見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2011大晦日所感・今年もお世話になりました

2011-12-31 13:24:41 | 日常生活
あまり自分の生活まわりのことは書かないようにしているブログだが、毎年、大晦日は、その禁を少しだけ破る。

■全般

震災の年にこんなことをいうのも何だが、個人的には落ち着いた1年だった。だいたい3年周期で職場の異動や引っ越しがあると、2年目がいちばん落ち着く。来春は…何もないと思うのだが、来年の歳末は、そろそろ気ぜわしくなる頃だろう。

■震災

震災は特に私の日常を変えなかった(幸いなことに)。ときどき、ふくいちライブカメラ(福島第一原子力発電所の映像配信)を覗いて、自分の生活がリスクとともにあることを確認する。毎朝、最寄り駅の駅頭には、さまざまな政党の区議会議員さんが日替わりで立って、反原発、エネルギー政策の転換をアピールしている。数年前の年金問題はどうした、と思う。騒ぐだけ騒いで、解決されないまま、忘れられていくことが多すぎる。

■ソーシャルメディア

新奇なものに殺到するだけのマスメディアとは別のメディアが本格的に育ちつつあるというのは、この1年を通じて、強く感じたことだ。個人的には、ソーシャルメディアへの参加は、まだ様子見である。とりあえず、今年のうちにスマホデビューしようと思っていたのだが、いろいろと忙しくて、買いに行く暇がなかった。暇がなければ先延ばししてもいい、くらいの関心しかない。まあ、近々買い替えると思うけど。

しかし、面倒くさがりの自分に代わって、このブログの記事をツイートしてくださる方(記事にカウントが表示される)には感謝している。また、コメントなどを通じて、私の間違いを正したり、いろいろ教えてくださった方にも、心から御礼を申し上げたい。ごくまれに悪意あるコメントがつけられると、悪意を呼び込む文章を書いてしまっただろうかと反省する。悪意に凹むよりも、そのほうが気持ちを切り替えやすいためである。

■健康

年末に同世代(40代後半~50代)の友人と集まる機会が何度かあって、体調管理の苦労話に花が咲いた。私は、幸い、大きな病気はしていない。相変わらず、医者嫌い・薬嫌いで、なんとかなっている。しかし、さすがに「老化」を感じる機会は増えた。老眼のせいで、とんでもない書類の読み飛ばしをしたり、代謝や筋力の衰えに自覚がついていけなくて、慌てることもしばしばある。

当たり前だが、若い頃の身体を取り戻すことはできない。これもリスクと賢く付き合っていくだけのことだと思っている。

※一足早く、新年に向けて北野天満宮の絵馬。京都府出身の三輪晃久画伯筆。


それでは、皆様、それぞれによいお年を。
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2011歳末のんびり奈良・京都:北野天満宮

2011-12-30 21:59:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
北野天満宮:終い天神+宝物殿

 天満宮の縁日(毎月25日)の中でも最も賑わうという「終い天神」へ。まあ賑わうと言っても午後からだろうなあ、と思いながら、様子を見ようと昼前に到着。すると、すでに参道は人でぎっしりだった。すごい! バス通りから楼門までの参道は、たこ焼き、焼そば、ベビーカステラなど食べもの屋の露店が中心。干し柿、漬け物、コンニャクなど、関東ではあまり見ないお店があるのが、もの珍しくて楽しい。刃物や箸、お椀、正月飾りのお店も混じる。

 参拝を済ませて、宝物殿(毎月25日開館)を見ていくことにする。終い天神なので、『北野天神縁起絵巻』(承久本)のホンモノが出ていないかな?と期待したのである。展示品の冒頭に「国宝・北野天神縁起絵巻」というキャプションがついていたので、一瞬、やった!本物?と思ったが、かすかな違和感がある。巻末まで見ていったら「…承久本をデジタルアーカイブしたものです。奉納 日本ヒューレッド・パッカード社」という札が付いていた。しかし、え、今日はこの札、外し忘れているんじゃないの?と悩むくらい、よく出来た複製である。念のため、入口の職員の方に確かめたら「複製です」とおっしゃっていたし、館外の看板にも、複製だか模本だかの注記が付いていた。

 来年の干支にふさわしいのは、海北友松筆『雲龍図』。この龍は、出っ歯で団子鼻で顎がしゃくれていて、御世辞にも美形とはいえないけど、愛嬌はある。富岡鉄斎筆『渡唐天神図』は、伝統的な図様に則り、しかも伝統以上の魅力がある。長谷川等伯筆の絵馬『昌俊弁慶相騎図』は、毛むくじゃらの大男二人(一人は大鎧、一人は毛脛丸出しの着流し)が一頭の黒馬に相乗りする図で、かなりマッチョな等伯(69歳当時)作品である。

 さて、脇の東門から出てみると、境内の外側の通りも、お店でいっぱいだった。西陣らしく、古着の着物や帯、端切れ、足袋などの和装小物を扱うお店が多く、お客さんがけっこう本気で買い込んで行く。またニットやフォークロア調のストール、帽子、バッグなども多数。表参道には少なかった骨董のお店も、ゆっくり見られるこのへんのほうが多い。

 いいものがあれば買ってもいいと思っていたが、安っぽい近現代ものが多くて、なかなかこれという品物がない。やっぱり露店市はこんなものかなーと思っていたら、ある店で、近江八景(たぶん)を描いた、少し大きめの八角形のお皿が目に飛び込んできた。しみじみ眺めて、これはいい、と思ったが、小さな値札をよく見たら「25,000円」とあった。うーむ。私の行動基準では、衝動買いはちょっと無理…かなり葛藤した末に、結局、諦めた。骨董三昧に本格参入するのは、まだ先でいいと思っている(定年後の楽しみ)。でも、初めての露店市で、それなりにいいものを見つけることのできた自分に少し満足。

西陣らしい華やかな帯の店。


道端に凶器が平然と並んでいる…。平和だなあ、ニッポン。


関東人には珍しい、京都風の正月飾り。※東京の飾りは、海老だの扇だの紅白の御幣だのが付いているのが普通。


結局、買ったもの。


大小の塗り碗(100円×2)。毎日のご飯もこれで食べようかと。塗りが剥げて、味が出るまで使ってみたい。天神さん人形は、神棚がないので、今、キッチンのレンジフードの上に鎮座してもらっている。
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2011歳末のんびり奈良・京都:大和文華館

2011-12-30 11:07:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
大和文華館 『中国美術コレクション展』(2011年11月19日~12月25日)

 今回は、全て同館所蔵品による平常展のため、入館料は割安。しかし、内容は特別展に引けを取らない。会場入口に墨蹟の『虎丘十詠跋』(元代、霊石如芝筆)、絵画の『秋塘図』(北宋)、陶磁器『白磁蟠龍博山炉』(隋~唐)が並んでいて、本展を構成する「書・画・工芸」の質の高さをさりげなくアピールしているように思えた。

 冒頭の解説には、同館の中国美術コレクションは、初代館長・矢代幸雄の収集品が中核となっていること、それゆえ「文人の趣味や茶人の好みが反映された分野の作品は少なく、宋画や陶磁器において、鑑賞性の高い逸品を所蔵」していること、また矢代の収集が、繭山龍泉堂や広田不孤斎/松繁(「壷中居」創業者)、山中商会などの賛同者との交流によって進められたことが書かれていた。「買い手」の美術館を「売り手」の美術商が支えるって、不思議なようだけど、芸術とか学術の世界って、一般的な市場原理では語り切れないんだよなあ…ということが、最近、実感として分かってきた。

 前半は工芸(陶磁、金工、玉製品など)。取り上げておきたいのは、まず三彩馬ならぬ『灰陶加彩誕馬』(南北朝時代!)。全体に石灰を塗り、彩色を加える。黒も少し使っているが、一見すると「赤い馬」である。三国志演義の赤兎馬を彷彿とさせる。どっしりした下半身で、顔が小さい。鞍の上には騎手がいたのかも知れないな、と思った。耀州窯の『青磁雕花蓮華文瓶』はいいわ~。木箱の蓋に墨書「不孤斎」あり。大和文華館のホームページによると、2012年春の『花の美術』展にも出るようだが、写真だと色が全然違って見える。

 後半は書画。『雪中帰牧図』双幅は、見るたびに味わいが深まる感じがする。今回、とても面白かったのは、狩野安信による『雪中帰牧図』の模本があったり、『文姫帰漢図』(南宋初頭の原本の趣きを伝える明代本)に谷文晁の鑑蔵印があったり、清代の版刻『太平山水図集』(+模本2種セット)の奥書に谷文晁が、此の太平三山図は平安(円山)応挙のものだったが、今は木遜斎(木村蒹葭堂)の所蔵に帰した、と記していたり、模本の1本が椿椿山の筆だったり、江戸時代の画家や文人たちが、精力的に中国絵画を収集して、整理・鑑賞・模写した様子がうかがわれたこと。

 同様に、近代以降「新たに流入する中国絵画」のセクションに並んだ明清絵画についても、絵画自体の新しい魅力(繊細な薄墨の美しさ、無人の山水に近代的自我を感じる)とともに、鑑蔵印や奥書に見るコレクターの交流と交錯にも興味をそそられる。内藤湖南の「炳卿眼福」印ってカッコいいな~。『聴松図巻』は何度か見ている作品だが、「張学良印」があったり、翁同龢(おうどうわ)の跋文があることに気づいていたかどうか。

 最後の『閻相師像』は、久しぶりに見ることができて嬉しかった。2006年の『文人たちの東アジア』展以来かな。別の紫光閣功臣像は、2009年、天津博物館でも見たけど。

※蛇足。「繭山龍泉堂」のサイトから何気なく「マユヤマジュエラー」のサイトを見に行ったら、ジュエリーコレクションに見入ってしまった。大人の美意識だなあ。欲しい。これまでジュエリーなんて関心を持ったことがないので、値段は想像もつかないのだが…。
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2011歳末のんびり奈良・京都:奈良公園

2011-12-29 12:24:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
○奈良公園:春日大社~東大寺~奈良国立博物館

 関西に来るときは、博物館の特別展だの秘仏公開だの、いつも目的に縛られて、駆け足になるので、年に1回くらいは罪滅ぼしの平常心旅行。朝の空気が温まり始めた頃に起き出して、奈良公園に向かう。



 以前なら、まっすぐ東大寺境内に入るところだが、昨年(2010)末に春日大社権宮司の岡本彰夫さんの本を読み、今年の秋は根津美術館で『春日の風景』展を見るなど、最近、親しみの増した春日大社に向かう。参道を歩きながら「春日曼荼羅でいうと、あのへんだな…」と描かれた風景が頭に浮かぶのが、味わい深くて楽しい。

春日大社宝物殿 特別公開『春日権現験記の世界-絵巻に中世人の息吹が見える-』(2011年10月1日~2012年1月22日)

 春日大社宝物殿も、いつも割愛していたので、これが初訪問。『春日権現験記』(または春日権現験記絵、鎌倉時代末)の原本は、明治時代に皇室に献上された名宝であるが、春日大社は、田安宗武・松平定信によって制作された模写本を所蔵する(もと桑名本、1982年に同社に奉納されて以降は、春日本と称する)。私は、江戸時代の模写本と聞いて、軽く考えてきたが、春日本はすごく質が高い。数えてみたら、本展には全20巻のうち、16巻が展示されていた。

 ただ『春日権現験記』20巻は、春日大社の霊験説話のアンソロジーであるのに、各巻が一部しか開いていないので、パネルの説明などを読まないと、場面の意味が分かりにくいのは残念である。そのため、絵画としての完成度が高いわりにファンが増えないのだろう。今回、私は宝物殿で売っていた60ページほどの冊子『春日権現験記』を買って来た。各巻のあらすじと名場面がコンパクトにまとまっていて便利である。

 本殿を拝し(幣殿・舞殿から遙拝)、若宮神社(修復工事中)にも参拝。背後の鬱蒼とした森が御蓋山(みかさやま)なのだな、と地図で確認する。しかし、冬でも木々が茂りすぎて「御蓋」のかたちは分かりにくい。水谷神社・水谷茶屋を通って、春日大社の境内を離れる。若草山、手向山八幡宮を経ると、東大寺の三月堂(法華堂)が見えてくる。※補記しておくと、春日大社ホームページの「境内のご案内」は、書き手の人柄がうかがわれるような文章で、いいと思う。

東大寺:三月堂(法華堂)~四月堂~二月堂~大仏殿~戒壇堂

 あ!三月堂が閉まっている…。



 この秋、東大寺ミュージアムで不空羂索観音と日光、月光菩薩を拝見したときは、あれ?三月堂はどうなっているんだろう?と思ったが、確かめにまわる時間がなかった。やっぱり、完全に拝観停止になっていたのか。



 堂前の立て看板には「法華堂は国庫補助修理事業のため、平成25(2013)年3月末迄拝観停止です」「但し、本尊 不空羂索観音菩薩立像は、ミュージアムに仮安置されています」とある。はあ、そうかあ…。いずれにしても私が好きだったのは、三月堂の仏像というより、あの空間だったんだなあ、ということをしみじみ感じる。

 それから拝観できるお堂をゆっくり巡る。四月堂に「三月堂のご朱印も受け付けます」旨の貼り紙がしてあったが、止めておく。二月堂の今日のご朱印は「観音力」だったが、ちらりと横を見たら、隣りのおじさんは「観自在」を書いていた。書き手によって異なるのかな。誰もいない二月堂の裏にまわったら、若いお坊さんが護摩を焚いている背中が見えた。

 戒壇堂(戒壇院)には久しぶりに寄った。ここの四天王は、もちろん正面もいいのだが、これほど横顔のいい仏像は他にないなあと思って、うっとり眺める。それにしてもご朱印が、宝珠の中に、たぶん釈迦如来と多宝如来を表す梵字二文字なのに、墨書が「国宝四天王」ってどうよ、と思ってしまう。

奈良国立博物館 特別陳列『おん祭と春日信仰の美術』(2011年12月6日~2012年1月15日)ほか

 12~1月の『おん祭』は、2~3月の『お水取り』と並んで、奈良博恒例の特別陳列だが、見に来たのは初めてのこと。春日大社所蔵の『競馬図屏風』(16世紀。おん祭の競馬を描いたものではないが、競馬図屏風の最古例。乗尻の衣装が、5月の賀茂の競馬で見たものと同じだった!)、岡本彰夫さんの本にも出てきた『春日赤童子像』など、古物も面白かったが、むしろ現在のおん祭風景を紹介する写真パネルに見入ってしまった。私は、深夜に行われる遷幸の儀(せんこうのぎ)のイメージしか持っていなかったが、へえー17日の午後は流鏑馬があったり、相撲があったり、神楽・田楽があったりするのか。知らなかった。見てみたいが、2012年のカレンダーでは平日に当たってしまう。次の機会を逃さないようにしよう。

 名品展では、『写経手鑑 紫の水』が印象に残った。写経だけを集めた(古文書1件を含む)手鑑で、類品に比べて1枚ごとの行数が多いのが特徴である。あと、最近どこかで見逃した『子島曼荼羅』が見られたのも嬉しかった。
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2011歳末のんびり京都・奈良

2011-12-27 22:55:54 | 食べたもの(銘菓・名産)
歳末の三連休、奈良と京都を1日ずつ。

ほんとは12月2週目に上洛して、東近江の観峰館と四日市の澄懐堂に行くつもりだったのにー。
あるいは3週目だったら、春日若宮のおん祭が見たかったのにー。
どっちも駄目で、ちょっとガッカリだったが、たまには欲張らない旅もいいだろう、と思って新幹線に乗った。

金曜日は、東京でいろいろ用事を済ませて、夕方、京都着。祇園の鍵善良房に、きび餅ぜんざいを食べに行く。まわりは、ほとんどのお客さんが葛切りを食べていた。あれは夏の食べものだと思っていたので、やや驚く。



土曜日は、久しぶりに奈良公園を隅から隅まで歩いて、釜めしの志津香で昼食。ここは、私が高校生の頃から、奈良の観光ガイドに載っていて、何度も何度も前を通っているのに、一度も入ったことがなかった。観光シーズンだと店の外まで客が並んでいて、とても入れる雰囲気ではない。

この日は、勇気を出して覗いてみたら、1組待ちで、すぐ座れた。写真は季節メニューの「かき入り奈良七種釜めし」。



いや、美味しかったわ~。釜にくっついたおこげごはんが、石焼きビビンパみたい。お茶碗三杯分くらい食べても、まだイケる、と思った。今さらながら、奈良の楽しみを新発見。
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量産化以前/長谷川等伯と狩野派(出光美術館)

2011-12-23 11:43:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 日本の美・発見VI『長谷川等伯と狩野派』(2011年10月29日~12月18日)

 先週で終了した展覧会だが、面白かったので、記憶を掘り起こして書いておこう。まだWeb上に残っている展覧会趣旨を読むと「桃山画壇を席捲した等伯絵画の魅力を、一大画派・狩野派との関係を視野に入れながら、じっくりご紹介いたします」とあって、重点は等伯の側にあることが分かる。そうかー私はタイトルを見て、「等伯」と「狩野派」を等分に扱うのか、と思っていたのだ。

 冒頭は、室町~桃山時代の狩野派の屏風6点。狩野派って活躍年代が長すぎて、なかなかイメージが収斂しないのだが、「狩野派全盛」と呼べるのは、この時代なんだな。長信の『桜・桃・海棠図屏風』が好きだ。後世の典型化した狩野派とは全く違って、梅は梅らしくないし、海棠は海棠らしくない。「梅かよ!」とツッコミたくなるような自由さが、微笑ましくていい。多数の筆者による扇面貼交屏風があったが、元信は東福寺塔頭・永明院を本所とする扇座の代表者だったそうだ。

 さて等伯は『竹虎図屏風』(2009年にも参観)1点をどんと展示したあと、本格的な等伯・長谷川派セクションに移る前に、日中の水墨画の名品が並んでいて、ここで私のテンションは一気に上がってしまった。上記にリンクを張った2009年の日本の美・発見I『水墨画の輝き』展にも同様の作品が出ているが、能阿弥の『四季花鳥図屏風』は、全体を覆うふわふわ感が大好きなのだ。牧谿の『叭々鳥図』もかわゆい。

 牧谿『平沙落雁図』は、薄墨を引いた画面に目を凝らすと、飛来する雁の列がうっすら見えてくる。さらに見落としそうなのは、既に地面に舞い降りた数羽の雁の小さなシルエット。これは、真面目くさって意味を考えながら鑑賞する絵画ではなくて、にこにこ笑いながら見る名画だよなあ、と思う。玉澗『山市晴嵐』も同じ。よーく見ると人がいるのね。ところで「平沙」というのは、広い沙漠をいうのだそうだ。すると、あの薄墨は、日本人的には靄か霞だと思っていたのだが、砂嵐(黄砂)なのかしら? 湖南省、行ってみたい…。

 等伯作品では『松に鴉・柳に白鷺図屏風』がよかった。特に『柳に白鷺図』。空気そのもののような柳の枝の細さと軽さ、白鷺もかわいい。以下、後半では「親近する表現」と題し、長谷川派の『波濤図屏風』と狩野常信の『波濤図屏風』を並べる。写真でなく、実物で比較できるのは、とても貴重な機会だと思った。長谷川派のほうが硬質感があり、常信の描き方はアニミズム的な生命力を感じさせる(ぐるぐる渦巻く波とか…永徳とペアで描いた『唐獅子図屏風』の獅子の毛並みを思い出した)。

 その後の長谷川派の展開として、忘れてならないデザインが「柳橋水車図」。広く人気を獲得して、長谷川派の量産アイテムとなった。出光の『柳橋水車図屏風』は、等伯筆と認められている『柳橋水車図屏風』(香雪美術館蔵)に比べれば、江戸期の「写し崩れ」であるが、わりと好きな作品だ。左右一双揃って展示されるのは、久しぶりではないか。右端の柳の葉が、花弁のように水平に開いているのに対し、中央の柳の葉は下向きに下がっている。たぶん右端は早春の若芽の柳、中央は生命力にあふれた盛夏の柳を表すのだろう。そして(実りの秋の稲穂風景を挟み)三本目の左端の柳は白雪に枝を凍てつかせている。饅頭を伏せたような遠景の山、彩色で描かれた水鳥など、十分にデザイン化される以前の絵師のサービス精神(?)があふれていて、楽しい作品である。

 屏風の間に配された陶磁器も楽しかった。磁州窯系だという『白地鉄絵虎文四耳壺』(明代)には笑ってしまった。カエルにしか見えない、横に目の飛び出た虎の顔…。印象的だったのは『朝鮮唐津花生(銘:猿)』(桃山)。形態的には、この画像が似ている(かな?)。ただし、「銘:猿」は上部が白い素地で、下部に黒っぽい飴釉がかかっていた。
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中国の碑+戦艦三笠写真…/日本の古代碑(書道博物館)

2011-12-22 23:54:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
台東区立書道博物館 中村不折コレクション『日本の古代碑-多胡碑建立1300年を記念して-』(2011年11月15日~2012年1月15日)

 日本の碑(の拓本)を見るぞ!と思って行ったので、いきなり1階の大型展示ケースに『広開土王碑』を見たときは(もちろん目に入ったのは一部だったが)ちょっと戸惑った。1階は主に中国ものである。中には、私の好きな『開通褒斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)』もあった。1字または2字ずつを法帖(折本)に仕立てたもの。クレパスのような薄墨で拓が取られていて、独特の雰囲気がある。六面が開いていた。私は、日本民藝館が所蔵する軸装しか記憶になかったが、検索をかけたら、2009年、出光美術館の展覧会でも見ている。これは軸装だったか法帖だったか、覚えていない。現在は岩壁から切り取り、漢中博物館(陝西省)に保管されているそうだ。見たい…。

 2階に上がると、ようやく特集の日本の古代碑。多胡碑は、群馬県高崎市にあり、「和銅四年三月九日」(711年)と刻まれている。大らかな書風といえば聞こえがいいが、一字一字の自己主張が強く、左右のバランスを全く気兼ねしていないように、素人には見える。子どもの手習いみたいだ。江戸時代に模刻された版が、中国の金石家の目にとまり、その著作に記録されているというエピソードに驚く。逆はともかく、日本の学術研究に注意を払っていた中国人もいたのか、と思って。

 ほかにも『多賀城碑』(見に行ったなあ…震災でも無事だったらしいが)や『宇治橋断碑』、薬師寺の『仏足石歌碑』など有名なものが揃っていたが、初めて見たのは『益田池碑銘』。かつて大和国高市郡(橿原市)に造られた貯水池の完成を記念し、空海が筆を執ったもの。原碑は室町時代、築城に使用されて現存せず(ええ~)、高野山の釈迦文院に墨跡本が伝わる。「奇抜な雑体」と解説してあったが、飛白体、あるいは蝌蚪文字に似ている? 人魂が飛んでいるような妖しい書体である。

 中村不折『不折写景』の挿絵原本もあった。展示は上毛三古碑の回。この不折が文と絵を書いた旅行記は『東京朝日新聞』に連載され、夏目漱石の小説とともに、同紙の目玉だったという。

 このほかNHKドラマ『坂の上の雲』にちなんで、子規の尺牘(書簡)や俳句短冊、不折が洋画作品『日露役日本海海戦』(外苑の絵画館にあり)を描く際に使用した写真資料等が展示されている。その不折の絵画を脇に置いた東郷平八郎の写真もあり。不折は、昭和2年(1927)戦艦三笠の演習を見学し、錨や巻上機、ボルトなど、丹念なスケッチも残している。また昭和3年6月の日付の、三笠甲板上の記念写真もあり。軍服姿や、山高帽にフロックコートの来賓たちが写っているが、誰が誰やら、私には分からないのが残念であった。
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17世紀のグローバル市場/海を渡った伊万里焼展(戸栗美術館)

2011-12-22 22:17:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
戸栗美術館 『海を渡った伊万里焼展~鎖国時代の貿易陶磁~』(2011年10月2日~12月23日)

 このところサボっていた展覧会レポートを思い出せる限り、取り急ぎ。「鎖国政策をとっていた江戸時代にありながら、世界の陶磁市場を席巻する輸出磁器として一時代を築いた伊万里焼」約100点を展示。この説明は、公式サイトから取ってきたものだが、会場の説明プレートには「鎖国」の横に、誤解を避けるためだろう、「制限貿易の時代」みたいな注記が付けてあった。

 何度もおさらいしているが、伊万里焼の輸出が本格化するのは、1656年、清の海禁政策以降。展示品の大半は、17世紀後半の作である。私は「海を渡った伊万里焼」という展覧会のタイトルを聞いたとき、反射的に、18世紀のゴテゴテした金襴手が脳裡に浮かんで、あ~あれなら見なくていいや、と思っていた。

 ところが、展示会場に入ったら、愛らしい柿右衛門様式や、自由なデザインの色絵や染付が並んでいて、びっくりした。『色絵双鶴文輪花皿』かわいいな~。花垣の横に赤い鶴、乳白色の空に藍色に鶴が舞っていて、二羽が微妙にアイコンタクト(いや、嘴コンタクト)を取っている。『色絵牡丹文瓶』は、頸の紅色の唐草文がイスラムっぽい。胴の牡丹と太湖石も、写実を超えた生々しさがある。細長い葉は蘭かな。

 この時期の作品は「初期輸出手」と総称される。16世紀~17世紀前半の「初期伊万里」とは趣きを異にするらしいが、幾何学模様にしても、山水や獅子の絵付にしても、個性的で面白い。茶筅型の瓶は、初期輸出手の典型だそうだ。色味は赤が目立つ。続く柿右衛門の時代に入っても、作例の多様さは変わらない。柿右衛門といえば、乳白色の広い余白に愛らしい花鳥or美人図が典型的なイメージだが(私の場合)、「本来の柿右衛門様式はもっと幅広いもの」という説明が印象的だった。

 1690年代からの金襴手の登場は、一説に、柿右衛門窯の職人が鍋島藩窯に引き抜かれて濁し手生地の生産が困難になったため、また、1684年から中国が貿易を再開し、価格競争に打ち勝つためのコストダウンを迫られたためともいう。国際競争に脅かされるモノづくりって、なんだか身につまされる話である。

 ヨーロッパの古城に残る伊万里焼を写真で紹介したコーナーには、さほど新味を感じなかったが、特別展示室に、東南アジアに残る伊万里(オランダ東インド会社の商館で使われていた)が展示されていたのは、興味深かった。ちなみに中国が貿易を再開すると、すぐさま東南アジアの磁器市場は奪回されてしまったそうだ。すでに世界は狭かったんだなあ、と思った。
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政治の中の博物館/ふたつの故宮博物院(野嶋剛)

2011-12-21 01:09:50 | 読んだもの(書籍)
○野嶋剛『ふたつの故宮博物院』(新潮選書) 新潮社 2011.6

 発売当初に本書を見たときは、何を今さら、と思った。あれでしょ、日中戦争の戦火を避けるため、北京故宮の文物が四川省まで運ばれ、終戦後、北京に戻るはずが、国共内戦の勃発により、国民党政権とともに海を越え、台湾に渡り、今日に至るという、日本人にもよく知られた物語。

 ところが、書店で手に取って、中をパラパラめくってみたら、どうもそれだけではないらしい。2000年以降に台湾で起きた二度の政権交代(2000年:国民党→民進党、2008年:民進党→国民党)が、台湾故宮博物院に与えた影響が、詳細にレポートされている。あまりの生々しさに震撼しながら、一気に読んでしまった。

 戦中の文物大移送の話も面白かった。文物移送を命じられた故宮の職員たちは、箱詰めのコツを骨董街・琉璃廠の職人たちに教えてもらう。職員たちが包んだ茶碗を、職人が蹴って転がして、包みを開けてみると、茶碗が割れていた。次に職人たちが包んだ茶碗は、同じように転がしても割れていない。職人たちの包み方に「秘技」が潜んでいたからだ…なんて描写に、嬉しくなってしまう。中国各地を渡り歩き、梱包と開梱を繰り返すうち、故宮の職員たちも箱詰めの専門家になっていく。

 迫る日本軍の爆撃、トラックは道路の陥没や脱輪に悩まされ(そうだろうなあ…)、小舟で急流を渡り、たまたま乗り込んだ舟や列車の行先にあわせて、文物は放浪を続ける。それでも文物の破損、紛失は皆無に近く、今も故宮には「文物有霊」(あるいは古物有霊)という言葉が語り継がれているという。

 日中戦争が終わった後、文物は南京に戻るが、1948年12月から翌年1月にかけて、選りすぐりの文物2,972箱が台湾に移された。このとき、文物と一緒に海を渡った学芸員がいたこと、彼らが「老故宮」と呼ばれていること、彼らは、長くても数年のうちに中国に戻れると信じていたことなども初めて知った。

 南京に残された文物は、共産党政権下で、南京博物院が保管することになった。北京の故宮博物院はこの返還を要求し、北京と南京が険悪な関係になったこともあったが、1990年代に副総理の李嵐清が「しばらくこのままでよいではないか」という調停をおこなって、騒ぎを収めたという。中国という国は、意外と中央集権でなくて、地方の自立性が強いんだな。南京博物院の展示文物には、実は北京故宮の伝来品も混じっていたのか。

 話は飛んで、2000年の台湾。民進党政権は「故宮は中華文化の博物館ではなく、アジア文化の博物館に変わるべきだ」と主張し、故宮に自己改革を迫った。2006年には、林曼麗を故宮初の女性院長に起用。私は、雑誌『芸術新潮』2007年1月号「大特集・台北故宮博物院の秘密」を手元に持っているが、林曼麗院長は、2010年開館予定の故宮南院(分館)が「アジア美術博物館という位置づけ」であり、中国の歴代皇帝コレクションを「アジアの文脈で捉え直す必要」について、熱く語っている。

 ところが、2008年に政権を奪還した国民党は、「故宮はアジアの美術館にはなりえず、中華文化の美術館や博物館とするのがふさわしい」と路線変更を指示、民進党が勝負をかけた「国立故宮博物院組織条例」の改正も頓挫してしまった。故宮南院は、大幅な計画見直しを迫られることになり、2015年完成予定に後退している。何しろ、著者によれば、台湾の政権交代には「一種の革命」のような激しさがあるそうだ。やっぱり、ところ変われど中華民族である。

 さて、一方の中国(大陸)では、「国宝回流」と呼ばれる現象が起きている。韓国でも、奪われた文物の返還を要求する運動が起きているのは周知のことだが、中国の場合は、海外に流出した美術品を豊富なチャイナ・マネーで買い戻す動きが活発化している。山下裕二先生が、最近は清朝の磁器などが驚くほど高くて、唐や宋の文物は意外と安い、とおっしゃっていたのは、こういうわけか。円明園の十二支像の一部(ただし持ち去られたのは1930年代)がオークションに現れたりするのだから、中国人富裕層の愛国心を刺激するわけである。なお、オークションビジネスの仕掛け人として本書に登場する王雁南は、なんと趙紫陽の娘さんだというので、びっくりした。

 再び、二つの故宮の話題に戻れば、国民党政権による台中関係改善の結果、2009年春から「両岸故宮交流」が始まり、2010年6月には、浙江省博物館が所蔵する黄公望筆『富春山居図』が台湾故宮で展示された。台湾故宮には、元来、これと一続きだった画巻の片割れが所蔵されている。この話題は、昨夏の中国旅行中、新聞で読んだ記憶があるが、裏には複雑な事情があったんだなあ、と感じた。

 新春の東博の特別展『北京故宮博物院200選』も、本書を読んで迎えると、格別の感慨があると思う。激しい政治の荒波を乗り越えて今日に伝わった文物に「文物有霊」を感じる気持ちはよく分かる。それと同時に、私は、清朝の皇帝コレクターたちの霊が、今もこれらの文物を護っているような気がしてならない。

※北京故宮博物院200選(2012年1月2日~2月19日)
緊急決定:中国が世界に誇る至宝、清明上河図ついに国外へ(何だってー!!)
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わたしの東京/階級都市(橋本健二)

2011-12-19 23:29:45 | 読んだもの(書籍)
○橋本健二『階級都市:格差が街を侵食する』(ちくま新書) 筑摩書房 2011.12

 理論・データ・フィールドワークから迫る「東京」論。実質的な序論である第1章の前に置かれた短章「東京のなかの東北」は、東日本大震災を受けて、付け加えられたのではないかと思う(憶測です)。2005年のSSM調査に基づき、東京在住者の出身地別分析が掲載されているが、東北出身者は圧倒的に下町居住者で、労働者階級比率が高い。ああ、今でもそうなのか、と思った。私の祖母(大正生まれ)は東北出身で、結婚後、東京に移住してきた。祖父は町工場の労働者だったらしい。私の父(昭和1けた生まれ)も下町で育ったが、大学に進学し、労働者階級から新中間階層に抜け出して、山の手に家を買った。長女の私は下町生まれだが、両親に従って山の手に引っ越し、以来、下町との縁は切れた。

 全くの私事であるが、そんなふうに東京とともに生きてきた自分には、理論的にも心情的にも納得できるところが多く、興味深かった。

 第2章は、なぜ、都市空間には社会構造(格差・階級)が投影されるかという理論づけ。ただ、これは歴史の薄い北米都市がモデルになっていて、ヨーロッパや日本には、ストレートに応用しがたいと思う。第3章から、いよいよ焦点を「東京」に絞り、江戸時代に始まる「下町」「山の手」二分法の淵源と変遷をたどる。両者がどれほど隔絶した「異国」だったか。しかし、近代の始めまで、経済・交通・文化などの多くの面で優位を占めるのは下町で、山の手は物寂しく交通も不便だった。

 ところが、関東大震災とその後の都市計画によって、東京は「新中間層が住む山の手」「繁華街に成長した古い下町」「工場地帯で労働者階級の住む新しい下町」の三元構造に姿を変えていく。さらに戦災(空襲)を経て、下町はやはり工場地域として復興し、旧下町+旧山の手はオフィス街となり、新山の手(東京西部)が新中間層の住宅地として人口を急増させていく。このへんは、私の自分史そのものである。私は、都心(旧山の手)の私立中学に、下町から通っていた。同級生には新山の手の居住者が多かったから、東京の東と西の空気の違いは、肌身に沁みて、覚えている。しかし、70~80年代までは「下町」も「山の手」も、豊かな消費社会の中で消費されるイメージでしかなかった。

 第4章では、次々と統計データを繰り出し、バブル崩壊後の東京23区に起きた格差の拡大を見せつける。いやほんとに、東京住人としては、データを見ているのが苦しくなる。高等教育卒業者比率、生活保護率、平均寿命、などなど。地下鉄でわずか二駅か三駅、毎日通り過ぎている、あの区とこの区の間に、こんな格差が存在するのかと思うと。北区や文京区のジニ係数が高いのはちょっと意外。下町では、比較的若い新中間階級の流入による「ジェントリフィケーション」が起きている一方、貧困層の集積も進んでいるという。山の手は、豊かな住宅地域としての特質を失っていない、と書いてあるけれど、高齢化の進行によって、急速に貧困化する可能性もあるように思う。

 第5章は、趣きを変えて、階級都市・東京を実感しながら歩く5つのコースを紹介する。(1)港区、(2)文京区、(3)板橋と練馬、(4)世田谷区、(5)足立区。著者おすすめの居酒屋紹介つき。はじめて著者の本を読む読者はびっくりだろうが、『居酒屋ほろ酔い考現学』の愛読者なら、思わずニンマリしてしまう好企画である。文学や映画にあらわれた東京の風景を、ところどころに引用するスタイルも、相変わらず上手い。徳永直の『太陽のない街』が、東京高等師範学校(のちの教育大)を訪ねる摂政宮(昭和天皇)の描写で始まる、なんて知らなかった。摂政宮が遠望する「谷底の町」が、千川通り沿いの印刷工場の密集地であるということも。この小説、読んでみたい。

 終章では、多様な地域、多様な住民が織りなすモザイクのような都市空間の魅力を語る。そう、やっぱり私は都市が好きだ。3年間、埼玉県の郊外に暮らしたが、あの、のっぺりした「ジャスコ的空間」には耐えられない。しかし、地域間の格差は小さいほうがいい。「地域の多様性が保たれ、しかも地域間の格差が小さい」都市。それは理想的かもしれないが、本当にそんな都市が実現可能なのだろうか。急ぎ足の結論を読みながら、ぼんやり考え込んでしまった。

※橋本健二の居酒屋考現学(更新頻度、高いなあ…)
http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/
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