見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

異類憑き萌え/文楽・御所桜堀川夜討、本朝廿四孝

2014-02-27 23:00:43 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 2月文楽公演(2014年2月22日) 第3部『御所桜堀川夜討(ごしょざくらほりかわようち)』『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』

 同日の舞楽公演に続いて、文楽公演の第3部を見る。『御所桜堀川夜討』は弁慶上使の段。ずいぶん昔に一度見た記憶があるが、その頃は、近世演劇・文芸における弁慶の活躍ぶりがよく分かっていなくて、え?堀川?なぜ京都に弁慶がいるの?というのが不可思議だった。こうしてみると、平家物語に取材した歌舞伎・文楽作品って多いんだな。しかも原作を離れて、自由に二次創作の翼を広げているのが面白い。

 『本朝廿四孝』は「十種香の段」と「奥庭狐火の段」。この演目があるのを見て、何としても東京公演に行かねば!!と思い立ったのである。昨年1月、大阪の国立文楽劇場・新春公演で、初めてこの演目を見て、椅子にへたり込むような衝撃を受けた。「奥庭狐火の段」の桐竹勘十郎さんが、とにかく凄かったのである。まるで彼の熱演が霊狐を引き寄せたかのように。

 「十種香」は豊竹嶋大夫と豊澤冨助。嶋大夫さん、安定してるなー。八十翁に「安定している」って感想もないものだが。上手の一間の内では、亡き許婚の勝頼の絵像(いえぞう、と発音していた)の前で手を合わせる八重垣姫(蓑助さん)。下手の襖がするすると開くと、勝頼の位牌を前にした腰元の濡衣(ぬれぎぬ)(文雀さん)。八重垣姫は、ほとんど客席に顔を向けず、後ろ姿だけで、初々しくも艶なる嘆きを表現する。そこに現れる花作り蓑作こと武田勝頼(玉女さん)。三者が舞台に揃ったときは、うわーなんという贅沢な配役!と胸の内で唸った。恋の炎を燃え上がらせた八重垣姫は、腰元の濡衣に、必死で仲立ちを頼む。「勤めする身はいざしらず、姫御前のあられもない」と呆れる濡衣。この「姫御前にあるまじき大胆さ」という設定に萌えたんだろうなあ、当時の観客は。 

 場面変わって「奥庭狐火の段」。呂勢大夫、鶴澤清治、ツレの清志郎という顔ぶれは、大阪公演のときと同じだ。青い薄闇の舞台に狐火が飛び、白狐が登場する。出遣いの桐竹勘十郎さんも白地に狐火を描いた裃で飛び回る。と、舞台から引っ込んだと思いきや、フツーの裃になって、八重垣姫を遣って再登場。人形遣いの「早変わり」って、あまりない演出だと思う。

 恋人・勝頼の身を案じる八重垣姫の一念が、諏訪法性の兜に奇跡を呼び覚ます。霊狐と一体化した姫は、赤い振袖から、狐火柄の白い着物に変身。手足を縮め、宙に浮かんで、右へ左へ激しく踊り狂う。勘十郎さん、何度見てもカッコいい! そして、この「異類憑き萌え」は、「現実にはあり得ない女性が好き」という日本人の精神的伝統の一端だと思う。

 文楽協会さん、「奥庭狐火の段」をYouTubeかニコニコ動画にUPしないかなー。これを見たら、若い文楽ファンは確実に増えると思うのだけど。
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ザ・スタンダード/宮内庁式部職楽部・舞楽公演

2014-02-26 23:34:45 | 行ったもの2(講演・公演)
○国立劇場 平成26年2月雅楽公演『舞楽』(2014年2月22日、14:00~)

 むかしからこの時期には、国立劇場で宮内庁楽部の公演があった気がする。2011年と2012年は大曲『蘇合香(そこう)』の復活公演だった。昨年は管弦だったみたいだ。今年は舞楽。そして、どれも比較的演じられる頻度の高いものではないかと思う。いま、自分のブログ検索をかけた限りでは『陪臚(ばいろ)』しか出てこなかったが、ほかの演目もどこかで見聞きしたことがあると思った。

 『甘州(かんしゅう)』は、左舞(唐楽)、四人舞。鳥甲を着け、オレンジ系の襲装束を諸肩袒(もろかたぬぎ)にして、ゆったりと舞う。いかにも舞楽らしい華やかな装束。

 『還城楽(げんじょうらく)』は「右舞」とプログラムにあったが、左方にも右方にもある。唐楽系、一人舞。オレンジ系の装束、裲襠(フサフサのついた長めのベストみたいなもの)。面は恐ろしげだが、牟子(むし)という、頭のとんがった三角頭巾がちょっと可愛い。片手に桴(ばち)。大きく伸びあがるような振りが多く、背の高い舞人が舞うとかなり威圧的。トグロを巻いた蛇(のおもちゃ)を見つけると、ぴょこぴょこと足を踏み上げて喜びを示す。今回の演目の中で一番好きなのはこれ。

 『胡飲酒(こんじゅ)』は左舞。林邑楽系の唐楽だそうだ。一人舞。白っぽい変わった装束。三角頭巾を被り、左右に垂らした前髪つきの面を着ける。桴(ばち)を持ちかえながら舞う。『還城楽』と対照的に小柄な舞人だった。鳥皮沓を穿くのが珍しいとプログラムにあったが、よく見えなかった。

 そして『陪臚(ばいろ)』。右舞だが唐楽。四人舞。槍、盾、剣と、持ちものが変化し、動きも早くて楽しい。今回のプログラムなら、初めて舞楽を見る人でも、難しい知識を抜きに楽しめる構成だと思った。でも、全部、唐楽だったんだな、気づかなかったけれど。
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はたらくくるま(除雪車)@札幌

2014-02-23 23:29:16 | 北海道生活
今週末は、土曜の朝から東京に出かけて、今日(日曜)札幌に帰ってきた。

土曜の早朝、観光スポットの清華亭も雪の中。



コンパクトな除雪車が、周囲の雪をサクサク片づけていく。



大きい道に出ると、大きい除雪車も作業中。



北海道で過ごす初めての冬なので、除雪車がものめずらしい。だいたい、深夜とか早朝に仕事をしているらしいので、音を聞くことはあっても、姿を見ることは少ない。希少種の動物を見たようで、この日は得をした気分だった。

一度、夜遅く帰るとき、除雪の済んだ薄暗い歩道を歩いていたら、まぶしいライトとともに正面に大きな除雪車が現れて、ひええ~と立ちすくむ経験をした。古い特撮ドラマで怪獣か宇宙人に襲われる気分だった。

今回の東京旅の収穫は、追って少しずつ。
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ソチ五輪・羽生結弦とプルシェンコ(男子フィギュア)のことなど

2014-02-21 23:53:30 | 見たもの(Webサイト・TV)
 ソチ・オリンピック(2014年2月7日~23日)が始まったときは、バンクーバーから4年経ったのかと感慨深かった。冬季五輪の種目に一切興味がなかった私は、バンクーバーで男子フィギュアにがっつりハマってしまった。その経緯は「バンクーバー五輪・プルシェンコ(男子フィギュア)にハマる」(2010/3/2)という記事に書いたとおり。まずロシアのプルシェンコにハマり、しばらく動画サイトをめぐり歩いて、この選手もいいなーこのスケーターも素敵…と、ご贔屓さんが増えていった。シニアデビューしたばかりの羽生結弦くんを知ったのもこの頃である。

 やがてフィギュアスケートを生で見たくなり、何度かアイスショーにも足を運んだ。いつも最大のお目当ては、プルシェンコと羽生くんだったように思う。どんどん強くなる羽生くんを見守る楽しさと、身体の限界と戦いながら、ソチオリンピック出場を目指すプルシェンコの情報をチェックする一喜一憂(次第に「憂」が長くなる)で、4年間が過ぎていった。

 そして、二人が同じ舞台で「激突」するという、私にとっては夢のような瞬間が訪れようとしていた。13日(14日未明)に行われた男子フィギュアのSP(ショートプログラム)。でも私は夢の瞬間を見るに忍びなくて寝てしまった。プルシェンコについて、どんな結果(成績)も受け入れるつもりで。しかし、翌朝、寝床でスマホを開いて「プルシェンコ、SPを棄権 引退を表明」の文字を見たときは、混乱で頭が壊れそうになった。羽生のSP首位を喜ぶことを忘れるほど。

 それでも半日くらい経つと落ち着いてきて、羽生の金メダルはしっかり見届けた(ただしこれも録画で)。二位のP.チャンの苦笑い顔も印象的だった。このひとも好きなのだ。団体戦のプルシェンコの演技は、動画サイトで一、二回見たが、引退表明を聞いてからは、苦しくて見られなくなってしまった。もう少し自分の気持ちが落ち着くのを待っている。

 私は、いまだにジャンプの種類も見分けられない素人だが、4年間、フィギュアスケートを気にしてきたことで、多少、採点方法や順位の決まり方が分かるようになった。転倒を含む「失敗」演技でも得点が高かったり、一見「見事な」演技でも、基礎構成点が低くて、得点が伸びないこともある。そう分かると、日本のマスコミは、かなり無責任な印象批評を垂れ流しているなあ、と悩ましく思うところがあった。

 あと、オリンピックは確かに特別なのかもしれないが、選手たちは、オリンピックのある年もない年も、繰り返し繰り返し闘い続けているということ。一度負けても、リベンジの機会は繰り返し来る。そして、孤独と重圧に耐えて闘い続ける選手たちは、同じ環境にある者どうし、お互いをリスペクトする作法をちゃんと共有している。これは、女子フィギュアでも感じたことだ。

 さらに、私はどうしてもここに記録しておきたいことがひとつある。東京大学政策ビジョン研究センターのホームページが、先週からなぜかTOPページに羽生結弦選手の写真を使っている。フリーの衣装のまま、日の丸を後ろ手に持ち、氷上で姿勢正しく、深々とお辞儀をする羽生選手を斜め上方向から捉えたもの。清々しい写真だと思う。誰よりも強く、誰よりも美しく、誰よりも謙虚。私が日本という国に求める品格は、まさにこの写真なんだけどな。
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2014年2月@札幌生活

2014-02-18 23:03:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
札幌で過ごした週末の備忘録。

■JRタワープラニスホール 『土門拳の昭和』(2014年1月11日~2月2日)

 昭和11~44年に撮影された200点余りを年代順に展示し、写真家・土門拳の仕事を振り返る。ポスターになっていたのが、戦後まもなくの子供たちの写真だったので、「社会派」作品だけの展示会かと思ったら、「文楽」や「室生寺」の大きなパネルもあって嬉しかった。戦前、早稲田大学の卒業アルバムを制作したのは知っていたが、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の卒業アルバムも手掛けていたとは知らなかった。

 私は土門の生涯を全く知らなかったので、半身不随の状態でライフワークの『古寺巡礼』を撮り続けたことも、1979年に昏睡状態となり、11年後の1990年に意識が戻らぬまま死去したことも知らなかった。死ってよかったのか、何も知らないままで彼の作品を見ているほうがよかったのか、複雑な気持ちがする。

第65回さっぽろ雪まつり(2014年2月5日~2月11日)

 札幌で過ごす初めての冬なので、雪まつりに行ってみた。一回行ってみたいなーと思っていたが、行ってみたら、あまり感動しなかった。子供の頃、テレビ中継で見たときは、もっと巨大な雪像を想像していたのだ。



ガッカリ度はマーライオンくらい。



大通り公園って、夏も秋も冬も、要するに食べ歩きだけが楽しみの観光スポットである。
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遊びをせんとや生まれけむ/後白河院:王の歌(五味文彦)

2014-02-15 22:25:57 | 読んだもの(書籍)
○五味文彦『後白河院:王の歌』 山川出版社 2011.4

 「これは読もう」と思って頭の中にリストアップしておいた本。書店で見つけたときは、迷わず棚から抜き取ったが、さて、どうして「読みたい本」リストに加えたのかを全く忘れていた。いまブログ検索をかけたら、丸谷才一さんの〈最後の新刊〉『別れの挨拶』(2013)で書評を読んだことを思い出した。

 それにしても歴史学者の書いた人物評伝としては、かなり異色の本。「今様を通じて(後白河)院の物語を紡ぎ出す、これが本書の目指すところである」と「はじめに」で述べる。言うまでもなく「今様」とは、平安中期に発生した歌謡で、院が編纂した『梁塵秘抄』によって、その一部が現代に伝わった。

 大治2年(1127)鳥羽院と待賢門院璋子の間に第四皇子として生まれた院は、二つの内乱を経験し、二度も院政を停止され、四度も政治の転換を余儀なくされたにもかかわらず、三十数年にわたって「王」として君臨した。本書は、その波乱に富んだ生涯を史料を博捜して描き出しながら、ここぞというポイントに「今様」を据える。…まるで、平安文学のジャンルでいう「歌物語」みたいだ。

 たとえば、応保2年(1162)、前年に院政停止を強いられて失意の後白河院は熊野に詣で、新宮で千手経を読んでいると御神体の鏡が輝いて見えたので、千手観音の功徳を称える今様「よろづのほとけの願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき(略)」を謡った。これは『梁塵秘抄口伝集』に詳しい記述があるらしい。

 史料に今様のないところでは、著者の想像力がフル稼働する。まだ十代の頃、妻の死、母の死と、相次ぐ不幸に見舞われたときは「静かに音せぬ道場に 仏に花香奉り/心を鎮めて暫くも 読めば仏は見えたまふ」。この102番歌などを道場に籠って謡ったことであろう、と想像する。治承3年(1179)には、清盛によって院政を停止され、鳥羽殿に幽閉される。院は「あか月静かに寝覚めして 思えば涙ぞ抑へ敢へぬ/儚くこの世を過しては 何時かは浄土へ参るべき」などを謡って涙を流したことであろう、という。歴史家の書いた本に、こんなに「…であろう」が頻出するのは、少し異様な感じさえする。

 しかし、引用に適当な箇所を探して読み直してみると、どこの「今様」もすごく収まりがよくて、納得がいく。清盛率いる平家一門と良好な関係にあった一時期、厳島参詣で謡われたであろう今様、建春門院滋子の死を悼んで謡ったであろう今様、清盛没後、上洛してきた東国の武士たちを見て謡ったであろう今様、どれもいい。この歌謡(今様)のために物語(院の生涯)が創作されたのか、あるいはその逆か、と疑いたくなるくらいだ。著者の文学的読解力に脱帽。

 院の宿敵であった清盛が、熱病に苦しみながら息を引き取るに際して、2012年の大河ドラマ『平清盛』では、後白河院が虚空にむかって今様「遊びをせんとや」を謡っている場面があり、どうせ脚本の創作だろうと思いながら、涙腺崩壊した記憶がある。『百錬抄』によれば、清盛葬礼の日(治承5年閏2月8日)「車を寄するの間、東方に今様乱舞の声〈三十人許りの声〉有り。人をもってこれを見さしむに、最勝光院の中に聞こゆ」という記述があるそうだ。最勝光院は院の御所(法住寺殿の一部)。院は2月2日に最勝光院に遷ったことが確認されている(玉葉)。今様乱舞で清盛の葬礼を送る後白河院という「史実」も、なかなかドラマチックである。ここで後白河院が「謡ったであろう」と著者が推測するのは、『梁塵秘抄』30番歌。この着眼というか、選択もいい~。

 親王時代から「愚昧」「酔狂」と見られた後白河院であるが、院を育てた信西は「自ら聞こしめし置く所の事、殊に御忘却無く、年月遷ると雖も、心底に忘れ給はず」と、その抜群の記憶力を賞賛していたそうだ(玉葉)。意外にもこのひとは、出会った人々や経験から、学ぶべきものを学びつくして、政治的才能を開花させたように思う。自由気ままな天才に見えて、実は、他人の優れた点を素直に吸収し、一歩ずつ成長を続けた「王」だったのだ。『六代勝事記』という歴史書(鎌倉時代前期)は、後白河院の治世に最大級の賛辞を捧げている。申し訳ないが、ちょっとほめ過ぎだろうと思うくらい。

 信仰深かった院の生涯には、神や仏と感応する神秘体験が、たびたび記録されている。いや神秘体験と思うのは、現代人の目で見るからであって、当時の人たちには、普通の生活の一部だったのかもしれない。そうした信仰生活も含めて、このひとを主人公にした映像作品を作ってほしいと思うのだが、天皇を主人公にしたドラマって、いろいろ難しいのかなあ。

 なお、五味先生は、次の課題として「歌人の西行」を挙げている。どんな「歌物語」が生まれるのか、楽しみ。
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2014年2月@奈良公園界隈

2014-02-13 22:34:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
 正倉院整備工事の見学を終え、大阪に向かう友人と別れて、陽射しの回復した奈良公園を散歩する。実は来月も(仕事で)奈良に来る予定なんだけどな、と思いながら、二月堂で御朱印をもらい、東大寺ミュージアムに寄っていくことにした。

東大寺ミュージアム 企画展『東大寺の歴史と美術』(2013年10月10日~)

 導入部の「東大寺金堂鎮壇具」は、だいたい以前のとおりか、と思って見ていくと、ここに「陽剣」「陰剣」の象嵌銘を持つ『金銀荘大刀』2件が混じっていた。前回の特別展『国宝・東大寺金堂鎮壇具のすべて』では主役だった文物だ。彫刻展示の大ケース、日光、月光両菩薩の間に、うねうねした太い腕を持つ、不気味で力強い千手観音立像がおさまっている。四月堂の千手観音だ。あまりにもおさまりがいいので、呆れてしまう。日光、月光といえば、三月堂(法華堂)の不空羂索観音の脇侍として眺めてきた期間があまりにも長かったので、「中尊」を失って両菩薩が並び立った様子に、何だか不安と淋しさを感じていた。

 やっぱり「三尊」形式が落ち着くなあ。それにしても不空羂索に代わって、ピッタリな主尊を見つけてきたものだ。しばらくこの組み合わせで行くのかしら。木造千手観音立像は平安時代(9世紀)の作。この仏像ひとつを見ても「雅な王朝文化」の底しれなさにゾクゾクしてくる。日光、月光のさらに外側には、ずんぐりした持国天立像と多聞天立像のペア。木造、平安時代(12世紀)。これが、見覚えがあるようで分からなかった。職員の方に「どこにあったものですか?」とお聞きしたら「確か三月堂の…」とおっしゃって、手持ちの資料を見直し、「いや、違いますね。三月堂には別の四天王像があるから…」と困り顔。結局、分からなかった。

 謎が解けたのは、このあとに行った奈良国立博物館。本館(なら仏像館)と新館を結ぶ地下回廊に、仏像の修復に関する展示コーナーがあって、その中に、見て来たばかりの持国天立像の写真パネルがあった。ずっと奈良博に寄託されていたらしい(Wikiにも)。「内山永久寺伝来(明治の廃仏毀釈で東大寺に移された)」という説明に驚く。

 「考古」コーナーに、天平期の東大寺軒丸瓦のほぼ唯一の遺例というのがあった。戒壇院の「鋳造遺構に廃棄されたもの」という説明。「棄てられたから遺った」って、まるで仏の教えみたいだ、と感慨深く眺めた。

奈良国立博物館 特別陳列『お水取り』(2014年2月8日~3月16日)

 恒例企画だが何回見ても楽しい。今年は東新館が閉まっているので、西新館で開催。その分、文書資料の比率が高かったかもしれない。『二月堂修中献立控』(文化12/1815年)(紙本墨書)には、練行衆の献立を記載。1~7日まで毎日変わり、8~14日はそれを繰り返す。五日と十二日の献立には「指身」と読める文字があったが? 続けて「もみじふ・うと・岩だけ」。「汁・白とうふ・干かぶら」とも。美味しそう~。「満行の十五日は酒も出る」って、幕末はそんなだったのか。二月堂練行衆盤(根来盆)や食堂机は、いつ見ても美しい。

 『二月堂修中過去帳』は修二会で読み上げられる、東大寺に縁の深い人々のリスト。御一条天皇から先が展示されていて、白河天皇・近衛天皇・鳥羽天皇・後白河天皇らを見つける。美福門院の名もあったが、女院はきわめて少ない。かなり後に藻壁門院(後堀河天皇の中宮)の名があった。多くは、律師、法師、大徳などの僧侶。尼も散見する。頼朝、実朝はいるが、平氏がいないのは当たり前か。有名な「青衣の女人」は頼朝の10行後、重源の前の行にある。この時代の女性なのかな。

 特集展示『いにしえの東北~豊岡遺跡と平泉~』(2014年2月8日~3月16日)も同時開催中。柳之御所遺跡出土の「烏帽子」に驚く。本館(なら仏像館)も久しぶりにゆっくり鑑賞。天部形立像(兵庫県)の異国風で個性的な風貌が気になった。なぜか「大和の仏たち」のセクションにあるのは「金峯山寺によく似たものがある」ためか。

興福寺国宝館東金堂

 興福寺国宝館にも寄り道。昨秋、東京でお会いした仏頭板彫十二神将や興福寺仏頭(山田寺仏頭)が、定位置にお帰りになっていることを確かめる。仏頭は、ずいぶん高い位置に設置されているんだな。東金堂にも寄ったが、東京ではスター扱いだった十二神将立像が、薄暗がりにひっそりおさまっている図が感慨を誘った。

 そして、この日、関西空港から札幌に帰ったのだが、まだ雪の影響が残っていて、出発は1時間遅れ。新千歳空港→札幌は終電で、危ういところだった。
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2014年2月@京都(京都市美術館)、奈良(大和文華館)など

2014-02-12 22:41:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
広範囲に大寒波がが襲来した週末、金曜の夜のうちに札幌→名古屋に移動しておいてよかった。土曜の朝は、名古屋もうっすらと雪。東海道新幹線は上下線とも大混乱だったが、なんとか京都にたどり着く。京都も小雪まじりだったので、外を歩くことは避け、京都市美術館へ。

京都市美術館 開館80周年記念展『京の美・コレクションの美・明日への美~京都市美術館コレクション問わず語り』(2013年12月14日~2014年2月23日)

 昭和8年(1933)、東京都美術館に次ぐ日本で二番目の大規模公立美術館として設立されて以来の、コレクション形成史を振り返る。開館当時の趣旨説明に「現代美術を収集・公開する施設の必要から」みたいな言い回しがあって、「現代」だったものが、いつか「近代」に後退していくのを面白いと思った。「後退」と書いたけど、私は、ちょっと前の現代(と未来)を缶詰にしたような「近代」美術館や美術作品がとても好きなのである。

 気に入った作品は、入江波光『彼岸』、池田遙邨『南禅寺』、佐藤光華『大原の人』など。調べたら、みんな関西生まれの画家だ。知らない名前ばかりだった。丹羽阿樹子の『遠矢』は、一昨年『京の画塾細見』という展覧会のポスターになっていたもの。見逃した作品だったので、うれしい。あ、女性画家の作品なんだ、と初めて認識する。久しぶりに安田雷州(雷洲)の版画も見た。

京都市歴史資料館 テーマ展『愛宕信仰と山麓の村』(2014年2月1日~4月23日)

 ネットで情報を見つけて、行ってみることにする。初めて行く展示施設だ。すぐ近くに新島襄旧邸があって、びっくりした。愛宕神社(京都市右京区)の信仰と山麓の村々のかかわりに関する資料(主に文書・絵図)約50点を展示。「どこで行き倒れても故郷への連絡は不要」という書付を持って旅をしていた巡礼客、村と村の境界をめぐる激しい対立(現代の国境紛争みたい)など、人々の姿が垣間見えて面白い。

宝蔵寺(中京区裏寺町通り) 寺宝特別公開(2014年2月6日~12日)

 これも出発直前、東京の友人から教えてもらった情報。同寺所蔵の『竹に雄鶏図』が若冲本人の作品であることが、ミホミュージアムの岡田秀之学芸員によって確認されたので展示するという。まあ、若冲の作品か工房作品かはムニャムニャだが、ふだん非公開の寺院なので、行ってみたくなった。同寺の墓地には、伊藤家代々の墓、若冲の両親の墓、弟の墓がある(若冲の墓はない)そうだが、これは参拝できず。折しも2月8日は伊藤若冲の誕生日で、15時から「生誕会」も予定されていたが、ここまでするのは苦手なので、法要が始まる前に寺を出た。

大和文華館 特別企画展『煌めきの美-東洋の金属工芸-』(2014年1月5日~2月16日)

 奈良に向かう途中で寄り道。印象的だったのは、冒頭のセクション「神仙の世界」にあった、主に中国古代の個性的な造形。『青銅匕』は箆(へら)のかたちで、柄の上に二頭の四足獣が載っている。ウサギと…オオカミ? 『青銅人物像』には「細川家蔵の金村古墓出土人物像に髪型が似ている」という解説があった。どうやら昨年末に永青文庫で見た銀人立像のことらしい。『青銅怪獣文鎮子』は三頭の怪獣が身をくねらせ、からまり合って蟠る。諸星大二郎ワールドっぽい。厭勝銭(魔よけの銭)も珍しかったなあ。

 時代が下って「遼代」となる文物には、遼(契丹)好きなので目が留まる。もとは扉つきの厨子形だったと推測される『金銅板仏』(展示リストには唐末期とあり)。『銀製鍍金瑞花双鳳文扁壺』に「豊麗さに欠ける器姿、やわらかく豊かな写実性に欠ける双鳳は、遼の作風の一面である」というケンカを売ってるみたいな解説がされていて、苦笑してしまった。

 あわせて、高麗の楊柳観音図や平安時代の金胎仏画帖が見られたのも嬉しく、光悦蒔絵『群鹿文笛筒』は展開写真が楽しかった。本当は白鶴美術館や久保惣美術館から特別出陳の、唐宋の銀器の名品にこそ言及すべきなんだけど。
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正倉院整備工事現場公開(第5回)を見に行く

2014-02-11 22:22:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
正倉院正倉整備工事第5回現場公開の見学(2014年2月9日)

 年度末が近づいて、かなり仕事が厳しくなってきた。先週は、一晩だけど朝まで宿題の原稿を書いていて、何年ぶりかでほぼ徹夜してしまった。もういい歳なのに。

 それでも週末は遊んできた。昨年12月に友人が「正倉院整備工事の現場公開に行かない?」と誘ってくれて、二つ返事でOKしたら、私の分も一緒に申し込んでくれた。「申込み多数の場合は抽選」だったらしいが、無事に当たって、2月9日(日)9時の回に参加することになった。

 まず、受付所で身分証チェック。当選のお知らせには「9時から9時半に間に入場して、1時間程度で見学してください」という注意書きがあったが、グループを組まされるわけでもなく、行動はわりと自由である。

 正倉とその東側に設置された仮設の倉庫(資材などが入れてある)を覆う「素屋根」の中に、東側から入る。まず1階の床下の様子。すり減った礎石の上に太い柱が載っている。宮内庁のジャンパーを来たおじさんの話では、大正2年の工事の際、10センチほど柱を切ったそうだ。礎石の凸凹にぴったり収まるように柱の底面も凹凸が施されており、震度7にも耐えられる強度がある。「(地震については)それより何より、この土地を選んだのがよかったんでしょうねえ。昔の都は場所を間違えません」とぼそっとおっしゃっていたのが、宮内庁の方らしくてよかった。



 階段で2階へ。仮設床を歩きながら正倉東面の様子を扉前から見学。南倉→中倉→北倉の順に見て行く。南倉は、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会に使用された品も納められている倉。長く東大寺が管理していたが、明治8年に勅封となった。

 この日は、麻紐で錠前を縛って、ひねった和紙がつけられていた。墨書は読めなかったが、「勅封」なら今上天皇の署名であるはず。そして、勅使を以てしなければ開封できないはずだが、説明のおじさんの話では「いや、今は正倉院事務所の所長がもっと簡単な封をするんですけど、今日は勅封がどんなものかをお見せするために取り付けました」とのこと。錠前を囲むように扉の色が変わっているのは、ふだん、左右の金具にはめ込む「錠前カバー」を付けているためである(外されて、扉の下に置いてあった)。



 扉を開けるには、錠前を外す鍵(おじさんは「さじ」と呼んでいた)と、向かって右側の木片が詰めてあるところに差し込む鍵が要る。「その鍵は正倉院事務所で保管してるんですか!?」とか、興味津々のあまり、安全上答えにくいことまでお聞きしてしまった。

 中倉・北倉は扉が開いていて、内部を覗くことができた。中倉には正倉院文書を収める。内部は三層になっており、初層はすっからかん。第二層にガラスの嵌った木製の展示ケースが見える。第三層は登り口しか見えない。



 また違うおじさんの話では、この展示ケースは明治期に置かれたもの(あとで伊藤博文が設置させたと知る)。しかるべき筋の参観者や宝物調査に訪れた人は、倉の中に入って宝物を見ることができたのだそうだ。明治期と聞いて「じゃあ、帝室博物館総長だった森鴎外なんかも」と、思わず確認してしまった。「そうです、まさにその時代です」と言われて、鴎外の眺めた展示ケースか~と往時をしのぶ。

 最後の聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めらる北倉には、初層・中層とも、ぐるりと壁に沿って展示ケースが設置されていた。見栄えのする名品の多い倉だからね。

 さて、三階に上がると、正倉院の瓦屋根を眼下に収めることができる高さ。東側の仮設倉庫の上に当たる広いデッキで、解説パネルや模型をじっくり見たあと、北→西→南→東と、屋根のまわりをほぼ一周することもできる。正倉院の屋根には約2万枚の瓦が使われており、天平期の瓦が約800枚見つかった。このうち200枚は再利用されることになり、600枚は下ろされた(この数字、ネットで読めるニュースと食い違うところもあるが、現場で聞いたまま記録する)。

 驚いたのは「天平」「鎌倉」「江戸」「大正」など、各時代の瓦を実際に触れるコーナー。「大英断ですよねっ!」と説明のおじさんもテンションが高かった。友人と、各時代の瓦を前に抱いて記念写真を取り合って、はしゃぐ。第1~4回の現場公開のルポを公開しているブログ等を訪ねてまわっても、このことに触れている記事がないので、今回だけの企画だったのかもしれない。



 瓦コーナーのおじさんは「正倉院」の腕章をつけていたが、宮内庁の人ではないらしかった。瓦のことなら何でも教えてくれそうで、時間を忘れて話に聞き入ってしまった。プロフェッショナルの話は本当に面白い! 参加者も、わざわざ申し込んできたくらいなので、老若男女問わず、好奇心旺盛で熱心な人が多かった。瓦の制作年代は、曲率とか重さ・大きさなど、時代の特徴(標準)を見つけ出して、それと比較していく。天平時代の瓦には布目が残っている。「桶巻き作り」をしたものは、底面があまりきれいに整形されていない。鎌倉期になると、表面も底面(側面)も整えられる。鎌倉期の瓦は、菱形の繋ぎ文様があるのが特徴。この時代の流行のようだ(あ、袈裟などの織物や、書籍の摺り表紙にもあるなあ、菱形文)。

 天平時代の瓦が完全形で800枚というのは、遺跡考古学では、まずあり得ない発見。確かにそうだ。再利用された200枚は、北側の△屋根(寄棟造)の両隅の2~3列に使われている。「量が少ないからですか?」と聞いたら「水捌けがいい位置であること、それから5枚ごとに釘留めをするのですが、創建時の瓦には穴を開けたくなかったので」と教えてくれた。なお、天平瓦については、軒丸瓦・軒平瓦は見つからなかったとのこと。残りにくいんだなあ(あとで東大寺ミュージアムを見に行ったら「天平期の東大寺瓦としては、ほぼ唯一の遺例の軒丸瓦」というのが展示されていた。この話は後日)。

 新調した瓦には全て年号が入っている。鬼瓦の側面に「平成二十五年七月吉日」とあるのを確認。色は、古い瓦に合わせて「とばしている」とおっしゃっていた。瓦は平群(生駒郡)で焼いたそうだ。「瓦は奈良の地場産業ですよ」とおっしゃっていた。あと平群地区には、こうした伝統建築の工法を守る業者の組合のようなものがあるとも。調べたら「平成の大修理」が進む姫路城のしゃちほこも、平群の山本瓦工業で焼かれたそうだ。

 また、新調瓦は先端の左右に穴が開いている。大正2年の工事までは、屋根に土を盛って瓦を固定するという伝統工法が用いられたが、今回は瓦を針金で「釣る」ことで止めるためだ。密度が高く、上質の瓦であるのはもちろんのこと。幕末の瓦は「正直、あまりよくない」と苦笑されていた。

 屋根の一周では、全く経験したことのない眺望も楽しめた。正倉院展で名前だけは知っていた「聖語蔵」の建物も眼下に! 同じ校倉造だが、正倉に比べるとずっと小さい。現在は何も入っていないそうだ。調子に乗って「聖語蔵っていつ建てられたんですか?」と質問して、若い係員の方を困らせてしまった。今の建物は、雰囲気から見て江戸モノかしら。

 なお、この日、2階と3階は奈良の正倉院事務所の職員で、1階は京都事務所の職員の担当だったそうだ。皇宮警察のワッペンをつけた方も見かけた。女性の姿が全然なかったけど(腕章をつけて取材をしていた方が1名)、宮内庁って、そういう職場なんだろうか。

 最後に1階で、工事の経緯を撮影したDVD(12分)を鑑賞。寒かったけど、寒さを忘れるほど楽しかった。この日の記念に二月堂に寄って、御朱印「観音力」を書いてもらった。

※久々のフォトチャンネル「正倉院整備工事」もあわせてお楽しみください。
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2014新春と恵方巻

2014-02-03 22:49:29 | 食べたもの(銘菓・名産)
あけましておめでとうございます。2014年の旧暦元旦は1月31日だったので、あらためて。

今日2月3日は節分。昨年は、東京で「ゐざさ」の恵方巻を食べた。今年は札幌で「ゐざさ」は手に入らなかったので、ご当地「蕾亭」の恵方巻にした。恵方は東北東。



旧正月を祝して、大阪の国立文楽劇場の「にらみ鯛」の写真を挙げておこう。



真ん中の大凧、昨年は奈良・大神神社の宮司さんが書いた「巳」の字だったが、今年は、和歌山・熊野那智大社の宮司さんによる神馬の絵と「豊穣」の文字。ふうん、毎年変わるのかな。それとも十二社で一周するのかしら。通いつめて、確かめてみたい。

なお、国立文楽劇場の年間動員数は、大阪市が文楽協会に示した基準にあと3,800人届かず、助成金を減額されることになった。この見通しが報じられてから、最後の一週間は大入りが続いて、異様な盛り上がりだったらしい。松の内が開けてすぐ見に行った私は、その熱気を共有できなくて、やや残念。

でも四月の『菅原伝授手習鑑』も行きます。

明日は立春。雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ。

いや、北国では、鶯の姿なんか、まだまだ思いもよらず…。
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