見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

TBSドラマ『JIN-仁-』完結に花束を

2011-06-29 21:07:59 | 見たもの(Webサイト・TV)
○TBS開局60周年記念 日曜劇場 ドラマ『JIN-仁-』(完結編)最終回(2011年6月26日)

 ドラマ『JIN』が完結した。ちょっと言葉を失うくらい、感動してしまった。さすがに3日経って、少し落ち着いたので、感想を書いておく。だいたい私はドラマ(物語)にハマりやすいので、読書記録でも小説はあまり取り上げないのである。物語は評論するものではない。ハマるものだ。そして、連続ドラマにハマる幸せ(何カ月も続く昂揚感)を、久しぶりに味わうことができた。

 私は、2009年の第1部からの視聴者だが、第1部の最終回が不評の嵐だったので、第2部(完結編)は安全策を取って、途中で誉めておくことにした。そうしたら、予想に反して尻上りに調子を上げ、最終回は奇跡の「神回」だった(と私には感じられた)。

 第9話。「坂本龍馬を助ける」ことを自らの使命と感じる仁先生は、暗殺の舞台・近江屋から、寺田屋へ龍馬を連れ出す。しかし、そこに幕府の刺客として現れたのは、咲の兄の橘恭太郎。絶体絶命の窮地で、龍馬の護衛役だった平蔵もとい、東修介が龍馬に斬りつける。これ、正直いって、咄嗟に意味が分からなかった。ネット上でもさまざまな解釈が入り乱れて、大紛糾していた感じがする。

 第10話。西郷隆盛が大久保一蔵に解説する。幕府の刺客が龍馬を殺害していれば、大政奉還は烏有に帰すところだった、と。そこで初めて私は、東が龍馬の生命と引き換えに、龍馬の「大望」を救ったことを理解した。この着想(脚本)がすごい。そして、ちゃんとドラマを見ている視聴者なら、この着想についてくるはずだ、という制作者の確信にも敬服した。最近のドラマは、あまりにも分かりやすく作り過ぎていて、視聴者を馬鹿にしているとしか思えないことが多いので。東はひとり自決して果てる。

 仁の治療によって、一度は意識を回復する龍馬。このとき、龍馬は一瞬だが未来を見てきた様子。呂律の覚束ない口調で(どうやら未来人と分かっている)「先生にはこの世界がどう見えたがじゃ。愚かなことも山ほどあったろう」と問いかける。ここで私は涙腺崩壊。たかだか100年や150年後に生まれた人間が、過去の世界を「愚か」と見下すことの傲慢さが、このドラマでは、つくづく胸に沁みた。

 第11話(最終話)。龍馬の死に責任を感じる恭太郎は、死を覚悟して彰義隊に加わるが、仁や咲に引き止められて、生きる決意をする。このドラマは、東のように死にゆく者にも、恭太郎のように生き残る者にも、相応に暖かいまなざしを注いでいて、どちらか一方だけが「正義」であるような描き方をしないところが好きだ。

 銃創が化膿して、重態に至る咲。脳腫瘍に苦しめられる仁。短く切ないラブシーン。世界の広さ、時の流れの滔々たる深さに比べて、二人が向き合っている部屋の、なんという小ささか、と思った。ふと、咲を救える薬を、タイムスリップの際に持ちこんでいるかもしれない、と思い出した仁は、慌ててその薬を探しに出て行く。そして、永遠の別離。

 薬を探して、現代に立ち戻った仁は、もうひとりの自分を再び過去に送り込む。静かに閉じていく円環、わずかな歴史の動揺。事典の中に見出す仁友堂の面々(あれは嬉しかったなー)。そして、橘家のあたりを訪れた仁は「橘医院」の看板を見つけ、咲の子孫(実際は咲の養女となった、野風の娘・安寿の子孫)と出会って、咲の手紙を渡される。仁が送り届けた薬によって、咲は一命を取りとめたこと。しかし、誰もが南方仁の存在を忘れ、咲もまた、仁の顔や名前を思い出せなくなっていたこと。けれども、薄れゆくその人の面影に向けて、咲は確信をもって「お慕い申しておりました」と記す。

 仁もまた、タイムスリップの体験を少しずつ忘れ始め、夢に現れた龍馬は「それでいい」と語りかける。「見えんでも、聞こえんでも、わしらはそばにおるぜよ」と。ここも涙腺崩壊ポイントだった。脚本家は、過去に生きた人たちの「見えんでも、聞こえんでもおるぜよ」という、微かな囁きを聞くことができる人なんだなと思った。未来をつくろうとした人たちは、この世界をずっとどこかで見ているんだろう。有名人だけではなくて、無名の人々もまた。幼い頃の自分をかわいがってくれた祖母とか、近所のおばさんとかも、ずっと私のそばにいるのかもしれない、などと妄想が広がっていった。でも、作り手の意図を超えて妄想するのって、元来、小説やドラマの正しい受け取り方だと思うので、冷笑されても気にしないことにしよう。

 キャストでは、内野聖陽さんの龍馬の次に好きだったのが、小日向文世さんの勝海舟。小日向さんの海舟にも、ずっとこの世界を見守っていてほしい。いろいろ毒づきながら。思考様式がほぼ近代人の海舟と、古武士の風格ある新門辰五郎親分(中村敦夫さん)が同居していたのが、幕末という時代だったんだなあ、とも思った。衣装も美術も小道具もよかったし、屏風や襖絵にも、他のドラマにないリアリティがあった。細部を誉め始めれば切りがないが、とりあえず最終回に花束を。

 実は、本日発売の『JIN-仁- 完全シナリオ&ドキュメントブック』を買ってきてしまったので、このドラマのことは、もう1回書くかも。
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果てしない反復/三陸海岸大津波(吉村昭)

2011-06-28 22:40:16 | 読んだもの(書籍)
○吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫) 文藝春秋社 2004.3

 「吉村記録文学の傑作」として、本書の存在は知っていたが、3月11日の震災が起こらなければ、たぶん手に取ることはなかっただろう。

 著者の愛する三陸海岸は、はるか古代から、繰り返し津波に襲われてきた。昭和45年(1970)に執筆された本書は、明治29年(1896)、昭和8年(1933)、昭和35年(1960)の三度の大津波を、記録と証言で再現したものである。

 明治29年6月15日の津波(執筆当時から74年前)については、87歳と85歳の二人の男性から直接話を聞いているが、あとは、もっぱら当時の報道や記録文書から再構成したもののようだ。そのためか、著者の筆致はきわめて抑制的で、却って不気味な迫力を感じさせる。衝撃的だったのは『風俗画報 大海嘯被害録』から再録された図版。海中に網をおろして五十余人の死体を挙げる図や、泥田の中に逆さに両足だけ突き出した死体の図、申し訳に菰を被せた半裸の死体が幾体も幾体も並んだ図など、凄まじい有り様が捉えられている。

 以下、かなり陰惨な箇所を引用する。泥や砂に埋没した死体の捜索は困難をきわめたが、次第に経験を重ねた作業員は、死体を的確に探し出せるようになった。地上一面に水を流すと、ぎらぎらと油が浮いてくる箇所があり、そこを掘り返すと、必ず死体が埋まっているという。ほかにも、人肉を好むカゼという魚が死体の皮膚一面に吸いついていたとか、野犬と化した犬が死体を食い荒らしていたとか、脂汗の出るようなエピソードが、淡々とした文体で語られている。

 今回の東日本大震災でも多くの人が亡くなった。震災直後の混乱した時期こそ、○○海岸に数十、数百の遺体が流れ着いている、というニュースを見たように思うが、あれだけ膨大な動画や写真が流通していても、「死」の生々しさを感じさせるものは無かったように思う。現場に、生々しい「死」がなかった筈はないので、どこかで「自粛」規制が働いていたわけだ。私たちは、報道やネット情報だけで、震災の全てを知っているように思ってはいけないのだ、という認識を新たにした。

 昭和8年(1933)3月3日未明の津波については、村民の生活作文や、小学校の生徒の作文が残っていて、緊迫した雰囲気を伝える貴重な記録になっている。著者は、作文を書いた生徒の何人かを探して会っている。住居や家族を失った子どもたちが、明るく成長した姿で登場するのは、ほっとする箇所だが、被災から37年経っても、地震が来ると必ず山へ逃げるという姿には、胸に迫るものがある。

 昭和35年(1960)5月24日未明の津波は、南米チリで起きた大地震の余波が到着したもので「チリ地震津波」とも呼ばれる。日本沿岸では、全く地震が観測されなかったにもかかわらず、突然、水が引き始め、「のっこ、のっこ」と津波がやってきたというのは、怖いなあ…。本書解説の高山文彦氏は、津波を大怪獣ゴジラに喩えているが、この理不尽な恐ろしさは、妖怪に近いと思う。

 本書には、明治29年と昭和8年に壊滅的な被害を受けた田老町(岩手県宮古市)が、毎年、昭和8年の津波に由来する3月3日に、町を挙げての避難訓練を行っていることが紹介されている。それも、昭和8年の津波発生時刻と同じ午前2時31分のサイレンで開始されるのだという。この「本気」の避難訓練は、今年まで続いていたのだろうか…。スーパー堤防の効力よりも、そっちのほうが気になる。

 三度の大地震を記述したあと、著者は「津波は自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している」と記している。この冷静な分析は、不幸にして、いや当然のこととして、当たってしまった。しかし、明治29年以来の災害を経験してきた古老が、三度の津波で次第に死者や被害が減じていることを根拠に語った言葉「津波は時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」は、本当に残念ながら、当たらなかった。後者の言葉を実現するには何が必要なのか、今一度考えなければならないと思う。
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情報危機に備える/緊急解説!福島第一原発事故と放射線(水野倫之ほか)

2011-06-27 21:45:15 | 読んだもの(書籍)
○水野倫之、山崎淑行、藤原淳登『緊急解説!福島第一原発事故と放射線』(NHK出版新書) NHK出版 2011.6

 東日本大震災の発生直後、私がいちばん頼ったのはNHKだった。印刷媒体の新聞を読む習慣は、ずいぶん前からなかった。ネット媒体の新聞は、事実の収集には使えるが、「解説」としては物足りなく感じた。テレビの視聴習慣もほとんど無くなっていたが、NHKが震災関連番組をネット配信してくれた結果、これが最もアクセスしやすく、最も信頼できる感じがした。阪神淡路大震災では、むしろ民放各局のニュースを見ていたと思うのだが、今回は、民放で誰が何をしゃべっていたのか、全く関知していない。

 本書は、NHK記者および解説委員として、福島第一原発事故の発生に立ち会った3人が、そのときの「報道」のありかたを振り返るとともに、原発問題の背景と放射線の影響、今後の見通しについて、わかりやすく解説したものである。

 当日および翌日の「ドキュメント48時間」は、やはり読み応えがある。地震発生から約1時間後に発令された「10条通報」、さらに1時間もしないうちに「15条通報」にレベルアップし、午後7時03分、総理が「原子力緊急事態宣言」を発令するに至る。うーむ。今さらだが、こんなに緊迫した展開だったのか。

 当日、私は職場で、携帯電話を持たずに屋外に避難したまま、しばらく情報途絶の状態だったのである。夜に入って、職場のテレビをチラ見できるようになったが、津波や火事の映像に目を奪われて、原発事故の情報には相応の関心を払うことができなかった。原発がたいへんな事態らしい…と発見したのは、ようやく帰宅を許された土曜日、いや、この日は早々に布団にもぐりこんだので、その翌朝の日曜以降ではなかったかと思う。

 その後は、何日も、何十時間にもわたって、原発事故関連の報道を見てきたはずだが、本書を読んで、いかに自分が「何も分かっていなかった」かが、よく分かった。たとえば、耳にだけはなじんでしまった「ベクレル」「シーベルト」という単位が何を意味するかとか、「屋内退避」という指示は、絶対に外に出てはいけないということではなく、被爆対策をした上で、必要があれば買い物に出かけてもいい(そうなの?!)とか、「必要のない放射線はできるだけ浴びないほうがいい」という原則から、平常時は「限りなくゼロに近づける」目標が定められているが、非常時は「健康に異常が出ないレベル」の目標に切り替える、というのも、ゴマカシではなく、危機管理のひとつの考え方なのだ、と納得した。

 それから、アメリカやヨーロッパ諸国が、1979年のスリーマイル、1986年のチェルノブイリ事故を契機に、原発の新増設ペースを大幅にダウンさせていたにもかかわらず、日本は例外的に原発推進を続けてきた(ええ~!)という事実も、本書を読んで初めて把握した。

 原子力災害は、情報の混乱によって住民に不安を引き起こす「情報危機」につながりやすい、というのは、チェルノブイリ事故の研究で、すでに指摘されているそうだ。ひとくちに「正しく恐れる」というが、実際そのように行動することは、なかなか困難だと思う。最近よく聞く「風評被害」という言葉も、すいぶん曖昧に使われているし。自分の生命と尊厳を守るには、判断の根拠となる知識を、日ごろから貪欲に蓄えておくしかないのではないかと思う。

 私は、80年代に、ある哲学者とある科学者の対談を読んだ記憶があって(高木仁三郎氏かなあ)、火力や水力や電力は、もともと地球上に存在するエネルギーだが、原子力というのは、星の世界にしかないもので、それを人間が持ってはいけないのではないか、という科学者の言葉が印象深く残っている。原子力のことを考えるときは、いつも立ち返る発言である。
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マニ教絵画に驚く/信仰と絵画(大和文華館)

2011-06-25 20:40:58 | 行ったもの(美術館・見仏)
大和文華館 開館50周年記念特別企画展I『信仰と絵画』(2011年5月14日~6月19日)

 宗教美術、中でも仏教とマニ教(!)の絵画作品に注目する展覧会。マニ教とは、ササン朝ペルシャのマニ(210-275年頃)を開祖とし、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義などの流れを汲む(Wiki)宗教である。大和文華館では、2008年冬の『宋元と高麗』展で、館蔵『六道図』(元代)がマニ教絵画であるかもしれない、という解説を見た覚えがあって、どこで分かるんだろう?と疑問だったのだ。

 本展の最終日にあたる日曜日、いつもより観客が多くて、館内はざわついていた。まずは見覚えのある名品が続く。『文殊菩薩像』は、唇の赤い、涼しい美少年文殊が、金目を光らした獅子に騎乗する。これ、サントリー美術館の『獅子と鳳凰』に絶対くると思っていたのに…。『病草紙断簡(鍼医)』『平治物語絵巻断簡』など、「信仰と絵画」という表題とのかかわりに少し首をひねるものもあるけれど、まあ固いことは言わない。

 『遊行上人縁起絵巻断簡』は、最古の転写本と思われてきたが、最近、祖本そのものと推定されるようになった由。20人ほどの僧侶たちが、てんでに天を仰ぎ、足を踏みならして念仏する図だが、確かに、転写本とは思えない熱意がこもっている。

 『文殊菩薩像』に「南都絵師の一作例」とあったり、『日光・月光・十二神将図扉絵』の暗い背景に火焔を飛ばす描法(飛び火焔。一信の五百羅漢図にも類例があった)が「奈良的」であるという解説を読み、大和文華館って、意識的に奈良に関係のある作品をコレクションしているのかな、と思った。

 それから『一休宗純像』、桃山の『婦人像』などの肖像。雪村周継の自画像も面白い。後退した額、顎の輪郭を包む白い髭が、ソクラテスみたいだ。

 後半に入り、華やかな色彩と繊細な金泥で飾られた朝鮮半島の仏画が数点並ぶ。ひと目見て、あ、高麗仏画だ、と気づき、順に視線を移していくと、いきなり、異相の仏画と目があってしまった。え?これは何!? うろたえながら解説プレートを探すと、山梨・栖雲寺所蔵の『虚空蔵菩薩像』(中国・元代)だという(※PDFファイル:画像あり)。胸の前に掲げた十字。西洋絵画のような陰影。リアルな人間のように平板な頭頂部。それよりも何よりも、隣りの高麗阿弥陀仏の眠そうな半眼、ぽってりしたおちょぼ口に比べて、この虚空蔵菩薩は、あまりにも意志的な目で礼拝者を見返し、含みのある明らかな笑みを唇に浮かべている。

 でもこれ、マニ教というより、キリスト教(景教)なんじゃないの?と思ったが、胸の左右と両膝の外側の計4箇所に角印のような模様が見える。これがセグメンタムと呼ばれるマニ教の僧服の特徴なのだそうだ。

※参考:Manichaean and (Nestorian) Christian Remains in Zayton (Quanzhou, South China)(英文)
中ほどの「Statue of Mani」(マニ像)の画像にも、4箇所の四角形あり。

 そして、この図を大和文華館所蔵『六道図』と比べると、確かに中央の人物(仏菩薩像だと思っていたが)に似ている。本展では、さらに「個人蔵」の新出マニ教絵画『宇宙図』『聖者伝図』などを紹介。幾層にも重なる世界を描いた『宇宙図』は面白いが、何も知らなければ、ちょっと変わった仏画で済ませてしまいそうだ。『大和文華』121号(マニ教絵画特輯)によれば、マニ教は本来折衷主義的な宗教であり、マニ教絵画を制作した絵師たちも、寧波仏画と共通する図像や表現を用いていることが指摘されている。赤い縁取りの白い衣がマニ僧の特徴だそうなので、これから、中国仏画をみるときは、注意してみよう。

 最後は、雪村の『呂洞賓図』。おお!これが見られるとは思わなかった。昂揚した気分で、寄りみち旅行を切り上げる。展覧会図録は、残念ながら「売り切れ」だそうで、前掲の『大和文華』121号だけ買って帰った。

※参考:天目山栖雲寺(山梨県)
宝物風入れ(11月か!)には「寺宝一挙公開」をするそうだ。行ってみたい。むかし、山梨のどこかのお寺で、無造作に置かれた磁器の中に、元の年号の入った磁器を見つけた記憶があるのだが、ここではなかったなあ…。記憶が曖昧。

追記。そういえば、前日に訪ねた書写山円教寺の本堂は「摩尼殿」と称していた。マニは梵語で如意のこと(本尊=如意輪観音)と説明されているが、ちょっと珍しい呼び方である。これも奇縁?
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吉川観方の絵画コレクション/館蔵品展(奈良県立美術館)

2011-06-23 23:04:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良県立美術館 館蔵品展『安土桃山~江戸時代に生きた人々-肖像画・風俗画・浮世絵-』(2011年6月4日~7月3日)

 土曜日は奈良に1泊。翌日、大和文華館に寄るためだが、その前に、日曜朝イチで奈良県立美術館を訪ねる。2006年の『応挙と蘆雪』とか2009年の『神話』とか、けっこう面白い企画展をやってくれるので、好きな美術館なのだが、館蔵品展を見るのは初めてで、興味津々。

 解説パネルによれば、同館は、日本画家・風俗研究家であった吉川観方氏(1894-1979)から寄贈を受けた江戸時代の作品を中心とする日本絵画を所蔵しているという。本展では、その中から肖像画・風俗画・浮世絵を展観。冒頭には、肖像主の古い『武田勝頼妻子像』(制作は江戸)を展示。これは、高野山持明院に伝わる勝頼妻子像をもとにしたことが分かっているが、次の「伝・淀殿画像』(~6/19展示)は、さしたる根拠もなく「淀殿とも伝えられている」というだけで、かなりアヤシイ。しかし、たっぷりした着物のゴージャス感は見応えがある。

 むしろ北村季吟とか本居大平とか、意外な人物(ややマイナー文化人)の肖像を面白く眺めた。岡田為恭の自画像も。時代は新しいが、鳥文斎栄之(1756-1829)の『伏見落城・関ヶ原合戦絵巻』は、近世にはこんな絵巻があるのか、と興味深かった。淡彩による達者な筆致で、炎のすさまじさが印象深く描かれている。

 次室、江戸初期(17世紀)の風俗図屏風が数点。特に最初の『洛中洛外図屏風』2点が面白かったなあ。金彩の雲の間にパラパラと配された人物(あまり多くない)が、泥人形みたいに丸っこくて、なごんだ。『京・諸国名所図貼交屏風』は、軽快で洗練された趣き。どこを描いているか、全画面の解説が欲しかった。ほかにも、『遊楽図屏風』には、男女が縁側に寝そべって腕相撲する姿が描かれていたり(自由だなー)。若衆踊り・唐子踊りなど、○○踊り9種を描いた『踊り絵巻』(伝・野々口立圃)も面白かった。

 私は江戸初期の風俗をよく知らないので、女性なのか若衆なのかもよく判別がつかない。髪型も着物も華美を尽くしているのだが、頽廃の一歩手前で踏みとどまっている感じが新鮮で魅力的である。

 江戸中・後期になると、現代人にも分かりやすい風俗図が多くなる。柴田義董筆『七夕梶鞠図』は、そうか、七夕星に捧げる白鞠だったのか(※画像あり)。大きな蕪かと思った。森一鳳の『社殿・競馬図』は、先だって見た賀茂の競馬の装束そのまま。吉原の風俗図も、江戸初期(17-18世紀)のものは、建物も女性の衣装も、まだ地味で質実である。文化の中心は上方にあったんだなあ、と感じる。中期以降になると、映画やTVドラマで見慣れた、華やかな情景が展開する。

 館蔵品展だと、あまりお客は入らないのかなあ。これ、東京都心の私設美術館にもってきたら、かなり話題になる内容だと思うのに…なんとももったいない。
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よりみち山陽道:不動院(広島)、一乗寺、円教寺(姫路)

2011-06-20 22:59:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
安国寺 不動院(広島市)

 木・金と広島に出張だった。金曜の昼で仕事が終わって、さてどうしようか。久しぶりに宮島という手もあったが、調べたら、広島市内に国宝建築をもつ寺院があって、しかも鉄道(新交通システム)で簡単に行けると分かり、こっちにした。

 丘陵を背にした住宅街に、エアポケットのような境内が広がる。まず、楼門(重要文化財)がいい。鐘楼は派手に塗り直されていて気づかなかったが、これも重文だったのか。金堂(国宝)は天文年間の建築。昨夜の雨を含んだ柿葺きの屋根が、つやつやと輝く様子は、うずくまる熊か黒牛のように見えた。これ、原爆にも遭っているはずなのに…。逆光のガラス越しに内部をすかして見る。少し寝ぼけたような木造薬師如来坐像(平安時代)も重文。



■西国第二十六番 法華山一乗寺(兵庫県加西市)

 金曜は姫路泊。翌土曜日、西国札所の一乗寺を訪ねる。前回(2009年11月)は、ご本尊ご開帳の折だったので、ずいぶん人が多かったが、今日は9:00発のバスを一乗寺で下りたのは私ひとり。ただし、自家用車で訪れる参拝客は多かった。丁寧に参拝のあと、そろそろと格子戸にすり寄って、内陣を覗く。ぴたりと扉を閉じたお厨子が三つ。中央の扉前には、金色に輝くお前立ちの観音様。でも秘仏ご本尊は古風なんだよな。あれー脇侍は何だっけ?と考えるが思い出せない。須弥壇の左右には十二神将。一段高いところに、たぶん二十八部衆(月日を掲げた阿修羅像が見えた)。あと、右側に白い頭巾を被った尼僧(?)の肖像があったが…。

■西国第二十七番 書写山円教寺(兵庫県姫路市)

 姫路駅に引き返し、別のバスで円教寺へ(神姫バス1日乗車券がお得)。西の比叡山と言われるだけのことはあり、見どころが多くて楽しい。舞台造りの摩尼殿もいいが、その奥の三堂(大講堂・食堂・常行堂→ラスト・サムライのロケ地)の、広壮な風景も大好きだ。食堂二階に展示されていた古瓦(天文年間)に、「恋しやとおもひゐる夜の夢はただ いくたび見るも君のおもかげ」というステキな古歌(特に既存の歌集などには採られていない様子)を見つけて、嬉しくなってしまった。わずかな灯りに荘厳されているだけの、常行堂の阿弥陀さんも好きだなあ。

 さらに奥の院(奥の院なのに「すぐそこ」とある)は、開山堂(まだ修復中)の屋根を支える鬼(トッケビ?)が見もの。乙天、若天という護法の存在も慕わしく、護法社の狛犬がかわいい。







 なお、円教寺参道の三十三観音像の写真を撮ってきて、フォトチャンネルで上げてみた。秘仏の多い西国三十三観音のお姿を偲ぶよすがにと思って。
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燃やし尽くす生命/現代語訳・史記(大木康)

2011-06-18 23:41:14 | 読んだもの(書籍)
○司馬遷、大木康訳・解説『現代語訳 史記』(ちくま新書) 筑摩書房 2011.2

 明清の「軟文学」の専門家である大木康氏による史記抄訳集。この取り合わせに、へえ~と思ったが、読んでみて特に違和感はなかった。「あとがき」にいうように、明代の著者は、みな前代の書物を読み、それを踏まえて著作をしているのだから、明代文学の研究者が、前漢時代に書かれた『史記』を読まなくていいというわけにはいかない。当然である。文学研究とはそういうものだ。

 本書は、おおよそ原文に忠実な史記の現代語訳を基本とし、ところどころに、それと分かるかたちで訳者の解説を挟んでいる(講釈師みたい)。何も参照せずに「原文に忠実な」と書いたのは、訳文を読んでいると、むかし何度も読んだ原文(読み下し文)が浮かんでくるのだ。刺客・荊軻が始皇帝に迫る場面では、「左右乃曰、王負剣。負剣。」という緊迫した白文まで、まざまざと目の前に浮かんできた。

 史記は名文の宝庫である。訳者もよく分かっていて、此処という箇所には、伝統的な原文の読み下し文を太活字で挟んである。「奇貨居くべし」とか「彼取りて代わるべきなり」とかね。やはりこの「訓読」というシステムは捨てがたい。時代に即した訳文は、読みやすいけれど、また忘れられやすい。「訓読」というシステムがあったからこそ、われわれ日本人は、中国古典を自国の文学的伝統の中に取り込むことができたのだと思う。

 さて、訳者は、史記130巻から新書版の抄訳集の分量を選び出すにあたっては、登場人物のキャリア、出世に至る過程に注目をしたという。これはどうかなー。「権力にあるもの(帝王)」「権力を目指すもの(英雄)」「権力を支えるもの(輔弼の臣下)」「権力の周辺にあるもの(道化・名君・文学者)」までは分かるとしても、最終章の「権力に刃向かうもの(刺客と反乱者)」もキャリアなのか?

 まあ「キャリア」という言葉を、無名の人々が、どのような青春物語の果てに、歴史に名を残す人物となったのか、と考えれば、刺客も立派なキャリアである。当時、史上最大の権力者・始皇帝に挑み、敗れて、しかし二千年の歴史に名を残した荊軻も高漸離も、赫々たるキャリアの獲得者と言っていいだろう。なんだか、最近流行りのキャリア教育とかキャリア設計の考え方を、根本から突き崩してくれる点で爽快である。

 やっぱり、私が『史記』の登場人物でいちばん好きなのは、彼ら(刺客列伝)である。彼らは、人生の大部分、特に何をしたわけでもない。ただ一瞬の好機に、惜しげもなく生命をスパークさせることで、歴史に名を刻んだ。生命とは、好機に蕩尽するために天から貰って(むしろ借りて)いるのだ、と思う。現代人は雑念が多すぎて、とても彼らのような生き方はできないけれど。

 訳者に、本書に先立ち『「史記」と「漢書」』(2008)という著書があることは初めて知った。たぶん同書に詳述されているのだろうが、後漢から唐の初期までは『史記』よりも『漢書』のほうが高く評価されており、理由として『史記』は司馬遷の個人的な怨みが強すぎると見られていた、という本書の解説を面白いと思った。私たちが『史記』の魅力と感じる要素が、ある時代には瑕疵と受け止められていたのである。

 前掲書は、岩波書店の「書物誕生」シリーズの1冊。これ、寡聞にして知らなかった。渋いラインナップだなー。いくつか読んでみたいものがある。
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老いの先達/ちいさな理想(鶴見俊輔)

2011-06-17 21:55:13 | 読んだもの(書籍)
○鶴見俊輔『ちいさな理想』 理想社 2010.3

 「随筆を英語で何というか?」という問題に触れた文章が中にあって、ドナルド・キーン氏は「筆にまかせて(フォロイング・ザ・ブラッシュ)」と答えている。エッセイという様式とはちょっと違う。まさにそんな(=筆まかせ)感じのする、品格を備えて、かつ偉ぶらない雑文集である。

 2009年10月の日付のある「あとがき」で、鶴見さんは「私の晩年の文章」と読んでいるけれど、「初出一覧」を見ると、1990年代初めから2008~09年まで、ひとくちに「晩年」と言っても、幼児なら成人してしまうくらい長い。さらにネタバレをすると、1950~60年代初出の文章も、なぜか数編混じっている。なので、『思い出袋』(岩波、2010)や『かくれ佛教』(ダイヤモンド社、2010)ほどには、文章のトーンが統一されていない。ときどき、きらっと若さの見える文章があって、驚かされることがあった(私の印象が当たっていたかどうかは検証していないが)。

 本書には、有名無名のたくさんの人々、事件、映画、演劇などが登場するが、書籍についての論評も多い。加藤陽子さんの『それでも、日本人は戦争を選んだ』(朝日出版社、2009)に思わず投げかけた「こんな本がつくれるのか?/この本を読む日本人がたくさんいるのか?」という表現には、疑問形でしか表せなかった著者の素直な驚きを感じた。

 森於菟の『耄碌寸前』について鶴見さんが書いているのは1989年だが、私が読んだのは最近である。鴎外の『妄想』と比べて、森於菟に軍配を上げている。鴎外の『妄想』も心に残る文章だが、まだ「衒い」がある由。むかし読んだが忘れてしまったなあ。かと思えば、マンガ『がきデカ』の読みは鋭すぎる。敢えてここには趣旨を書かない。少年誌に連載当時、私は少しも好きになれなかった作品だが、そうか、こういうふうに読むのか、と思った。

 読んでみたいと思ったのは、ツヴァイクの『マリー・アントワネット』。萩原延寿の『陸奥宗光』など。主人公たちに、問答無用のヒロイン、ヒーローの魅力があるわけではない。でも年齢を重ねると、嫌なヤツとかつまらない人生にも、なぜか関心が向くのである。それから、老齢になると、体系的でなく自然と「昔」を思うようになり、それも自分の生涯よりも長く、黒船来航くらいから日本のことを考えるようになった、という。これも、なんとなく分かる。

 人生50年でこんなことをいうのはまだ早いだろうか。自分の思考や認識がどう変わっていくのか、老いの先達を追いかけてみるのもまた楽しい。

※画像は編集グループ〈SURE〉のサイトからお借りしてます。
Amazon.co.jp取り扱いなし?

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夜食に「あんどーなつ」

2011-06-16 23:53:08 | 食べたもの(銘菓・名産)
出張中@広島。



家(東京)の近所のセブンイレブンでは、いつも探しているのに見つからなかった仁先生考案「安藤名津(あんどーなつ)」を見つけて購入。

いつぞや博多で買ったジャムパンを思い出した。
ときどきテレビっ子になる。
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どちらがお好き?/鳳凰と獅子(サントリー美術館)

2011-06-14 23:54:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 開館50周年記念「美を結ぶ。美をひらく。」II『不滅のシンボル 鳳凰と獅子』(2011年6月11日~7月24日)

 はじめ、不思議な取り合わせだと思った。中国なら、皇后の象徴たる鳳凰に対しては、皇帝の象徴・龍である。仏教なら、文殊の獅子に対しては、普賢の白象だろう。実際、本展でも、鳳凰と獅子をペアにした作品は少ない。しかし、どちらも日本文化全般にわたり、華麗で装飾的な造形表現を残してきたという点では、たしかに双璧の霊鳥・霊獣である。「鳳凰チーム」も「獅子チーム」も、よくぞこれだけ集めてきたなあ、という名品が多数。所蔵者(館)のバラエティを見ているだけで楽しくなる。

 展示は「鳳凰と獅子」「獅子」「鳳凰」…というテーマ設定で、12のセクションに分かれる。面白かったのは、まず「第2章 古代における鳳凰と獅子」で、計6点、唐時代の銅鏡や飛鳥時代の塼(せん)を展示する。大和文華館の『銅製貼銀鎏金双鳳狻猊文八稜鏡』は、めずらしく狻猊(さんげい=獅子)と鳳凰を同一面に描いたもの。素人の感想で申し訳ないが、よく見つけたなあ、これ、と思った。光線によっては、七色に輝いて美しい。

 「第3章 獅子舞と狛犬」には、またあのもふもふした獅子頭(正倉院宝物模造品)が来ていた。爆笑だったのは『信西古楽図』の獅子舞図。「新羅狛」ってなんだよ、これ~。獅子が立ち上がって、その手足にも獅子の顔がついてるし~(→写真:草岡神社奉賛会)。展示品は、江戸時代の模本(東京芸大蔵)だが、藤原通憲(信西)による原典があるということか。遊行寺の獅子鼻(→※これ)の展示方法は、かわいすぎて反則。

 「第6章 よみがえる鳳凰」はマイ・ベスト。中国・明時代の鳳凰図が3点(うち1点は相国寺蔵)。朝鮮王朝時代ものが1点。そして、若冲の『旭日鳳凰図』(三の丸尚蔵館)と並ぶ。私は、若冲の鳳凰を見たのがいちばん早く、はじめはヘンな(気持ち悪い)鳳凰だなあ、と思った。それから、中国、さらに朝鮮半島に類例があることを知り、一見、孤立した個性のように見える若冲も、ある程度「東アジアの伝統」の中におさまるということが分かるようになった。しかし、やっぱり若冲作品は(超現実的な装飾性のこだわりなど)突出して個性的でもある。…と、若冲の絵画について考えるには格好の題材。この組合せは6/27までで、あとは少しずつ展示替えあり。

 おまけ(?)で若冲の『樹花鳥獣図屏風』(静岡県立美術館)も来ている(~6/20)。私は、この屏風、意外と縁がなくて、初見かもしれない。正直、あまり感心しなかった。プライスコレクションの『鳥獣花木図屏風』は、はじめは、えっと驚くが、だんだん腑に落ちていく感じがある。しかし、この作品は最後まで違和感が残る(キノコみたいな遠景の木とか)。模倣作、もしくは若冲工房の作じゃないかなあ、と思う。

 屏風絵では、彭城百川の『天台岳中石橋図』がスゴイ。あと長沢蘆雪の『唐獅子図』。先だって、MIHOミュージアムで見た、ワカメを頭に載せたネコみたいな獅子かな?と思ったら、これはまた別物。八曲一双屏風に、向かい合う2頭の獅子を描くが、左隻の立ち上がりかけた獅子が、あまりに人間臭い(オッサンくさい)顔で、ヴァンパイヤみたいだと思った。

 小品だが見逃せないのは、『青楼絵本年中行事』(冊子)の挿絵に描かれた妓楼の風景。壁いっぱいに大きな鳳凰が描かれつつある。「鳳凰の絵は張見世の場面によく登場する」のだそうで、皇后の印だった中国文化とはえらい違いだなあ、とあらためて思った。
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