〇会田大輔『南北朝時代:五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書) 中央公論新社 2021.10
中国の南北朝時代とは、五胡十六国後の北魏による華北統一(439)から隋の中華再統一(589)までの150年を指す。「はしがき」の説明に従えば、「『三国志』と隋・唐の間で、日本でいうと倭の五王から聖徳太子ぐらいの時期」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。一般に日本人にはなじみの薄い時代であることは確かだ。しかし、中国ドラマ好きの私は、SNSに流れてきた、以下の宣伝文句が気になって、迷わず購入してしまった。
”最近、南北朝時代を舞台にした中国ドラマ(『蘭陵王』や『独孤伽羅』)や南北朝時代をモデルにした中国ドラマ(『琅邪榜』『陳情令』)が好評ですね。ドラマの時代背景が気になる方は、ぜひ18日発売の会田大輔『南北朝時代ー五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書)を。”
いま確認したら、つぶやいているのは著者本人のツイッターアカウントだった。うまく乗せられたわけだが、後悔はしていない。
本書は、序章で3世紀後半に中国統一を果たした西晋が崩壊し、中国が南北に分裂する過程を紹介したあと、北朝→南朝→北朝→南朝…という具合に視点を転じながら、諸王朝の興亡と南北間の戦争を追っていく。非常に分かりやすい記述で、複雑な歴史がよく頭に入った。
本書は、官制や軍制、土地・住民管理、貴族や有力豪族との関係、祭天儀礼を含む礼制、都城、服飾、姓名、言語、宗教、文化など、豊富な情報で諸王朝の姿を描き出している。それと同時に、短いエピソードで強烈な印象を残す人々がいる。やっぱりその随一は侯景かなあ。北魏の軍人として頭角を現し、南朝の梁を滅ぼし、「宇宙大将軍」を名乗り(なんだそれは)、国号を漢として即位するも、梁の残党に攻められ、長江を船で逃げ下る途中で殺害された。船内に逃げ込み、船の底を刀で抉っているところを刺されて死んだと伝えられており、「最期まで諦観とは無縁であった」という著者の人物評が的確である。私は『琅邪榜』の誉王を演じた黄維徳(ビクター・ホァン)でイメージしているのだが、どうだろう?
北魏の馮太后は、中国の「女帝」にありがちな悪い噂はあるものの、次々に政治改革を実現し、北魏の華北支配を確立した。すごいなあ、これはカッコいい女性だ。「私生活では偉丈夫の王叡を寵愛した」が「公私混同をあまりせず、政治を乱すことは少なかった」という。ドラマ化されてないかな、と思ったら『王女未央-BIOU-』と『鳳囚凰』がそうなのか。ほうほう。
馮太后の路線を引き継ぎ、一層の中国化路線を進めた孝文帝は、北魏の全盛期を招来するが、中下級の北族(遊牧民系)の不満が高まり、南北朝全体が動乱の時代に突入する。北魏は東西に分裂し、権力闘争が激化する。西魏では宇文泰が実権を握り、北周を起こす。ここから隋を建国する楊堅が登場するわけだが、北周を潰した宣帝(天元皇帝)も面白いなあ。「常軌を逸した暴君として語られてきた」が、著者はいろいろ功績を挙げて「単なる暴君というわけではない」と評価している。
本書全体を通して興味深かったのは、南北朝の歴史が「中国≒漢民族」で閉じているわけではないことだ。もともと華北は、漢人と鮮卑・匈奴などの遊牧民が混在する地域であり、北魏を建国した拓跋氏が鮮卑の一部族であることも理解していたが、建国後の北魏も、その後の諸王朝も、高車・柔然などの遊牧民族と、時には死闘を繰り広げ、時には婚姻によって友誼を深めている。北朝だけではない。南朝の宋・斉も、北魏との抗争を生き抜くため、夏・北涼・北燕という五胡諸政権、さらには吐谷渾・高句麗・柔然と結ぼうとして、盛んに使者を交わしている。宋(首都は健康=南京)から吐谷渾・高昌(いまの新疆ウイグル自治区)を経由して柔然(モンゴル高原)に使者を送っていたというのを読んで、20年くらい前に行った西域ツアーを思い出しながら、ひゃ~と驚いた。
このように「内」と「外」で幾重にも入り組んだ権力闘争と合従連衡のダイナミズム、やっぱり、フィクションでもノンフィクションでも面白いドラマの舞台としてこの時代が選ばれる理由だと思う。