見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

読んだものと読んでないもの

2005-12-31 16:28:35 | 読んだもの(書籍)
 今年もあと数時間になって、そろそろ陽が傾いてきた。歳末閑日、しばし本のページをめくる手を休めて、心覚えに挙げておこう。

まずは、今年、読みかけて挫折したものと、買ったけどまだ読んでいないもの。

■深見奈緒子『世界のイスラーム建築』(講談社現代新書) 講談社 2005.3
 著者からのいただきものなのに...申し訳ない。

■高田修『仏教の説話と美術』(講談社学術文庫) 講談社 2004.1
 もっと「説話」について読みたかった。ちょっと「美術」寄りで挫折。

■磯崎新+鈴木博之+石山修武『批評と理論』 INAX出版 2005.3
 なんでだっけなー。途中で挫折。

■松本清張『昭和史発掘1』(文春文庫) 文藝春秋社 2005.3
 予想に反して、小説仕立てで読みにくかった。

■斎藤毅『明治のことば』(講談社学術文庫) 講談社 2005.11
 これは実証的だけど面白味不足で中断。
 以下は「これから読む予定のもの」。正月休み中に、どのくらい読めるかな。

■末延芳晴『荷風のあめりか』(平凡社ライブラリー) 平凡社 2005.12

■辻惟雄『日本美術の歴史』 東京大学出版会 2005.12

■松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書) 中央公論新社 2001.1

■山本武利『新聞と民衆』 紀伊國屋書店 1973.9(新装復刊2005.6)
 正確には、さっき読み終わったところ。新年の更新記事はこれから。

■石光真人『ある明治人の記録』(中公新書) 中央公論新社 1971.5
 で、次はこれに行きます。

 こうしてみると、最近、買っているのは明治モノが多い。この傾向は、しばらく続きそうである。大物では、福沢諭吉の著作集をまとめ読みしたいと思っている。この正月休みにそれをやろうかとも思ったのだが...冷静に考えると6日間じゃねえ。やっぱり、日常生活の合間に、やりくりして読書時間を作るしかないよなあ。


次は、読んだもの。年末年始は読書量が多くて、単独でUPしている余裕がないので。

○宝島編集部編『VOW nano!(バウなのっ!)』 宝島社 2006.1

 毎度おなじみ、街のヘンなもの=VOW。いつの間にか、ケータイサイトが立ち上がっていた。思えば「VOW」が始まった頃、カメラを持って街を歩くのは、すごく「稀」なことだった。たとえ街で「ヘンなもの」を見つけても、写真に撮って、カメラ屋さんで現像して、編集部に送るって、けっこう面倒臭い作業だったのだ。今では、ケータイのカメラで撮って、即送信。いかにもそんな感じのネタが多い(コンビニの品名表示の誤植とか)。いい時代(?)になりました。

○ほしよりこ『きょうの猫村さん1』 マガジンハウス 2005.7

 職場で話題になって、「立ち読みしかしてない」と言ったら、同僚の女の子が「年末の楽しみにどうぞ」と言って貸してくれた。うれしい~。小さいエピソードのひとつひとつも楽しいが、1冊通して読んでみると、大河ドラマの予感がする。続巻に期待。

 それでは、皆さん、よいお年を。
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雑誌は面白いか/Yahoo! JAPAN

2005-12-30 20:47:24 | 見たもの(Webサイト・TV)
○「やっぱり雑誌がおもしろい!!」(Yahoo! JAPAN)

http://magazine.yahoo.co.jp/index.html

 私が日常的に利用しているメディアはテレビとネットである。新聞は、平成の初め頃から読まなくなった。いい大人が新聞を読まないというのは、ちょっと公言するのに恥ずかしかったが、いつの間にか、普通のことになってしまった。雑誌も、特集記事が売りの「東京人」や「散歩の達人」「芸術新潮」「ユリイカ」などはともかく、週刊誌や総合雑誌は読まなくなって久しい。

 さて「Yahoo! JAPAN」が「zassi.net記事大賞」というのをやっている。2005年に発行された雑誌のなかから、えりすぐりの記事を集め、投票で大賞を決めようというものだ。「あなたの知らない記事や、読み逃した珠玉の記事がインターネット上に並び、すべて読むことができます」(PDFファイル)という。

 いくつか拾い読みをしてみたが、久々に味わう雑誌ジャーナリズムって、エグいなあ~、と思ってしまった。「ニュース報道部門」の多くの記事なんて、ノミネートされているくらいだから嘘ではないんだろうけど、こんな俗情におもねる誌面づくりでいいんだろか。通説に反して、実はネット・ジャーナリズムのほうが、よほど健全なのではないか。つまり、ネット・ユーザーのほうが雑誌読者より保守的で、異端の言論に不寛容だとも言える。

 エグいけれども惹かれてしまったのは、「新潮45」の記事「衝撃告白『人妻デリヘル嬢』をやってみました! 中村うさぎ」である。47歳の人気女性作家がデリヘル嬢(→分からなければ本文記事を見よ)になってみるというもので、ネット上でもずいぶん話題を呼んだ。記事は最初の2回が、採用面接から退職まで、3日間で11人の客をとった体験を伝える。その後に「余は如何にして『人妻デリヘル嬢』となりし乎」という付録手記がついている。

 これが凄い。デリヘル嬢体験ルポの噂だけ聞いて、こっちを読んでいない人には、一読をすすめる。女四十を過ぎて、若いホストの口説き文句にはまり、手ひどい屈辱を受けた体験を語ったものだ。愚かな自分を見据える目の冷たさと確かさに、たぶん同じ世代の女性だったら(特に独身だったら)、言葉が出ないに違いない。胸の底に鉛の塊を投げ込まれたように感じるだろう。手記の続きは「来春発売の書き下ろし単行本に収録」だそうだ。商売うまいな、新潮社。
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馬賊になった日本人/馬賊(渡辺龍策)

2005-12-29 22:25:37 | 読んだもの(書籍)
○渡辺龍策『馬賊:日中戦争史の側面』(中公新書)中央公論新社 1964.4

 書店で、めずらしいタイトルを見るなあと思ったら、このたび「復刊」された中公新書の名著3冊のうちの1冊だった。先だって読んだ高島俊男の『中国の大盗賊・完全版』が脳裡によみがえって、つい買ってしまった。

 高島さんの前掲書は、飄々として、どこか絵空事の講談を聴くような味わいがあったが、本書は、ずっと現実的である。ただし、無味乾燥な公式記録で語られる歴史ではない。「本書におりこまれた挿話のほとんどは、私じしんが直接にかいま見たか、あるいは交際をむすんだひとびとの表面に浮びでた行動に関するものである」と語るだけあって、行間には、汗と黄砂と、それから硝煙の匂いがする。

 1903年(明治36年)生まれの著者は、5歳のとき、「袁(世凱)に抱かれてあやされ、肩骨を脱臼した」という。ひー。軍閥割拠から抗日戦争まで、動乱の中国を、バリバリの現場で体験してきた人物である。

 私は、本書『馬賊』を、当然、中国史の一側面だと思って読み始めた。ところが、豈にはからんや、そこには実に多くの日本人が登場する。この時代、「国家」対「国家」の侵略とか戦争責任の問題はさておき(それはそれでちゃんと論じられるべきだが)、中国の民衆と日本の民衆って、こんなに深く、お互いの懐に食い入るような関係を持っていたんだなあ、ということに唖然とした。

 最も印象的だったのは、馬賊になった2人の日本人だ。どちらも、私には、初めて聞く名前だった。ひとりは尚旭東または小白龍と呼ばれた小日向白朗(こひなた はくろう)。日本人であることを隠したまま、はじめ東北抗日義勇軍、のち興亜挺身軍を率いた。しかし、日本軍が暴虐の度を強めるに応じて、興亜挺身軍の解散を決意し、同志たちに述べたという。日本軍の覇道も、貴族化した国民政府も中国の四百余州を救うことはできない、「将来に留意すべきは八路(バールー)のみ」と。

 今年の夏、CCTV(中国中央電視台)制作のドラマ『八路軍』を衛星放送で見ていた。”東洋鬼子”の日本人は、さぞ悪辣非道に描かれるんだろう、と思っていたら、外交的配慮なのか、そうでもなかった。捕虜となったあと、改心して八路軍に身を投ずる日本軍兵士が、重要な役どころを果たしていて、これはないだろう~、と失笑して見ていたが、あながち荒唐無稽とは言い切れないかもしれない。なお、著者によれば、執筆当時(1964年)、小日向は東京で元気な余生を送っていたという。

 もうひとりは、中国名・張宗援を名乗った伊達順之助。天才的な拳銃使いで、日本軍の”御用馬賊”として抗日勢力の討伐・帰順工作に励み、ときには日本軍の下請けで、大量の捕虜の虐殺を行った。しかし、日本軍の中国侵攻が組織化・近代化するにつれ、邪魔者扱いされるようになり、失意のうちに敗戦を迎える。中国(蒋介石)政府に捕えられ、上海監獄で銃殺された。

 著者は伊達について語る。「かれは、性来、中国の風土が好きであった。いや、中国の風土が体内にとけこんだような男であった」。そして、中国の農民に「一種の愛情」さえ感じていたにもかかわらず、自分の所業が中国の民衆を苦しめているという認識がない。うーん、佐野眞一さんが『阿片王』で描いた里見甫(はじめ)を思い出す。中国の風土って、困ったことに、こういう性向の日本人を惹きつけ、狂わせる魔力があるんだよなあ...

■参考:小日向白朗(谷底ライオン)  
小日向白朗と馬賊についての充実した文献リスト。あ~また読みたい本が増えていく。
http://homepage2.nifty.com/tanizoko/kohinata_hakurou.html
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翻訳-自己を映す鏡/漢文脈の近代(斎藤希史)

2005-12-28 23:56:43 | 読んだもの(書籍)
○斎藤希史『漢文脈の近代:清末=明治の文学圏』 名古屋大学出版会 2005.2

 いや~面白かった! 語りたいことが、たくさんある。何から行こう? 本書は、今年の2月に出版されたものだが、私が書店で発見したのは先月のことだ。サントリー学芸賞の発表とともに、目立つ棚に移動したものと思われる。

 サントリー学芸賞! 私は、どんな文学賞よりも、毎年、この賞の受賞作が気になる。とにかく、読んで間違いがない。私が読書に求めるものと、ピタリ照準が一致するのである。公式ホームページには、「従来、評論・研究活動を幅広く顕彰する賞は少なく、既存の枠組にとらわれない自由な評論・研究活動に光を当てることは、本賞の重要な役割」とうたっている。よくぞ、そこに気づいてくれました!と喝采を送りたい。

■サントリー学芸賞(サントリー文化財団)
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/index.html

■第27回サントリー学芸賞の決定(選評あり)
http://www.suntory.co.jp/news/2005/9300.html

 著者の斎藤希史さんは、初めて見る名前だったが、「清末=明治の文学圏」という問題措定の魅力と、オビの「サントリー学芸賞」を見て、すぐ購入を決めてしまった。ここでムダ話をもう一席。私は、かなり人文書に目配りしているつもりだが、さすがに大学出版会の刊行物を購入することは少ない(値段も高いし)。しかし、下記の記事によると、今年の「サントリー学芸賞」の受賞作9点のうち、3点が名古屋大学出版会の本だったそうである。これはすごいことだと思う。

■「名大出版会 良書生むこだわり」(本よみうり堂)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20051118bk01.htm

 さて、内容は、繰り返しになるが、とにかく面白かった。全体を貫く主題は「19世紀後半から20世紀にかけて、かつてないほど相互に交通し作用しあった日本と中国において起きたécriture(書かれた言葉)の変容」である。もともと1冊の書物を志して書かれたものではないので、各章は「微妙に異なる志向」を持っているが、そのことが、さほどボリュームのない著作を、かえって非常に魅力的にしている。

 第1部は、近代初期、「日本文学史」が書かれるために、「支那」の発見(外部化)が必要だったことを述べる。文学史が「書かれたもの」の歴史であるなら、漢字の渡来以前、日本に固有の文学は存在しなかったことになる。国学者たちは、様々な手法でこのアポリアに立ち向かう。たとえば、表記よりも音声を優先させ、あるいは漢文の史書よりも和歌や物語を優位に置く。

 「和漢混淆」状態を「日本」であると開き直ると同時に、その外部に「支那」を把握することも、ひとつの方法であった(このとき、「漢文」は日本の内なるものとして把握される)。その結果、中国本土に先んじ、世界でいちばん早い中国文学史は、日本人の手によって書かれた。それは、「日本」というネイションを、内側からも外側からもはっきりした輪郭をもつものに作り上げるために、どうしても必要な作業だった。

 第2部は、清末民国初の思想家・梁啓超を取り上げる。うれしいなあ...私は梁啓超ファンなのである(CCTV制作のTVドラマで、演じていた俳優さんがカッコよかった)。彼が亡命先の日本で、出版を通じた啓蒙活動・政治活動を行っていたことは知っていたが、日本の「政治小説」を翻訳していたということは知らなかった。いや、そもそも高校や大学(国文科)の文学史では、明治初期に「政治小説」の流行があった、ということは習うけれど、文学作品としては、ほとんど重視されないので、それらが同時代に国境を超えた読者を獲得していたなんて、考えたこともなかった。

 著者は、梁啓超が、日本の小説の翻訳を通じて、中国の文学を発見していく過程を跡づける。また、梁啓超の華訳と読み比べることによって、最も代表的な2編の政治小説『佳人之奇遇』(東海散士・柴四朗)と『経国美談』(矢野龍渓)の差異を示す。前者は才子佳人小説の伝統に基づく(元ネタは遊仙窟か?!)「詩人の小説」であるのに対し、後者は近世小説から脱却しつつある「史家の小説」である。

 このあとは、「中国」という合わせ鏡を少し離れて、明治の「漢文」の諸相について論ずる。矢野龍渓『浮城物語』を通じて考える、明治初期の新聞というメディア論。娯楽小説と純文学の対立。万能の文体「今体文=漢文調=新聞の文体」の成立と、作文指南書および作文投稿雑誌の問題。銅版印刷の効用にも触れる。それから、明治の游記(紀行文)。

 『十五少年漂流記』などの翻訳で知られる森田思軒の翻訳文体論は、本書の白眉であろう。日本語として自然に感じられるのが、いい翻訳文であるという、思い込みを破ってくれる。少なくとも、本書に引用されている「漢文調」の思軒訳って、私にはとても読みやすい。

 本書を出発点として、清末=明治の文学圏のさまざまな問題に渉っていけそうな気がする。歳末を祝すような、嬉しい出会いの1冊だった。
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挿絵本のたのしみ/うらわ美術館

2005-12-26 12:35:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
○うらわ美術館 『挿絵本のたのしみ-近代西洋の彩り』

http://www.uam.urawa.saitama.jp/

 3連休の1日くらい、遠出しようと思っていたが、結局、昼まで寝過ごしてしまったので、比較的、家から近いこの展覧会に出かけた。初めて行く美術館だったが、駅前の大通りに面した瀟洒なビルで、ホテルやレストラン、ショッピングモールが同居している。ちょっとびっくりしたが、これはこれで、なかなかよろしい。

 この展覧会は、19世紀から20世紀初頭の挿絵本を集めたものである。博物学の図譜、旅行記、子供向きの歴史絵本、詩集、観光案内、カリカチュアなど。いや~美しい。オリエンタリズム、ジャポニズム、アール・ヌーヴォー、アール・デコ、モダニズムなど、さまざまな「モード(流行)」が錯綜する。

 初期の挿絵本は、多くが手彩色である。18世紀の色彩印刷は複雑で、女子供に手仕事で彩色させるほうが安上がりだったらしい。19世紀になるとカラー印刷が増える。1852年、オーストラリアで特許を取得した「ネイチャー・プリント」という技法は、細密な原画を再現できるもので、各種のボタニカル・アート本に用いられた。コロタイプとか、ポシュワールとか、よく分からないけど、印刷用語って響きが可憐である。

 私が西洋の挿絵本の美しさを知ったのは、80年代の荒俣宏氏の仕事に手引きされてのことだった。同氏の『絵のある本の歴史-Books beautiful』(平凡社, 1987)は、もちろん私の愛蔵本である。しかし、荒俣さんが熱烈な賛辞を添えて紹介していた挿絵本のホンモノに、20年を経て、出会うことができるなんて、思ってもいなかった!

 最初に記憶がよみがえったのは、シドニー・H・メティヤード(かな?)画『黄金伝説』という本。朝焼け色に全身を染めた、翼ある乙女たちが、白い雪山を越えて行く図版が開いているのを見て、ああ、これは、数ある”Books beautiful”の中で、私がいちばん好きだった挿絵だ!と思い当たった。

 それから、マリオ・ラボチェッタ画の『ホフマン物語』。写真パネルにある表紙は、まさに『絵のある本の歴史』の表紙に使われていた図版である(現物は別のページが開けてある)。さらに、グランヴィル画の『星々』『生きている花々』は、本を立てて展示してあるので、装丁の全体を眺めることができて感激。19世紀半ばの刊行だが、すごく状態がいい。大事にされているんだなあ。展示品のほとんどは「個人蔵」とあったけど、一体、誰の持ち物やら?

 残念なのは、どの本も見開き1ヵ所の挿絵しか見ることができないこと。閉じられたページの奥に、まだまだ、どれほど豊穣な世界が広がっているのか、想像すると羨望と焦燥に駆られる。でも、全てを味わうことは本の持ち主だけの特権なのね。
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ぜいたくなノート/ナショナリズム(橋川文三)

2005-12-25 00:33:43 | 読んだもの(書籍)
○橋川文三『ナショナリズム:その神話と論理』 紀伊國屋書店 1968.8(新装復刊版 2005.6)

 本書の存在を知ったのは、姜尚中氏による。氏は、数年前から講演や対談で、素朴なパトリオティズム(郷土愛)と近代的ナショナリズムの差異を説明するにあたり、しばしば本書を引用していた。読んでみなくちゃなあ、と思いながら、なかなか探しあてる機会がなかった。この古典的名著を、今年、紀伊國屋書店が新装復刊してくれたことに、まずは心から感謝したい。

 新装版のオビには、姜尚中氏の「ナショナリズムの表裏を全身でわかっていた稀有な存在」というコメントともに、大澤真幸氏が「作者自らは失敗と断ずる不思議な傑作」というコメントを寄せている。さすがの両氏で、短い評語のうちに、本書の魅力は尽きているように思う。

 ほんとに不思議な本なのだ。「あとがき」によれば、著者は、少なくとも明治二十年代までを含め、後年の超国家主義への展望をひらく予定で書き始めたが、「序説のうちの序論」で終わってしまった、と告白している。そのため、慣例的なアクノレジメント(謝辞)もないし、文献リストもない。文中の引用は形式にとらわれず、出典が明記されていないこともある。要するに、著者にとって「少々ぜいたくなノート」の域を出ないのである。にもかかわらず、素材のまま、投げ出された数々の示唆は、実に豊かで魅力的だ。

 序章は、用語の整理から始まる。ハーツ(Hertz)によれば、「ネーション(国民)」は主権の保有者であり、「ステート(国家)」はその意志を実現するための機関であり、「ガバメント(政府)」はネーションによって任命された国家の管理組織である。ただし、英語には「ステート」から派生した形容詞がないので、国家によって運営されたり、統制された何かを指す場合にも「ナショナル」という形容詞が使われる。なるほど! 私は、正直、たったこれだけのことも整理できていなかった。

 しかし、英語の「ナショナル」が、容易に「ポピュラー(人民の)」に取って代わり、「国民バター」や「国民パン」という表現さえ可能にするのに対して、ドイツ語の「ナチオナル」は、民族的光栄、民族的統一のような高尚な概念のためだけに用いられる。それは、ドイツ人にとって、ネーションという概念が「縁もゆかりもないもの」であったことを示している。

 では、日本はどうか。内部的同質性を保ち、「一般意志」を共有する「日本国民」は、果たして存在し得たのか。この問題意識のもとに、第一章は幕末、第二章は明治初年(自由民権運動の始動前まで)を扱う。第一章で最も印象的なのは、長州藩の奇兵隊をめぐる考察である。歴史家E.H.ノーマンは、下級武士・農民・町人など雑然たる階級出身者から混成された奇兵隊に、封建制からの解放を見ようとする。一方、遠山茂樹は、これら農商兵を、農民一般・町人一般から分断され、武士身分に引き上げられたものと見る。

 著者は後者の分析を是とし、そこに「日本におけるネーション形成の固有の表現」を見て取る。つまり、一般民衆の中から、身分上昇のエネルギーに支えられた人々を選び取り、立身のコースに移行させる。そして、初めは「烏合の衆」(奇兵隊日記)に過ぎない彼らを、きびしい「専制」のもとに教化・統合してゆく。これこそ、「その後の日本政治の基本的な戦略となったもの」である。思えば、まさに黎明期の東京大学が担った役割も、これと瓜二つであった。

 福沢諭吉は、くりかえし「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と指摘している。つまり、明治維新とは、「ネーション」を抜きに達成された、特異な革命なのである。まあ、ここまではいい。「上からの革命」という表現で、しばしば指摘されてきたことだ。

 しかし、続く指摘は鋭いなあ~。言い換えれば、明治維新によってもたらされた事態は、「国家がその必要のためにようやく国民を求めるにいたった」のであり、「国家が、その権利の対象として(福沢のことばでいえば「政府の玩具として」!)国民を要求した」ことにほかならないのである。うーん、福沢って、にくらしいほどのリアリストだなあ。

 このあと、本書の最終部分は、明治初年の大規模な反政府運動、すなわち自由民権運動に触れ、急ぎ足ではあるが、さらに重要な問題提起を行っている。自由民権運動には「濃厚なナショナリズムの傾向」があり、のちの日本右翼運動(たとえば玄洋社)の源流がここにあると言うこともできるのだ。著者は「民権論を主張するこの運動が、かえって熱烈な国権の擁護者でもあったという二重性格」を指摘する。うーむ。複雑怪奇。このへん、勉強不足の私には、十分理解し得たとは言いがたいが、重要な指摘であることは分かる。「民主と愛国」は、戦後日本の専売特許ではなかったということかなあ。
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死者のドールハウス・中国の明器/町田市立博物館

2005-12-24 12:21:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
○町田市立博物館『陶器が語る来世の理想郷:中国古代の暮らしと夢-建築・人・動物』

http://www.city.machida.tokyo.jp/event/shisetsubetsu/museum/museun_20041116/index.html

 中国の陶製明器(めいき=副葬品)を集めた展覧会である。と言っても、知らない人には、全くイメージが湧かないだろうけれど。

 古来、中国では人間の霊魂は不滅であり、墳墓が永遠の住まいであると考えられてた。そのため、死者が地下の世界で幸せに暮らせるよう、財宝とともに、家畜や従者、住宅や生活用品の模型が副葬された。始皇帝陵の兵馬俑は、その大規模な例であるが、一般の墳墓にも同様の習慣が見られた。中国の博物館でよく見るのは、多層の高楼に、武人や猿・鳥・犬などをくっつけたデコレーションケーキのような大型の陶器である(上記サイトの写真参照)。

 この展覧会は、それ以外に、小品がたくさん出ていて、非常におもしろかった。てのひらサイズの竈(かまど)、碾(ひきうす)、椅子、寝台、衣装だんす、井戸、厠など、ドールハウスか箱庭グッズみたいである。竈には、さまざまな形態があったことが分かって、実におもしろい。四角いバスケット型(内側に炭火を入れるのだろう)のかまどの上には、2本の棒が渡してあって、クッキーのようなものが並んでいる。何かと思ったら、蝉を焼いているのだそうだ。びっくり!

 ちなみに後漢の墳墓では、竈・井戸・厠は「必ずと言っていいほどおさめられた」3点セットだそうだ。なるほど、中国人の現世主義が躍如としている。

 犬もいるし、豚もいる。お母さんブタのお乳にむらがる子ブタたち、あるいは、牛を屠って宴会の準備を始める料理人たちのリアルなことは、海洋堂フィギュアだ。いったい、誰がこんなものを作ったのだろう、故人の家族が作ったのか、それともプロが作って売っていたのかしら?と疑問に思っていたら、ちゃんと「明器鋪(副葬品を売る店)」を模した明器があって笑った(唐代)。これを墳墓に入れておけば、万一忘れたものがあっても安心ね!(笑)

 制作年代は、後漢(A.D.25-220)がいちばん多いが、新しいものもある。明代の住居を模した大型の明器は、今でも中国の旧市街で見かける四合院そのままだった。清代には人物俑はほとんど作られなくなったそうだが、異国の商人を模した彩色俑が出ていた。本場・中国でもあまり見た記憶のない、めずらしいものだ。元代の旅団(馬数頭と馭者、仕女たち)を模したものは、彩色を施さない灰陶俑で、衣服のひだにまで神経のゆきとどいた写実主義が見事である。

 私の好きな鎮墓獣は2件。西晋の作は、うつむくユニコーンみたいである。北斉の作は、左右一対。腰を下ろし、忠実な仔犬のように、顔を上げている。展示ケースの裏に観客の姿が映るので、そこを見ると、鎮墓獣の後ろ姿が、こっちを凝視しているようで、かわいい。

 ちょっと行きにくい場所にある博物館だが、今季の展示は楽しめると思う。しかも無料。

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バッカじゃなかろうか/安田講堂1968-1969(島泰三)

2005-12-23 11:41:23 | 読んだもの(書籍)
○島泰三『安田講堂1968-1969』(中公新書) 中央公論社 2005.11

 個人史的なことを書いておくと、1969年、私は小学生だった。安田講堂の攻防戦については、曖昧な記憶がある。その頃、両親と私(と弟)は、八畳の和室に布団を並べて寝ていて、枕元にテレビがあった。ある朝、父と母は、めずらしくテレビをつけて朝の支度をしていた(大きなニュースがない限り、こういうことはしない人たちだった)。テレビの音声で起こされてしまった私は、布団にくるまったまま、同じ画面を見ていた。たぶんそれが、機動隊突入直前の安田講堂だったのではないかと思う。本書によれば、機動隊が行動を開始したのが午前6時半、安田講堂に突入したのが午前8時だというから平仄は合う。

 私の両親は、立てこもり学生たちに対して冷ややかだった。「こんな馬鹿なことをしでかして」という批判的な態度を言外に感じた。そして、「いい子」の小学生だった私は、「こんな馬鹿な大学生にはなるまい」と子供心に思った。この記憶が、1960-70年代の学生運動に対する私の見方を、今日まで規定している。

 両親は、別に体制派の恩恵を受けたブルジョワ階級だったわけではない。共稼ぎで朝から晩まで働いて、ようやく新しい家を建て、ただ「家族で豊かになること」だけに一生懸命な毎日を過ごしていた。本書には、学生運動に共感し、支援をおくった街の人々の思い出が描かれているが、一方に、私の両親のような人々も少なくなかっただろうと思う。

 さて、本書は、1968年1月の原子力空母エンタープライズの佐世保入港事件から、69年の安田講堂陥落までの学生運動を、特に東大と日大に力点をおいて、時系列的に追った著作である。オビに「なぜ彼らは最後まで安田講堂に留まったのか」とうたっているが、はっきり言って、とてもその回答が見つけられるようなものではない。著者は、当時「本郷学生部長」として安田講堂に立てこもった当事者である。いや、当事者であっても、後世の視点から、過去の自分を再評価しなおす試みはあり得ると思うが、本書はそういう著作ではない。ひたすら己が記憶をたぐり寄せ、「なぜ我々は」「あのとき我々は」という記述で終始している。

 その結果、記述には臨場感があり、当時の学生運動に強いシンパシィを感じている人々には、願ってもない読み物になっていると思う。しかし、あの時代を、もう少し客観的・分析的に知りたいと思っている者には、あまり役立つ著作ではない。著者が熱い心情に遡行していけばいくほど、私は「バッカじゃなかろうか」という気持ちを抑えることができず、最後は飛ばし読みにして、なんとか読み終わった。

 目を覆いたくなったのは、たとえば以下のような記述。安田講堂前に現れた日大全共闘代表の姿について、著者は語る。「そこにはまぎれもない、男がいた。『男(お)の子は、敵の返り血を浴びてこそ』と武士が我が子に語った、その男がいた」。

 これって、戦前戦中の「忠君愛国」「討ちてしやまん」のヒロイズムと、どこが違うだろう? 当時の文章ならまだしも、2005年の今になっても「男がいた」としか書けないところに、この世代の「限界」の根深さを感じて、ほんとにため息が出る。ちなみに、本書に散見する純粋可憐な女子学生の思い出は、全て「男がいた」のマチズモの裏返しである。まあ、このあたりの詳しい分析は、大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』(文藝春秋, 1996)を読むべし。
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戦後日本のグランド・デザイン/吉田茂(原彬久)

2005-12-22 22:50:57 | 読んだもの(書籍)
○原彬久『吉田茂:尊皇の政治家』(岩波新書) 岩波書店 2005.10

 吉田茂については何冊かの本を読んでみたが、なかなか自分なりの評価が定まらない。非常に魅力的な人物に感じられるときもあるし、そうでない場合もある。本書は、どちらかというと後者だったが、同時に、何故こんなふうに印象が揺れるのか、その理由が少し分かったような気がした。

 吉田は基本的には帝国主義者であり、「臣茂」と自称したほどの天皇崇拝者だが、狂信的な国家主義者と一線を画す、欧米的教養の持ち主だった。日米の早期和平に努力したため、憲兵隊に捕えられて、投獄された経験を持つ。だから、戦時中の軍部独裁との対比においては、そのリベラルな面が際立ち、進歩的で魅力的に見える。しかし、民主主義の理想とよくよく対比させてみると、まるでお話にならないほど、頑迷固陋な保守主義者であることが分かる。

 そして、戦後日本の骨組みを作ったのは、こういう人物だったということを、我々は、もう一度、噛み締めたほうがいい。戦争の道義的責任を取って退位しようとしていた天皇の決意を葬り去り、のみならず、天皇の「謝罪」さえ封印して、天皇制の存続をはかったこと。アメリカの懐にすり寄り、見かけだけは日本の「独立」を勝ち取ったこと。憲法九条のもとで自衛隊を保持するという論理破綻に敢えて「頬かむり」したこと――我々は、否も応もなく、吉田の作った戦後日本に今も生きている。

 戦後「民主」社会なんて、その程度のものだ、と言い捨てたら、叱られるだろうか。でも現実は受け入れるべきだ。幻想は早めに捨てたほうがいい。

 本書の直前に読んだ『天皇と東大』(立花隆)を思い出してみると、そもそも近代日本のグランド・デザインは、官僚主導で立ち上がり、一時的に軍部が権力を奪取したのがあの戦争で、敗戦によって、再び官僚のもとに権力が戻ったということではないかしら。「文」と「武」の闘争というのは、長い日本の歴史、もしかしたら東アジアの歴史の伝統に位置づけられるのかもしれない。

 昨今、官僚政治の弊害がいろいろ言われているけれど、最大の批判根拠になっているのは、経済性である。そうすると、官僚→軍→官僚から、さらに資本家への権力委譲が起こりつつあるのかもしれないが、やっぱり、それは「民主政治」ではない。近代化120年、この国は相変わらず「民主、未だ成らず」の状態をさまよい続けるのだろうか。
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名家の名宝/三井記念美術館

2005-12-21 22:28:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三井記念美術館 開館記念特別展 I『美の伝統 三井家伝世の名宝』

http://www.mitsui-museum.jp/

 10月に開館した三井記念美術館を、ようやく見に行った。展示品は、陶磁器、茶道具、書画、拓本、工芸、刀剣、切手など、バラエティに富んでいて、しかも予想以上の高水準だった。財閥の財力(と趣味)をナメてはいけないね。

 最も印象深かったのは、陶磁器である。私は近年、陶磁器の魅力に目覚めたとは言え、色絵や染付が主で、志野とか織部とか、”大人の焼きもの”は、まだ敬遠していた。ところが、この展覧会の「陶磁器」セクションは、簡素な造形と焼きの風合いを愛でる作品ばかりである。あっ、これはまずい(私の鑑賞力を超えている)...と思った。

 しかし、一瞬の不安は杞憂に終わった。どれもいいのだ。理屈抜きの魅力が、ダイレクトに心臓まで飛び込んでくる。気に入った作品に丸を付けていたら、「流釉輪花健水」(野々村仁清)「銹絵染付笹図蓋物」(尾形乾山)「大名物粉引茶碗」など、カタログに丸ばかりが並んでしまった。とりわけ気に入ったのは「黒楽茶碗・銘雨雲」。 不用意に口をつけたら唇を切りそうな、ワイルドな縁辺がたまらない。同じく黒楽茶碗の「銘俊寛」もいい。簡素の極み。小ぶりで、炭を丸めたように真っ黒な茶碗である。3つ送ったら2つは返されて、1つだけ相手の手元に留まったので「俊寛」という名乗りも洒落ている。あ~我知らず、底なしに深い世界にハマッていく感じである。

 書画では、室町時代の「日月松鶴図屏風」が今季の見ものだった。見慣れた白鶴ではなく、赤い顔、黒い胸、濃緑の背をした鶴が数羽、思い思いの姿勢で佇む様子は、仏画に描かれた菩薩たちのようだと思った。

 さらに、今週も古筆の名品を見ることができて眼福。三井文庫の至宝・古筆手鑑「高松」は、初めて本物を見ることができた(三井文庫別館では、写真パネル展示しか見たことがなかった)。

 最後になるが、入ってすぐの展示室は、重役たちの食堂だったそうで、重厚なインテリアをそのまま残している。三つ子のキノコのようなランプがかわいかった。

関連:こんなサイト(↓)見つけました。いいなあ~。

■名作茶器ウットリ展示室
http://kajipon.sakura.ne.jp/bijyutu/tyaki.htm
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