見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

隠れた絶景/タモリのTOKYO坂道美学入門(タモリ)

2011-04-30 22:19:43 | 読んだもの(書籍)
○タモリ文、写真『タモリのTOKYO坂道美学入門』 講談社 2004.10

 昨年のゴールデンウィークだったか、秋の行楽シーズン前だったか、たまたま新宿の書店で本書を見た。2004年刊行だから、けっこう古い本だが、私は知らなかった。そのときは、いったん買い控えたが、ずっと気になっていて、とうとう買いに行ってしまった。

 著者のタモリさんはあとがきに「ほとんど誰も興味を持たない『坂道』の連載(※雑誌「TOKYO★1週間」に1年半近く連載)という快挙を成し遂げ、あまつさえ単行本にまでするという暴挙」に出た、講談社の関係者に感謝を捧げている。私が購入したのは、2009年の第7刷だから、その「暴挙」を歓迎し、読み継いでいる読者が一定数はいることになる。

 内容はタイトルのとおり。「坂道」をこよなく愛する著者が、東京中心部の9区から37の坂を紹介している(あわせて周辺の小さな坂もコラムで紹介)。港区、文京区、新宿区など、東京都心部が多いのは、著者の考える「よい坂」の条件に「まわりに江戸の風情がある」が挙げられていることと、東京東部の江戸川区、江東区などは、低湿地帯で坂が少なく、東京西部は、逆に丘陵地帯のため、景観が茫漠とし過ぎて風情のある坂が少ないのだと思う。両者の複雑な交差点が都心部になるわけだ。

 文章に添えられた写真がどれもいい。ほんとにタモリさん撮影なの? 美人を美人として捉えるカメラマンの技量があるように、美「坂」の魅力を最大限に引き出したベスト・ショット揃いである。だいたいは人影のない、無人の風景が選ばれているが、ずいぶん待って撮影しているんだろうなあ。影が長く伸びた(朝か夕方?の)写真が多いように思う。「見下ろし」「見上げ」のどちらの構図を選ぶかは、坂によって違うんだろうな。

 私はタモリさんをテレビで何十年も見てきたが、文章を読んだのは初めてのことだ。まえがきのエッセイは、おもしろかった。子ども時代、幼稚園に行きたくないと主張して、親に認められはしたものの、日中、遊び相手がいないので、家の前の坂道を上り下りする人たちを眺めてくらしたという。なんだか中世のお伽草子に出てくる少年みたいだ。

 私は東京下町の生まれなので、子ども時代はほとんど「坂道」を知らなかった。中学校から都心部へ電車通学するようになり、初めて「坂道」が記憶の中にすべりこんでくる。著者は、あるとき酔った勢いで、人間の思考、思想は「傾斜の思想と平地の思想に大別することができる」と屁理屈をこねたエピソードを告白しているが、あながち、間違いではないような気もする。

 かたい話はさておいて、分かりやすい地図、ルートガイド(距離と所要時間)、飲食店などのお立ち寄りSPOT情報もついて、東京散歩のお供にはお手頃。ただし2004年刊行だから、もはや変わってしまった風景もあることは覚悟の上で。
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極上のアクション/映画・孫文の義士団

2011-04-30 13:25:57 | 見たもの(Webサイト・TV)
○ピーター・チャン制作/テディ・チャン監督『孫文の義士団』(シネマスクエアとうきゅう)

 気になっていた映画をようやく見ることができた。2009年、中国では、建国60周年を記念し、大作映画の制作が相次いだ中で、いちばん見たかった作品である。原題の『十月圍城(十月囲城)』で検索をかけ続けたが、なかなか日本公開の情報が上がってこない。ちょっと忘れかけていたら、こんな日本語タイトルで公開が始まっていた。

 舞台は、1906年10月、イギリス領香港。日本亡命中の革命家・孫文が、中国各地の同志と会談するため香港を訪れる。その情報を聞きつけた西太后は、香港に総勢500人の暗殺団を放つ。一方、香港の活動家たちは、孫文を守るための手立てを打つ。港から密談の場所まで孫文を送り届け、そのあとは、影武者を載せた人力車を引いて、孫文の母の家へ向かうと見せかけ、暗殺者との死闘を1時間耐えぬく決意を固めた。

 前半は、この孫文ガード計画にかかわることになった人々の人間模様が描かれる。国家の将来を憂い、心から革命蜂起を支持する活動家もいれば、むしろ友情や家族愛に引かれて、計画を支援せざるを得なくなった者もいる。孫文が何者であるかも知らないまま、ただ自分が愛し、信頼する者のため死地に赴く者。ずっと死にどころを求め続けていた者。暗殺団の首領にも、清朝国家に忠誠を誓った「義」がある…。むろんこの前半にも、豪快なアクションシーンが随所に挟まれていて、飽きない。

 後半、いよいよ孫文が港に到着し、暗殺団が牙をむくと、動体視力が追いつかないようなアクションシーンの連続。爆発シーンもあるけど、基本的には肉体勝負のカンフーとソードアクション(殺陣)である。うう、すごい。見せ方がすごい。そして、ボディガードたちは、ひとり、またひとりと倒れていく。この乾いた感じが好きだ。

 ネタバレをすると、死闘の前面に立った若者たちは全て死し、中年過ぎの活動家と老年の商人だけが残される。革命同志との会談を終えた孫文は、何事もなかったかのように帰っていく。最後の画面に、翌年以降、中国各地で相次いだ蜂起と、辛亥革命に至る年譜が表示され、この日の孫文の会談が実を結んだこと、したがって、若者たちの死が無駄ではなかったことが、なんとなく示される。とは言っても、その後の日々を、遺された家族たちが、どう過ごしたかは分からない。基本はエンターテイメント作品なので、あまり気にする必要はないのだけど、大文字の「歴史」に対する諦念みたいなところが、中国の伝統的な死生観に連なっている感じがする。好みは分かれると思うが、私は好きだ。

 どこかの映画評ブログにも書いてあったけど、男性客が多かった。やっぱり女性には受けないのか、こういう映画。実はイケメン俳優も出てるんだけど、見事に汚れた格好してるものなあ。ニコラス・ツェー(謝霆鋒)は車引きのあんちゃんだし、レオン・ライ(黎明)なんか道に寝転ぶレゲエのおじさん(ホームレス)ですからね。私はフー・ジュン(胡軍)が好きなんだが、今回は暗殺団の首領役で、見事に怖い。

 見どころとして落とせないのは、20世紀初頭の香港の街並みを再現した美術のすごさ。公式サイト(日本語)の「特別動画」によれば、当時の写真を参考に8年かけて(!)構想されたもので、各棟の住民の数、家族構成まで、細かく指定されており、カメラに映らない部分まで完璧を期しているという。私は一度だけ香港に行ったことがあるので、お、あの坂道には見覚えが…なんて、古い記憶をたどっていたのだが、全てセットだった。こういうものを「つくる」ことに対して、中国人の本気はすごい。保存は気にかけないのが国民性なんだけど。

『十月圍城』公式サイト(繁体中文版、簡体中文版、英語版へ)
ん? 繁体中文版(大陸向け)と、簡体中文版(台湾向け)・英語版で、BGMが異なるのが面白い。

中国語:百度百科「十月围城」
配役、見どころ、原型となった人物と事件などについて、詳しい。
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始原へ遡る/建築史的モンダイ(藤森照信)

2011-04-30 01:29:28 | 読んだもの(書籍)
○藤森照信『建築史的モンダイ』(ちくま新書) 筑摩書房 2008.9

 いや相変わらず面白いなあ、藤森先生。もともと近代建築史が専門だった著者が、日本の近世や中世の古建築についてコメントしていることには気づいていたが、いつの間にか、中世ヨーロッパ建築、初期キリスト教建築に関心を広げ、ローマとギリシャとエジプトは軽くすませ(著者の表現)、さらにその先の新石器時代の建築(!)へと遡り、人類の「建築的想像力」の始原まで探究を進めている。おそるべき「力技」である。

 その「始原への旅」の途中にも、いろいろと興味深い寄り道モンダイがころがっている。たとえば、宗教的施設のタテヨコ問題。著者によれば、初期キリスト教会は円形だったと思われるが、次第に縦長(バシリカ式)になる。一般に宗教建築は「正方形か円形か縦長」になるのだが、日中韓ベトナムだけは横長。これは中国仏教が、祀る対象を超越的な存在と考えず、住宅(横長が基本)の形式を当てはめたためではないかという。なるほど。うまい説明だが、日本や中国でも、大きな寺院では、お堂とお堂の連なり方は「縦長」だと思う。

 日本建築の防火問題。これも面白い。大正9年、日本初の建築法を定めるにあたり、防火の項を起草したのは内田祥三だったが、江戸っ子の内田は「子供の時分から火事が大好き」だったという。えええ~。内田は、永年の火事場体験に基づき、木造家屋の表面を不燃材で覆うことを義務づける。結局、延焼は免れないが、延焼のスピードは鈍る。その間に人は逃げることができる。

 このほか、居間の成立(大正期に生まれ、戦後に間取りの中心となった)、茶室における炉(洗練された文化空間に火を持ちこむことの前衛性)、引っ張りに耐える鉄筋コンクリート、長崎の煉瓦のルーツなど、興味の尽きない問題が満載である。「私は、けっして自分の関心を計画的に配置したことはなかった」というのは「あとがき」にある著者の言葉だが、探究心が次の問題を呼び寄せる。こういうのが、研究者人生の醍醐味だと思う。

 「超高層ビルは不滅」というのも、びっくりする話だった。9.11事件の発生まで、世界中でこれまでに生まれた超高層ビルで、倒壊や焼失、建て替えによって、この世から消えた例はほとんどなかった。だから建築界では「超高層ビルは不滅である」と、なんとなく信じられていたという。専門家にそう告白されると、かえって素人のほうがびっくりする。そうなのか。じゃあ、今、私が目にしている新宿の超高層ビル群(東京育ちの私には非常になじみ深い風景なのだ)は、周囲の風景がどう変わるにせよ、50年後、100年後もあのまま立ち続けているのか…。ヨーロッパの街並みの中に残る中世の教会みたいに。
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西から東へ/冒険商人シャルダン(羽田正)

2011-04-29 23:58:01 | 読んだもの(書籍)
○羽田正『冒険商人シャルダン』(講談社学術文庫) 講談社 2010.11

 1643年、フランスのパリに生まれたジャン・シャルダンは、若くしてペルシア、インドを商用で2度旅し、ヨーロッパに帰還後、浩瀚なペルシア旅行記を出版した。しかし、この人の名前を知る日本人はそう多くないだろう。実は私も知らなかった。本書は、全くの勘違いで読み始めた1冊である。

 「世界を旅し、記録した『マイナーな男』の波瀾万丈」というオビの文句を見て、ああ、これこれ、読みたかったんだ、と思った。このとき、私の記憶の端に浮かんでいたのは、杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』で読みかじった、北京生まれのオングト族、ネストリウス派キリスト教徒のサウマーが、ローマ、パリに至る大旅行の物語だった。片や13世紀、東→西の旅人だし、本書は17世紀、西→東の旅人で、ぜんぜん違うので…あとで我ながら呆れてしまった。しかしまあ、気を取り直して論じれば、古代から近世・近代まで「東」と「西」を往還した旅人は多数あるはずなのに、相変わらず、マルコ・ポーロくらいしか人口に膾炙しないのは残念なことである。

 本書は、広汎な史料を読み解いた著者が、シャルダンの生涯を語る形式で進む。印象的なのは、シャルダンがフランスの宗教的少数派、熱心なプロテスタント(ユグノー)であったことだ。彼が尊敬を捧げた「太陽王」ルイ14世の治世に、宗教的寛容を掲げた「ナントの勅令」が廃止され、晩年の彼は、イギリス移住を余儀なくされる。これは、シャルダンが壮年期を過ごしたペルシアが、イスラーム教国でありながら、一定の条件の下に、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒などに信教の自由を認めていたことと対照的である。17世紀においては、「1つの国家に1つの宗教」は西ヨーロッパの常識であったが、イスラーム世界の常識ではなかったのだ。

 それから、シャルダンという人物が、優れた知性、行動力、適応力の持ち主であったにせよ、基本的には「市井の人」で、商人らしく金銭の出納に几帳面で、無駄な出費を嫌い、晩年は怠け者の息子や娘の結婚問題に心を悩ませ続けたというのは、微笑ましい。

 もうひとつ、本書の読みどころは、楽屋ネタだが、著者とシャルダン書簡集との出会い。途中、第4章の冒頭に「イギリスのケンブリッジ大学図書館は、その膨大な蔵書の大部分が開架で設置され、利用者の便を考えた世界で最も使いやすい図書館だと私は思う」というので、何の話が始まるかと思ったら、著者はこの図書館で「ロンドン・ユグノー教会」の会誌を100年分以上、初めからチェックしていったという。そして、ついに1982年の号に、シャルダンの伝記を発見し、シャルダンの書簡集コレクションがアメリカのイェール大学にあることを知る。すぐに図書館を飛び出した著者は、アメリカ行きの飛行機のチケットを買うために、ケンブリッジの旅行代理店に走り、数日後にはイェール大学にいた、というのだから、すごい。歴史研究も、このくらいの行動力がないと、やっていけないんだなあ、と感嘆してしまった。
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新顔多数/鎌倉の至宝(鎌倉国宝館)

2011-04-28 00:35:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
鎌倉国宝館 特別展『鎌倉の至宝-国宝・重要文化財-』(2011年4月21日~5月29日)

 ゴールデンウィーク恒例の『鎌倉の至宝』展。だいたい、出るものは決まっているので、このところ少しサボっていた。今年は建長寺の仏画『白衣観音図』(元代)が修理後初公開だと聞いて、久しぶりに見に行った。

 そうしたら、彫刻のエリアも少し様子が違う。養命寺の薬師如来? 胸の厚い、穏やかな表情の坐像だが、こんなのあったかしら(調べたら、2010年の『薬師如来と十二神将』にも出品)。浄妙寺の釈迦如来もめずらしいかな。浄智寺の地蔵菩薩は定番。と、五島美術館所蔵の愛染明王坐像にびっくりする(見たことある…とは思ったが、五島美術館のロビーに常設されているって、本当だっけか?)。もとは鶴岡八幡宮に祀られていたものだそうだ。頭上には、半分に切ったような五鈷杵が突っ立ち、獅子の面が大きいので、顔が2つあるように見える。滑らかな頭髪は天に向かって逆巻き、三眼には豊かな感情が溢れる。迫力満点。

 建長寺の伽藍神も、最近はこっち(国宝館)にいることが多いのかなあ。ジャムパンみたいな冠をかぶり、いかにも大陸人らしい風貌をしている(少し毛沢東に似てないか?)。かつて寺内にあった「土地堂」に安置されていたという。「土地堂」というのが、いかにも中国だ。

 それから書画・工芸のセクションへ。『蘭渓道隆像』みたいに文句なくおなじみの作品もあれば、『頬焼阿弥陀縁起絵巻』はめずらしく上巻が見られて、面白かった。初めて見る『白衣観音図』には「鎌倉地方では、こうした像容(片足を垂らす、くつろいだ姿勢=遊戯坐/ゆげざ)の彫刻が流行した」という解説が付されていた。確かに、神奈川県の歴博にも1体あったな。と思ったら、横須賀・清雲寺の観音菩薩坐像(奈良博の『寧波』展以来!)と、横浜・慶珊寺の十一面観音菩薩坐像が来ていて、びっくりする。どちらも”遊戯坐つながり”で呼ばれたらしい。よく見たら、チラシに「特別公開」をうたってあったが、全然気づいていなかった。慶珊寺の十一面観音も、もとは鶴岡八幡宮にあったそうで、150年ぶりの里帰りだとか。

 箱根・阿弥陀寺の文殊菩薩立像(初公開/平成22年度新寄託品)は、童形なのに青年らしい肉体がちょっとなまめかしい。よくできたフィギュアみたいだ。工芸品も、堆朱や堆黒など、以前はあまり見なかった品が多くて面白かった。数年サボっている間に、ずいぶん変貌したなあと感慨無量。
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能登から鶴見/總持寺 名宝100選(神奈川県立歴史博物館)

2011-04-27 00:43:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立歴史博物館 御移転100年記念 能登から鶴見の地へ 特別展『曹洞宗大本山總持寺 名宝100選』(2011年4月16日~5月22日

 鶴見の總持寺(総持寺)へは、10年以上前に一度だけ行ったことがある。知人の家族の葬儀に参列するためだった。予想を超えて巨大な山門と伽藍群に度肝を抜かれたことを記憶している。それきり、観光や参拝で訪ねたこともなく、私は全く知らなかったが、曹洞宗大本山總持寺は、もと能登(石川県)にあり、明治の火災を契機に横浜鶴見の地へ移転してきたという。以来、節目の100年目を記念して、本展では、能登伝来の品々をはじめとする總持寺の文化財が一堂に公開されている。

 まずは文書から。能登總持寺の開山は瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)で、第2世・峨山韶碩(がざん じょうせき)は、塔頭五院による住持の輪番制を定めた。室町時代から明治(明治3年に輪番制廃止)まで書き継がれた『住持記』がきちんと残っているのはすごい。また、峨山の弟子を順に記した『法嗣目録』を見ると、23~25番目あたりに「比丘尼」が登場する(25番目は「峨山妹也」と注あり)。Wikiの瑩山の項に「積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道の思想を推し進めた」とあるが、峨山も同様だったようだ。

 絵画では、巨大な『提婆達多像』に驚く。雲の中に上半身をあらわした、中国の皇帝風の提婆達多像。胸から上だけなのに、高さ150cmもある。「朝鮮・高麗時代」ってほんとなのかなあ。文化庁の「国指定文化財等データベース」では「国:朝鮮/時代:高麗」だが「解説文:元時代の作品」ともある。『蘆葉達磨・墨梅図』は、中央に「蘆葉達磨図」、左右に「墨梅図」(枝に積雪ありとナシ)を組み合わせた三幅対。悪くないけど「元時代」は疑わしい。達磨図の落款「天暦庚午(元の年号なら1330年)月澗作」は下手すぎる。

 ポスターになっている釈迦如来坐像(細かい襞のある通肩の衣をまとう)は、一時期、鶴見總持寺の本尊とされていた。檀家の外交官・栗野慎一郎(逸話の多い有名人なんだな)が寄進したもので、もとは外務省にあったという。何の印相なんだか、中途半端に人間くさくて新しい。「中国・清時代か」に納得。

 比べては申し訳ないが、特別出品の観音菩薩坐像(能登・總持寺祖院から)は優品。優美な瓔珞にもかかわらず、きゅっと引きしまった力強さ、厳しさを感じさせる。「院派仏師の作風を示す」のだそうだ。大船観音寺の観音菩薩像(平安時代)は腕が長く、腰が細い、たおやかなプロポーション。眠たそうで平和的な表情がいい。大船観音が總持寺の直末寺であることも、正月三が日だけご開帳になる、こんな秘仏がおいでであることも、全く知らなかった。

 後半には、達磨・大黒・蔵王権現・大将軍神像など、多様な神仏像がごちゃごちゃと登場。何事かと思ったら、檀家衆から寄進されたもので、とりわけ「煙草王」村井吉兵衛からの寄進が多いそうだ。参考展示の「禅僧の什具さまざま」や、明治~今日までの写真や絵図に描かれた總持寺も面白かった。「あ、うちの大学!」と喋っていた女の子たちは、鶴見女子大の学生さんだな、きっと。

曹洞宗大本山總持寺(横浜市鶴見区)
「總持寺の名宝」はこちら

大本山總持寺祖院(石川県輪島市)

佛海山 大船観音寺(鎌倉市岡本)
慈光堂・聖観音立像の写真あり
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水になじむ墨/国宝 離洛帖と蝶螺鈿蒔絵手箱(畠山記念館)

2011-04-24 23:13:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
畠山記念館 春季展『国宝 離洛帖と蝶螺鈿蒔絵手箱-伝えられた日本の美-』(2011年4月9日~6月19日)

 題名のとおり、本展の見どころは、藤原佐理筆『離洛帖』(4/9~24,5/24~6/19展示)と『蝶螺鈿蒔絵手箱』(5/14~6/5)の2件の国宝である。ただし、2件をまとめて見られる期間は、5月末~6月初めの2週間弱。ちょっとぉズルくない?と苦笑したが、個人的には『離洛帖』さえ見られれば問題なし。

 座敷壁面の展示ケースには、左から伝・公任筆の「大田切(和漢朗詠集)」。近衛家伝来だそうだ。水色と黄色を切り継いだ唐紙に濃い墨色が美しい。漢字が多い(字画が多い)ので、余計に墨色が黒く感じられる。隣りは宗達筆『蓮池水禽図』で、ふわりと宙に浮かんだ風船みたいな蓮の花と葉が、のびのびした薄墨で描かれている。小さな水鳥が懸命に足掻く姿に元気があってかわいい。光琳筆『躑躅図』をはさんで、佐理の『離洛帖』の墨色は変幻自在。

 今回、この一列は、水墨画と古筆切で統一されている。伝・岳翁蔵丘筆『春景山水図』にわずかに淡彩が使われているが、ほとんど目立たないので、墨の美学の競演という印象である。でも、書籍(特に仏典や漢籍)の印刷に使われた墨が、油分の多い、てらてらと輝くような黒であるのに対して、水墨画と古筆切の墨は、限りなく水になじみやすい、あわあわとした黒に感じられる。実際に、どの程度成分が違ったのか、違わなかったのかは、よく分からないが…。

 また、本展には、大正~昭和の職人の工芸作品が数多く出ている。畠山即翁は、東都の職人を重用し、戦時下においても援助を惜しまなかったそうだ。その一例として、漆芸家・仰木政斎に命じて、中尊寺金堂の須弥壇を模してつくらせた畠山家の仏壇の写真と、供物机(実物)が展示されていた。こういう金持ちの道楽って、意味がないようであるんだなあ。

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墨色の美学/空海からのおくりもの(印刷博物館)

2011-04-23 23:48:57 | 行ったもの(美術館・見仏)

印刷博物館 企画展示『空海からのおくりもの 高野山の書庫の扉をひらく』(2011年4月23日~2011年7月18日)

 刷りもの・書きもの好きには堪らない展覧会が始まったので、さっそく見てきた。展示室の入口は「高」「野」「山」の文字を掲げた真っ赤なゲート。高野山の大門を模しているのだな、と気づく。本展は、高野山にある6つの寺院(金剛峯寺、宝寿院、正智院、西禅院、無量光院、金剛三昧院)から秘宝計79点をお借りし、公開するもの。数点をのぞき、高野山を「下山」するのは、今回がはじめての資料ばかりだという。

 冒頭には無量光院所蔵の『弘法大師像』(絹本着色、鎌倉)。展示ケースが薄くて、かなり寄って見られるので、茶色で隈取られた瞳とか、木目までリアルに再現した椅子、靴の中敷きの市松模様(ダミエ柄みたい)など、図録の写真では分からない細部までよく分かる。唐代の『板彫両界曼荼羅』(前期は胎蔵界)にはびっくりした。解説によれば「唐時代の唯一の現存両界曼荼羅』だという。そうだろうなあ。

 そして、おもむろに宋版の大般若波羅蜜多経が登場。次も宋版の大智度論。次も次も…という感じで、半ば呆れる。でも同じ宋版の経典でも、紙も活字も版型も、ずいぶんいろいろなんだな、と思う。高麗版の一切経は、対馬の宗貞盛、成職親子が某八幡宮に奉納したもの(奥書あり)を石田三成が入手し、高野山奥の院に奉納したものだという。

 あとは日本で刊行された春日版、西大寺版、五山版などが続き、さらに夥しい数の高野版が紹介されている。美しいものもあれば、磨滅が激しいものも(角が取れて、丸字っぽくなっていて可愛い)。春日版(興福寺を中心とした奈良の寺院で印刷・出版された仏書・漢籍)の黒々した墨色、きれいだなあ。高野版の版面は、少し春日版に似ていると思う。正智院には、高野版の開版に関する評定記録が写本で伝わっている。料紙の単価、製本手間賃などが詳細に記録されていて、興味深い。展示品には「二番目に古い高野版」(建長6年=1254)とか「四番目に古い高野版」(建長8年=1256)という解説も記されていて、かなり研究が進んでいることが分かった。当時(13世紀、弘安年間)の版木が、数百枚現存していることにも驚いた。韓国・海印寺の高麗大蔵経と同時代ではないか(数は及ばないけど)。

 続くセクションでは「刷られた」絵画資料を紹介する。小さな摺仏、印仏だけではない。近世初期には『高野大師行状図画』(弘法大師絵巻)が木版でつくられた。挿絵部分に彩色を加えれば、紙本着色絵巻のできあがり。この間、見てきたグランヴィルの挿絵本と同じシステムである。縦が1メートルを超す精緻な十二天図、版木3枚を横につなげ、戸板ほどに仕立てた、巨大な都率曼荼羅もあった。

 近世初期には高野版にも古活字版が登場。西禅院には、その木活字セットも遺されている。印刷博物館所蔵の伏見版や駿河版の活字と並べてみると、彫りの特徴がよく分かる。

 最後にVRシアターで「曼荼羅復元・再生プロジェクト『両界大曼荼羅の宇宙』」を見ていく。極彩色の姿を取り戻した曼荼羅の諸仏が等身大の大きさで迫ってくる迫力あるプログラムで、面白かった。なお、図録はさすが凸版印刷。展示では見られなかった箇所の写真も豊富に取り入れ、黒一色(墨の美学!)の表紙、開きやすい造本にも大満足。

※参考:6寺院紹介(※印は、高野山霊宝館「よもやま記」から)
金剛峯寺宝寿院(※)正智院(※)西禅院(※)無量光院(※)金剛三昧院

※参考:東京国立博物館『空海と密教美術』展の公式サイト公開(2011/3/9)
…しかし、どうしようもなくショボい。どうした?

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2011東京の桜(備忘録)

2011-04-22 23:58:11 | なごみ写真帖
東京都内は、思いのほかサクラの木が多い。しかも老成した枝ぶりと個性的なロケーションが随所で楽しめる。

昨年のこの時期は、引っ越しと職場の変化で落ち着かなかった。今年は、世間の空気は落ち着かないが、自分の生活にはあまり変化がなかったのと、寒さがじわじわ継続する天候で、ゆっくり花を楽しむ余裕に恵まれた。

4/1 都内某所。職場のサクラ。早咲き。


4/10 西新宿のサクラ。


4/10 皇居お堀端のサクラ。


4/10 上野、東京国立博物館のサクラ。今年の庭園開放は、例年より人が少なくて、静かだった。善哉。


4/10 同。平成館の裏側、極端に窓の少ない広い壁面を背景に、サクラの老木が聳え立っている。大きな屏風絵みたいだ。下村観山の「弱法師(よろぼうし)」を思い出す。

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成熟対談/戦争と日本人(加藤陽子、佐高信)

2011-04-22 01:11:37 | 読んだもの(書籍)
○加藤陽子、佐高信『戦争と日本人:テロリズムの子どもたちへ』(角川oneテーマ21) 角川書店 2011.2

 冒頭に加藤陽子さんが「副題の意味するものは」という解説を書いている。西郷隆盛を推戴して西南の役を起こした少壮士族たちを、勝海舟は和歌の中で「子供ら」と詠んだ。原敬を暗殺した19歳の少年を大杉栄は「子供」と名指した。日本の近現代史を振り返ってみると、未熟な「子ども」が早まって事を起こし、その結果、「大人」の死体が累々と横たわっているような風景があまりにも多い――と加藤さんは言う。ああ、こんな歴史の見方もあるんだ、と、虚を突かれるような指摘だった。

 日本人は、なぜか「若者」が好きだ。幕末維新の英傑は20~30代の若者だった、という話はよく聞く。彼らはともかく、義憤や短慮から、暗殺・テロ・クーデターを引き起こしてしまう未熟な知性を、加藤さんは冷たく「子ども」と言い放つ。

 テロリストだけではない。「クリーン」至上主義の市川房枝は、石原莞爾を絶賛しているという。その市川房枝の下で育ってきたのが菅直人。「右」と「左」とを問わず、時代を超えて繰り返される「道徳おっ被り」「浮かれ正義」「正当性ばかりを声高に主張する」ことの危うさを、二人の著者は厳しく見つめる。特に、国家との向き合い方においては、国家をゆるぎないものと思わないことが重要だという。

 数々の近代史資料を読みこんでいるお二人の対談なので、思わずページに印を付けたくなるようなこぼれ話には事欠かない。昭和天皇が、庭の雑草を人々が踏まないように竹串でマーキングしていたとか(雑草に感情移入する孤独感)。木下尚江は、憲法発布前(明治10年代)の自由闊達な空気を忘れたところに日本の近代はない、と書いているとか(司馬史観みたいだ)。大正・昭和の教育を受けた秀才はマルクス主義に行ってしまったが、明治10~20年代の教養をもった世代はアナーキストだった。南原繁もそのひとり。彼ら、まともな知識人は、太平洋戦争が始まった瞬間に「絶対に負ける」と直感した(と佐高さんは書いているけど、これはどうかなー)。

 あと、加藤さんの大胆な未来予測。50年後の国際社会ではインドと中国とロシアの3つの陸の帝国が力を持ち、日本とアメリカがバランサーとなっているのではないか、という。当たるか否かを見届けるのは、私にはちょっと難しそうだが…。

 対談の終わり、「感情教育がきちんとなされていれば、くだらないことで勧誘を受けても、軽々となびいていかない」(加藤)「すぐにわからなくていいから、自分の頭でじっくり考える」(佐高)というやりとりは、いまの社会、とりわけ教育の問題点をよく捉えていると思った。特に「すぐにわからなくていいから」という留保に同感する。最近の原発事故報道を見ていても、みんな、よく分かる(すぐ分かる)説明を他人に求めすぎじゃないか、と感じるのだ。すぐ分かる説明なんて、あやしいに決まっている。真実は、時間をかけて努力しなければ手に入る筈はない、ということを、もう一度、自分に言い聞かせたい。それが年齢を重ねた大人の覚悟というものである。
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