見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

大阪の名建築・ダイビル

2015-01-29 20:52:51 | なごみ写真帖
先だって大阪に行ったとき、少し時間があって、中之島あたりを散策した。素敵な外装のビルディングがあって、見とれてしまった。







大正14年(1925)に中之島の北側を流れる堂島川畔の田蓑橋のたもとに竣工した「大阪ビルヂング」、通称「大ビル=ダイビル」。設計監督は渡辺節、製図主任は村野藤吾、構造計算は内藤多仲だという。渡辺節は、主に関西圏で活躍した建築家だ。村野藤吾は東京にも作品がある(日生劇場)ので、私も名前を知っている。

 旧ダイビルは、2009年に惜しまれながら取り壊されたが、2013年2月に完成した「新ダイビル」の低層階には旧ダイビルが復元・保存されている。こういう装飾過多な建築は大好物。大阪の街、もっと歩いてみたい。
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南島から来た人間/西郷隆盛紀行(橋川文三)

2015-01-28 23:42:03 | 読んだもの(書籍)
○橋川文三『西郷隆盛紀行』(文春学藝ライブラリー) 文藝春秋 2014.10

 何度か書いているが、私は西郷隆盛という人物の魅力がよく分からない。ほうっておけばよさそうなものだが、時々、思わぬ人が西郷を礼賛しているので、どうしても気になる。たとえば、内村鑑三は「明治の維新は西郷の維新であった」と言い切り、「聖人哲人」「クロムウェル的の偉大」「日本人のうちにて、もっとも幅広きもっとも進歩的なる人」と口をきわめて褒めている。内村鑑三というのも、ちょっとアヤシイところのある人で(←ホメている)この記述を含む『代表的日本人』を、読みたい読みたいと思って探している。

 中江兆民も西郷に高い評価をおく。著者いわく、兆民は、名誉や社会的地位に目もくれず、貧乏を恐れない。そのかわり、正義と信じるものには絶対に従う、そのあたりが西郷と似た性格なのではないか。それから、福沢諭吉。これは意外な気がした。西南戦争直後に西郷弁護論を書いているが、反響を考慮して晩年まで発表を控えたという。福沢は、単純な進歩主義者タイプとはいえない、という分析が興味深い。北一輝は、非常に複雑な表現で西郷を評価している。西郷軍の反動性を指摘し、倒されたのは必然としながら、西郷の死によって維新の精神が失われたことを惜しむ。それから鶴岡育ちの大川周明。庄内藩は戊辰戦争で寛大な処遇を受けたことから、西郷への敬愛の念が強いのだそうだ。

 さらに意外なことに、中国文学者の竹内好が登場する。竹内は西郷論は書いていないが、関心をもっていたに違いない、と著者は推測する。そして、竹内好の研究対象だった魯迅も西郷に関心があったらしい。まあ近代中国の「志士」たちが明治維新に学んでいたことはたくさん傍証があるし。

 それから、これは仮定であるが、もし西郷が遣韓大使として朝鮮に渡り、大院君(高宗の父)に会っていたら、意気投合していたのではないか(安宇植氏談)という見解も興味深く読んだ。私は閔妃事件の関係で、どちらかというと悪役イメージで見ていたが、勝海舟も大院君に会って、面白い人物だと評しているという。時代や国境を越えた西郷隆盛シンパが、芋づる式に現れるので、たいへん面白かった。

 その一方、西郷は政治的実務能力を全く欠いていたとか、封建的な地方主義を脱却していなかったとか、近代的合理性の立場からの批判がある。木戸孝允とか大隈重信の弁。また、敗戦後は、西郷の「征韓論」が軍国主義や右翼のシンボルのように扱われた。しかし著者は、西郷の「征韓論」は前近代の大陸膨張論であり、その後の帝国主義的な膨張論(アジア侵略)とは区別すべき点があるのではないかと考える。歯切れは悪いけど、言いたいことは分かる。

 そして、それゆえ、著者は西郷隆盛論を書こうと思って、いろいろ調べていく。ゆかりの地を訪ねたり、対談をしたり、講演をしたり、その構想ノートが本書なのだ。いちばん面白かったのは、「西郷隆盛と南の島々」と題された島尾敏雄氏との対談。作家の島尾敏雄さんって、奄美大島で図書館長(分館長)をされていたのか。知らなかった。西郷が「島暮らし」で得たものをめぐって、倭(ヤマト)の辺境である南島と東北の親近性に話が及ぶ。島尾さんの「薩摩は南島とものすごく似ています」とか、北九州はヤマトの中心であって辺境ではない、などの指摘が、いちいち刺激的だった。西郷は、ヤマトの政治に絶望して、何か違うもの(日本を超えたもの?)を求めていたのではないか、というのが著者のたどりついた推論である。

 「征韓論」について、日本が朝鮮とぶつかり、清国と戦うことになれば、日本の士族層は滅び、その後の日本に新しい体制ができるかもしれない。そこらへんまでは西郷さんも考えていたのではないか、と著者は1976年の講演で述べている。これは、著者が意識していたかどうか分からないけど、中江兆民『三酔人経綸問答』に登場する豪傑君の主張そのものであると思って、はっとした。なお、ネタバレだけど、最終的に著者の西郷隆盛論は完成せずに終わっている。

 鹿児島、それから奄美大島も行ってみたくなってきたなあ。あと、この「文春学藝ライブラリー」、文藝春秋社のHP(本の話WEB)に「名著、良書の復刊」を目指します、とうたっているが、選択眼が非常によい。息切れしないよう、今後とも期待!
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目で見る日本の精神史/途中下車で訪ねる駅前の銅像(川口泰生)

2015-01-27 21:22:42 | 読んだもの(書籍)
○川口泰生『途中下車で訪ねる駅前の銅像:銅像から読む日本の歴史と人物』(交通新聞社新書) 交通新聞社 2014.10

 「日本のように駅前に数多くの銅像、石像、モニュメントが設置、建立されている国は他にないであろう」と著者は語る。私は外国の駅をあまり利用したことがないので、何とも言えないが…そうなのかなあ。本書には、日本全国の駅や停車場前に建てられた歴史上の人物、または集団の銅像(石像、モニュメント含む)110項目を取り上げ、写真入りで紹介している。

 楽しみ方はいろいろある。人物の選択や造形には、近代の日本人が、どういう歴史上の人物を顕彰しようとしたか、言葉を変えると、日本の歴史を「どうあってほしい」と願っていたかが透けて見えて、たいへん面白い。本当は、銅像の建立年代がもう少し詳しく分かると、戦前・戦後・近年で、日本人の精神史の移り変わりが分かって、より面白いのであるが。

 それから、なぜ、この場所にこの人物?というのもある。町おこしや郷土愛を育てるため、銅像を建てることにしたものの、適当な人物がいなくて、ずいぶん困ったんじゃないかなと勘ぐりたくなるものも。記紀に登場するヤマトモモソヒメの銅像は、当然奈良県内かと思ったら、琴平電鉄一宮駅に隣接する田村神社にあるとか。和気清麻呂像が東西線竹橋駅前にあることは、全く気づいていなかった。「更級日記」の作者・菅原孝標女の像は、生まれ育った上総国府が、現在の千葉県市原市にあったと推定されていることから、内房線五井駅前にある。女性の銅像は、だいたい視線を少し上に向け、必要以上にキリッと「雄々しい」スタイルが多い。制作年代も新しいんじゃないかなと思う。

 男性像で目立つのは、やはり武士。甲冑姿で馬に乗っているものが多い。大きな騎馬像を鋳造するのは難しかったはずで、その分、建立者も気合が入ったのだろう。二重橋駅前(皇居外苑)の楠木正成像は高村光雲の作で、躍動感に満ちた馬の造形が素晴らしい。でも神戸電鉄湊川駅前の楠木正成像も、前足を天に向かって跳ね上げた馬の姿がなかなかよい。笑ってしまったのは、木曽義仲の故事にちなんだ火牛像。角に松明をくくりつけた牛が何頭もつらなって、天に昇っていく。いや、天から降りてくる。北陸線石動駅、津幡駅にあるというが、本書の図版と同じ写真は、ネットで確認できなかった。石動駅の木曽義仲像はオーソドックスな騎馬像である。

 弁慶とか板額御前(浄瑠璃でおなじみ)とか、半ば伝説上の人物の銅像も存在する。学者や芸術家の銅像が意外と多い、というのも発見だった。石田梅岩、中江藤樹、林子平あたりは順当として、常磐線高萩駅前の長久保赤水像、津山駅前の箕作阮甫像というのは渋くて、嬉しい。七尾駅に長谷川等伯像があるというのはびっくり。上熊本駅前に夏目漱石像があるというのも知らなかった。似つかわしくないけど、まあ仕方ないかなあ。
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中国の楽しい絵画史料/描かれた倭寇(東京大学史料編纂所)

2015-01-26 21:57:50 | 読んだもの(書籍)
○東京大学史料編纂所編『描かれた倭寇:「倭寇図巻」と「抗倭図巻」』 吉川弘文館 2014.10

 え、昨年のうちにこんな本が出ていたの!? 3ヶ月近くも気づかなかったことが無念でならない(※後注あり)。はじめに、おさらいをしておこう。「倭寇」とは、14世紀~16世紀に東アジア海域で活動した海賊のこと。14世紀半ばから後半にかけて、朝鮮半島ならびに中国沿岸部で活動した集団を「前期倭寇」と呼び(中国は明・朱元璋の建国時代)、16世紀半ば、中国沿海部で広く活動した集団を「後期倭寇」と呼ぶ(明・嘉靖帝の時代)。

 東京大学史料編纂所が所蔵する「倭寇図巻」は、後期倭寇を描いたもので、明代末期(16~17世紀)に中国で制作されたと推定され、20世紀初頭、東京の書店が中国で購入してきたと伝えられる。史料編纂所のコレクションの中でも抜群の知名度を誇り、中国・高校のほとんど全ての教科書に採用されているという。へえ~私は全然記憶がないなあ(あ、高校で日本史を学ばなかったから)。実物は、展覧会で何度か見たことがある。2010年の「史料展覧会」のレポートはこちら

 しかし、展覧会よりも、本書の図版のほうが何倍もいい。繊細な筆致を見事に再現していて、短い解説も的確で、こんなところにこんなものが描かれていたか!と驚いた場面がいくつもある。たとえば冒頭、画面右端に浮かぶ倭寇船。その後方には、さらに小さな倭寇船が二隻描かれており、海の彼方からだんだん近づいてくる緊迫感を表現している。この図巻は、かなり遠景と近景を意識的に描き分けている感じがする。靴や冠を放り出して逃げる人々。倭寇に弓でねらわれる天空の白鳥。緑陰に混じるピンクの桃の花など。

 中国国家博物館が所蔵する「抗倭図巻」も全編が精細図版で掲載されている。こんなふうに日本で紹介されるのは初めてだという。嬉しい! 史料編纂所の「倭寇図巻」に比べて劣化が激しいのはやむを得ない。2010年の「史料展覧会」では、パネルで見たけど、手元に置いて、つぶさに眺めることができるのは、本当に幸せなことだ。こちらの倭寇たち、海上の戦闘場面でほぼ丸裸なのが印象的だったけれど、登場シーンではちゃんと着物(丈が短い)を着ているんだな。揃って水色の着物に赤い帯というユニフォームみたいに描かれている。「倭寇図巻」の倭寇たちは、帯を締めていなくて、妙にだらしない。背景の山並みや人家の描き方は「抗倭図巻」のほうが好きだ。きっちり定規で線を引いたような「倭寇図巻」の人家に比べて、「抗倭図巻」には(日本でいう)南画のような、ほのぼのしたのどかさがある。

 水の表現には、非常に顕著な差異があり、本書には触れられていないけれど、それぞれ日本の絵巻に類例がある気がする。「抗倭図巻」のウロコ模様の波は「弘法大師行状絵巻」に似てないかなあ。「倭寇図巻」の細い線を執拗に重ねていく表現は、ちょっと応挙の「七難図」を思い出した。

 このように「似ているけど、違う」二つの図巻の間には、《原倭寇図巻》とも言うべきオリジナル作品があり、さまざまな模本が作られていく中で、たまたま現在まで伝わったのが、この二作品だったのではないかという推論が示される。それを補足するのは、北宋の名画「清明上河図」に対して、明代に江南の工房で盛んにつくられた「蘇州片」の存在である。

 今のところ、倭寇を描いた図巻は、上記の二作品しか見つかっていないが、「文徴明画平倭図記」という著作(張艦『冬青館甲集』所収)の記述によれば、きわめてよく似た絵画作品が他にも存在したことが分かる。面白い! また中国国家博物館には「大平抗倭図」といって、太平県(浙江省台州市温嶺市)に伝わった絵画史料も所蔵されている。これは図巻ではなく、大きな一枚ものの絵画の中で物語世界が展開する。倭寇(なんだか貧弱な体格)の襲来→民衆の抵抗→明軍の到着、という具合に進行し、クライマックスでは、民衆の祈りに応えて、軍勢を率いた関羽が木の上に「影向」する。ちゃんと赤兎馬(らしき赤い馬)に乗り、色白の関平と色黒の周倉を従える。軍勢は顔しか描かれていないので、カトリック絵画に出てくる天使みたいだ。倭寇が、片手に日本刀、片手に(なぜか、ほぼ必ず)広げた扇を持っているのも笑える。戦闘中なのに!?

 私は日本絵画の「芸術作品」が好きだが、それに劣らず「絵画史料」を読むことも大好きだ。そして、中国絵画の高い芸術性を認めるのはもちろんだが、どうして日本の絵巻や絵解き図のような、物語要素が豊富で「ゆるい」「かわいい」「たのしい」絵画史料がないんだろう、と不思議に思って来た。いや、ないはずはないのよね。これからは、こうした作品がもっと日本人の目に触れるようになってほしい。

※1/29補記:私の手元にある本書の奥付には「2014年10月20日 第一刷発行」と印刷されているのだが、吉川弘文館のホームページには「出版年月日 2015/01/05」とあり、史料編纂所も2015/01/16付けで刊行のニュースを掲載している。何故?

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文化の三点測量/日本語で生きる幸福(平川祐弘)

2015-01-25 23:19:50 | 読んだもの(書籍)
○平川祐弘『日本語で生きる幸福』 河出書房新社 2014.10

 今、日本の社会は、グローバリゼーションとやらに前のめりに向かっている。私の勤める職場も、若手から管理職まで、英語の習得は奨励ではなく、もはや義務となってきた。やれやれ。もっと大事なことは他にあるのではないか。私は、外国語の学習自体は嫌いじゃないが、子供の頃から「英語帝国主義」には冷ややかな気持ちで向き合ってきた。そのため、本書のタイトルには強い共感を抱いた。そして、オビの宣伝文句「そもそも、なぜ英語を学習する必要があるのか?」を見たときは、「(全ての日本人が)英語を学習する必要はない」を意味する反語だと信じ、我が意を得たように思って読み始めた。そうしたら、どうも勝手が違った。

 歴史上、文化の中心(覇権)は何度か移り変わってきたが、現在の中心はアメリカであり、英語が世界の支配言語として君臨している。日本は文化の周辺国であり、日本語は言語的マイノリティーである。日本人が世界と対峙するには、好むと好まざるとにかかわらず、英語を学ばなければならない。まず、そんなふうに突き放されてしまった。

 地球上には中心文化と周辺文化があり、日本はずっと文化の周辺国である。長らく漢文化を摂取してきたが、19世紀に西洋文化に方向転換した(Japan's turn to the West)。この見取り図は、松岡正剛氏や内田樹氏も説いているとおりである。もう少し詳しくいうと、日本は島国であったため、「物は入れても人は入れない」という選択が比較的しやすかった。その結果、外国文化に脅威を感じず、積極的な摂取に努めることができた。その一方、「非日本語人を、意識的に物理的な力を用いて排除するというのではなくて、外国人が大量に入り込んでくるという場面に直面することなしにすんできた」と本書は述べている。

 上述のような集合記憶の結果、日本人は、留学を尊重する国民的心性を持っている。最善の文化は海外にある、というのが遣唐使以来の伝統だから、最優秀の学生を派遣して、これを学ばせてきた。明治の国づくりにおいては、あらゆる分野で「洋行」留学生が活躍した。しかし、これはどうやら日本独特の体験らしい。自国の文化が世界一と考える中国では、近代初期の留学生は尊重されず、おおむね二流三流の地位に甘んじなければならなかった。なお、明治期には、西洋に留学した日本人留学生の数よりも、中国・韓国・ベトナムなどから来日した留学生のほうが「桁違い」に多かったという事実も、初めて認識したことなので、書きとめておこう。

 これから先、日本人が異文化を受容せずに生きていくことはできない。では「東アジアで異文化の受容を意味あらしめるような人間の理想像」とはどのような人か。著者は、森鴎外を挙げる。なるほどね。鴎外は『鼎軒先生』の中で「時代は二本足の学者を要求する、東西両洋の文化を、一本づつの足で踏まへて立ってゐる学者を要求する」と述べているそうだ。しかし、鴎外の東西両洋の文化の踏まえ方は並大抵のものではない、一世紀にひとり出るかどうか分からない超人的なものだと思うのだが、著者が本書で論じているのは、明治の鴎外に比肩する知的エリートを養成することで、国民がこぞってピジン・イングリッシュ(実用英語)を喋るようになるか否かは、著者の関心の外であるようだ。

 そして、できれば第二外国語をものして「三点測量」のできる「多力者」の養成が求められる。第二外国語のひとつとして日本語の古文あるいは漢文を数えてもよい。「三点測量は空間的だけでなく時間的に行なうこともまた有効だと判断するからである」と著者は付け加えている。これは、いまの高等教育が振り捨てて省みない「教養」の重視、と言い換えてもいいのではないかと思う。

 本書の「はじめに」には「22世紀の日本列島に住む人々は、はたして何語を話しているだろうか」という設問があり、冗談とも本気ともつかない、5つの可能性が示されている。そして「あとがき」に「改めておうかがいしたい」とあって、再び冒頭の設問を考えさせる形式になっている。実は、本書を読む前と読み終わったあとでは、この設問に対する心持ちが、自分でも意外なほど変わっていた。世界の支配語である英語は学ばなければならない。しかし、日本語やその古典を棄ててはならない。知の巨人たちが描いた大きな三角形には及びもつかないが、私も三点測量を志す気持ちは忘れないでおこう。
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文人・画人が多数/中国人物伝VI. 明・清・近現代(井波律子)

2015-01-22 23:19:47 | 読んだもの(書籍)
○井波律子『中国人物伝VI. 変革と激動の時代:明・清・近現代』 岩波書店 2014.12

 『中国人物伝』全4巻は、去年の9月から毎月1冊ずつ刊行されていたらしい。年末に東京に帰省して、あ!こんなの出てる!と気づいた。買うのをガマンして札幌に戻ったら、最新刊の4巻だけ、ひっそり書棚に置かれていた。東京の大型書店では、4冊並んでいたから、すぐ目についたんだな。

 読むなら「明・清・近現代」からと決めていたので、ちょうどよかった。むかしは中国史というと古代がお気に入りだったけれど、最近は近世・近代史が大好きになってきた。しかし「明・清・近現代」で1冊って、無謀なんじゃない? それぞれの王朝(時代区分)で「語るに足る」人物を挙げていったら、3倍、5倍のボリュームが必要だろうに、と思った。

 ちなみに「明」は16編、「清」は9編、「近現代」は4編を収録。1編の長さはまちまちで、ひとりの人物に焦点をあてたものもあるし、家系や交友関係、あるいは設定したテーマによって、数名をまとめて論じたものもある。基本的に、著者がこれまで書いてきた文章を編み直したアンソロジー(新稿もあり)なので、人物を見る視点や文章のトーンは不統一だ。しかしその、次に何が出てくるか分からないごった煮感が、中国史らしくて好ましい。

 一般の歴史書と比べてユニークなのは、文化人の比重が高いこと。たとえば明代。始祖・洪武帝から永楽帝までの「本紀」、南海遠征に名を残す鄭和、国を傾けた魏忠賢あたりは穏当として、画家の徐渭、文学者の馮夢龍、さらに寧波の書庫「天一閣」を創設した范氏一族の物語も取り上げられている。馮夢龍(1574-1646)は妓女の口ずさむ小唄を集めた『桂枝児』や民歌集『山歌』を出版しているのだな。日本の『閑吟集』や『隆達小歌』みたいだ。『李卓吾評忠義水滸全伝』の編集・校訂に打ち込み、同書を書種堂から刊行したのも馮夢龍だが、どこにも名前は記されていないという。

 名前は知っていたけど、詳しい生涯を初めて知ったのは、女文人の柳如是(1618-1664)。日本だったら文句なく「大河ドラマ」の主人公になれる激動の生涯を送った。妓女にして女文人。40歳も年上の大学者・銭謙益の妻となり、男装して剣術も学んだ。明が滅亡すると、夫の反清運動を支え、単身で鄭成功に接触もしている。すごい行動力! 2012年に中国で映画が作られているようだ。

 張献忠も嫌いじゃない。明末の農民反乱を率いたリーダーのひとりだが、清代の野史が、稀代の殺人鬼に仕立てあげてしまった。憎いから殺すだけでなく、可愛くても殺した。愛妾、友人、一人息子まで。友人たちの生首を長持に入れて運搬させ、陣中で寂しいと、生首を並べて酒を楽しんだという。ここまで「尋常」を踏み越えてしまうと、恐ろしいのを通り越して滑稽である。中国史上の大悪人って、これだから好き。

 「清」でも、大好きな画家の八大山人、詩人の袁枚が取り上げられていて、嬉しかった。袁枚はバイセクシュアルだったのか。「好色」を肯定し、玄人の女性を次々と側室に迎え入れる一方で、女性の知性や才能をこだわりなく評価した。こういう明清の自由な空気が、もっと日本でも知られるといいのに。

 「近現代」の初期を飾る西太后、梁啓超、譚嗣同、みんな大好きだ。清滅亡の元凶とされる西太后であるが、宴会や芝居見物でどんなに夜更かしをしても、翌朝は必ず五時に起床し政務を執ったという。70歳過ぎまで! 満州族って、基本的に勤勉なのかなあ。とても真似できない。魯迅を「憎悪に満ちた論争家(ポレミック)」、毛沢東を「稀代の修辞家(レトリシアン)」という側面でとらえた巻末の2編もとても面白かった。やっぱり、文は人である。

 ほかの巻も、少しずつ読んでいこう。

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時流に媚びず/青池保子 華麗なる原画の世界(京都国際マンガミュージアム)

2015-01-21 22:14:55 | 行ったもの(美術館・見仏)

京都国際マンガミュージアム 漫画家生活50周年記念『青池保子 華麗なる原画の世界~「エロイカ」から「ファルコ」まで~』(2014年11月1日~2015年2月1日)

 京都国際マンガミュージアムの存在は、ずいぶん前から気になっていたけれど、一度も訪ねたことがなかった。今回、青池保子展をやっていると分かって、行きたい!何としても!と決意を固め、京博の常設展を途中で切り上げて、こっちに向かった。

 「漫画家生活50周年」と聞いて驚いたが、青池保子さんは1948年生まれ。1963年に15歳でプロデビューされた。私は70年代に『イブの息子たち』と『エロイカより愛をこめて』を読んで以来のファンである。私は集英社&白泉社派だったので、たぶん最初は、誰か友達に単行本を借りて読んだのだろうと思う。マンガの貸し借りはよくしていたなあ。青池さんの作品が読みたくて、秋田書店の『月刊プリンセス』も時々買うようになった。『エロイカ』の番外編『Z(ツェット)』は、愛読誌だった白泉社の『LaLa』で読んだ。

 当時は、竹宮恵子とか萩尾望都とか山岸凉子とか大島弓子とか、「文学的」な完成度の高い少女マンガが注目を浴びていたと思う。私も彼らの作品が大好きだった。そして視覚的な面でも、それまでの少女マンガの定型とは異なる、冒険的で感性豊かな表現が生まれつつあった。それに比べると、青池作品は相当に異端だったと思う。絵柄はむしろ古くさくて、私の好みではなかったが、作品世界の個性は強烈だった。少女マンガが「何でもあり」の時代だったとはいえ、編集者は、よくあれだけの「冒険」を許したと思う。

 展覧会の会場で、『イブの息子たち』に登場するチュチュ姿のニジンスキーを、何十年ぶりかで見たときは、懐かしくてめまいがしそうだった。ブーツを穿いた黒髪のヤマトタケル。毒薬マニアで超美形「無名の端役」は「チェーザレ・ボルジアに違いない」と読みあてた同級生の友人がいたなあ。まだネットで調べものもできない時代だったのに。

 そして、作画においては、時流に媚びず「古くさい」まま、どんどん巧くなっていく。いやー素敵だ! 懐かしい作品も、初めて見る作品もあったが、ただただ見とれた。古典的名画を手本にした作品がずいぶんあるのだな。特に歴史ものでは。細かい装飾文様とか色のグラデーションとか、苦心と根気のしのばれる職人技が随所に見られたが、やっぱり描いていて楽しいから描くんだろうなあ、と思われた。ぜひ今後も、独立独歩で素敵な作品を描き続けてほしい。

 会場では、熱心に作品を鑑賞する外国人(西洋人)の姿もずいぶん見かけた。彼らの感想がちょっと聞いてみたかった。

※参考:青池保子公式サイト「Land Haus」

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島根鰐淵寺の名宝+ゆっくり常設展(京都国立博物館)

2015-01-20 22:25:34 | 行ったもの(美術館・見仏)
 1月17日(土)は、新千歳空港8:30発の便に乗り、10:50には関西空港に着いているはずだった。ところが、折からの猛吹雪。除雪が追いつかず、飛行機がターミナルビルに近寄れないので、バスで滑走路に移動し、タラップ(さすがに屋根付き)で乗り込んだ。天候の回復を待って、なんとか飛び立ったのは11:00過ぎ。関空到着は14:00近かった。特急「はるか」で京都に着いたのは15:30頃。とりあえず、見逃せない京博に向かう。

■特別展示室 特別展観『山陰の古刹・島根鰐淵寺の名宝』(2015年1月2日~2月15日)

 鰐淵寺(がくえんじ、島根県出雲市)は、推古天皇の勅願で建立されたと伝える古刹。全然知らなかったけど、出雲観光ガイドのページを見ると、山陰屈指の紅葉の名所で、滝の裏の岩壁に蔵王堂が設けられていたり(三朝の投入堂みたい)、弁慶の伝説があったり、いろいろと興味深い。『梁塵秘抄』にも登場するのだそうだ。

 その鰐淵寺が、平成27年に33年ぶりにおこなう本尊ご開帳を記念する特別展観。印象的だったのは、銅造不動明王像の「残欠」(平安時代、12世紀)。型抜きして造られるはずだったのだろう。へそから上の、前面しか残っておらず、周囲には余分な銅がついたまま。失礼ながら、「羽根つき鯛焼き」みたいな状態である。しかし造形は素晴らしく、胸には瓔珞、肩には草花を繋いだような飾りが見える。本来、不動明王の胴体でなかったのでは?と疑ってしまったが、平安時代の不動明王って、華麗・優美なんだな。

 銅造観音菩薩立像は、台座に「壬辰年五月」云々と陰刻があり(壬辰は読みにくい)、解説に持統6年(692)のことという。あごが低く、つんと唇を突き出した顔立ちが、木訥とした田舎の少女のよう。同じ頃の別の銅造観音菩薩(奈良時代、8世紀)もあって、充実した肉付きと腰のひねりは、唐風というより、南アジア風を思わせる。たくさんあった男女の神像(平安~鎌倉時代)も興味深かった。それにしても、持統天皇の御代の島根県というと、柿本人麻呂の存在が浮かぶなあ。まあ石見だけど。

 図録が制作されていなかったことは遺憾。簡単なものでも作ってほしかったが、展示室内の解説に「はっきりしない」「意味が不明」「研究の余地がある」などの文言が頻出していたことを思うと、時期尚早という判断があったのかもしれない。なお、特別展示室は、フロアマップのとおり、1階の彫刻展示室の隣りに設けられていた。 

 それから、1階と2階の常設展示を一回り。どの部屋も楽しかった!

■1階(彫刻)『密教彫刻/日本の彫刻』(2015年1月2日~3月1日)

 「密教彫刻」には、宋風のキリッと美しい如意輪観音坐像。透玄寺は寺町四条下ル。浄教寺の隣の隣である。ううむ、あんな繁華街に。なぜか京博に福岡・観世音寺伝来の不動明王立像があることも知った。「日本の彫刻」には、岩倉の長源寺の薬師如来、八瀬の念仏堂の十一面観音、梅ケ畑の地蔵堂の地蔵菩薩と、洛北の仏様が並んでいた。宝生院の毘沙門天立像は、後白河法皇の念持仏だったと伝える。八頭身というが、十頭身くらいありそう。怒りの表出は控えめで、スマートで端正な毘沙門天。

■2階(近世絵画)『近世の障壁画(桃山~江戸時代)』(2015年1月2日~2月8日)

 2階の絵画展示室は、近世も中世も中国絵画も、障壁画が多くて、展示数が少なめだったので、ちょっと残念な気がしたが、作品はよかった。特にこの部屋。伝雲谷等顔筆『梅に鴉図襖』は1枚が1間くらいある大きな襖が計6枚。大寺院の方丈の威厳を彷彿とさせる。天球院の『梅遊禽図襖』(狩野山雪・山楽筆)は、望んでもなかなか見ることのできないもので、嬉しかった。

■2階(中世絵画)『描かれた動物たち』(2015年1月2日~2月8日)

 単庵智伝筆『龍虎図屏風』6曲1双(慈芳院)は、現存する龍虎図屏風としては最古の作例。室町時代の終わり頃だという。

■2階(中国絵画)『華麗なる中国の花鳥画』(2015年1月2日~2月8日)

 来舶画家の張莘(ちょうしん、張秋穀)筆『四季花卉図屏風』6曲1双はぜひ欲しい。原画を押絵貼屏風に仕立て直したもの。こういうリアルで装飾的な明清の花鳥画があって、江戸の絵画が生まれたんだなあというのは強く感じる。
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初春は賑やかに/文楽・彦山権現誓助剣、冥途の飛脚、他

2015-01-19 22:49:00 | 行ったもの2(講演・公演)
○国立文楽劇場 新春文楽特別公演(2015年1月18日)

 今年も大阪の国立文楽劇場まで、新春文楽特別公演を見て来た。第1部は、床の真横のボックス席で、視界はこんな感じ。



 正面の天井には、吉例「にらみ鯛」と、干支の「羊」字の大凧。揮毫は真言宗智山派総本山智積院の寺田信秀化主である。



・第1部『花競四季寿(はなくらべしきのことぶき)・万才/海女/関寺小町/鷺娘』『彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)・杉坂墓所の段/毛谷村の段』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)・道行初音旅』

 四種の景事で構成される『花競四季寿』。全く期待していなかったのに、見惚れ、かつ聞き惚れてしまった。初春らしく、めでたく賑やかな「万才」で幕開け。ピンク色の蛸の出てくる「海女」で笑わせ、秋の枯野を背景とした「関寺小町」でしっとり。一瞬、老残の小町に寄り添う僧侶に見えたのが、文雀さんだった。小町の和歌、『卒塔婆小町』の伝承、謡曲の詞章など、長い文学の伝統が凝縮されている。最後は雪景色に映える「鷺娘」の妖艶な美しさ。床の上には、大夫さん5名、三味線5名という賑々しさ。三味線の鶴澤清治さんの撥さばきに見とれた。

 『彦山権現誓助剣』は初見の演目。心優しい剣術の達人・六助のところに、師匠の決めた許婚、その妹の子、母代りの老女が次々に現れる。母を亡くして寂しい独り暮らしだった六助は、にぎやかな家族を手に入れて、めでたしめでたし(違うか)。

 『義経千本桜』の「道行初音旅」。これも大勢が床に並ぶ。桜色の小紋を散らした揃いの裃。静御前を遣う勘十郎さんの肩衣も花びらを散らしたようで、華やかだった。勘十郎さん、キツネのほうを遣いたいんじゃないかなあ、と思いながら、楽しんだ。

・第2部『日吉丸稚桜(ひよしまるわかきのさくら)・駒木山城中の段』『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)・淡路町の段/封印切の段/道行相合かご』

 『日吉丸稚桜』も初見。いや~まだまだ知らない演目があるなあ。木下藤吉郎ならぬ木下藤吉(このしたとうきち)が主人公らしいが(上演の段ではあまり活躍せず)、あまりにもスッキリした二枚目なのでびっくりした。しかも情理をわきまえ、思慮深いヒーロー。大阪人にとっての豊臣秀吉って、こんなイメージなのかな。

 お待ちかね『冥途の飛脚』。やっぱり何度見ても面白い。詞章に無駄がなくて、するする頭に入ってくる。緊張感が途切れない。ああ、そして、忠兵衛のダメっぷり。これだけダメな男を平然と主人公に据えて、観客の同情をもらえると考える脚本家・近松のふてぶてしさ。梅川、被害者だよね、どう考えても。梅川を勘十郎、忠兵衛を玉女。比べるわけではないけれど、どうしても亡き吉田玉男さんの遣った忠兵衛が脳裡によみがえってしまう。玉女さんは玉男師匠に「お前は硬いねん」と言われた、という思い出を本公演のプログラムで語っている。でも玉女さんは、年を取るごとに色気の増すタイプじゃないかしら。ひとつの芸事を長年見続けるって、面白いものだなあ。

 第2部は、最前列だったので、久しぶりに人形をガン見。床の様子は見えないんだけど、語りと三味線が、頭上にシャワーのように降り注ぐ席で、気持ちよかった。とりわけ、美声だな~と思ったのは咲甫大夫さん。ちょっと腹の立つくらいの(笑)美声。幕切れでは、紙ふぶきの粉雪が降り注ぐのだが、風に流されて客席に舞い落ちるものもあって、舞台と現実の境界が溶けてゆくような感じを味わった。
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若狭から初荷

2015-01-16 21:38:46 | 日常生活
正月休みが終わって、東京から帰ってきたら、福井県の「おおい町観光協会」からの封筒がポストに届いていた。昨年、「おおい・高浜の秘仏めぐりバスツアー」に参加したので、もしかして新年度ツアーの案内?それにしては早すぎる、と思って、中を開けたら、「若狭パールのお守り」が出てきた。



同封のお手紙によれば、昨秋のバスツアーに参加し、アンケートに回答した人の中から、抽選で5名に送られた賞品とのこと。こいつは春から縁起がよくって、うれしい。

若狭おばまの秘仏めぐりバスツアーは、いちおう3年間の実証運行が終了したわけだが、ぜひ今後も続けてほしい。

今年も若狭の神様仏様とご縁がありますように。
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