見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

後に残る者たちへ/中華ドラマ『一念関山』

2023-12-31 20:17:19 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『一念関山』全40集( 檸檬影業、愛奇藝、2023年)

 架空の王朝を舞台にした武侠劇。中原では、梧国・安国という2つの強国が覇権を争っていた。戦いに敗れた梧国皇帝は安国の捕虜となり、安国は梧国に対して、十万両の身代金を携えて迎帝使として皇子を寄こすよう要求する。迎帝使の人選に苦慮した梧国宮廷は、皇帝の異母妹で、母親の身分が低かったため、冷宮で育った公主の楊盈を皇子礼王と偽って送り出すことにした。

 梧国の秘密警察組織である六道堂の堂主・寧遠舟は、礼王の護衛として旅に同行することになった。一行には、六道堂の仲間たちのほか、寧遠舟の表妹を名乗る謎の美女・任如意が加わっていた。如意はもとの名を任辛と言い、安国の秘密警察・朱衣衛の左使をつとめた伝説の刺客だった。しかし7年前、敬愛していた安国皇后が何者かに殺害される事件に出会って以来、安国を去り、皇后殺害に関わった人々への復讐を続けていた。たまたま梧国に潜入して寧遠舟を知り、「自分の子供の父親になってほしい」と迫る。如意は亡き皇后の遺言「男性に惚れてはいけない。しかし子供は持つべき」を忠実に守ろうと考えていた。はじめは如意を持て余していた寧遠舟だが、次第に二人は惹かれ合っていく。

 【ややネタバレ】如意は、皇后殺害の首謀者が安国皇帝そのひとであり、大皇子も二皇子も真実を知りながら、見て見ぬふりをしていたことを知り、彼らを血祭りにあげた後、朱衣衛で各種の汚れ仕事に従事させられていた仲間たちを解放する。六道堂の人々は、安国に囚われていた梧国皇帝の奪還に成功、しかし帰国を急ぐ途中、北方の異民族である北盤人の襲撃を受ける。安国の二皇子が天門関を開いて、中原に北盤人を招き入れてしまったためだった。梧国皇帝は戦死。多大な犠牲を出した一行は合県城に籠城する。

 安国では前皇帝の死後、赤子の新帝が即位し、かつて如意を師父として武芸を磨いた李同光が摂政王となった。楊盈は、自分が女性であることを明かし、両国の和睦のため、李同光に嫁ぐことを望む。二人を中心とする援軍が合県城に到着するが、北盤人の攻撃は厳しさを増す。梧国には皇帝戦死の報が届けられ、皇弟・丹陽王が即位する。新帝は直ちに援軍を派遣するが、合県の民衆を守るため、六道堂が払った犠牲は大きかった…。

 【ネタバレ】本作は11月28日に配信が始まり、ゆるゆる楽しんでいたら、12月18日に最終話が配信された翌日、日本語サイト「Record China」に「武侠ドラマ『一念関山』の結末に視聴者から不満噴出」というニュースが掲載された。よせばいいのに本文を読んでみたら「メインキャラが全員戦死」とまで書かれていた。このドラマ、序盤は如意と寧遠舟の不器用な恋のゆくえを、六道堂の面々+楊盈がキャッキャうふふで見守るラブコメ古装モードが全開なのだ(あまり得意でないので途中リタイアしようと思ったくらい)。たまにシリアス展開も混じるけれど、全員戦死ってどういうこと?と思っていた。

 それが30話くらいから急降下で地獄展開に入る。六道堂の仲間たち、銭昭、孫朗、元禄、于十三だけでなく、メインキャラの次くらいの人たちも(鄧恢~)、北盤人との戦いで次々に命を落としていく。寧遠舟は、乱戦の中から李同光を救出するのと引き換えに凄絶な戦死を遂げる。李同光は、師父の如意に一途な思慕を寄せ続け、寧遠舟には嫉妬の炎を燃やしていたのだが、最後の最後は、師丈(先生の夫)、寧大哥、と呼びかける。武侠ドラマって、成長する少年少女が主人公となるケースが多いと思うのだが、本作は、すでに自我の確立した如意や寧遠舟が主人公で、李同光や楊盈など次世代の若者に教えを残し、成長を助けて死んでゆく物語とも言える。如意は爆弾を隠し持って北盤狼王の幕屋に赴き、自爆テロを仕掛ける。寧遠舟のいない世界に生き続けたいという望みはなかったのだろう。覚悟を決めた如意(劉詩詩)は凄絶で美しかった。為すべきことを終えてこの世を去った者たちは、どこかで楽しく暮らしていると言いたげな終わり方だったけど、やっぱり辛いなあ。

 本作のアクションシーンは見栄えがしてカッコいいのだが、カッコよさの基準が、映画やアニメからゲームに移行しているように思われ、古い人間としては、ちょっと違和感も感じた。出演者では、『虎鶴妖師録』で覚えた何藍逗さん(楊盈)、陳宥維くん(元禄)の活躍を見ることができて嬉しかった。本作の収穫、李同光を演じた常華森くんと于十三の方逸倫さんとは、また違う作品で会うことを期待したい。

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日本人と日本文化の起源/縄文人と弥生人(坂野徹)

2023-12-29 22:29:35 | 読んだもの(書籍)

〇坂野徹『縄文人と弥生人:「日本人の起源」論争』(中公新書) 中央公論新社 2022.7

 本書のオビの表面には、縄文人と弥生人の復元模型の顔写真を並べて、大きな赤字で「日本人とは何者か?」と書かれていた。裏面には「縄文人と弥生人はいかなる人びとであったのか?」とも。私はこの種の疑問には関心がなかったので、本書をスルーしていた。しかし著者の関心は、より正確には「日本人(縄文人と弥生人)はいかなる人びとと考えられてきたのか?」という論争史にあると分かって、俄然、興味が湧いて読んでみた。

 日本における近代的な人類学・考古学はモースの大森貝塚発掘(1877年)に始まるというから、150年足らずの歴史しかないが、研究は大きな進展を遂げてきた。そもそも当初は、縄文式土器と弥生式土器の先後関係も明らかではなく、異なる集団の文化のように考えられていたことには驚いた。明治期の人類学者・考古学者は、かつて日本列島に暮らしていた先住民族に、後来の日本人の祖先が置き換わったと考えた(人種交替モデル)。これは、当時の欧米の歴史観の反映であるとともに、記紀神話(神武東征伝説)の影響も大きい。渡瀬庄三郎は日本列島の先住民族はコロボックルだと考え、小金井良精はアイヌ説を唱えた。20世紀に入ると、弥生土器が縄文土器より新しいという認識が広がる。鳥居龍蔵は、アイヌが縄文土器を残し、日本人の祖先が弥生土器を残したと主張した。

 しかし次世代の研究者からは、先史時代の土器や石器を残したのは日本人の祖先であり、現代まで日本列島の住民は連続していると考える者が出て来た(人種連続モデル)。清野謙次は、古人骨の計測データをもとに、現代日本人もアイヌも、日本石器時代人がそれぞれ隣接人種との混血が進んだ結果であると主張した。一方、縄文土器を残した人々と弥生土器を残した人々は別の集団(民族)で、彼らが混血して日本人になったと考える考古学者もいた(縄文/弥生人モデル)。

 戦時中、考古学者の間では、縄文/弥生人モデルの支持者が増えていく。記紀神話(皇国史観)の影響が強まったこの時期、日本人の祖先が海外から渡来した説は語られず、日本人の混血性や他民族との闘争は否定された。敗戦後も人類学者の日本起源論は混血を否定する理論が支配的だったが、1950年代、金関丈夫は、日本石器時代人より高身長の新しい種族が、弥生文化とともに渡来したと主張し、次第に渡来説に有利な証拠が蓄積されていく。埴原和郎は、この延長上に、日本人の成立における縄文人と弥生人の「二重構造モデル」を唱えた。

 埴原と近い関係にいたのが、日文研の初代所長の梅原猛と京大系の研究者たち(新京都学派)で、彼らこそが、現在、ブームになっている「縄文=日本の基層(深層)文化」という発想の起源だと思われる、と著者は注釈している。分かる分かる。1970~80年代、私はリアルタイムにこういう言説に触れていたので。

 日本文化起源論は、何を「日本文化」の特徴と見做すかで変わってくる、というのは本当にそのとおりだ。登呂遺跡の発掘に日本中が湧いた時代は、水田耕作=弥生文化こそ日本文化の起源であり、キラキラした理想郷だった。その雰囲気を、60年代生まれの私は微かに記憶している。後世の人間なんて勝手なものである。同様に日本人起源論も「日本人」という集団の定義に左右される。歴史を振り返ると、その時代の「日本人」の定義に合わせて、最も望ましい「起源」が語られてきたように思った。そして今日、日本に暮らす人々のエスニックな多様性は確実に増大しており、この傾向が続けば、起源(ルーツ)探しとしての日本人起源論の意義は失われていくだろう。「原生人類の拡散過程のなかに日本人起源論を位置づける」というのは期待したい方向性だ。「日本という枠にとらわれた従来の人類学・考古学研究の乗り越え」を見届けてみたいと思う。

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晴れの日の装い/繍と織(根津美術館)

2023-12-26 22:49:17 | 行ったもの(美術館・見仏)

根津美術館 企画展『繍(ぬい)と織(おり):華麗なる日本染織の世界』(2023年12月16日~2024年1月28日)

 初代・根津嘉一郎の蒐集品を中心に、法隆寺や正倉院伝来の上代裂、袈裟や打敷などの仏教染織、唐織や縫箔といった能装束、そして江戸時代の小袖まで、幅広い時代の染織品の中から、織と刺繡の技が光る作品を紹介する。私は染織工芸には、あまり積極的な関心を持っていないのだが、同館では、何度か興味深い展示に出会ったことがある。たとえば、2022年の企画展『文様のちから 技法に託す』や、2021年の『国宝燕子花図屏風』展にあわせて、3階の展示室5で開催されていた「上代の錦繍綾羅(きんしゅうりょうら)」などである。

 本展は、はじめに上代裂を特集。経錦(たてにしき)と緯錦(ぬきにしき)とか、夾纈(きょうけつ)・臈纈(ろうけつ)・纐纈(こうけつ)などの用語は、2021年の展示でも一生懸命メモを取ったことを思い出した。隋~唐の染織もあり、それを見事に模倣した日本製もある。『緑地狩猟文錦』は振り向きざまに矢を射る馬上人物を表現する、当時のグローバルスタンダードのカッコよさ。

 仏教思想に理想を見出し、寺院の建立を目指したこともある根津嘉一郎のコレクションには、40件の袈裟、10件の内敷、8件の経秩が含まれるという。初公開『九条袈裟 紅地花唐草模様黄緞』の黄緞(おうどん)とは、絹糸と綿糸の交織の布地で、黄色と緑の間のような、なんとも微妙な色合いだった。『神護寺経 経秩』は2点出ていたが、1点は、腹巻だけの小さな唐子が縁取りに散らばっていて、可愛かった。

 能装束は、どれもいずれ劣らぬ華麗さだったが、なかでも印象に残ったのは『着付 紅地鱗向い鳥丸模様』(初公開)である。大胆な色づかいの鱗文に大きな向い鳥丸文を載せる。鱗文を含めて全面的に刺繍なので、見る位置によって絹糸がキラキラ光る。派手すぎて自分で着るのは御免こうむりたいが、眺めるには楽しい。『舞衣 薄紫地葡萄栗鼠模様』は、文字どおり葡萄とリスの文様で、ふさふさの尻尾を広げた表現がおもしろい。これはちょっと着てみたい。

 小袖の『単衣 紫絽地御簾に猫草花模様』は、裾まわりに「源氏」の女三の宮の物語を表現したもの。御簾を引き上げる三毛猫が描かれている。このネコの毛色は原作に書かれていたのだっけ? 私は勝手に黒猫をイメージしていたのだが。『小袖 白綸子地几帳藤模様』は、「紫」「藤」「花」など白居易の漢詩が、葦手文字ふうに隠されている。調べたら、これか。「三月三十日題慈恩寺。慈恩春色今朝尽/尽日徘徊倚寺門/惆悵春帰留不得/紫藤花下漸黄昏」。おお~私の大好きな「三月尽」(春の果て)の感慨で、しかも作者は大唐長安の慈恩寺(大雁塔がある)の境内にいるのか。ここは映画『妖猫伝』で若き白居易を演じた黄軒くんで想像してみる。そして、中国の古典を日本の古典の一部として親しんできた伝統はよいものだなと、しみじみ思った。

 『振袖 綸子地桐鳳凰模様』(江戸~明治時代)は、ほぼ同じ、桐に小さな鳳凰が群れ飛ぶ模様(微妙に異なる)を白・紅・黒と地色を変えてあらわした3領セットの振袖。婚礼の儀式では白、花嫁と嫁ぎ先の家族の対面では赤、宴会では黒を着たと考えられているそうだ。隣りに並んでいた『打掛 薄縹繻子地花桐鳳凰模様』は青(薄縹/うすはなだ)色で、位の低い御殿女中が婚礼のお色直しに使用したのが、やがて町人の風俗にも取り入れられるようになったという。服飾史の考証は難しいなあ。

 展示室5は主に日本中世の絵画で「中国の故事と人物」。私は周茂叔と林和靖が好き。展示室6は新春を迎える「寿茶会 -来福を願う」で、床の間には冷泉為恭の『小松引図』が掛かっていた。

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2023東京ジャーミーから笹塚へ歳末散歩

2023-12-24 22:43:45 | 日常生活

今夜はクリスマスイブ。机の上には去年、ロフトで買った安物のツリー。アラブ・トルコのお菓子をデザートにいただく。

昨日、代々木上原のモスク(東京ジャーミー)の「パレスチナ・デー」と題したイベントに行って買ってきたもの。訪ねたのが午後の遅い時間だったので、すでに品薄だった。機会があったら、次はもっと早い時間に行こう。スイカのブローチ(木製)も買った。スイカがパレスチナへの連帯のシンボルとして使われていることは知らなかったけど、その色彩(赤、緑、黒、白)を見たら、すぐに分かった。

この日は、代々木上原から笹塚までぶらぶら歩いてみた。私はこの近辺に10年くらい住んでいたことがあるのだが、職場と自宅を往復するだけの日々で、通勤経路を外れた街歩きを楽しむこともなかったなあ、と振り返る。

笹塚では、以前にも一度来たことのあるお店「西安ビャンビャン麺」でヨウポービャンビャン麺をいただく。ここは安くて美味しくて好き。欲をいうと、パクチーがもう少し欲しい。

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2023年8-12月展覧会拾遺(東博の展示から)

2023-12-23 21:59:41 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館の展示から。

■東洋館8室 特集『中国書画精華-日本におけるコレクションの歴史』(前期:2023年10月31日~11月26日)(2023年11月28日~12月24日)

 毎年恒例の特集展示。今年は前期・後期とも、伝来の時期による「古渡り」「中渡り」「新渡り」の分類に従って展示されていた。前後期とも見に行ったが、特に後期は、根津美術館の『北宋書画精華』とつなげて見ることで味わいが増したように思う。後期は、金大受筆『十六羅漢図』3幅など、仏教道教に関するあやしい人物画がたくさん出ていた。『天帝図軸』(元~明時代)は、玉座に玄天上帝(足元に亀と蛇の玄武)、その周りに四人の武神、関元帥(関羽)、趙元帥、馬元帥、温元帥を描く。所蔵先は文京区の霊雲寺で、徳川将軍家の祈願寺だという。地理的に、私は近くを通ったことがありそうだと思った。

■東洋館8室 特集・創立80周年記念『常盤山文庫の名宝』(2023年8月29日~10月22日)

 9月くらいに東博に行ったら、すごい特集展示をやっていて驚いたもの。公益財団法人常盤山文庫は、初代理事長の菅原通濟が古美術の蒐集を始めた1943年を創立の年とし、80周年を迎えたことを記念して開催する。私は常盤山文庫というと根津美術館との関係が深いと思っていたが、2018年よりコレクションの多くが順次東博に寄託されているそうである。墨蹟の名品、清拙正澄の『遺偈』(棺割の墨跡、毘嵐巻空…で始まる) や無準師範の『巡堂』、絵画の『送海東上人帰国図』などに加え、『柿本人麻呂像』などの日本絵画、充実した陶磁器コレクション(米色青磁瓶!)も一括で見ることができて嬉しかった。

 なお、同時期に慶應義塾ミュージアム・コモンズで開催されていた『常盤山文庫×慶應義塾 臥遊(がゆう)-時空をかける禅のまなざし 』(2023年10月2日〜12月1日)はついに行けなかった。原則、土日祝日休館では社会人は行けない…。

■平成館特別展示室 特別展『やまと絵-受け継がれる王朝の美-』(2023年10月11日~ 2023年12月3日)

 第2期のレポートは掲載済だが、そのあと、最後の第4期も見に行ってしまったのである。第1室では、金剛寺の『日月四季山水図屛風』を久しぶりに見ることができて嬉しかった。雪舟筆『四季花鳥図屛風』(鶴が突っ立ているやつ)は、いやこれ、やまと絵なのか?と思いながら、面白くてしげしげ眺めた。第2期に神護寺三像が出ていた場所には、妙法院の『後白河天皇像』、大覚寺の『後宇多天皇像』、長福寺の『花園天皇像』が来ていた。高山寺の『明恵上人像』も見ることができたし、人物画・肖像画好きとしては満足。ただ、お目当てだった『随身庭騎絵巻』は、もうちょっと開けてほしかった。根津美術館の『那智瀧図』も久しぶりに見た。あとは、第2期にも出ていたが『年中行事絵巻』(住吉本)は、五色(?)の幕屋の華やかな場面で楽しかった。ああいうの、来年の大河ドラマでも再現されるといいな。

■平成館特別展示室 特別展『古代メキシコ-マヤ、アステカ、テオティワカン』(2023年6月16日~9月3日)

 夏に見たもの。数多いメキシコの古代文明の中から「マヤ」「アステカ」「テオティワカン」という代表的な3つの文明に焦点をあて、近年の発掘調査の成果を交えて紹介する。私は多数の考古遺物をぼんやり眺めてきた。テオティワカン文明は宗教性の強い巨大な都市遺跡で知られる。マヤ文明は、文字や暦の説明が興味深かった。女性の書記官像があったのが印象に残っている。アステカ文明は『鷲の戦士像』という等身大の陶製の像が来ていて、鳥に変身しかけた(?)姿が、宮﨑駿の映画『君たちはどう生きるか』(見ていない)のビジュアルみたいだと思った。

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2023年8-12月展覧会拾遺

2023-12-22 15:09:50 | 行ったもの(美術館・見仏)

書き洩らし展覧会レポートの振り返り。

泉屋博古館東京 特別企画展『日本画の棲み家-「床の間芸術」を考える』(2023年11月2日~12月17日)

 明治時代以降、西洋に倣った展覧会制度の導入は、床の間や座敷を「棲み家」とした日本絵画を展覧会場へと住み替えさせた。一方、同館の日本画コレクションは、むしろ邸宅を飾るために描かれたもので、来客を迎えるための屏風や床映えする掛軸など、展覧会を舞台とする「展覧会芸術」とは逆行する「柔和な」性質と「吉祥的」内容を備えている。本展は、かつて住友の邸宅を飾った日本画を紹介しながら「床の間芸術」を再考する。この言葉、時代によって、あるいは画家によって、否定的にも肯定的にも使われているのが興味深かった。木島桜谷の金屏風着色『雪中梅花』の美しさ!これは毎年でも見たい。

町田市立国際版画美術館 企画展『楊洲周延 明治を描き尽くした浮世絵師』(2023年10月7日〜12月10日)

 浮世絵師・楊洲周延(ちかのぶ、1838-1912)の作品、錦絵、版本、肉筆画など約300点(展示替えあり)の展示を通して、その全体像に迫る。以前から気になる存在ではあったのだが、一気に大量の作品を見ることができて大満足。私が周延の名前を覚えたのは、洋装の貴顕・貴婦人や女学生など明治の開化風俗を描いた作品からだが、実は生涯にわたってテーマや画風を模索し、変化と成長を続けていたことが分かった。

 印象に残ったのは、明治20年代後半以降、江戸懐古の機運を受けて制作された『千代田の大奥』の連作。四季折々の行事や風物を楽しむ大奥の女性たち、男の目のない女子校みたいで、和気藹々と楽しそうに見えた。金屏風『流鏑馬之図』(上越市立歴史博物館)は、70代の作品とは思えない、力強さと描写の的確さに惚れ惚れした。

永青文庫 夏季展『細川護立の愛した画家たち-ポール・セザンヌ、梅原龍三郎、安井曾太郎-』(2023年7月29日~9月24日)

 永青文庫の設立者・細川護立と、武者小路実篤、梅原龍三郎、安井曾太郎など芸術家との交流によって細川家に集った洋画を中心に、永青文庫の近代絵画コレクションの一面を紹介する。展覧会の見ものは、久しぶりに公開するポール・セザンヌの水彩画『登り道』(日本にもたらされた最初期のセザンヌ)で、これはたぶん初めて見た。私は梅原の『紫禁城』、安井の『承徳の喇嘛廟』『承徳風景』『清晏舫』(頤和園の中の風景)など、日本人が描いた中国の風景を興味深く眺めた。古径の『北京写生』(街並みなどスケッチ4枚)もよかった。なお、安井には『承徳の喇嘛廟』『承徳喇嘛廟』2作品がある。展示は前者。後者は愛知県美術館所蔵、どこで見た記憶がある。

日本民藝館 特別展・村田コレクション受贈記念『西洋工芸の美』(2023年9月14日~11月23日)

 故・村田新蔵氏と洋子氏が蒐集した西洋を中心とする工芸品コレクション800点以上の受贈を記念し、両氏が生涯をかけて蒐めた西洋工芸の精華を紹介する。同館は、実は日本だけでなく西洋やその他の地域の工芸品も数多く所蔵・展示しているが、「西洋工芸」をはっきりうたう特別展は、2017年の『ウィンザーチェア』以来かと思う。木製椅子は今回もたくさんあったが、金物製品が珍しくて、面白かった。 暖炉の薪入れトング等を置く鉄製の台座をファイヤードッグと呼ぶことを初めて知った。

日本民藝館 特別展『聖像・仏像・彫像 柳宗悦が見た「彫刻」』(2023年6月29日~9月3日)

 民間仏や奉納面などの当館コレクションを「彫刻」という観点から焦点をあてる試み。朝鮮半島の仏像や中国の明器など東アジアの彫像のほか、各国の聖像や祖霊像、仮面など素朴な魅力に溢れる民間の彫刻を展示する。楽しかった。柳宗悦が愛した木喰仏はもちろん、瀟洒な唐の加彩舞楽女子俑あり、特徴の核心を捉えたアフリカの鳥の木像あり、『みちのくいとしい仏たち』に通じる造形の(東北の制作か、よく分からないが)恵比須座像などもあった。

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陶磁器あれこれ/青磁(出光美術館)、古伊賀(五島美術館)他

2023-12-19 22:32:34 | 行ったもの(美術館・見仏)

レポートを書きそびれた展覧会が溜まっているので、思い出せるものから書いてみる。

出光美術館 『青磁-世界を魅了したやきもの』(2023年11月3日~2024年1月28日)

 青磁の誕生前夜の灰釉陶器から、漢時代に成熟し始める越州窯、日本人が愛してやまない龍泉窯青磁など、中国における青磁の展開を中心に取り上げながら、高麗や日本、さらには東南アジアなどの青磁も紹介し、世界の人々を魅了した青磁の魅力に迫る。展示件数116件、ほとんどが同館のコレクションだが、徳川美術館や根津美術館からの出陳もあり。東博の青磁輪花茶碗『馬蝗絆』も来ていた。

 青磁は、もと南方で誕生したが、南北朝の時代に南北の文化交流が進むと、華北でも生産が始まった可能性がある、という解説を読んで、こんなところにも南北の多元性が!と興味深かった。あらためて認識したのは、西晋・東晋時代の越州窯のユニークな造形。越国(江蘇省・浙江省)だから、もちろん南方である。たくさんの鳥や獣、蟹やイモリ(?)も貼りついた『青磁神亭壺』が楽しい。一方、宋元の青磁はシンプルで揺るぎない色とかたちが魅力。その古典的な美意識は、明清にも引き継がれる。

 中国で創出された青磁は、朝鮮半島、日本、東南アジア、さらに西アジアへも流通し、各地で青磁づくりが行われた。鍋島藩窯の『青磁牡丹文皿』は、欲目ではなく、中国の官窯と比べても遜色がないように思われた。さすが日本というより、さすが鍋島というべきだろう。

五島美術館 特別展『古伊賀 破格のやきもの』(2023年10月21日~12月3日)

 古伊賀は、桃山時代から江戸時代にかけて今の三重県伊賀市で焼かれたやきもので、歪んだ形と、碧緑色の「ビードロ釉」、赤く焼きあがった「火色」、灰色のゴツゴツした器肌の「焦げ」が魅力の焼き締め陶器である。五島美術館は古伊賀の水指の名品『破袋』を所蔵することで有名だが、本展は、全国の美術館・博物館の所蔵品に加えて、個人蔵の名品も多数集めて、約90点を展観する。

 いや面白かった!古伊賀には以前から惹かれていたが、こんなに面白い焼きものだとは思わなかった。伊賀耳付花生『聖』(個人蔵)には「あたかもラジオ体操をせる人体のようである」という解説が付いていて笑ってしまった。確かに耳付花生は人の姿を思わせる形態で、「業平」「老僧」「福の神」などの銘に納得したり首をひねったりするのも楽しい。私が気に入ったのは「林和靖」なのだが、個人蔵だし、次はいつお目にかかれるだろうか。耳庵旧蔵の「羅生門」(現在も個人蔵)は、茶室「松寿庵」の床の間模型の中に置かれていて、雰囲気に合っていた。

 水指では伊賀耳付水指「鬼の首」が印象に残った。三重県津市にある石水博物館所蔵。川喜田家の当主が代々蒐集してきたコレクションと川喜田半泥子の名品の数々を所蔵しているという。いつか行ってみたい。茶碗は少なかったが、伊賀茶碗「后の名月(后名月)」は、光悦の楽茶碗を思わせる立ち上がりが好みだった。これは伊賀信楽古陶館にあるらしい。

静嘉堂文庫美術館 静嘉堂@丸の内 開館1周年記念特別展『二つの頂-宋磁と清朝官窯』(2023年10月7日~12月17日)

 8000年を超える中国陶磁の歴史上、二つの頂点といえる宋代(960-1279)の陶磁器と清朝(1616-1912)の官窯磁器を静嘉堂コレクションから紹介する。宋代の陶磁器は、磁州窯系の焼きものが多く、しかも陶枕が圧倒的に多くて楽しかった。磁州窯については、以前、世田谷岡本の静嘉堂文庫で、守屋雅史氏の講演会を聞いたことを思い出した。清朝官窯も素晴らしかった。私は雍正年間の豆彩(清雅で繊細なグリーン)が好きなのだが、乾隆年間の粉彩もよい。『粉彩錦荔枝蝶文碗』の愛らしさには言葉を失う。巨大でマニエリスティックなものへの志向がある一方で、よく分からない文明だなあ、と思う。

 なお、常設展示化している曜変天目については、稲葉家当主・子爵稲葉正凱からの譲状など、伝来の証であるさまざまな付属品が一緒に出ていて、興味深かった。

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中国の多元性/物語 江南の歴史(岡本隆司)

2023-12-18 21:27:12 | 読んだもの(書籍)

〇岡本隆司『物語 江南の歴史:もうひとつの中国史』(中公新書) 中央公論新社 2023.11

 「江南」は、一般的には長江下流部の南方を指す用語だが、本書ではもう少し広く、中国語の「南方」の意味で使っている。北方=中原がまさに「中国」であるのに対して、南方=長江流域と沿海部は、中国を成り立たせると同時に「一つの中国」を否定し、中国の多元性を体現してきた地域なのである。

 春秋時代、中原の諸侯が連合して「中国」を名乗ると同時に、長江流域には楚・呉・越の諸国が起こり、北方と不可分にかかわる「江南」の歩みが始まる。以下、本書は「江南」を「長江上流(四川・重慶)」「長江下流(江蘇・浙江・安徽・江西)」「沿岸・海域(福建・広東)」「長江中流(湖南・湖北)」に分けて紹介していく。これらの地域が歴史に立ち現れるのが、この順序なのである。

 はじめに巴蜀(四川盆地)は、三国志の物語で有名だが、険阻な地形に囲まれながら、肥沃な耕地に恵まれ、引きこもるにはうってつけの場所だった。ただし一時的には自立できても、結局は自立を保てないという歴史は、その後もずっと繰り返されている。

 次に長江下流域の呉・越・楚は、中原列国から「夷狄」扱いされながら、その争覇に深入りし、最後には苦杯を嘗めるのが常だった。三国の孫呉政権は、先住民の同化編入、東南アジアや朝鮮半島との海上交易、仏教の振興など、のちの江南政権の先駆となった。東晋・南朝の間に江南の開発は大きく進展する。天下を統一したのは北朝の隋だったが、隋の煬帝は、むしろ南朝の後継者として滅びた。続く唐は、北朝の伝統に忠実な武力本位の政権だったが、安史の乱を経て「財政国家」化すると、再び江南のプレゼンスが上昇する。南北は、経済文化と政治軍事を分業する関係に転換する。宋代には、土木技術の向上により、江南デルタの低湿地の開発が進むとともに、占城稲(チャンパーとう)が導入され、「蘇湖熟すれば天下足る」と言われるようになった。生産と人口の増加によって、商業が発展する。

 ところが、明代、15世紀に入ると、水利条件の変化(呉淞江の涸浅)によって江南デルタは水不足に陥る。農民は作付を転換し、副業であった製糸・紡績が盛んになり、高度な産業化(工業化)が進む。新たな穀倉となったのは未開発の長江中流域で「湖広熟すれば天下足る」と言われた。

 視点を転じてシナ海沿海部は、住地が狭隘で独自の勢力を形成しにくく、中原や江南と大きく異なる生態環境のため、往来や移住の難度も高かった。瘴癘の地、流刑の地、宦官の供給地という「異形」の地域にも、10世紀(五代十国)には、閩と南漢という独立国家が生まれる。宋代以降は王朝政権の一辺境となるが、海外貿易の窓口として、発展・繁栄を続ける。いや、この地域、おもしろいなあ。倭寇、洪秀全、孫文、そして現代の香港まで、海外と結んだ「革新」と、それを待ち受ける弾圧の運命を繰り返している。

 最後に長江中流域。三国志では荊州として登場する。その後も政治的自立を果たすことはなかったが、12~13世紀の人口増に伴い、長江下流域で溢れた人々が中流域に入植してくる。未開地が多かったため、17世紀以降も移民の受入れと開拓が続く。18世紀には有数の米穀産出地域となるものの、それ以上のペースで人口が増加したため、湖南人はいつも貧しく「拼命(いのちがけ)」が性分とされた。ここから20世紀の中国革命のリーダーたちが誕生するのだが、新旧価値観の同居、定まらない順逆が、湖南人士に共通の特色に思われる。岩波新書『曽国藩』を書いた著者の評なので、味わい深い。

 はじめは、中原/江南の対立軸で語る中国論か(知ってる)と思って読み進んでいたが、その対立軸にさえ収まらない「沿海部」「長江中流域」の存在が強く印象に残った。一般の日本人には、ほとんど中国として意識されない「異形」の中国だと思うが、知れば知るほどおもしろい。内実がこれほど多元的であるから、北京政府は「一つの中国」を声高に唱えなければならないと言えるかもしれない。特に沿海部、大好きなので、また現地に行ってみたい。

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鳥取土産「白バラのシュトーレン」

2023-12-16 19:25:50 | 食べたもの(銘菓・名産)

鳥取土産、大山乳業の「白バラのシュトーレン」を開封。

表面にはシュガーパウダーがたっぷり!生地は、たぶんドイツ伝統の焼き方に比べると、軽め、やわらかめ。スパイスやラム酒の風味もあまり強くない。

日本人の好みに寄せた「和風」のシュトーレンという印象。

最初の1切れは紅茶でいただいたが、緑茶でもいけそうである。

鳥取、名古屋の連続出張を終えて、あとは年末までのんびりの予定。

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日中近代史の記憶/偉人たちの邂逅(大倉集古館)

2023-12-15 22:57:27 | 行ったもの(美術館・見仏)

大倉集古館 企画展・大倉組商会設立150周年『偉人たちの邂逅-近現代の書と言葉』(2023年11月15日~2024年1月14日)

 明治6(1873)年の大倉組商会設立から150年を数えた本年、創設者・大倉喜八郎と、嗣子・喜七郎による書の作品とともに、事業や文雅の場で交流した日中の偉人たちによる作品を展示する。この秋、根津美術館の『北宋書画精華』には、色とりどりの料紙を貼り継いだ『古今和歌集序』が出ていたし、東博の『やまと絵』第4期(記事は書いていない)では、久しぶりの『随身庭騎絵巻』を見た。所蔵の名品を惜し気もなく他館に貸し出しているわりには、自館の展示がずいぶん地味で苦笑したが、歴史好きには興味深かった。

 1階は中国関係でまとめている。冒頭には黄色い縦長の料紙に七言の書。署名はなく、右肩に朱角印。温和でバランスのとれた書だと思った。宣統帝溥儀の書で、3幅対の寿聯の一部だという。1924年10月、喜八郎の誕生日に寄せられたものだが、同じ月に北京政変が起こり、溥儀は紫禁城を追い出されている。翌年、天津の日本租界で庇護を受けていた溥儀に喜八郎は会っているという。溥儀に仕え、のちに満州国の国務院総理となる鄭孝胥の『使日雑詩』は、訪日時の詩を記したもの。神戸、箱根などの文字が見える。「観血池地獄」というのは別府だった。

 粛親王善耆(ぜんき)は、その場で思い出せなかったが、そうか、川島芳子の父親なのか。喀喇沁王(貢桑諾爾布、グルサンノルブ)の名前は知らなかったが、内モンゴルで最初の近代女子学校を設立した人物だという。日本で下田歌子に会って女子教育の重要性を認識したとか、彼の設立した女子学堂で鳥居龍蔵夫人が教師をしていたとか、日中近代史の緊密な関係が感じられて、いろいろ面白い。

 会場で目を引いたのは、文字を縫い付けた(?)畳1枚くらいの垂れ幕。葬儀会場に掲げる「弔旗」というもので、1928年、大倉邸で執り行われた喜八郎の告別式に掲げられた。張作霖が贈ったものは紺地に茶色の文字で「鶴馭興悲」とあり、喜八郎の号、鶴彦を詠み込んでいる。弔旗の色合いは地味だが、同色の文様が織り出された豪華な生地(たぶん絹)だった。蒋介石が贈ったものは深緑色で「普天同吊」とある。展示は2点だけだったが、図録解説によれば、徐世昌、段祺瑞からも弔旗を贈られている。告別式当日の写真も残っていて、とても興味深かった。よくぞ貴重な近代史資料を今日に伝えてくれた!

 私は、徐世昌という人物を、むかし『走向共和』という中国ドラマで覚えて以来、ずっと好きなのだが、大倉集古館の入口の扁額が彼の書だということを初めて知った。やや癖の強い字で、あまり巧いとは思わないが、交流の軌跡がこうして残されているのは嬉しい。

 2階は、喜八郎が好んで蒐集した琳派の書画、光悦の『詩書巻』(ピンク色の木蓮が描かれた、華やかな料紙)など。伊藤博文の『於日露交渉所感詩』と、それに和した金子堅太郎の詩は、ずいぶんむかしにも見たことがある。私は、明治の政治家では伊藤公も好きで、関連書をいくつか読んだけれど、残念ながらこの詩に言及した書は見たことがない。渋沢栄一、勝海舟の書もあったが、この時代の日本の政治家・実業家は、ちゃんと漢文が書けたのに、その伝統を失ってしまったのは、残念だなあと思った。

 明治の人々も、習わずして漢文が書けたり、書が巧みだったわけではない。喜八郎の息子・喜七郎は、書道家の松本芳翠の指導を受けていた。本展には、喜七郎が『仙石原』と題した漢文(漢詩だったかな)を揮毫した軸に、松本芳翠が朱筆で直しを入れたものが出ていた。分かりやすくて、納得できる直しだった。やはり公けに揮毫が求められる政治家や財界人は、こういう修練を怠らないでほしい。

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