〇小島毅『儒教が支えた明治維新』 晶文社 2017.11
私は『論語』が好きで、中国史も日本史もひととおり学んできたつもりだったが、あーなるほど、こういう歴史の見方があるのかあと教えられるところが多くて面白かった。内容は、著者がこの10年間に発表した文章や講演のアンソロジーで構成されている。タイトルに直接かかわる「明治維新」(近代日本)と儒教を論じたのは第1章。その前段として、近世における儒教の受容についても論じる。江戸時代初期の好学大名たちは、朱子学の道徳修治論を信条とし、忠義の対象を殿様個人から組織へ、さらに公共へと変えていくことで、武士の文明開化を図った。その後裔に「朱子学的な能吏」大久保利通、伊藤博文がいる。
一方、靖国神社である。靖国の祭神をさす「英霊」という言葉は藤田東湖の詩に由来し、その先には文天祥の詩があり、英霊の正体は朱子学でいう「気」であると考えられる。また、靖国神社を擁護する論者は、しばしば「わが国には、過去を水に流す、死者をムチ打たず、という文化がある」という。確かに江戸時代までの日本には「怨親平等」という考え方があった。これは仏教の教理に基づく。ところが明治以降は、忠臣と逆臣を強く区別するようになる。逆臣の代表は、平清盛、足利尊氏、足利義満。これは、尊王攘夷を強調し「死者にムチ打つ」思想である朱子学の影響である。皇軍の将兵を顕彰するためにつくられた靖国神社の教義は朱子学に由来する。
これは非常に納得のいく話だった。横道だけど、井伊直弼が日本の秦檜であり、吉田松蔭は岳飛に似ているという見立てはいいなあ。明治末年、松蔭神社は栄え、直弼の墓のある豪徳寺はさびれていたそうだ。全共闘は陽明学で、彼らが敵とみなしたのが朱子学的官僚制であるというのも分かる(ただし陽明学も基本的に朱子学の一分流)。
次に「朱子学」について。はじめ、朱子学は渡来僧や留学僧によってもたらされ、五山文化の一要素として受容された。朱子学が禅僧でなく儒者に担われるようになったのは江戸時代からである。朱子学を学んだ者の中から、伊藤仁斎、荻生徂徠、中江藤樹らが独自の門流を立てる。この章では、日本文学研究からも中国文学研究からも見捨てられた五山文学の価値について論じた一篇や、夢窓疎石についての論が面白かった。夢窓疎石が和歌を好んだのは初耳であったが、調べたら吉川幸次郎が何か書いているらしい。気を付けておこう。
最後の「東アジアのなかの日本」では、「漢委奴国王印」の金印、豊臣秀吉の朝鮮出兵、五山僧の活躍など、多様なテーマの小論を集める。最近の教科書では「大和朝廷」を使わず「ヤマト政権」を使うとか、「大化の改新」について、中大兄皇子や中臣鎌足の活躍がどれだけ真実か、疑問視されているなど、歴史の新しい常識に驚く。
「中華の歴史認識」は、本書の中では唯一、真正面から中国を論じたもので、はじめ、やや異質な感じがした。しかし、近現代日本に影響を与えた儒学すなわち朱子学を生んだ「宋代」が、中国史にあってどういう時代かを理解するには、やっぱりこの一篇がなければならないのだ、ということで納得した。
この一篇には、いろいろ示唆的な記述があったので書き留めておく。唐において重要なのは「律令」よりも「礼」であったこと。「中華」とは、六朝時代、黄河流域から南方へ移住した人々が、領域概念とは別の民族的・文化的概念として使い始めたものであること。唐は正史として北朝系の『北斉書』『北周書』『隋書』と南朝系の『梁書』『陳書』を編纂して双方を並列させたこと。一方、宋の士大夫は、北方異民族(遼・金・元・西夏)に対して、強い尊王攘夷思想を発展させたこと。宋の国力は対立諸王朝より劣勢であったにもかかわらず、優越的な中華意識を持ち続けた。それゆえ、現在でも中国史という枠組みは、宋を中心に考える。でも、これは決して自明の事実ではないことに、あらためて気づいた。
なお「あとがき」によれば、著者は「さる米国人」が、儒教は「近代社会にそぐわない封建的な思想」という趣旨の本を書いて人気になったことを嘆かわしく思い、本書の出版を思い立ったとのことだ。まあ「さる米国人」の本は1年も立てば忘れられてしまうだろう。また、本書所収の文章・講演の一部は、科研費研究(俗称にんぷろ)の期間中のものであるとのこと。書籍や展覧会など、その多くの成果を享受した者として、懐かしいなあと思ったら、「研究費の使用および事務局の運営において、多くのトラブルに見舞われ(略)事後評価はBになり」という衝撃の事実がさらりと書かれていた。
私は『論語』が好きで、中国史も日本史もひととおり学んできたつもりだったが、あーなるほど、こういう歴史の見方があるのかあと教えられるところが多くて面白かった。内容は、著者がこの10年間に発表した文章や講演のアンソロジーで構成されている。タイトルに直接かかわる「明治維新」(近代日本)と儒教を論じたのは第1章。その前段として、近世における儒教の受容についても論じる。江戸時代初期の好学大名たちは、朱子学の道徳修治論を信条とし、忠義の対象を殿様個人から組織へ、さらに公共へと変えていくことで、武士の文明開化を図った。その後裔に「朱子学的な能吏」大久保利通、伊藤博文がいる。
一方、靖国神社である。靖国の祭神をさす「英霊」という言葉は藤田東湖の詩に由来し、その先には文天祥の詩があり、英霊の正体は朱子学でいう「気」であると考えられる。また、靖国神社を擁護する論者は、しばしば「わが国には、過去を水に流す、死者をムチ打たず、という文化がある」という。確かに江戸時代までの日本には「怨親平等」という考え方があった。これは仏教の教理に基づく。ところが明治以降は、忠臣と逆臣を強く区別するようになる。逆臣の代表は、平清盛、足利尊氏、足利義満。これは、尊王攘夷を強調し「死者にムチ打つ」思想である朱子学の影響である。皇軍の将兵を顕彰するためにつくられた靖国神社の教義は朱子学に由来する。
これは非常に納得のいく話だった。横道だけど、井伊直弼が日本の秦檜であり、吉田松蔭は岳飛に似ているという見立てはいいなあ。明治末年、松蔭神社は栄え、直弼の墓のある豪徳寺はさびれていたそうだ。全共闘は陽明学で、彼らが敵とみなしたのが朱子学的官僚制であるというのも分かる(ただし陽明学も基本的に朱子学の一分流)。
次に「朱子学」について。はじめ、朱子学は渡来僧や留学僧によってもたらされ、五山文化の一要素として受容された。朱子学が禅僧でなく儒者に担われるようになったのは江戸時代からである。朱子学を学んだ者の中から、伊藤仁斎、荻生徂徠、中江藤樹らが独自の門流を立てる。この章では、日本文学研究からも中国文学研究からも見捨てられた五山文学の価値について論じた一篇や、夢窓疎石についての論が面白かった。夢窓疎石が和歌を好んだのは初耳であったが、調べたら吉川幸次郎が何か書いているらしい。気を付けておこう。
最後の「東アジアのなかの日本」では、「漢委奴国王印」の金印、豊臣秀吉の朝鮮出兵、五山僧の活躍など、多様なテーマの小論を集める。最近の教科書では「大和朝廷」を使わず「ヤマト政権」を使うとか、「大化の改新」について、中大兄皇子や中臣鎌足の活躍がどれだけ真実か、疑問視されているなど、歴史の新しい常識に驚く。
「中華の歴史認識」は、本書の中では唯一、真正面から中国を論じたもので、はじめ、やや異質な感じがした。しかし、近現代日本に影響を与えた儒学すなわち朱子学を生んだ「宋代」が、中国史にあってどういう時代かを理解するには、やっぱりこの一篇がなければならないのだ、ということで納得した。
この一篇には、いろいろ示唆的な記述があったので書き留めておく。唐において重要なのは「律令」よりも「礼」であったこと。「中華」とは、六朝時代、黄河流域から南方へ移住した人々が、領域概念とは別の民族的・文化的概念として使い始めたものであること。唐は正史として北朝系の『北斉書』『北周書』『隋書』と南朝系の『梁書』『陳書』を編纂して双方を並列させたこと。一方、宋の士大夫は、北方異民族(遼・金・元・西夏)に対して、強い尊王攘夷思想を発展させたこと。宋の国力は対立諸王朝より劣勢であったにもかかわらず、優越的な中華意識を持ち続けた。それゆえ、現在でも中国史という枠組みは、宋を中心に考える。でも、これは決して自明の事実ではないことに、あらためて気づいた。
なお「あとがき」によれば、著者は「さる米国人」が、儒教は「近代社会にそぐわない封建的な思想」という趣旨の本を書いて人気になったことを嘆かわしく思い、本書の出版を思い立ったとのことだ。まあ「さる米国人」の本は1年も立てば忘れられてしまうだろう。また、本書所収の文章・講演の一部は、科研費研究(俗称にんぷろ)の期間中のものであるとのこと。書籍や展覧会など、その多くの成果を享受した者として、懐かしいなあと思ったら、「研究費の使用および事務局の運営において、多くのトラブルに見舞われ(略)事後評価はBになり」という衝撃の事実がさらりと書かれていた。