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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

忘れてはならないこと/九月、東京の路上で(加藤直樹)

2017-08-30 23:56:16 | 読んだもの(書籍)
〇加藤直樹『九月、東京の路上で:1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』 ころから 2014.3

 数年前から時々話題になる本なので存在は知っていたが、進んで読もうとは思わなかった。読んだらきっと鬱になるだろうと思って、むしろ遠ざけていた。それが、やっぱり読んでおこうという気になったのは、先日、小池百合子都知事が、関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったというニュース(HUFFPOST 2017/8/24)に直面したためである。都は「毎年9月1日に都慰霊協会の主催で関東大震災の犠牲者全体を追悼する行事があり、知事が追悼の辞を寄せている。個々の追悼行事への対応はやめることにした」と説明しているが、自然災害の犠牲者と人的な暴力の犠牲者を同列に追悼するのはおかしい、という批判もある。私は批判のほうに共感する。

 本書の主要部分は、1923(大正12)年9月1日(土)午前11時58分、マグニチュード7.9の大地震の発生を起点として「ジェノサイド」が広がっていく様子を、さまざまな証言と記録から再構成したものである。そのあとに「あの9月を生きた人々」のまとまった証言を取り上げ、著者の考察が付記されている。最も衝撃的なのは、やはり出来事を時系列に再構成した部分である。地震の翌日9月2日の未明から、都内の各地で騒ぎが始まる。品川、四ツ木、神楽坂下、亀戸、千歳烏山…。どの証言も凄まじい。屠られる命の軽さは、ふつうの生活者の街の話とは思われず、いきなり戦場が出現したかのようだ。

 私がいま住んでいる永代橋付近でも事件は起きた。洲崎から「不逞鮮人」を連行中、永代橋が焼け落ちて不通だったため、渡船を待っている間、朝鮮人が逃亡を企てたので、約30名が「避難民及警官」によって殺された。ただし記録には不審な点があり、実際は墨田川岸まで連行して射殺し、遺体は川に流したのだろうと著者は考えている。永代橋の東側だから、本当にうちのすぐ近くだ。週末はぶらぶら散歩に行くあたりである。本書は、虐殺の記録や証言の残っている場所について、詳しい地図と現在の写真を載せている。写真は、追悼碑のある風景のほうが受け入れやすく、賑やかな商店街やきれいな公園などは、記事とのギャップがかえって禍々しい。

 私は、小学生の頃に愛読していた「歴史マンガ」で、関東大震災のときに殺された人々がいたことを学んだ。ただしそれは、子供向けに抽象的に描かれていた。「薪の山のように」死体が重なるほど多数の人間が、日本刀や鳶口などで無残に殺されたことを知ったのは、大人になってからである。しかしまあ知っていることなので、本書にも耐えられるかと思っていた。

 驚いたのは、9月4日、5日、6日と、流言は汽車に乗って関東一帯に広がり、寄居、熊谷、宇都宮や小山でも多くの朝鮮人が暴行されたり殺されたりしていたことだ。東京育ちの私は、かえってこの事実を知らなかった。萩原朔太郎が「朝鮮人あまた殺され/その血百里の間に連なれり/われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」と詠んだのは群馬である。あと、横浜がひどい状況だったということも初めて認識した。建物の倒壊や火災もひどかったし、朝鮮人暴動という流言の「もっとも大きな発生源」であったらしい。記録からは、朝鮮人だけでなく中国人も被害にあったことが分かる。中華街のある土地なのに、つらい。

 一方、朝鮮人を守った人々もいた。さらりと書いてあるだけだが、青山学院の寄宿舎が70~80人の朝鮮人をかくまったという話には、少し明るい気持ちになった。ヘンな誉め方だが、さすがキリスト教の学び舎である。寄居町ではアメ売りの朝鮮人が留置場に保護されていたが、群衆に引きずり出されて殺された。遺体を引き取り、墓を建てたのは、日本人のあんま師だったという。路上の商売人どうしの交流があったのではないかと著者は想像する。

 本書は後半で、2005年8月、ハリケーンが直撃したニューオリンズで起きたヘイトクライムを紹介する。白人たちの「自警団」によって殺されたマイノリティの人々。反省を表明しない警官と行政官。なぜなら彼らの考える「治安」には、マイノリティや移民の生命は最初から入っていないのだ。90年前の東京・関東と、さまざまな点が一致しており、関東大震災と朝鮮人虐殺が、忘れていい過去の出来事ではないと、あらためて感じた。ニューオリンズの事件を検証したレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』は、災害時の公権力の無力化に対して、これを自分たちの支配の正統性への挑戦と考える行政エリートが起こす恐慌を「エリート・パニック」と呼んでいる。この概念、災害以外の局面にも適用できる気がした。
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戦争と探偵小説家/乱歩と正史(内田隆三)

2017-08-28 23:58:50 | 読んだもの(書籍)
〇内田隆三『乱歩と正史:人はなぜ死の夢を見るのか』(講談社選書メチエ) 講談社 2017.7

 江戸川乱歩(1894-1965)と横溝正史(1902-1981)という二人の作家を軸にして、日本における本格探偵小説の創造の過程を明らかにする。この創造の過程は、第一次世界大戦後の乱歩による創作探偵小説の試みのあと、戦争の試練を経て、第二次大戦後の正史の試みに引き継がれる、というのが本書の冒頭に示される見取り図である。

 分量的には乱歩に関する記述のほうが多い。著者は、どちらかといえば乱歩のほうが好きなんだな、ということはなんとなく感じた。著者は乱歩の数多い作品群を(1)「二銭銅貨」「D坂の殺人事件」などの純探偵小説(本格物)、(2)「魔術師」「吸血鬼」などの猟奇的な冒険譚、(3)「怪人二十面相」「少年探偵団」シリーズなどの少年物、に分類している。乱歩の作家活動は、ほぼこの順番に展開する。1920年代に「二銭銅貨」でデビューを飾った乱歩は、探偵小説特有の「論理的な面白さ」を、はじめて日本の生活空間に構築した。なお、文体的に、宇野浩二の影響が強いという指摘は面白い。

 しかし、論理的なトリック中心の探偵小説に行き詰った乱歩は、休筆=放浪期を経て、「淫獣」「芋虫」「押絵と旅する男」の作家として帰還する。そこでは、情痴と純粋さが共存し、実存の不安が揺らめいている。先を急ぐと、30年代前半に乱歩は再び休筆する。「如何にしても探偵小説的情熱を呼び起こし得ず」という深刻な気力減退の中、乱歩は「怪人二十面相」によって復帰する。怪人二十面相は快盗ルパンのイメージを借用しながら、ルパンにはない怪奇性、異人性を持ち、明智探偵に負け続ける「負性」を背負い、そもそも実体がない、という分析が非常に面白かった。

 1940年代、戦争が厳しくなると、乱歩は地域の翼賛壮年団の事務長をつとめるなど、すすんで国策に協力した。反時局的な文庫本の刊行を自主規制し、執筆意欲を失って、蔵の中で「貼雑帖」の整理に時間を費やしていた。その頃、横溝正史も「鬼火」の削除を命じられ、探偵小説を取り上げられて捕物帳への転換を果たす。しかし、その捕物帳も駄目となって、岡山の疎開先で戦争から「距離」を取って日々を過ごす。50代の乱歩に運命への諦観が感じられるに対し、40代前半の正史には、まだ生きることへの強い執着が感じられる。「生きることは書くことであり、書くとは〈本格〉物を書くことであると見切ったゆえの生への執着である」という著者の断言が尊い。

 そして敗戦の直後に「本陣殺人事件」「蝶々殺人事件」「獄門島」等々、怒涛のように横溝の傑作が生まれていく。1930年代の探偵小説を代表する乱歩は、犯罪者「個人」の心理を如何に描くかを重視するが、横溝作品では、多くの場合、真の悪念は「個人」ではなく、集団あるいは習俗の論理の中にある。犯罪の動機は、個人の利害よりも死者の遺志に誘導されている。それは「死者を悼む人々が膨大な数にのぼった時代の感受性のようにも思える」と著者はいう。しかし、21世紀を生きる私たちも、なぜか今なお横溝の「死者に誘導される犯罪」の物語に惹かれるのである。
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総力戦の夢を乗せて/飛行機の戦争(一ノ瀬俊也)

2017-08-27 23:58:41 | 読んだもの(書籍)
〇一ノ瀬俊也『飛行機の戦争1914-1945:総力戦体制への道』(講談社現代新書) 講談社 2017.7

 日本が太平洋戦争に敗北した理由の一つとして「大艦巨砲主義」という言葉がある。日本軍は、伝統的な艦隊決戦に拘りつづけ、「航空戦力を基軸にした海軍戦力の再構築が果たせなかった」という批判である。戦艦大和、武蔵は、同主義の代表的事例と見なされている。しかし、本当のところ、国民の「軍事リテラシー」において、戦艦と飛行機は、どのように認識されていたのか。本書は時代を追って説き明かしていく。

 まず、大正~昭和初期。第一次世界大戦の青島戦で、日本陸海軍の飛行機は初の実戦を体験し、大戦間の欧州における飛行機の急速な発達は日本国内でも関心を高めた。大正の初めの時点で「飛行機の優劣が戦艦による海戦全体の死命を制する」という原則が、すでに日本国民にも報じられていた。

 この時期、「都市防空思想の立役者」として活躍したのが長岡外史である。このひと、日本の飛行機の発展に貢献した人物という認識はあったが、なぜ航空戦力の拡充が必要かというと、将来の戦争では爆撃機が日本の都市を襲う→迎撃できる戦闘機が必要、という理屈だったのだな。長岡は、大坂・名古屋などの大都市が敵の空爆によって灰燼に帰する様を、空恐ろしいくらいリアルに描いている。いや、当時の人々が、どれだけ「リアル」と感じたかは分からないが。

 次に、満州事変(昭和6/1931年)以後。空軍の重要性が国民に根づいた結果、軍への飛行機の献納運動が盛んに展開された。空軍は、海軍軍備の劣勢を補うものとして期待された。なお、当時の海軍が、仮想敵国アメリカの軍備をどう見ていたかも興味深く、アメリカが大艦巨砲主義を取り、プラス航空隊を整備して「制空権下の艦隊決戦」を目指している以上、日本もそれに追随せざるを得ない、と主張している。また、昭和初期から活発化した都市防空演習は、国民の不安と恐怖を煽り、空襲を阻止できるのは航空軍備しかないという認識が広まっていく。

 昭和12年(1937)に勃発した日中戦争では、陸海軍の航空部隊が大きな役割を果たし、南京や重慶への事実上の無差別爆撃も行われた。防空演習を通じて「空襲の恐怖」を学んできた日本国民は、敵国の首都を炎上させることで快哉を叫ぶのである。この事実の順序関係は、本書で初めて認識したところで、なんとも苦いものがある。

 日中戦争の華々しい戦果は、積年の対欧米劣等感を払拭し、海軍内には大艦巨砲主義どころか、航空戦力さえあれば対米戦は可能とする見解が生まれた。日米開戦の年、昭和16年(1941)の著『日米戦はば』には、戦艦で劣っても空軍さえあれば負けない旨の記述があるという。ううむ、今となっては緒戦で勝ち過ぎたのがいけなかったように思う。昭和15年(1940)の零戦の登場など、少なくとも一時期の日本の航空機制作技術は、欧米に引けをとらない水準に達していた(と思いたい)。しかし優位は続かなかった。

 多くの国民が飛行機増産に動員され、航空機燃料となる松根油の増産に駆り出された人々もいた。しかし、今でこそ知ることのできる実際の統計(日米の飛行機生産数)は非情である。特に、生産能率の面ではるかに及んでいないという事実は悲しいが、当時の人々に知るすべはなかっただろう。一方、飛行機の乗員の技量については「日本が各段に上」という宣伝が行われていた。「米国の弱点を”人”に見いだす大正以来のなじみ深い考え方」と著者は書いているが、こういう欺瞞をいまの日本もやっていないか(別の国を対象にして)よく考えてみる必要があると思った。

 以上のように、戦時下の国民にとっての対米戦争は航空機主体の戦争だった。にもかかわらず、戦後の日本に「大艦巨砲主義」批判が定着したのは、航空戦に協力した民衆を免罪するためではなかったかと本書は結論する。この視点はとても興味深い。100パーセント賛成するわけではないけれど、忘れないようにしたいと思う。最後に本書で初めて知った高村光太郎の詩(昭和14/1944年)の最初の2行だけ引用しておこう。「黒潮は何が好き。/黒潮はメリケン製の船が好き。」というものだ。著者は「戦時下対国民宣伝のもっとも陳腐な事例」とくさしているけど、毒々しい悪夢のようで忘れがたい。
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神戸市立博物館リニューアル基本計画(2016年3月)を読む

2017-08-25 00:13:48 | 見たもの(Webサイト・TV)
 先日、神戸開港150年記念特別展『開国への潮流』を見るために、神戸市立博物館に行った。どこかカフェで一休みしようと思いながら直行してしまったので、博物館の2階にある喫茶室「エトワール」に初めて入ってみた。ガラス細工の飾りケースがあったり、背の高い窓に赤いビロードふうのカーテンが下がっていたり、古き良き時代を感じさせる喫茶室である。上品なおばさんとおばあちゃんが店番をしていた。注文したヨーグルトアイスは、高級感のある金縁のお皿に乗って出てきた。



 そこへ常連らしいおじさんが入ってきて、おばあちゃんと話を始めた。おばあちゃんが「ここ、来年2月でなくなるんですよ」と聞き捨てならないことをいう。「博物館が改修するの。改修が終わると、1階に図書館と一緒になったカフェができるけど、ここはなくなってしまう」のだそうだ。

 あとで気になって調べたら、2018年2月5日~2019年11月1日まで、改修工事にともない休館予定であることが分かった。また「神戸市立博物館リニューアル基本計画について」というページも見つけた。PDF版の「基本計画」全文(2016年3月)も公開されている。

 読んでみた感想だが、「階段が主導線で不便」「女性トイレが不足」等、施設・設備の老朽化に関する指摘はもっともである。何しろ本館は昭和10(1935)年竣工の横浜正金銀行の建物の転用だし(美観的にはそこがよい)、新館も昭和57(1982)年開館当時のままだという。常設展示が開館以来、ほとんど変更されておらず、陳腐化しているというのも、はじめて気づいたけれど確かによくない。さらに収蔵庫の密閉性が不足しているなど、保存環境にも問題があるという。

 リニューアルによって、これらの問題が改善すれば、嬉しいことだ。しかし「基本計画」の目指す方向性は、必ずしも全面的に賛成できるものではない。15頁の「リニューアル後に目指す姿」では、「観光客に向けて」「国際的な文化交流の強化」、「市民に向けて」「ICT技術等の活用による観光資源との連携強化」とあり、結局「観光」かい、と毒づきたくなる。あと「参加型展示」は、教育現場で流行りの「アクティブ・ラーニング」と同じで、ちょっと手を抜くと、従来型展示より悲惨なことになると思う。

 リニューアル後も「全国規模の海外巡回展は引き続き積極的に開催」というのは、神戸市民のために重要だが、私が期待するのは、同館のコレクションや調査研究の成果を生かした「独自の特別展・企画展」である。昨年の『我が名は鶴亭』、今年の『遥かなるルネサンス』『開国への潮流』は、全く分野が違うのに、どれも素晴らしかった。こういう企画展ができるのは、優秀なスタッフが揃っているからだと思う。施設・設備も大事だが、ぜひ人にかけるお金もケチらないでほしい。
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山城から巨大城郭へ/天下人の城(徳川美術館)

2017-08-24 00:03:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
徳川美術館蓬左文庫 特別展『天下人の城-信長・秀吉・家康-』(2017年7月15日~9月10日)

 前日は大阪(伊丹)泊。朝イチに名古屋に移動する。久しぶりに名古屋駅に降りたら、バスターミナルが開業(2017年4月1日)し、徳川美術館行きのバス乗り場が変わっていて、とまどった。

 本展は、信長の居城の変遷を軸に、秀吉・家康へと繋がる天下人の系譜をたどりながら、三人に関わる城や武将の遺品・史料の紹介を交えつつ、天下の名城として名高い名古屋城の歴史と構造と魅力に迫り、あわせて名古屋城天守台を築いた秀吉恩顧の武将・加藤清正についても紹介する。夏休みだし、人気の戦国三英傑の名前を冠した展覧会だから、賑わっているだろうと予想はしていたが、最初の展示室から長い列がはみ出していて、びっくりした。「こちらは刀剣をご覧になる方の列です」という説明を聞いて、そういうことかと納得し、私は並ばずに中に入った。

 甲冑は、家康四男・松平忠吉所用の『銀箔置白糸威具足』。伊達政宗や大谷吉継など武将ゆかりの刀剣に、多数のファン(男女とも)が群がっていたが、私は反対側の列の『関ヶ原合戦地図屏風』『関ヶ原合戦絵巻』などの絵画資料にかじりつく。次の茶の湯・室礼の展示室では、武家らしい、簡素で精悍な茶道具と文房具を楽しむ。古銅とか青磁とか古備前とか。そんな中で、『竹に鶴図』3幅対(竹・鶴・竹)の鶴図が妙にゆるくてなごむので、作者名を見たら、10代将軍・徳川家治だった。ずるい。

 能舞台の部屋を過ぎて、大名の雅び(奥道具)の展示室に入ったら、岩佐又兵衛の『豊国祭礼図屏風』一双があって、びっくりした。この部屋に出ているとは思わなかったので。他のお客は知らないが、私はこれを見るために来たと言っても過言ではないので、ありがたく拝見する。小さな白黒写真パネルで屏風の見どころ(筍男とか)が紹介されており、右隻の朱鞘の太刀の若者が描かれたあたりには「かぶき者の喧嘩」という説明がついていた。さらに朱鞘の太刀の若者をアップにした写真と朱太刀銘の翻刻も掲げてあるのは、黒田日出男先生の『豊国祭礼図を読む』の読者には親切だが、ちょっと中途半端な感じもする。

 蓬左文庫の展示室へ移動。ここから特別展が本格的に始まる。名古屋城の起源とされるのは、今川氏親が築いた柳ノ丸で、のち那古野城と称された。また、織田信長は勝幡城(しょうばたじょう)(現・稲沢市)で生まれたとされている。今川義元や斎藤道三関係の資料、信長に関連する清須城、岐阜城の資料などが並ぶ。この展覧会、古文書が中心で、視覚的な資料があると言っても、むかしの絵図面からリアリティのある城の姿を想像するのは、なかなか難しい。そこを補ってくれるのが、専門家の手による復元図(富永商太画、千田嘉博監修)である。千田嘉博先生は、昨年『真田丸』関連で覚えたお名前で、思わずテンションが上がった。また、城址や合戦址の紹介に、ほぼ必ず今の現地写真が添えられていたのもよかった。自然が残り、往時がしのばれる場合もあるし、すっかり街中になっている場合もある。桶狭間の井伊直盛戦陣地には小学校が建っていた。

 あー面白かった、と思って展示室を出たときは、これで終わりのつもりだった。そうしたら、しばらく閉まっていた徳川美術館エリアの大展示室が開いていたので、慌てた。信長の安土城から「巨大城郭の時代」が始まり、秀吉の大坂城、聚楽第、伏見城へと続く。滋賀県や大阪城天守閣、京都市考古資料館から、いろいろな資料を借りてきており、一気にまとめて見られるのがありがたかった。愛知県・金西寺に伝わる月岑牛雪という僧侶(17世紀)が書いた文書(冊子)には、信長を「六天魔王」と罵る記述があって面白かった。「黒鼠清盛是(?)再来」ともあった。

 最後は家康がかかわった二条城、江戸城、そして天下の名城・名古屋城について。名古屋城には、第14代藩主・徳川慶勝が幕末に撮影した写真が多数残っているそうだ。何しろ殿様の撮影なので、普通の人が入ることのできない場所の写真もあるのだそうだ。明治5年には『陸軍省城絵図』が作られていることを初めて知った(出版もされている)。製作当時の意図とは違うけれど、文化財保護のために貴重な記録だと思う。

 なお、これだけ力の入った展示にもかかわらず、図録はなし。そのかわり、特設サイトができていて、解説つきの展示品全リストが公開されている。→ 徳川美術館「天下人の城」応援ブログ

 これが労作であることは否定しないが、いつまで公開しておいてくれるやら。私としては、5年後、10年後に見直せる資料が、お金を払ってもいいから手元にほしいと思うのである。
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文書と絵画資料で読み解く/開国への潮流(神戸市立博物館)

2017-08-22 23:45:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
神戸市立博物館 特別展 神戸開港150年記念特別展『開国への潮流-開港前夜の兵庫と神戸-』(2017年8月5日~9月24日)

 岡山の林原美術館を見終わったあと、次の目的地に行けそう、と思って新幹線に乗る。岡山観光も考えていたのが、次の機会を待つことにする。本展は、神戸港が1868(慶応3)年の開港から150年を迎えることを記念し、18世紀半ばから19世紀にかけて、日本が新たな国際関係に歩みを進める模索の時代を、約100件の資料を通じてたどる特別展。

 文書資料が多いので、全体に地味な感じ(でも絵画資料は多め)だが、私は嫌いじゃない。むしろ大好物である。プロローグは18世紀末(天明~寛永年間)、異国船来航の第一波として、ロシア船が出没し始めた時期から始まる。林子平の『三国図説略説』(版本)には「下品女夷、鮭魚ヲ負テ運送スル体」の挿し絵が描かれている。日本では絶版にされたが、オランダ、ドイツ、ロシアで翻訳されて読まれたというのが面白い。いつの時代も、政府の都合で情報の流通は止められないのだ。『海国兵談』は版本が展示されていた。

 「鎖国」という言葉の由来とされる志筑忠雄の『鎖国論』(抄本)も展示。江戸時代中期以降、「鎖国は攘夷へと姿を変え」るという解説が興味深かった。本来の「鎖国」は、完全な排外体制ではなかったのだ。丹後国田辺藩の藩士が庶民向けにアヘン戦争の概要を叙述した『海外新話 及拾遺』も面白かった。挿絵は、清国人、イギリス人をそれらしく描いている。何か種本があったのだろうか。

 絵画資料は、めずらしいものが多数あって楽しかった。ロシア施設レザノフの肖像(芸妓?を連れている)、持ちもの、気球や船のスケッチを貼り交ぜた『レザノフ屏風』は広島県立歴史博物館寄託資料。また、レザノフ一行のほか、唐船、イギリス船、オランダ船などを描いた図巻『外国船之図』は神戸大学所蔵で、神戸で最初の図書館「桃木書院」の印が押されている、という解説も気になった。関西については知らないことが多いなあ。もっとも、東京の品川区立品川歴史館から来ていた資料も知らないものばかりだった。

 嘉永6年(1853)ペリー来航、相前後して、ロシアのプチャーチンも大阪湾に来航する。本展には、プチャーチンに関する資料が非常に豊富だった。関西人にとっては、ペリー船団の浦賀来航より、ずっと切実だったのではないか。中でも感銘を受けたのは、たちを束ねていた天王寺善次郎が、外国船に関する情報を大坂町奉行所に届けたことを伝える資料『乍恐口上』(墨書、冊子本)。奉行所がを通じてたちを情報収集に使っていたことが分かる。かつて同館の第100回特別展で「天王寺文書」を見た記憶がよみがえって、感慨深かった。

 これと同じくらい興味深かったのは、文久遣欧使節団関係の資料である。すでに約束した開市開港の延期を願うため、フランス、イギリスほか諸国を歴訪した使節団で、福沢諭吉や福地源一郎が加わっていたことで有名だが、後世にあまり名を残さなかった正使・副使たちの写真や、随行者の日記、手紙などが豊富に残っていることを初めて知った。この展示は「幕末」といえばすぐに名前が浮かぶような著名人はほとんど登場しない。だが、その潔さがむしろ好ましく、ふつうの人々が開国への潮流をどんな関心で眺め、どんなふうに関わったか、少し想像ができた気がした。

 開港延期の間に、兵庫・神戸には砲台が設けられ、灯台が整備され、蒸気船の燃料である石炭を確保するため、炭鉱の開発が進んだ。また海軍操練所と造船所の建設が検討された。そして「安政の五ヵ国条約」で定められた兵庫開港は、慶応3年、神戸開港として実現する。そうか、最初は「兵庫」だったのだな。まあ何もない神戸のほうが、新しい街をつくるには適していただろう。それから、神戸(兵庫)は天皇の住む京都に近いという点で、横浜の開港などよりずっと問題も抵抗も大きかったというのは、あまり考えたことがなかった。

 明治10~11年、イギリス人実業家が居留地周辺をスケッチした水彩画が展示されていたが、ひろびろした道路や緑地の端に瀟洒な洋館が並んでいて、とても極東の新開地とは思えない美しい風景だった。あと、明治元年、五代友厚が小松帯刀に宛てた手紙というのが、さりげなく展示されていた。後藤子(象二郎だろう)、陸奥(宗光)、伊藤輩(博文)と一緒に神戸を訪問する(取り立てて用事はないが、発展の様子を見に行く)ことを告げている。このメンバー、私の好きな人物ばかりなので、ちょっと嬉しかった。

 なお、3階では『南蛮古地図企画展 絵画と地図で読み解く日欧交流』(2017年8月5日~9月24日)を開催中。コレクション展だが、これもいい。 狩野内膳の『南蛮屏風』を左右揃いで見たのは久しぶりではないか。『都の南蛮寺図』は複製でちょっと残念(なぜか展示リストに「複製」注記がない)。『世界四大洲・四十八カ国人物図屏風』はいいなあ。花も動物も異民族も盛り盛りで、祝祭的な華やかさが微笑ましい。
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絵画に物語を読む/「清明上河図」と中国絵画の至宝(林原美術館)

2017-08-21 22:42:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
林原美術館 企画展『一挙公開!「清明上河図」と中国絵画の至宝』(2017年7月15日~9月3日)

 この週末は、見逃したくない展覧会を見るために1泊弾丸旅行をしてきた。ひとつめの目的地がここである。土曜の朝、空路で岡山入りして、お昼過ぎに岡山駅前に到着した。林原美術館は、岡山の実業家だった林原一郎氏(1908-1961)が蒐集した東アジアの絵画や工芸品と、旧岡山藩主池田家から引き継いだ大名調度品等を所蔵する美術館。私は岡山に何度か行っているが、同館の存在は、この展覧会の宣伝を見るまで、意識したことがなかった。ホームページのトップには、瀟洒な白壁の蔵屋敷ふうの外観写真が掲載されているので、郊外にあるのかと思ったら、岡山県庁のすぐそばだった。岡山城の天守閣も間近に望むことができる。

 展覧会の趣旨にいわく「重要文化財『清明上河図』(趙浙筆、1577年)は、当館が誇る中国絵画の代表作として知られていますが、実は当館には他にも多くの中国絵画が所蔵されています。このたび、東京大学東洋文化研究所の全面的なご協力のもと、これまで知られていなかった当館の中国絵画コレクションの全容が明らかになりました。本展ではこの成果を踏まえて、はじめてその全容を公開いたします」云々。平成の今日でも、専門家の調査によって初めて明らかになるコレクションって、まだまだあるのだなあ。

 展示は明清の絵画が20~30点、ほかに堆朱などの工芸品が少し出ている。展示室の規模は、東京近郊でたとえると五島美術館くらいだと思う。いかにも中国絵画(北宋画)らしい、雄大な山岳が上へ上へと聳え立つ山水図がある一方、ちょっと違った雰囲気の作品もある。伝・張路筆『山水人物画』2幅は、鬱蒼とした森の中、しどけない恰好で牛の背に揺られていく人物を右幅に描き、崖下の展望台に座って欄干にもたれる人物を左幅に描く。画面に対して人物が大きめに描かれていて、物語を感じさせるところが近代の日本画っぽい。

 仇英の落款を持つ『楼閣美人図』は6幅からなり、後宮(?)の女性たちが、碁を打ったり、楽器を演奏したり、孔雀と戯れたり、さまざまな表情を見せる。特に一貫したストーリーはなさそうだが、いちばん左の画幅には、鎖された壁の外にひとり佇む男性(宦官?)だけが描かれていて、想像を掻き立てられる。『群仙拱寿図巻』や『羅漢図巻』も、多くの登場人物によって展開する風景が物語的だ。人の姿のない風景になごむのは、沈周の落款を持つ『四景合壁山水図巻』。横長の画面に描かれた4枚の風景画が巻子に仕立てられている。淡彩がとてもきれい。

 本展の見もの、同館所蔵の『清明上河図』は「万暦丁丑(1577)孟冬朔日四明趙浙製」という墨書と落款を持つ。私は、2015年に大和文華館の『蘇州の見る夢』で、この作品を見ているのだが、詳細は記憶していなかった。「蘇州片」と呼ばれる『清明上河図』の複製品は多数見つかっているが、これはかなり出来のいい(見ていて楽しい)部類だと思う。緑豊かな郊外に始まり、虹橋(階段状)があり、城門をくぐると、黒い瓦屋根の密集する市街が続く。商店も多数。人物は多彩で表情豊かで楽しい(塔のかぶりものをしたお坊さんとか)。面白いのは、画中に文字が全く見られなかったこと。作者のこだわりかもしれない。看板などに文字を多用した蘇州片もあって、それはそれで解読が楽しいのだけど。

 素晴らしかったけど、拡大鏡を持ってくればよかった、と後悔しながら展示室を出たら、ロビーに『清明上河図』の高精細画像で遊べる大きなタブレットが2台用意してあった。はじめ、どちらも塞がっていたのだが、順番を待って、使わせてもらった。すると隅々にまで物語が隠れている。お店を1軒ずつ覗くのも楽しい。それぞれ異なる、店主とお客のやりとりが想像できる。そして、かなり拡大しても描写にブレがなく、手抜きがないことに感心した。この高精細画像、有料でいいからダウンロードさせてほしい! 展覧会図録には、東大東文研の板倉聖哲先生と塚本麿充先生が寄稿。いいお仕事をありがとうございました。

 なお、軽い気持ちで林原一郎氏について調べてみたら、林原グループの経営破綻について、かなり辛辣な記事が見つかってしまった。美術館経営などのメセナ活動が経営を圧迫したという説もあれば、それは誤りという説もあるようだ。いずれにしても、貴重な美術品が失われなくてよかった。
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芳年をめぐる/妖怪百物語(太田記念美術館)+歴史×妖×芳年(横浜市歴史博物館)

2017-08-20 22:17:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
太田記念美術館 特別展『月岡芳年 妖怪百物語』(2017年7月29日~8月27日)

 月岡芳年(1839-1892)の妖怪画の世界を紹介する展覧会。初期の揃物「和漢百物語」26図と、最晩年の揃物「新形三十六怪撰」36図を全点公開という触れ込みに惹かれて行ってきた。お盆休みの週だったので、中高生のグループなど、朝からよく人が入っていた。「いま1階が混んでいますので地下からどうぞ」というアドバイスに従って、地下の展示室を先に見る。最晩年の「新形三十六怪撰」が展示されていた。明治22年(1889)に刊行が始まり、完結は芳年没後の明治25年(1892)で、最後の数点は芳年の版下絵をもとに門人たちが完成させたものだという。

 晩年の芳年の描く人物は、江戸の浮世絵とは完全に違うものになっている、と思う。「武田勝千代、月夜に老狸を撃の図」など、画面全体を使ってダイナミックな一瞬を切り取ったものもあれば、平穏な日常風景の中で、吊るされた帯の先が異変を示す、じわりと怖い「四ツ谷怪談」の図もある。「二十四孝狐火之図」の八重垣姫はいいなあ。文楽を思い出す。「清姫日高川に蛇体と成る図」もいい。晩年の芳年は、女性の髪の毛、男性なら髭、それから馬のたてがみなどを非常に丁寧に、情感豊かに描いている。

 1階に戻ると、ますます混んできたように思ったが、仕方ない。畳のある一角には、たぶん名品中の名品としてピックアップされた5点『岩見重太郎兼亮怪を窺ふ図』『伊賀局(和漢百物語)』『羅城門渡辺綱鬼腕斬之図』『源頼光土蜘蛛を切る図(新形三十六怪撰)』『不知藪八幡之実怪』が並ぶ。どれも摺りの色がきれい。『渡辺綱』は縦二枚続きの画面を巧く使っている。「源頼光土蜘蛛を切る図」は、どこかユーモラスで大好きな作品(土蜘蛛がメイドさんっぽい)。これを本展のポスターに選んでくれて、嬉しかった。

 そのほかは、だいたい時代順に構成されていた。初期の作品は、「怪」を描いても、どこかほのぼのした江戸の浮世絵である。「和漢百物語」はじめに最晩年の作を見てしまったので、余計にその差異を感じた。そして、むやみに色づかいが派手。青や赤が目立つ。それが明治期以降になると、茶色や灰色など中間色を多く使うようになる。

横浜市歴史博物館 企画展・丹波コレクションの世界II『歴史×妖×芳年“最後の浮世絵師”が描いた江戸文化』(2017年7月29日~8月27日)

 横浜でも芳年の浮世絵展をやっていると聞いて、ハシゴすることにした。太田美術館のある原宿・明治神宮前から1駅の表参道で半蔵門線(東急田園都市線直通)に乗り換えると1時間かからないので、けっこう近い。横浜市歴史博物館は、むかし神奈川県民だった頃は、ときどき行っていたのだが、10年ぶりくらいの訪問になる。駅のまわりがすっかり変わっていて、びっくりした。

 丹波コレクションというのは、横浜在住の貿易商であった丹波恒夫氏(1881-1971)が収集した浮世絵約6200点のコレクションだという。芳年の作品は300点近くあり、歌川広重に次いで好んだ絵師のひとりと考えられている。本展は「妖」と「歴史」を中心に、さまざまな作品が展示されている。妓楼の遊女たちを描いた美人画も何枚かあって、そうだ、芳年にはこんな作品もあったと思い出した(忘れがちなので)。

 また、幕末維新の時事を題材にしたものも多い。大坂城を抜け出し、軍艦開陽丸で江戸へ向かう慶喜公の図、上野戦争での彰義隊の図、西南戦争の西郷隆盛の図など。特に西郷隆盛は繰り返し描かれているが、これは芳年に限らず、一般的に需要があったのだろう。最後に「新形三十六怪撰」36図。こちらの展示では「目録」も出ていた。あと『五代目尾上菊五郎一つ家の老婆』(明治23年)を見ることができて嬉しかった。私は、この晩年の横長(3枚続き)で役者をアップにしたシリーズ、好きなのである。
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名品+知られざる名品/藝「大」コレクション(東京芸大大学美術館)

2017-08-17 23:17:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京芸大大学美術館 東京藝術大学創立130周年記念特別展『藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!』(2017年7月11日~9月10日)

 創立130周年を記念する大規模なコレクション展。国宝・重要文化財など、すでに知られた名品だけでなく、これまで日の目を見ることの少なかった卒業制作、模写、石膏像や写真・資料類にもスポットをあてることによって、藝大コレクションの豊富さ、多様さ、奥深さを紹介する。

 地下2階の第1会場は「名品編」から。入口を入ると、正面のガラスケースに破損の激しい月光菩薩坐像がおいでになる。上半身と下半身が分断され、両腕と腰まわりを完全に失った破損像だが、天平の気品と色気は失われていない。少し離れた背景の2点の絵画、黒田清輝『婦人像(厨房)』と小倉遊亀『径』が一緒に目に飛び込んでくるので、一瞬、ガラスケースの存在を忘れてしまう。美術館で仏像を展示する場合、周囲を暗くして、対象をストイックに浮かび上がらせる方式が流行りだが、こんなふうに明るい色彩の中に埋め込んでしまうのも素敵だな、と思った。

 壁に掛けられた『婦人像(厨房)』と『径』は露出展示であると知って、ちょっと得をした気分。『婦人像(厨房)』の絵具の輝きは、会場の照明のせいなのか、黒田が描き込んだ効果なのか、ちょっと見分けがつかない。若い母親と女の子と犬が一列になった『径』は、クレパスのように柔らかい輪郭線や、女の子のブラウスとスカートの白の違いをよく味わう。

 「名品編」は、当然、見たことのある作品が多かったが、記憶になかったのは『観世音寺資材帳』。地味に国宝である。筑紫の観世音寺であろう。「旧伎楽」に「師子貮面」「崑崙力士肆面」、「大唐楽」に「咲面」「羅陵」などの文字が見えた。江戸絵画は光琳の『槇楓図屏風』に蕭白の『柳下鬼図屏風』など。明治の洋画は、原田直次郎『靴屋の親父』、山本芳翠『猛虎一声』、高橋由一『花魁』など、納得のセレクション。『花魁』はヘンな絵だと思っていたが、見慣れてくると、だんだん美人に見えてきた。松岡映丘の『伊香保の沼』はどことなく怖い絵。蕭白の『柳下鬼図』よりも、上村松園の『草子洗小町』よりも、私はこの呆けた表情の女性が怖い。見ているうちに蛇体に変わりそうである。第1会場の奥は、平櫛田中コレクションで、これも楽しかった。

 続いて、3階の第2会場へ。入口に高橋由一の『鮭』があって、おや、ここに?!と軽く驚く。「名品編」にあっていいはずの作品だが、芸大コレクション随一の知名度のため「教科書で見たことあるでしょ」的なキャプションつきで、第2会場に別置になっていた。「卒業制作」コレクションに、下村観山とか杉山寧とかビッグネームが並ぶのは、さすが芸大。陶芸家の板谷波山が彫刻科の出身で、『元禄美人像』という大きな木像を作っているのは面白かった。考現学の今和次郎の卒業制作『工芸各種図案』は、初めて見たと思う。緻密であたたかみのある、手彩色の図案ポスターだった。明治・大正のすぐ隣に平成の現代アートも並んでいて、時代の飛び越し方が素晴らしい。『首都っ娘-首都高速擬人化プロジェクト』なんてのも卒業制作になるのか。

 いちばん奥のスペースには、現代作家たちが卒業時に制作した自画像の数々が並ぶ。神護寺の源頼朝像に似せた、山口晃さんの自画像。知っていたけど、見ることができてうれしい。千住博さんの自画像は、ふつうにカッコいい男子学生の図だった。

 第2会場の後半は、いろいろ面白いテーマを立てていて、原本と模写、真作と贋作(浦上玉堂)を比較したり、彫刻をつくる際の石膏原型と完成形のブロンズ像を並べてみたり。近年の作品修復の試みも紹介されていた。異彩を放っていたのは、ラグーザ制作の『ガリバルディ騎馬像』の石膏像。イタリア・パレルモ市にある銅像の原型だという(ネットで検索すると出てくる)。右手を斜め前方に差し上げ、遠方を見つめる、勇壮でダイナミックな姿である。また、藤田嗣治資料(藤田氏夫人より寄贈)やガラス乾板写真も出ていた。これらは、調べたら、同美術館の「研究資料」としてデータベースがつくられている。えらい。まだ文字情報のみのようだが、これから画像も可能な限り公開してほしい。
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足利将軍家の兄弟ゲンカ/観応の擾乱(亀田俊和)

2017-08-16 23:30:58 | 読んだもの(書籍)
〇亀田俊和『観応の擾乱:室町幕府を二つに裂いた 足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書) 中央公論新社 2017.7

 『応仁の乱』に続いて、話題の南北朝・室町時代「乱」シリーズを読んでみた。観応の擾乱(1349-1352)は、征夷大将軍・足利尊氏と、幕政を主導していた弟の直義(ただよし)との対立から起きた全国規模の内乱であるというが、私は本書が出るまで全く知らなかった。私は高校で日本史を習わなかったので、大人になってから読書で知識を身に着けたが、かなり偏りがあることは自覚している。南北朝に興味はあるのだが、なかなか糸口が見いだせない。ドラマや映画になる機会も少ないし。以前、古典の『太平記』に手を出してみたが、人物が類型的で(※平家物語と比較)あまり面白くなかった。そんなわけで、本書を読むのもけっこう苦労した。

 本書は、後醍醐天皇が尊氏・直義兄弟を朝敵と認定し、官軍を差し向けたにもかかわらず、尊氏軍は東海道を攻め上り、ついに後醍醐天皇を吉野亡命に追いやって、建武5年/暦応元年(1338)室町幕府を開いたところから始まる。尊氏は征夷大将軍、直義は左兵衛督に任ぜられたが、尊氏は政務に消極的で、幕府の権限の大半は直義が行使した。そして、このあとも足利尊氏という人物は、何を考えているのか、なかなか表面に出てこない。

 高師直は、尊氏・直義兄弟共通の執事の役割を果たしていたと本書は考えるが、貞和5年/正平4年(1349)直義は側近の武将らの進言を容れ、尊氏に迫って師直の執事職解任を成し遂げる。しかし、師直は逆クーデターを仕掛けて成功し、直義は出家して幕政から退くことになった。直義に替わって、尊氏の嫡男・義詮が幕府の権限を握った。一方、足利直冬(ただふゆ、尊氏男、直義養子)は九州・四国に転進して、猛威を振るった。

 尊氏-義詮-師直は、直冬はじめ各地の反乱への対応に苦心していたが、観応元年(1350)直義は京都を脱出して河内国石川城に入り、吉野の南朝に降伏を申し出る。これはびっくりした。幕府の権力闘争(兄弟げんか)に南朝の権威を利用するって、手段を択ばないにもほどがある。日本にもこんなに面白い武将がいたのかと呆れ、感心した。こういう人物、嫌いじゃない。そして、各地で尊氏-師直派と直義派の衝突が起きたが、師直は摂津国武庫川辺で戦死し、擾乱の第一幕は直義派の圧勝で講和に至る。

 しかし直義は、愛児・如意王の死という不幸もあって気力を失い、諸将の失望を買う。「(このひとの下で)努力すれば報われる」という信頼がなければ、武士の棟梁は成り立たないのである。孤立した直義は、京都を出奔し、関東に転戦して、尊氏軍に敗れ、最後は鎌倉・浄妙寺境内の延福寺に幽閉されて死去した(毒殺説もあり)。直義の、忙しく動き回ったわりに功の少ない生涯には、感慨をもよおす。逆に、観応の擾乱の第二幕あたりから、ようやく表舞台に這い出てきた感のある尊氏のほうが、知名度がずっと高いのも面白いと思う。

 その後の室町幕府は、尊氏が旧鎌倉幕府(東日本)、義詮が旧六波羅・鎮西両探題(西日本)の領域を統治したと推定されている。また、九州の直冬は、正平10年/文和4年(1355)に京都に攻め上り、市中で尊氏軍と激突した。これ以降は勢力を失い、没年もはっきりしないとのこと。この時期、晩年(50代)の尊氏は戦いの陣頭に立っており、なかなかカッコいい。かつて全くパッとしない征夷大将軍だったのがウソのようで、人生あきらめてはいけないなあと思った。
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