○森浩一『京都の歴史を足元からさぐる・洛東の巻』 学生社 2007.7
法住寺拝観の記事を書いたとき、h.inagakiさんにコメントで教えてもらった本。後白河法皇の御木像の写真だけ立ち読みで確認しようと思ったのだが、面白そうだったので、買ってしまった。そして、ほんとに面白かった。
森浩一先生は「考古学者」という先入観があって、文献史学好きの私は、やや敬遠していたのだが、本書を読むと、そんな狭量が恥ずかしくなる。著者の学問は、考古学と史料を総合し、時代や地域、国境をも柔軟に越え、最終的に「日本文化を考える」実践にたどりついた。その深遠なテーマを「手始めにわが家の近くの東福寺から書きだした」というのが、本書の生まれるきっかけとなっている。
東福寺と塀を接した自宅から、ふらりと散歩に出るような感じで、本書は始まる。すぐ近所には、先だって私も訪ねたばかりの法性寺。法性寺が面している細い道は、伏見街道、あるいは大和に通じているという意味で、大和大路とも呼ばれる。ここで、私は、あらためて地図を見て、この道が、四条通と交差する大和大路の続きであることを知る。古道の原型は平安京以前に遡り、大伴坂上郎女が平城京から賀茂神社に詣でるために通ったのも、この道であろう、という。
こんな具合に、これまで、バス停や観光地を拠点に歩いてきた京の町の記憶、さまざまな知識の断片が、自在に呼び覚まされ、パズルのようにつなぎあわされると、魔法のように、新たな「絵」が見えてくる。さらには、朝鮮半島南西の海域で発見された新安沖沈没船が、「東福寺建立の費用調達のために派遣された節がある」ことが語られ、心は東アジアの海にも飛んでいく。
南に下ると伏見稲荷があるが、稲荷山の山頂にあった社が、現在地に移ったのは足利義教の頃で、平安時代や鎌倉時代の史料を読んだとき、「山麓にある現在の伏見稲荷大社をおもいうかべるようでは歴史はさぐれない」と言われて、ハッとする。駈馬神事で有名な藤森神社の祭神に、『日本書紀』編者の舎人親王が入っていることも知らなかった。東福寺は法性寺が姿を変えたもの、という指摘も面白い。
北に上って、法住寺、蓮華王院(三十三間堂)、六波羅、清水寺、健仁寺、知恩院、平安神宮、南禅寺、銀閣寺あたりまでを本巻は語る。普通の京都ガイド本では取り上げられないような場所が、著者お気に入りの「歴史的スポット」として詳しく語られている場合もある。四条通の仲源寺(目疾地蔵)は、その一例だろう。平安時代の千手観音坐像があるが、日のあるうちはお像をはっきり見ることができないので、日が暮れてから行くべき、というアドバイスは親切だ。しかし、この寺の前身は鴨川のほとりにあった禹王廟だろう(滝川政次郎氏の説)には驚いた。えらい先生って、ほんとにとんでもない発想をするなー。いや、いい意味で。
かと思えば、著者の体験に基づき、冬の晩に、鴨川を歩いて渡っている二人の若い男を見かけて、渡り終えるまで見ていたとか、鴨川ではゴリが捕れる(捕れた)という話も出てくる。直後の段落では、『とわずがたり』の著者、後深草二条が関東下向について記した、旺盛な好奇心と観察力に触れて、「古典を読む現代人は二条の例に限らず古典の作者ぐらいの実地見聞の知識がないかぎり、とても批評などできるものではない」と、厳しい自戒が述べられていた。紙の上だけ眺めていても、史料は読み解けないのである。「自惚と怠慢はえてして現代の研究者のはまりこむ落とし穴である」とか、気楽なエッセイのところどころに、ハタと胸を打たれる金言がしのびこませてある。
私は、「はじめに」に記された、「読者一人一人が自分なりに足元から歴史をさぐることを続けると、日本人に生まれたことの生きがいを噛み締めることになるだろう」という一文がとても好きだ。いま、「日本人に生まれたこと」が好きで好きでしかたないわりには、「足元から歴史をさぐる」ことに関心のない人たちが多すぎるように思う。頭でっかちな妄想「日本史」はやめにして、自分の足元を見直す謙虚さが必要なのではないだろうか。
このシリーズ(全四巻)、他の巻も読みたい。
法住寺拝観の記事を書いたとき、h.inagakiさんにコメントで教えてもらった本。後白河法皇の御木像の写真だけ立ち読みで確認しようと思ったのだが、面白そうだったので、買ってしまった。そして、ほんとに面白かった。
森浩一先生は「考古学者」という先入観があって、文献史学好きの私は、やや敬遠していたのだが、本書を読むと、そんな狭量が恥ずかしくなる。著者の学問は、考古学と史料を総合し、時代や地域、国境をも柔軟に越え、最終的に「日本文化を考える」実践にたどりついた。その深遠なテーマを「手始めにわが家の近くの東福寺から書きだした」というのが、本書の生まれるきっかけとなっている。
東福寺と塀を接した自宅から、ふらりと散歩に出るような感じで、本書は始まる。すぐ近所には、先だって私も訪ねたばかりの法性寺。法性寺が面している細い道は、伏見街道、あるいは大和に通じているという意味で、大和大路とも呼ばれる。ここで、私は、あらためて地図を見て、この道が、四条通と交差する大和大路の続きであることを知る。古道の原型は平安京以前に遡り、大伴坂上郎女が平城京から賀茂神社に詣でるために通ったのも、この道であろう、という。
こんな具合に、これまで、バス停や観光地を拠点に歩いてきた京の町の記憶、さまざまな知識の断片が、自在に呼び覚まされ、パズルのようにつなぎあわされると、魔法のように、新たな「絵」が見えてくる。さらには、朝鮮半島南西の海域で発見された新安沖沈没船が、「東福寺建立の費用調達のために派遣された節がある」ことが語られ、心は東アジアの海にも飛んでいく。
南に下ると伏見稲荷があるが、稲荷山の山頂にあった社が、現在地に移ったのは足利義教の頃で、平安時代や鎌倉時代の史料を読んだとき、「山麓にある現在の伏見稲荷大社をおもいうかべるようでは歴史はさぐれない」と言われて、ハッとする。駈馬神事で有名な藤森神社の祭神に、『日本書紀』編者の舎人親王が入っていることも知らなかった。東福寺は法性寺が姿を変えたもの、という指摘も面白い。
北に上って、法住寺、蓮華王院(三十三間堂)、六波羅、清水寺、健仁寺、知恩院、平安神宮、南禅寺、銀閣寺あたりまでを本巻は語る。普通の京都ガイド本では取り上げられないような場所が、著者お気に入りの「歴史的スポット」として詳しく語られている場合もある。四条通の仲源寺(目疾地蔵)は、その一例だろう。平安時代の千手観音坐像があるが、日のあるうちはお像をはっきり見ることができないので、日が暮れてから行くべき、というアドバイスは親切だ。しかし、この寺の前身は鴨川のほとりにあった禹王廟だろう(滝川政次郎氏の説)には驚いた。えらい先生って、ほんとにとんでもない発想をするなー。いや、いい意味で。
かと思えば、著者の体験に基づき、冬の晩に、鴨川を歩いて渡っている二人の若い男を見かけて、渡り終えるまで見ていたとか、鴨川ではゴリが捕れる(捕れた)という話も出てくる。直後の段落では、『とわずがたり』の著者、後深草二条が関東下向について記した、旺盛な好奇心と観察力に触れて、「古典を読む現代人は二条の例に限らず古典の作者ぐらいの実地見聞の知識がないかぎり、とても批評などできるものではない」と、厳しい自戒が述べられていた。紙の上だけ眺めていても、史料は読み解けないのである。「自惚と怠慢はえてして現代の研究者のはまりこむ落とし穴である」とか、気楽なエッセイのところどころに、ハタと胸を打たれる金言がしのびこませてある。
私は、「はじめに」に記された、「読者一人一人が自分なりに足元から歴史をさぐることを続けると、日本人に生まれたことの生きがいを噛み締めることになるだろう」という一文がとても好きだ。いま、「日本人に生まれたこと」が好きで好きでしかたないわりには、「足元から歴史をさぐる」ことに関心のない人たちが多すぎるように思う。頭でっかちな妄想「日本史」はやめにして、自分の足元を見直す謙虚さが必要なのではないだろうか。
このシリーズ(全四巻)、他の巻も読みたい。