見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2014年3月@東京:探幽3兄弟(板橋区立美術館)

2014-03-31 23:54:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
板橋区立美術館『探幽3兄弟~狩野探幽・尚信・安信~』(2014年2月22日~3月30日)

 江戸狩野の祖、狩野探幽(1602-74)と、その弟の尚信(1607-50)、安信(1613-85)を取り上げる。昨年12月に見た出光美術館『江戸の狩野派-優美への革新』と重なる主題である。会場に入ると、三人それぞれの位牌(池上本門寺より出陳)が目に入ってびっくりした。手を合わせてお参りした上で、作品を見始める。

 探幽の作品で好きなのは『富士山図屏風』。心が洗われるような晴れやかさ。実は、富士山の描かれていない右隻のほうが一層好き。南禅寺の『群虎図襖』は、金地を背景に竹林と二匹のトラが描かれているが、つやつやした尻尾の毛並に加え、筋肉のつきかたもリアル。

 ええと、出光の展覧会では、尚信と安信、どっちの評価が高かったんだっけな?と記憶を探っても思い出せなかったが(答えは尚信)、私の好みは尚信である。素人の印象を言うと、どこか「変」で気になる作品が多い。全体に洒脱な線なのに、小さな顔の表情だけ、妙に神経を使っている『蘇東坡図』いいなあ。驢馬の表情や姿勢も好きだ。『寒山拾得図』も同様。あとで図録で見た『朝陽図』(前期展示)の衣を繕う僧侶も同様。このへんの人物画の小品は、図録解説によれば、初公開の個人コレクションが多い。そして、見れば見るほど、私も欲しくなる。『雲龍・竹下虎図屏風』の、下顎を突き出し、鼻を膨らませたトラも可愛かった。かなり好きだ! 松代の真田宝物館所蔵というのも意外でびっくり。

 安信は、洒脱に見えても根が真面目なのだと思う。多くの古典を学んだ形跡も残っている。また、三兄弟の合作あるいは三幅対がいろいろ残っているのも面白いと思った。なお図録は、会場展示作品(前後期)よりもかなり多くの作品を掲載している。4月19日から群馬県立美術館に巡回。
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2014年3月@東京:医は仁術(科博)ほか

2014-03-30 22:54:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立科学博物館 特別展『医は仁術』(2014年3月15日~6月15日)

 まあついでだから見て行くか、くらいの軽い気持ちで入ったら、凄い内容だった。科学史はもちろん、江戸の絵画や美術史に関心のある人にも、ぜひ見てほしい展示である。ポスターに使われている、高台から夕焼けの江戸の町を見下ろすビジュアルは、2009年と2011年に放映された人気ドラマ『JIN-仁-』と同じもの。会場内には、印象深いドラマのテーマソングが流れている。「序章」には「タイムスリップシアター」が設けられ、主人公の仁先生を演じた大沢たかおが、来場者を江戸の世界に案内する念の入れようだ。

 序盤の展示品は、麻疹(はしか)除けの錦絵とか、国芳の「大宅太郎光圀妖怪退治の図(相馬の古内裏)」(写実的な骸骨が描かれている)とか、薬屋の看板とか、いかにも予想のつきそうな展示物で、あまり驚かなかったが、実際の薬材が残っているのには驚いた。人参とかセンザンコウ(穿山甲、アルマジロに似ている)とか、孫太郎虫(かなりグロテスク)とか…。内藤記念くすり博物館からの出陳。幕末~明治初期に使われた医療器具もずいぶん残っているのだな。

 いちばん驚いたのは「腑分け」に関して、豊富な絵画資料が現存していること。人体の全体や部分を「腑分け」の進行に応じ、様々な角度から執拗に記録している。決して「美的」ではない。死臭と血の匂いが漂ってきそうで、気分が悪くなりそうだ。『JIN-仁-』のビジュアルと音楽につられて入場した親子連れは、このあたりで、先を急いで、どこかに行ってしまった。しかし、応挙の「写生」とか「七難七福図巻」も、こういう背景のもとに成立しているんだな、ということをあらためて認識した。

 科博の所蔵品には「和田コレクション」と書かれているものが多かった。図録解説によれば、京都の和田和代史氏が収集された和田医学史料館旧蔵品とのこと。後半には、西洋近代医学の導入(大学東校=東大医学部の源流と、順天堂大学を例に)について、写真パネルを中心とした解説もある。

江戸東京博物館 開館20周年記念特別展『大江戸と洛中-アジアの中の都市景観』(2014年3月18日~5月11日)

 欲張ってもう1か所。「江戸」と「京都」の都市の姿を「アジアの都市設計」との関連で考える。ざっくり言ってしまうと、京都は、アジアの都城の基本原理である「条坊制」を真似てはいたが、「宗廟」(祖先の霊を祀るところ)と「社稷」(土地の神を祀るところ)の存在は明らかでなかった。江戸は条坊制を採用しなかったが、「宗廟」=徳川家霊廟(増上寺と寛永寺)、「社稷」=紅葉山の東照宮というアイディアはあった、ということらしい。ちょっと理が勝ちすぎた結論にも思われる。展示品では、南蛮文化館所蔵の『十二都市図世界図屏風』など、東西文明の交流を示す資料が面白かった。

■江戸東京博物館・第2企画展示室 特集展示『2011.3.11平成の大津波被害と博物館-被災資料の再生をめざして-』(2014年2月8日~3月23日)

 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、地域の文化財や博物館も甚大な被害を与えた。あれから3年、被災した文化財等のレスキュー活動や復興へ向けた博物館の取組みについて紹介する。展示は「文書」「昆虫・植物標本」「考古資料(鉄器、土偶)」「民俗資料(人形、絵馬)」「仏像」という具合に、文化財のカテゴリーで類別されていた。泥水に呑まれた昆虫標本なんて復元できるのだろうか?と思ったが、そこは執念で復元されていた。出土品の鉄鍋(?)は破砕したものを「出土したときの状態」に修復してあったが、あれはどうなのかなあ…。もし破砕した状態で出土したら、あそこまで修復しないと思うので、何だか矛盾を感じる。民俗資料である土製の高田人形は、ほとんどが粉砕され、溶けてしまったが、チャック付きのビニール袋に入っていた1体だけが助かったという。

 驚くべきは文書資料(和紙に墨書)のリカバリー力。丁寧な補修を受けた幸運もあるのだろうが、新品のように美しくよみがえっていて、少し呆れた(いい意味で)。一方で、所蔵資料のデータが保存されていたコンピュータは、泥をかぶった無残な姿で展示されていた(別の場所に保管していた複製データは無事だったらしい)。
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2014年3月@東京:世紀の日本画・後期(東京都美術館)

2014-03-29 19:50:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京都美術館 日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』(2014年1月25日~4月1日)(後期:3月1日~4月1日)

 前期も見たのだが、展示内容がほぼ一新されると知って、後期も見ることにする。

 まず、菱田春草『四季山水』画巻に息を呑む。「生」の自然の手触りをギリギリまで残しつつ、色や形を抽象化した美しさ。東京国立近代美術館所蔵。横山大観の『屈原』は有名な作品だが(高校の漢文の教科書に載っていた)、この展覧会の前期や『下村観山展』を見ることで、明治の日本画に「悲憤慷慨」をテーマとする作品が多いわけが少し分かった。屈原の姿には、東京美術学校騒動で罷免された岡倉天心が投影されているらしい。そしてこれ、厳島神社に所蔵されているのね。何故!?

 木村武山の『小春』は初めて見た。琳派の四季草花図の系譜につらなる素敵な作品。「国立大学法人茨城大学所蔵」というキャプションを見て、学長応接室にでも飾られているのだろうかと思ったら、茨城大学には五浦美術文化研究所があるのだった。塩出英雄の『五浦』も茨城大学所蔵。参詣曼荼羅みたいな明るい色彩で、院展の「聖地」と見なされた五浦の様子を再現した愉快な作品。天心、観山、大観らは、こんなふうに付かず離れず、絶妙の距離感の住居で暮らしていたのね。

 彫刻は、前期は平櫛田中の『酔吟行』が素晴らしかったが、同じくらいヤラレタと思ったのが『禾山笑』。谷中の長安寺の西山禾山(かざん)和尚をモデルとする。真上を見上げて、呵呵大笑する姿で、私の身長だと目鼻が全く見えないのだが、よいのだろうか。

 個人的に最も楽しみにしてきたのは、前田青邨の『知盛幻生』。青邨が86歳のときの作品。個人蔵のため、展示される機会は少ないが、作者晩年の代表作と見られている。2006年に放送された『放送30年 日曜美術館 ベスト・オブ・ベスト』には、ドイツ文学者の高橋義孝さんが、知盛の表情にあらわれた「人間の生きる哀しみ」について語る回が入っていたそうだ。そこまで普遍化せずとも、平家びいきの私には、見ているだけで涙があふれてくる作品だった。たけり狂う波しぶきの激しさ、その中で一団となって(一蓮托生)前を見据える平家一門の気迫と覚悟。ネット上にいくつか画像が上がっているが、いずれも実物には如かず。

 あと、岩橋英遠の『道産子追憶之巻』はよかった。本州の自然とは一味違う、北海道の四季を描いた全長29メートルの大作。北海道立近代美術館所蔵だそうだが、いつでも見られるのかしら。いちおう今は道民なのに、こういう作品に東京で出会ってしまう不見識。

 そして大団円に向かうわけだが、年代が新しくなると、南アジアや西アジアに取材した作品が多くなるなあと漠然と感じながら見て行くうち、平山郁夫の『日本美術院血脈図』が目の前に現れた。題名を見るまでは、白い服を着て白い帽子をかぶり、黒馬に乗って、人々の見守る中を歩む人物を、ヒンドゥーかイスラムの聖人だと思った。題名を見て、あ、これは岡倉天心なのか(不思議な服装は美術院の制服)と思い当った。取り囲む人々の中には、観山や大観の顔があるらしい。これも茨城大学所蔵。作者の平山郁夫(1930-2009)は、岡倉天心(1863-1913)とは直接会うことのなかった世代だが、同じ画家、それ以上に教育者として「血脈」を継ぐという意識が高かったことを思わせた。教育には、ある程度の「個人崇拝」が必要なのだと思う。
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2014年3月@東京:観音の里の祈りとくらし展(藝大美術館)

2014-03-28 22:58:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京藝術大学大学美術館 『観音の里の祈りとくらし展-びわ湖・長浜のホトケたち-』(2014年3月21日~4月13日)

 琵琶湖の北岸(湖北地域)に伝わる優れた仏教彫刻の数々を、地元で大切に祀られる様子とともに紹介する展覧会。全18件。一目で全体が見渡せるほどの狭い空間に、全展示品が密度濃く集められている。私は、2010年の夏に高月の「観音の里ふるさとまつり」、同年秋に「長浜城歴史博物館」と「高月観音の里歴史民俗資料館」が連携して実施した『湖北の観音-観音の里のホトケたち-』展を見ているので、なんとなく見覚えのある仏像が多くて、懐かしかった。

 冒頭の十一面観音立像(田中自治会・湖北町田中)は、ふっくらした丸顔に扁平な胸、華奢な腕が、可憐な少女を思わせる。善隆寺(和蔵堂)の十一面観音は、唇を引き結んだ表情にも、黒く小柄な体躯にも、充実した緊張感がある。総持寺・宮司町の十一面観音は、なかなかの美仏。このあたり(展示室左側の列)の仏像は、見たことがあるとしても展覧会会場なので、記憶が定かでなかった。

 しかし、日吉神社(赤後寺)の千手観音は「現地」を訪ねているので、すぐに思い出した。手首から先を失った脇手の異様な迫力は、一目見たら忘れられない上に、炎天下の高月を歩き回った記憶がセットになっていて、冷やしたスイカをご馳走になったことまでよみがえってくる。隣りの「いも観音」と呼ばれる摩耗の激しい2体の仏像(菩薩形立像と如来形立像)は、確か長浜城歴史博物館でも拝見した。昭和の初めまで近所の子供が川に浮かべて水遊びしていた、というエピソードは、そのときの会場案内の方も語っていて、あんまり呑気な話なので、あっけにとられた記憶がある。

 菅山寺・余呉町坂口の十一面観音は、展示作品の中で一番古く、8世紀末~9世紀初頭に遡ると見られていたが、本当かな。補修も入っていそうで、素人にはよく分からない。最後に横山神社の馬頭観音立像を見ることができて嬉しかった。以前、高月の横山神社を訪ねて拝観したもの。「現地」でお会いした仏像と、こうして美術館で再会するのは感慨深い。「三面八臂」で、中央の面と頭上の馬は口を開け、歯(と牙)を剥き出している。左右の面は、鋭い眼光で、見る者をねめつける。

 この展覧会は、各像のキャプションパネルに所蔵先の寺院等の写真があり、近在の人々がどのようにお守りしているか、どんな祭事があるかなどが書かれている。まさに「祈りとくらし」の展覧会で楽しかった。元来、仏像が何のために作られたかはさておき、日本の地域社会では、仏像がコミュニティの核になってきた歴史があるのだな、と感じた。必ずしも常駐の僧侶は必要でなくて、無住のお寺やお堂でも、そこに仏像があれば、近在の人々が責任を分担して、守り伝えてきた歴史。

 併設の『藝大コレクション展-春の名品選-』(2014年3月21日~4月13日)も見て行く。近代絵画が中心だろうと思っていたら、尾形光琳の『槇楓図屏風』や曽我蕭白の『群仙図屏風』が出ていたので、不意打ちを食らう。小特集「近世の山水/近代の風景-富士山図を中心に-』には、浦上玉堂や谷文晁も。亜欧堂田善の『江戸街頭風景図』は縦長の画面に、表情の見えない長身の人物を配した夢幻的なムードの作品。

 最後に中庭に出て、岡倉天心先生の像に挨拶をしていく。このあと東京都美術館『世紀の日本画』(後期)を見に行く予定だったので。

※[3/30追記]東京から宅送したカタログ類をようやく受け取る。会場でもらったクリアファイルに「観音の里めぐり2014」のパンフレットが入っていた。行きたいなあ…。詳細はこちら
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2014金沢文庫の早咲き桜

2014-03-27 21:57:02 | なごみ写真帖
関西旅行のレポートを終えて、次は三連休の東京の記事。



梅はともかく、サクラは見られないだろうなあと思っていたら、金沢文庫(称名寺)の門前で、一本だけ早咲きのサクラが咲いていた。誇張でなく、感激で震えてしまった。この春、見られる唯一のサクラかもしれないと思い、自分がどれだけサクラ好きかを思い知った。

最後はサクラを見て暮らせたら何も要らない。って西行法師みたいなことを言っているな、自分。
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2014年3月@関西周遊:竹(大和文華館)+梅(泉屋博古館)ほか

2014-03-26 23:18:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
大和文華館 特別企画展『竹の美』(2014年2月21日~3月30日)

 同館と黒川古文化研究所、泉屋博古館との三館が連携し、中国・朝鮮・日本の絵画・工芸品を多角的に紹介する『松・竹・梅』展の一環。ありそうでなかった、いい企画だなあと思った。大和文華館の展示室は、ガラスで囲われた坪庭に竹が植えてあるのがワンポイントだから、当然テーマは「竹」である。

 見どころは、まず多様なスタイルの絵画。高麗仏画の『楊柳観音像』は泉屋博古館から特別出陳。昨年秋、大徳寺の宝物風入れで見た『楊柳観音像』と似ているが、ずっと小ぶり。しかし綺麗だ。観音の背景にしゅっとまっすぐな竹が生えている。竹葉の形が「馬遠系」(丸みがなく鋭角的)だという『竹燕図』(墨画淡彩)。そして、着色の「花鳥図」が3点並ぶ。いちばん右の図は、穴の開いた奇岩の上に横たわる雄の孔雀。頭が低く、尻尾のほうが高い姿勢をとっていて、よく滑り落ちないな、と思う。岩の下には、雌の孔雀と、仲睦まじいつがいの金鶏。背景に紅白の牡丹と桃の枝。明代。ただし「呂紀画風が定型化していく以前の作品」と見られている(図録の解説)。

 その隣りは、水辺のつがいの雉(山鳥?)を描く。これも中国絵画だろうと思ったが「画絹は朝鮮絵画特有の絹目の粗いもの」だそうだ。ううむ、そう聞いて見直すと、前景の岩の粗いタッチとか、鳥の目つきとか、ああ朝鮮絵画(民画)ふうだ!と思うところがある。その左の『野雉臨水図』の、繊細でもの悲しい優美さは、日本の美学らしい。泉屋博古館の所蔵で、椿椿山の作だ。この中国・朝鮮・日本の対比は、それぞれの文化的性格が分かるかな~と問いかけられているようで、とても面白かった。

 それから、探幽の写した大量の縮図(落款だけ大きめに写してある)、安信の唐絵手鑑。渡辺始興の『四季花鳥図押絵貼屏風』もよかった。「竹に(タケノコに)亀」って意外な取り合わせすぎる。いや目出度いけど。墨画はもっぱら中国と日本のみ。そして、こうして並べると日本人画家の作品は、中国絵画と全く見分けがつかないものだなあ(素人には)と思った。

 最後に、展示室に人が多くなってきたなと思いながら冒頭に戻ってみると、若者(主に女性)の集団を連れた、少し年長の男性たちがギャラリーツアーをしていた。大学の先生か助手(助教)さんが、ゼミの学生を連れ歩いている雰囲気。この日(3/16)は午後に、黒川古文化研究所の竹浪遠氏、大和文華館の瀧朝子氏、泉屋博古館の外山潔氏の公開研究会が企画されていたので、関係者の方々ではないかと思う。上述の「花鳥図」のところで、「なぜこれが朝鮮絵画と言えるか」という会話をしているのが面白く、聞き耳を立ててしまった。「中国絵画では、水の流れをこんなふうに描かない」など。

泉屋博古館 特別展『百花のさきがけ 梅の美術』(2014年3月8日~5月6日)

 三館連携企画の二館目は「梅」。おなじみの名品、沈銓(南蘋)の『雪中雪兎図』は二本の梅が主役で、よく見ると萼(がく)が薄紅と薄緑の別品種である。さらに画面の隅には雪を被った竹も描かれている。連携先から、絵画だけでなく、焼きものやら古鏡やら刀の鍔(つば)やら、多様な作品が出陳されていた。ひとつ気づいたことは、中国・朝鮮の梅花の姿は「五弁」を明確に描くことがほぼ絶対条件だが、日本では、全体をぐにゃぐにゃした多角形でごまかすことが許されているっぽい。中村芳中の梅なんか、光琳菊みたいな一筆描きの楕円形である。織部のうつわには、横から見た梅花の図があって、チューリップみたいで可愛かった。大和文華館の「清水裂」は、もと清水寺の帳であったと伝える明代の織布だが、梅にサルって、どういう取り合わせなんだか…。

藤田美術館 『開館60周年特別展-序章-』(2014年3月8日~6月15日)

 たぶん一度も見たことのない、国宝の『曜変天目茶碗』が出ていると知って、駆け付ける。今回のポスターなど、写真で見ると、むちゃくちゃ華やかな印象だが、実物は地味だ。最近の美術館に多い、演出過剰な照明でなく、ほぼ自然光の下に展示されているので、余計にそう感じたのかもしれない。正面には竹内栖鳳の『大獅子図』が、茶碗を守るように睨んでいる。もうひとつ、重文の『白縁油滴天目鉢』も面白かった。ずいぶん大きいなあ、飯が食えるんじゃないかと、にやにやしながら見ていたのだが、そもそも「天目茶碗」ではなくて「天目鉢」だったのか。絵画では蘆雪の『幽霊・髑髏仔犬・白蔵主図』という謎の三幅対が面白かった。マンガみたいなキツネ顔の白蔵主が楽しい。
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2014年3月@滋賀:湖都大津のこもんじょ学(大津市歴史博物館)

2014-03-24 00:15:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
大津市歴史博物館 第63回企画展『湖都大津のこもんじょ学』(2014年3月1日~4月13日)

 古文書は、美術や考古資料などの文化財に比べると敷居が高い気がしていたが、見ているうちにだんだん面白くなってきた。本展は、大津市に関わりの深い、戦国武将や寺社、村や町に関する古文書を一堂に集めて大公開。伝教大師最澄や智証大師円珍に関する「国宝」級の古文書も出ているが、むしろ地券だの寄進状だの、地域の歴史に密着した文書のほうが面白かった。

 扱う時代は、古代から近代までと幅広く、明治24年(1891)の大津事件の記録一式が展示されていたのには驚いた。ぶ厚い和綴じの冊子に、「特別保存」と書かれた白いボール紙の帙が付いている。小説『湖の南:大津事件異聞』を書いた富岡多恵子さんは、この記録を閲覧されたのだろうか。

 この展覧会の情報をチェックしたとき、源義経や伊達政宗の書状もあると出ていたので、いったい何故?と不思議だった。実は、日本の古文書学に大きな足跡を残した中村直勝(1890-1976)博士という方が、大津町(現在の大津市)にある長等神社の社家出身なのだそうだ。そこで、本展には、中村直勝博士が蒐集した古文書の一部が展示されている。ただし、現在はいずれも大和文華館所蔵(地元の大津市歴史博物館に寄贈ではなかったのね)。義経の書状は大きく×がついた反故紙だが、数少ない自筆書状と見られている。治承4年の高倉院の院宣(石山寺蔵・紙背文書)にも色めき立ってしまった。「入道相(国)」の文字も見えて。

 企画展だけで帰りかけて、慌てて常設展(1階)に戻る。

■新発見速報展『新知恩院の木造釈迦涅槃像』(2014年2月8日~4月13日)

 当初、3月16日までとされていた公開が期間延長になった。このたび宝物調査で「確認」された、大津市の新知恩院の鎌倉時代の木造釈迦涅槃像。体長12.8センチとたいへん小さい。そして胸部に水晶を嵌め込んでいる点が非常に珍しい。パネル写真によれば、背面はざっくり斜めに削られていて、右前方に傾けた寝釈迦の体の角度は、精密に計算されているのではないかと思う。右手は中途半端に前に上げた状態。両足のつま先も右前方に向けている。簡素な寝台に横たわっていたが、それとは別に十二の霊獣で飾られた贅沢な寝台もあった。さらに持ち運びケース(?)や巾着袋も付属した「ポータブル仕様」になっており、現代日本人の「フィギュア」愛好に近いものを感じる。

■ミニ企画展『獅子・狛犬』(2014年1月21日~3月16日)

 これは開催期間ぎりぎりで見ることができたもの。全13件(11対+単独像2件)。全て木造である。見どころは「たてがみ」という解説を読んで、なるほどと思った。長さや、ウェーブのかかりかたにバラエティがある。あと雌雄一対の場合も、雄どうしの場合もあるそうで、これは股間で確認するしかないそうだ。
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代々木上原でチェコ料理

2014-03-23 23:01:20 | 食べたもの(銘菓・名産)
先週末の関西旅行のレポートも書けていないのに、三連休は東京で遊んできた。

当初の予定には入っていなかったけど、友人がつきあってくれたので、会食。チェコビールとチェコ家庭料理のお店「セドミクラースキー」にて。素朴な料理、かわいい器。テーブルウェアなど、チェコの雑貨も販売しているみたいなので、次に訪ねる機会があったら、買ってみたい。









ちなみに、東京で見て来たものは盛りだくさん。

藝大美術館『観音の里の祈りとくらし展-びわ湖・長浜のホトケたち』
東京都美術館『世紀の日本画』(後期再訪)
科学博物館『医は仁術』
江戸東京博物館『大江戸と洛中-アジアのなかの都市景観-』及び『2011.3.11平成の大津波被害と博物館』

板橋区立美術館『探幽三兄弟』
府中市美術館『江戸絵画の19世紀』

金沢文庫『中世密教と〈玉体安穏〉の祈り』
浅草寺『大絵馬寺宝展と庭園拝観』
日本民芸館『茶と美-柳宗悦の茶-』

以上。図録も5冊も買ってしまった。遠征慣れしてきたので、宅配便で送るようにしている。
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2014年3月@滋賀:近江三都物語(安土城考古博物館)

2014-03-22 01:19:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
滋賀県立安土城考古博物館 冬季特別展『近江三都物語-大津宮・紫香楽宮・保良宮-』(2014年2月8日~4月6日)

 修二会(3/14)聴聞の翌日、遅く起きて、遠路を滋賀県に向かう。同館には、これまで二回、JR安土の駅から歩いていった(約20分)。駅前からレンタサイクルという手もあるのだが、経験者の話では「風が寒くてキツイ」とのこと。しかし、この日の私は、マフラーに手袋、防寒ブーツという北海道仕様だったので、はじめてレンタサイクルを利用してみた。自転車に乗るのも久しぶりで(何年ぶりだ?!)ドキドキしたが、無事に到着。サイクリングロードはよく整備されていて、快適だった。

 特別展は1室のみの小規模な展示で、考古発掘の紹介だから、どうしても現物資料より写真パネル等が多くなるのだが、古代史の近江好きの私には、十分楽しめる内容だった。『藤氏家伝』には「近江国者、宇宙有名之地」という一句があるのか。ちょっと嬉しい。瀬田の橋は、古代から何度も戦場となった交通の要所だが、今回、模型を見て「橋のかけかた」が初めて呑み込めた。橋脚の基礎工法って、こんなふうになっていたのか。「唐橋」と呼ばれるのも然りで、やはり近江には、渡来系氏族の先進文化・先端技術が根づいていたことを感じさせる。古代の先端技術を支える資源として、鉄はもちろん、杣(そま)すなわち森林資源があったことを忘れてはならない。これは、玉木俊明著『近代ヨーロッパの誕生』を読んだときも教えられたな。「森林」の有無が、国の繁栄を支えるバックボーンだったということを。

 近江崇福寺跡から出土した舎利容器は、青瑠璃(濃緑色のガラス)の小壺の透け具合が素晴らしく美しいのだが、ポスターの写真は、その美しさが表現されていなくて残念。清朝の鼻煙壷にも似ている。藤原仲麻呂と関係する官衙や寺院に限って出土する飛雲文の瓦というのも面白い。発掘品に基づく「大織冠」の復元品というのは、あまりにも意外で、笑ってしまった。サンタクロースの帽子みたいだ。画像検索をかけたら、頭上の半ばを絞るようにすれば、見慣れた冠に近いものになるが、そのまま被ったら、胡人の仮装である。

 大津宮や紫香楽宮の位置や規模が分かってきたのは近年(戦後)のことで、淳仁天皇の保良宮はまだ確定していないらしい。地道な研究の積み重ねが必要なのだろう。近江国が歴史の表舞台にあった古代動乱の時代が、私はとても好きなのだが、展示のエピローグのパネルが、近江は内陸に入りすぎていて、都城を築くには土地狭隘であったことなどを挙げ、「残念ながら近江には権力にとって主たる舞台の役割を長く果たすことができなかったのである」と淡々と結んでいるのが、何だか微笑ましかった。いや、だからこそ古いもの(特に敗れたものの記憶)が残っている土地柄で、私は惹かれるのだ。
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2014年3月@奈良(東大寺修二会)

2014-03-18 22:54:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
 3月14日(金)に仕事で大阪に行くことが決まった。会議に続き、懇親会が終わるのが19時過ぎ。2時間あれば、奈良に落ち延びて、修二会の最終日を聴聞できるじゃないか、と気づいた。予定より少し遅れたが、21時半頃にはJR奈良駅にたどり着くことができた。ホテルのチェックインを済ませ、まだ動いていた市内循環バスで東大寺に向かう。

 バス停から南大門へ延びる参道には、さすがに人の姿がないが、ほどよく街灯が整備されているので、怖いとは感じなかった。オレンジ色のライトの下で、鹿の群れが悠々と草を食んでいる。暗闇を通して、車のライトが何度かほの見えた。

 二月堂や三月堂のある高台に上がると、ざわざわと人声が満ちている。二月堂の下までタクシーで乗り付ける人、逆に車に乗って帰っていく人もいる。正面は騒がしくて落ち着けそうにないので、お堂の裏(東の局)に直行する。入口ぎりぎりまで人が座っていて、混雑ぶりに閉口したが、暗闇に目が慣れてくると、中央付近に空きがあることが分かった。そろそろと這うように移動して、格子戸かぶりつきの最前列をキープ。高い三角襟を立てた練行衆たちが内陣を行き来する姿がよく見える。やがて力強く「南無最上」を繰り返す声明が始まる。しばらく待つと「南無観」も聴くことができた。

 この東の局は、比較的マナーのいいお客さんが多い。それでも低い声で会話したり、断続的に携帯のライトを使用して手元を確認するお客さんがいたりすると気になる。あと最前列で立ったり中腰になっては駄目だと思う。後ろにもお客さんがいるんだから。それにもまして、外陣の特別拝観を許された男性客には、いらいらすることが多い(格子戸の前に立たれると邪魔なんだよ)。今回、私の格子の前には、お父さんに連れられた中学生くらいの男子ふたりが行儀よく座っていた。

 音楽性豊かな行法が一段落して、いよいよ達陀(だったん)かな?と思って身構えていると、内閣総理大臣○○○○、国務大臣△△△△…と、政治家の名前を連ねた祈願文(?)の読み上げが聞こえてくる。ああ、修二会は国家鎮護を祈願する行法だったということに思いを致す。このとき、私の前にいた男子ふたりが、俄然立ち上がって、興味津々の面持ちで内陣の隅を注視している。何が気になるのかと思ったら、一部の練行衆が達陀帽をかぶり、袈裟を脱ぎ(?)「変装」を始めていたのだった。

 それから、いつの間にか達陀の行法が始まっていた。お松明に火がつくと同時に、甘い香りが堂内に満ちたこともあったような気がするが、今回は気づかなかった。水天の登場もよく分からなかった。やがて火天と水天の掛け合いが始まるのだが、裏側に引っ込むと「もっと下向けて!下!」など、先輩からの指示の声が聞こえたり、やや興ざめな光景を見ることになってしまう。指示の後に「オッケー!」と言っていたのに苦笑してしまった。いや、別に英語を禁止する行法ではないし。意外と自然体なんだよな、練行衆とそれを支える東大寺のみなさん。でも本当は、達陀は正面から見るほうが面白いと思う。

 今回は、法螺貝の掛け合いの迫力がいまいちだったように思う。そのかわり、声明の音頭をとる方は、素晴らしい美声だった。私は、前回2011年3月4日に聴聞したときも「今年の錬行衆は声がいい」と記録に書いているが、同じ方だろうか。

 達陀が終わると、外陣のお客さんが一斉に立ち上がって引き揚げ始める(しかも私語をしながら)のも少し腹立たしい。まだ行法は終わっていなくて、静かな唱えごと、鐘の音とともに、修二会はデクレッシェンドで終わっていく。余韻を胸に局の外に出たときは、北側の出口のまわりは人垣ができていて、退出する錬行衆の姿は、ほとんど見えなかった。

 でも楽しかったな。次回は、達陀もお水取りもなくていいから、普通の日に普通の声明だけ、静かに聴聞したい。
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