そのあと、え?ここが道?というような細道に迷い込む古寺めぐりコースをたどって、駅まで戻った。

徳川美術館 特別展『ザ・ベスト@トクガワ』(2016年9月15日~11月6日)

 三連休最終日は名古屋。「ザ・ベスト@トクガワ」とは大きく出たな、と思った。徳川家康(1543-1616)没後400年の記念企画かな?と思ったが、ホームページを見ると、特にそのような趣旨は掲載されていない。よく分からない展覧会である。まあしかし、確かにいつもより名品が多いかなと感じた。無準師範筆『達磨図』(中央)『政黄牛』『郁山主図』三幅対が揃って出ていたり。高麗仏画の地蔵菩薩像(被帽地蔵菩薩)や朝鮮の活字本、『河内本源氏物語』(鎌倉時代、完本として最古のもの)、徳川家康所用の『保元物語・平治物語』など。

 一番びっくりしたのは、岩佐又兵衛筆『豊国祭礼図屏風』右隻(豊国神社社頭における田楽猿楽の奉納)が出ていたこと。8月に福井県立美術館で見た作品とこんなに早く再会するとは! 後期(10/12~)は左隻に展示替えらしい。ほかにも近世の風俗画は『歌舞伎図巻』『遊楽図屏風(相応寺屏風)』『本多平八郎姿絵屏風』と充実していた。『平家物語図扇面』は、根津美術館所蔵の作品を思い出した。唐物漆器のミニ特集も楽しい。しかし、メイン会場が蓬左文庫の展示室で、本館(第7~9展示室)が2017年1月下旬まで耐震補強工事で閉室中なのは、やっぱり数量的に物足りない。早く工事が終わってほしい。

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若狭国と絵巻(京都国立博物館)+ノンカウ展(楽美術館)

2016-09-20 23:46:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
 三連休は関西方面に出かけてきた。初日が京都、二日目が岡山と尾道、三日目が名古屋。この連休は、東京の展覧会めぐりで過ごすつもりでいたのだが、どうしても見たいものができて、上洛してしまった。↓その理由がこれ。

京都国立博物館 『若狭国と絵巻』(2016年8月30日~10月2日)

 常設展示(名品ギャラリー)の一室の小さな特集展示なのだが、重要文化財『若狭国鎮守神人絵系図』を中心に、若狭国にまつわる絵巻物を紹介するという。私がこの絵巻の存在を意識したのは比較的最近で、2014年7月、リニューアルオープンした若狭歴史博物館で複製品を見たとき。それ以前も以後も、原品を見たことはないと思う。これは…見たいと思ったら、いても立ってもいられなくなった。

 今回の展示作品は4件。まず『彦火々出見尊絵巻』(4巻のうち巻4)は京都・曇華院所蔵。若狭国松永庄新八幡宮に伝わった原本は失われたが、明通寺に江戸時代の模本が残る。これは明通寺本をさらに写したもの。人の姿が大きく、面長な特徴も古風(鎌倉の絵巻はちまちましている)。場面は龍王の姫君が従者に守られて海を渡るところ。

 次の『若狭国鎮守神人絵系図』は若狭彦神社旧蔵、2年間の修復作業が2013年に完了して初めての公開だという。つまり、少なくとも2011年以降、公開されていなかったと考えられる。はじめに若狭彦神が節文(たかふみ)という名の眷属(人?神?)を連れて遠敷(おにゅう)郡に姿を現す。山の中に黒と赤の縞模様の幕がめぐらされ、壮年の厳めしい男神の前で横顔を見せているのが節文。この仮の御座所には、のちに神宮寺が建立された。

 場面が変わり、白馬にまたがった若狭彦神と後ろに従う節文が青雲に乗って空を駆けている。はるか下に山並み。衣服や帯紐のなびき方、馬の姿態、節文の足の跳ね上げ方に軽やかな躍動感がある。描線は細くて緻密。絵師のわくわくしている気持ちが伝わってくるようだ。こうして選ばれた地に社殿が建てられた。次の場面に神の姿はなく、木々に囲まれた社殿の前で、節文が幣をとって拝礼している。これが若狭彦神社だ。社殿の図の外れ(回廊の外)に小さな社と「黒童子社」という墨書があって、何かと思ったが、調べたら、節文自身が「黒童子神」として祀られたらしい。

 次に若狭姫神が天女たちを引き連れて高い岩の上に現れる。岩の下には黒い鵜が二羽描かれている。若狭姫も社殿に鎮座し、節文がこれを礼拝する。若狭姫神社である。このあとは、歴代社務職をつとめた笠氏の肖像が、二人ずつペアで描かれる。奇数代は礼盤に座し、偶数は上げ畳に座しているのは「一代は神と為り、一代は凡と為る」という伝承の視覚化だとか。初代の節文は明らかに特別な風貌に描かれているが、その後も個性をよく描き分けている。13代以降は後補。

 この数年、毎年、小浜に行っていることもあって、若狭彦・若狭姫神社といえば、そうか、あそこか~と風景が思い浮かぶので、とても興味深かった。チャンスを逃さず、この作品を見に来て、本当によかった! ほかに『伴大納言絵詞』模本(原本は若狭国松永庄新八幡宮に伝わった)と『日蓮聖人註画讃』(京都・本圀寺所蔵、若狭・長源寺で制作された)。

※参考:e国宝『若狭国鎮守神人絵系図

■京都国立博物館 特集陳列『生誕300年 与謝蕪村』(2016年8月23日~10月2日)

 通常「中世絵画展示室」と「近世絵画展示室」となっている二室を使って行われている。特に屏風と俳画に着目し、屏風の名品が多く出ている。所蔵者が空欄になっているものが多く、たぶん個人蔵なんだろうなあと想像していた。中国の山水画の学習成果を消化して、独自の世界を切り拓いていく様子がとても面白いのだが、まだうまくその魅力を言葉にできない。現場でいいなあと思ったのは、明和元年(1764)の『山水図屏風』。いま図録で見ていると『竹渓訪隠図』が好き。

楽美術館 秋期特別展・重要文化財指定記念『三代 楽道入・ノンカウ展』(2016年9月10日~11月27日)

 京都でもう1箇所くらい寄れそうだったので、慌てて探したら、ノンカウ(ノンコウ)展をやっていると分かって行ってみた。先だって、日本橋三越の『千家十職の軌跡展』で、やっぱりノンコウが好き!と再認識したばかりだったので、嬉しかった。冒頭に特別展示で長次郎の『万代屋黒(もずやくろ)』があり、最後の方に光悦の白楽茶碗『冠雪』があったのを除くと、全て道入の作品。茶碗だけでなく、香炉や灰器、めずらしい置灯籠もあった。高台の異様に高い、馬上盃形の茶碗には笑ってしまった。いろんな大胆な試みをしながら、最終的には「茶碗屋らしい」造形に落ち着いている気がする。自由すぎる光悦の楽茶碗を思いあわせると興味深くて、どちらも好き。
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歴史のものさしで考える/戦争まで(加藤陽子)

2016-09-19 22:42:28 | 読んだもの(書籍)
○加藤陽子『戦争まで:歴史を決めた交渉と日本の失敗』 朝日新聞社 2016.8

 大きな反響を呼んだ『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2009)の続編と言っていいだろう。前作は神奈川県の男子校で、中学一年生から高校二年生までの17名の生徒を相手に行った講義だったが、今回はジュンク堂書店池袋本店の企画で、さまざまな学校の高校生・中学生が参加している。

 初回は、歴史(学)とは何かという総論から始まる。シラバスのお手本みたいだ。日本という国家が最初に書いた歴史書『日本書紀』は、白村江の戦いの後に成立した。これは、戦勝国の唐に対して、倭国が日本という新しい国に生まれ変わったことを主張するために書かれたのだという。「ある意味で、自ら憲法原理を書き換えたということになりますね」と著者。え~この視点は知らなかった。注を見たら、東大の大津透さんが論じているらしい。そして、昭和天皇も、太平洋戦争に負けた翌年、日本が負けたのは初めてではない、663年、白村江の戦いに敗北し、その後に改新が行われ、日本の文化の発展の転機となった、ということを述べているのだそうだ。こういう「長い時間のものさし」で世の中を見ることの大切さを著者は説くのだが、それにしても天皇家のものさしは見事に長いなあ…。

 2回目以降は、近代日本が世界と「斬り結ぶ」体験をした3つの事件を時代順に取り上げる。「満洲事変とリットン報告書」「日独伊三国同盟」「(日米開戦前の)日米交渉」である。共通した感想は、こんなに重要な事件なのに、日本人である私が、基本的なことをほとんど知らないという事実。リットン報告書といえば、日本の主張を否認し「満州国は民族自決によって作られた国ではない」と結論したことで、日本が国際連盟を脱退するきっかけとなったもの、と理解してきた。しかし、本書の紹介によると、中国側の非も指摘しており、具体的な調停案は、かなり日本に譲歩する内容となっている。にもかかわらず、当時の日本の新聞が「支那側狂喜」と報じていたというのは、やれやれという感じだ。

 一方、昨今、一部の人々に見られるように、リットン報告書が示している日本への同情を過大に評価するのもいかがなものか。リットンは、満州国の実態が「傀儡」であることを承知しながら、日本に対して、お前は侵略者だろう、と指さすのではなく、日本が交渉のテーブルにつける条件を準備したと著者は述べている。本書には、こういう驚くほど我慢強い、老練で老獪な外交官や政治家がたくさん登場する。世界の歴史は、子供のケンカのような単純な二分法で動いてきたわけではないのだ。

 なお、昭和天皇は、リットン報告書の調停案を先取りするように、満洲国に新政権をつくり、張学良をトップに据えることは不可能か、と陸相らに問いかけている。これはすごいわ~。天皇がいかに「日支親善」を心底望んで、具体案を考え抜いていたかが分かるように思う。

 日独伊三国軍事同盟は、さらにさまざまな思惑が絡んでいてややこしい。まず軍事同盟の三要素 (1)仮想敵国の設定 (2)援助義務 (3)それぞれの勢力圏、の説明がある。今後の安保関連法制を見て行くためにも覚えておきたい事柄。三国同盟の仮想敵国はアメリカであり、アメリカが日独伊いずれか一国を攻撃したら、日独伊も参戦することとした。より重要なのは、日本の勢力圏として掲げられた「大東亜」で、第二次世界大戦がドイツの勝利で終結した場合、日本はフランス、イギリス、オランダの旧植民地を手に入れるつもりでいた。つまり、三国同盟は「戦後のドイツ」を牽制するために結ばれたのである。これは河西晃祐さんの説とのこと。目からウロコが落ちる。

 日米交渉については、「ハル・ノートはアメリカの罠」「駐米日本大使館員の怠慢による対米通告の遅れ」などの風聞をばさばさと退ける。しかし、アメリカは日本の真珠湾攻撃を予測できなかった。石油生産でもGDPでも圧倒的な差があるにもかかわらず、戦争を仕掛けてくる不合理な国があることを見落としていた。この失敗は、戦後、アメリカにとって「ソ連の不合理な行動を予見するプログラム」を開発する際の重要な歴史的教訓となったという。たぶん今も、たとえば北朝鮮の行動を評価するときも日本の教訓は生かされているんだろうな。

 そして日本人として考えなければいけないのは、なぜ日本は勝ち目のない戦争に走ってしまったのか。「やっぱり民衆の声が大きかったのですか」という質問に対し、著者は「これを避けるための一つの知恵は教育だと思うのです」と答える。戦前は、普通の子どもたちにとっての天皇は、修身の授業で習う神話の中の天皇だった。本当の古代史を教えてもらえるのは旧制高校に入ってからで、100人に1人くらいしかいなかった。それでは正しい「歴史のものさし」は持ちえないし、最適解は選べない。本当にそうだと思う。いま小中学校で、道徳教育の拡充を図る動きがあるけれど、そんな余裕があるのなら、史料に基づく歴史を学ばせたほうがよほど有意義なのではないだろうか。
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皇帝と庶民の国/ネオ・チャイナ(E.オズノス)

2016-09-17 06:55:18 | 読んだもの(書籍)
○エヴァン・オズノス著;笠井亮平訳『ネオ・チャイナ:富、真実、心のよりどころを求める13億人の野望』 白水社 2015.7

 読む前の予想とはずいぶん異なる内容だったが、面白かった。まず、新刊だと思ったら2015年(1年前)の刊行だった。原著は2014年刊。著者が2005年から2013年まで「ニューヨーカー」の特派員として中国で暮らしたときの体験と取材がもとになっている。中国という国の変化があまりに速いので、5年~10年前の社会状況は、もはや遠い昔話のような感じがした。私は「ネオ・チャイナ」という邦題から、もっと直近あるいは近未来の中国について書かれた本かと思っていたので、余計に時代錯誤に戸惑った。

 また、オーソドックスな評論集かと思ったら、小説に近いスタイルだったことにも驚いた。著者は今世紀初頭の中国を叙述するにも、まず彼らの生きて来た軌跡を振り返ることから始める。本書の冒頭は、1979年5月16日、台湾の若き陸軍大尉・林毅夫が、馬山という小さな岩礁の駐屯地から、海を泳いで大陸に亡命するところから始まる。彼は、期待していたような英雄扱いはされなかったが、中国の生活に順応し、北京大学に入学を許可されて経済を学ぶ。そして本書の後半で、世界銀行のチーフエコノミスト(2008-2012)として再登場し、著者のインタビューを受ける。こんな人がいるとは全く知らなかったので、びっくりした。

 本書には、老若男女、有名無名、本当に多数の中国人が登場する。男女のマッチングサイトを立ち上げて成功した実業家の龔海燕(女性)。企業の不祥事などを暴いて雑誌「財経」を育てた元編集長の胡舒立(女性)。「クレイジー・イングリッシュ」に心酔し、自らも英語を使って世に出ようとしている張志明。愛国主義的な動画をインターネットに投稿し、幅広い支持を集めた大学生の唐傑。ブロガー、小説家、レーサーとして若者の人気を集めた韓寒。日本語に翻訳された『上海ビート』の作者だ。彼らは、本書の前半で登場したあと、また後半で著者の前に登場する。その間に10年あまりの歳月が流れており、13億人の暮らす大国で、変化の波に乗ること、あるいは乗り続けることの難しさを感じさせる。

 天安門事件以降も民主化運動を続け、獄中でノーベル平和賞を受賞した劉暁波も知っていた。盲目の弁護士にして人権保護活動の陳光誠のことは、本書で初めて詳しく知ることができた。壮絶だなあ。そして支援者たちの機智に富んだ運動(サングラスをかける、カーネルおじさんに似せたFree CGCのステッカー)も面白かった。芸術家の艾未未(アイ・ウェイウェイ)も名前くらいしか知らなかったが、作品も本人も面白いなあ。映画監督の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)が数行だけど登場していたのは嬉しかった。

 日本では紹介されないような人物に光が当たっていて興味深かったのは、マカオのカジノで莫大な財産を築き、ギャングに狙われた「賭神」蕭潤平。無学な農民の息子から鉄道部長(大臣)に成り上り、絶大な権力を手にした劉志軍。急速な高速鉄道網の整備を実現して「劉跨越」(大躍進の劉)と呼ばれたが、温洲鉄道事故によって責任を問われることになる。この人は功罪ともに巨大で、大運河を開いた煬帝みたいだと思った。こうした、ギラギラした野心にあふれた人々を取り上げる一方で、温洲鉄道事故で生活を一変させられた人々、四川大地震の被害者(手抜き工事によって、多くの子供たちが命を落とした)なども取材している。

 2011年10月、広東省仏山市で、小さな女の子が車に轢かれて倒れたあと、しばらく生きていたにもかかわらず、周囲の人々が放置していた様子が近くの監視カメラに録画されていて、中国の人々に衝撃を与えた。日本でも「だから中国人は」的な取り上げられ方をしたのを見た記憶がある。著者は、最初に女の子を轢いたが気づかず通り過ぎてしまったバンの運転手、「見て見ぬふりをしていた」ことで、後に国民の非難の対象になった人物の言い分、最後に女の子を救おうとしたことで時の人扱いになった老女などを丁寧に取材している。そこから浮かび上がるのは、余計なことをすれば、たちまち生活の基盤が崩れてしまう不安を抱えて、余裕なく生きる人々の姿である。中国って、いつまでも皇帝と庶民の国なのかもしれない、と思った。

 著者は北京の孔子廟近くに家を借りていたらしく、ときどき生活圏の描写が入るのは楽しい。あのへん、古い王城らしくていいところだよねえ。また、途中に中国人向けのパッケージツアーに参加して欧州を旅行したときのルポルタージュも挟まれて面白い。著者は、あらゆるタイプの中国の人々に冷静で公平な関心を向け続けている。中国の民主化に掉さす心情の読者は、そのことを物足りなく感じるかもしれない。最後には、新しい指導者・習近平の登場が、帰国間際の著者の目にどう映ったかが語られており、わりと好意的な言葉が並んでいた。

 最後に思ったこと。もし外国人記者が、こんなふうに「日本の現在」を書くとしたら、どんな人々に取材するだろう。どんな本になるだろうか。

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週末は北海道:植物園+北大総合博物館

2016-09-14 23:12:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
 日曜日は、北海道立近代美術館の『ゴジラ展』を見に行く前に、二年前まで住んでいた宿舎の近くを散歩してみた。札幌市有形文化財の清華亭は看板などが新しくなって、以前よりきれいになった印象。正面の偕楽園緑地は、こんなに緑が深かったかなあ。緑地の隅にある井頭龍神(いのかみりゅうじん)社は、雪のない季節に近づいてみるのは、実は初めてのこと。

 それから、朝9時に開園する北大植物園を訪ねる。まだ秋の気配はなくて、したたるような緑一色。人の少ない園内を、自転車です~っとまわっている作業服姿のお兄さんを見かけた。いいなあ、こういう仕事。いつもと順路を変えて、初めてバラ園に行ってみると、控えめな秋バラが少しだけ咲いていた。あまり人の手の入っていない、自然にまかせた庭の様子が、秘密の花園っぽい。



 園内の博物館(展示室)で南極に行った樺太犬ジロに会う。先日、科博でタロに会ったので、兄弟犬のジロにも会いたかったのだ。そして、タロもジロも黒一色の樺太犬だったことを再確認する(どちらかが白かったように誤って記憶していた)。

 調べたら、タロとジロは稚内生まれ。ジロは第4次越冬中の1960年に昭和基地で病死し(5歳)、剥製は国立科学博物館に保管されることになった。タロは第4次越冬隊と共に帰国した後、10年近く、この植物園で飼育されていたらしい。1970年に老衰のため14歳7か月で死亡。まあ故郷の北海道で穏やかな余生を過ごせたのなら幸せだったのかな。



 展示室には、エゾオオカミの剥製もあり。すでに絶滅した種。



 近代美術館を見たあと、午後は北大キャンパスの中にある北海道大学総合博物館を見に行く。2015年4月から改修工事のため休館していたが、今年2016年7月、リニューアルオープンしたばかりだ。

 外観は特に変わった印象を受けなかったが、中に入ると、けっこう変わっていた。「北大のいま」の展示が、学部・研究センター別になり、分かりやすくなった。各組織が、自分たちの研究をいかに分かりやすく面白く伝えるか、知恵をしぼっている様子が楽しい。北大を受験しようかどうしようかと考えている高校生にも、アピールすると思う。あと「北大の歴史」では、「国家主義の東大」に「リベラリズムの北大」を明確に対置しているのが小気味よくて、笑ってしまった。

 3階の「収蔵標本」の展示は、以前より展示らしくなった。以前というのは、初めて訪ねた2010年のことで、ただの資料倉庫のように見えて、実は中に入ってもいい、という曖昧な公開の仕方(※当時の記事)が、個人的にはとても好きだったのだけど、今回は、展示室は展示室らしくなっていた。

 でも通路の奥には入り込めないよう、さりげなくクマの剥製が邪魔をしているあたりは、この博物館らしくて好き。棚の木箱には、前回も気になった「遺存体」というラベルが貼ってある。



 この子たちも、古くからこの標本室の住人だったように思う。足元にすり寄ってきそう。

 

 そして、古生物標本の部屋はやっぱり最高! 北海道立近代美術館の『ゴジラ展』を見に行く方には、是非あわせて、この標本室の参観をおすすめしたい。耳の奥でゴジラのテーマ曲が鳴り響いて、いつも以上に想像力を刺激される。



 リニューアル前の、何が隠れているか分からない「ワンダーカマー(驚異の部屋)」的な雰囲気は薄らいでしまったが、明快で科学的(理性的)で、市民に愛される雰囲気が増したように感じた。館内にカフェができたのもうれしい。今回は利用しなかったが、なんと生ビール(サッポロクラシック!)も飲めるらしく、素晴らしい。

 このあと、まだ少し時間があったので、2015年12月にループ化された市電を1周乗ってみた。満足。

※おまけ:昼食に食べたもの。赤れんがテラス「布袋」のレディースランチ。ザンギ2個って少ないかな?と思ったが、普通の市販のから揚げの2~3個分のボリュームがあるので、お腹いっぱい。ザンギ6個の定食Aって、ちょっと信じられない。



 今回は帰りの飛行機に遅延もなく、無事帰宅。北海道、近いなあ。また行きたい。
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