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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

東福寺から始まる/京都の歴史を足元からさぐる・洛東の巻(森浩一)

2012-05-31 00:18:35 | 読んだもの(書籍)
○森浩一『京都の歴史を足元からさぐる・洛東の巻』 学生社 2007.7

 法住寺拝観の記事を書いたとき、h.inagakiさんにコメントで教えてもらった本。後白河法皇の御木像の写真だけ立ち読みで確認しようと思ったのだが、面白そうだったので、買ってしまった。そして、ほんとに面白かった。

 森浩一先生は「考古学者」という先入観があって、文献史学好きの私は、やや敬遠していたのだが、本書を読むと、そんな狭量が恥ずかしくなる。著者の学問は、考古学と史料を総合し、時代や地域、国境をも柔軟に越え、最終的に「日本文化を考える」実践にたどりついた。その深遠なテーマを「手始めにわが家の近くの東福寺から書きだした」というのが、本書の生まれるきっかけとなっている。

 東福寺と塀を接した自宅から、ふらりと散歩に出るような感じで、本書は始まる。すぐ近所には、先だって私も訪ねたばかりの法性寺。法性寺が面している細い道は、伏見街道、あるいは大和に通じているという意味で、大和大路とも呼ばれる。ここで、私は、あらためて地図を見て、この道が、四条通と交差する大和大路の続きであることを知る。古道の原型は平安京以前に遡り、大伴坂上郎女が平城京から賀茂神社に詣でるために通ったのも、この道であろう、という。

 こんな具合に、これまで、バス停や観光地を拠点に歩いてきた京の町の記憶、さまざまな知識の断片が、自在に呼び覚まされ、パズルのようにつなぎあわされると、魔法のように、新たな「絵」が見えてくる。さらには、朝鮮半島南西の海域で発見された新安沖沈没船が、「東福寺建立の費用調達のために派遣された節がある」ことが語られ、心は東アジアの海にも飛んでいく。

 南に下ると伏見稲荷があるが、稲荷山の山頂にあった社が、現在地に移ったのは足利義教の頃で、平安時代や鎌倉時代の史料を読んだとき、「山麓にある現在の伏見稲荷大社をおもいうかべるようでは歴史はさぐれない」と言われて、ハッとする。駈馬神事で有名な藤森神社の祭神に、『日本書紀』編者の舎人親王が入っていることも知らなかった。東福寺は法性寺が姿を変えたもの、という指摘も面白い。

 北に上って、法住寺、蓮華王院(三十三間堂)、六波羅、清水寺、健仁寺、知恩院、平安神宮、南禅寺、銀閣寺あたりまでを本巻は語る。普通の京都ガイド本では取り上げられないような場所が、著者お気に入りの「歴史的スポット」として詳しく語られている場合もある。四条通の仲源寺(目疾地蔵)は、その一例だろう。平安時代の千手観音坐像があるが、日のあるうちはお像をはっきり見ることができないので、日が暮れてから行くべき、というアドバイスは親切だ。しかし、この寺の前身は鴨川のほとりにあった禹王廟だろう(滝川政次郎氏の説)には驚いた。えらい先生って、ほんとにとんでもない発想をするなー。いや、いい意味で。

 かと思えば、著者の体験に基づき、冬の晩に、鴨川を歩いて渡っている二人の若い男を見かけて、渡り終えるまで見ていたとか、鴨川ではゴリが捕れる(捕れた)という話も出てくる。直後の段落では、『とわずがたり』の著者、後深草二条が関東下向について記した、旺盛な好奇心と観察力に触れて、「古典を読む現代人は二条の例に限らず古典の作者ぐらいの実地見聞の知識がないかぎり、とても批評などできるものではない」と、厳しい自戒が述べられていた。紙の上だけ眺めていても、史料は読み解けないのである。「自惚と怠慢はえてして現代の研究者のはまりこむ落とし穴である」とか、気楽なエッセイのところどころに、ハタと胸を打たれる金言がしのびこませてある。

 私は、「はじめに」に記された、「読者一人一人が自分なりに足元から歴史をさぐることを続けると、日本人に生まれたことの生きがいを噛み締めることになるだろう」という一文がとても好きだ。いま、「日本人に生まれたこと」が好きで好きでしかたないわりには、「足元から歴史をさぐる」ことに関心のない人たちが多すぎるように思う。頭でっかちな妄想「日本史」はやめにして、自分の足元を見直す謙虚さが必要なのではないだろうか。

 このシリーズ(全四巻)、他の巻も読みたい。
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大河ドラマ『平清盛』第21回まで

2012-05-28 20:52:01 | 見たもの(Webサイト・TV)
NHK大河ドラマ『平清盛』第21回「保元の乱」(2012年5月27日放送)

 『平清盛』の感想を書くのは、第6回「西海の海賊王」以来だが、毎回欠かさず見ている。今日はちょっと…という出来の回もないではなかったが、おおむね満足。なので、27日「保元の回」の視聴率がワースト記録更新の10.2%だと聞いても、世間の評価と自分の評価は一致しないものだな、と冷静に受け止めた。

 第18回「誕生、後白河帝」から第21回「保元の乱」までは、間然するところなし。いや、もちろん、もうちょっとここで説明を入れてくれたら、このセリフは要らない、みたいな欲はあるのだけど、そんなこと言っても仕方ないではないか。今回は、後白河方の信西と崇徳院方の頼長が、同じ「孫子」を引きながら、夜討の是非に関し、真逆の結論を引き出すところが面白かった。あれ、オリジナルだよね、たぶん。実務家・信西のしたたかさと、現実の見えない学者肌の頼長の差異が際立っていたし、戦闘のプロである武士が、公家の命令に従わなければならない不条理もよく分かった。

 そして、ラストシーンの焼け落ちる白河北殿は、白河法皇の世の終わり、すなわち「院政」という、古代から中世への過渡的な形態の終わりと、戦闘能力が万事を決する「武者の世」の開幕を告げているように思われた。

 私はこの時代の「史実」に詳しいわけではない。ただ、大好きな軍記物語や説話物語、および、比較的古い時代の絵画資料や、考古出土資料を見ることでつちかってきた、平安末期の「イメージ」に、このドラマは、とてもよくフィットすると感じている。『平治物語絵巻』から抜け出してきたような武士の扮装には、胸が躍る。セリフは、もちろん当時のままにするわけにはいかないだろうが、ところどころ、非常に古い言い回しが挟まれるのが嬉しい。昨日も「去(い)ね」って言ってたけど、分かったかなあ、若い視聴者。前回、頼長が「わたくしの才(ざい)」と言ったのも、「財」に聞き間違えられそうだと思った。

 美術はとても頑張っているので、室内のしつらえなどが映ると、ちょっとした小物、屏風の絵柄、頼長の部屋の漢籍(冊子)の積み置き方、時子が大切にしている源氏物語(巻子)の表装なども、気になってしまう。この数回、ドラマの本筋の心理描写だけでも緊張感があるのに、セリフも聴き逃すまい、美術も見落とすまい、と思うので、けっこう疲れる。でも楽しい。

 これまでのところ、どの登場人物もイメージどおりで、キャスティングにハズレがないのも素晴らしい。創作キャラや創作エピソードも、私は、この時代の「イメージ」に寄り添った「遊び」として、だいたい許せている。主人公がダメだという声もあるが、史実/伝統的イメージの清盛が、あまり爽快感のない人物だから、仕方ないのではないか。白河、鳥羽、崇徳、後白河は絶妙だった。歴代の天皇が、エキセントリックに描かれることを不快に思う人々もいるようだが、それは古代の天皇たちに対し、逆に愛と敬意が足りないのではないかと思う。

 昨日の回で、私が特筆しておきたいのは、清盛と忠正の対決シーンで、先に忠正の矢が尽き、清盛がまだ一本を残していたにもかかわらず、その矢を投げ捨て(絶対有利な勝機を捨てて)剣を抜き、忠正に斬りかかるところ。ああいう大事な描写をさらりと済ませてしまうのは、時代考証家その2の先生がおっしゃるごとく、脚本家の方がシャイなせいだろうか。というわけで、今後にも期待。
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「夢」の磁場/巨怪伝(佐野眞一)

2012-05-27 10:00:02 | 読んだもの(書籍)
○佐野眞一『巨怪伝:正力松太郎と影武者たちの一世紀』上・下(文春文庫) 文芸春秋社 2000.5

 正力松太郎(1885-1969)には、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力発電の父という三つの呼び名がある。たぶん私が正力の名前を覚えたのは、「巨人軍は常に紳士たれ」という遺訓(巨人軍憲章)の作者としてではないかと思う。私は、マンガやアニメ『巨人の星』に熱狂した世代なのだ。当時、すでに現実の巨人軍は、正力亨オーナーの時代に入っていたはずで、正力松太郎と長男・亨の区別がついていたか、あやしいものだが、とにかく「正力」という珍しい名字が、巨人軍~読売新聞社~日本テレビと、深い結びつきがあることは、子どもながらに理解していた。しかし、本書を読んで、正力と巨人、読売、日本テレビは、思っていたような「一枚岩」ではないことが分かった。

 本書の正力は、まず、共産主義者検挙に辣腕をふるう警察官僚として現れる。関東大震災においては、「朝鮮人暴動の噂」の流布に積極的に加担する。しかし、1923年(大正12)、摂政宮裕仁親王が狙われた虎ノ門事件の責任を取って、警視庁警務部長を辞職。

 ここから、「名誉回復」に向けた正力の長い闘いが始まる。赤字経営だった読売新聞を、政府の御用新聞に変えるため、失職中だった正力を乗り込ませた人々がいた。正力は、卓抜なアイディアとがむしゃらな行動力で、たちまち大衆の心を掴み、読売新聞の売上部数を急成長させた。

 「卓抜なアイディア」と書いてみたけれど、著者は注意深く「別段、企画の独創性があるわけではなかった」「新聞人というプライドを多少なりとももった者ならば、世間的な批判を恐れて実行を控える類のものばかりだった」と書いている。

 要するに、正力には、新聞はこうあるべきという理想もこだわりも愛情もなかった。なかったからこそ、有能な人材を積極的にスカウトし、彼らのアイディアを「面白い、やれ」のひとことで実行に移すことができた。ただし世間的に、そのアイディアは正力の頭脳が生み出したものとされた。正力のカリスマ神話の影には、「影武者」に甘んじた多くの部下たちがいた。

 全く同じ構造が、日本初の民放テレビの開局にも、プロ野球の誕生にも繰り返される。何のためにテレビジョンが必要か、プロ野球はどうあるべきかを真剣に考える人々が一方にいた。本書は、正力の「影武者たち」の軌跡を丹念に追っていく。正力よりずっと人間的に好ましく、魅力的な人物も多数登場する。しかし、理想や愛情だけで事業は成らない…というのが、面白い、また考えさせられたところだ。正力と、彼の影武者たちの関係を、どちらがどちらを利用したと考えるかは、見方によると思う。

 最も単純な図式は、影武者たちの功績を、正力が「私的欲望」のために横取りしたと考えることである。実際、読売新聞社でも、日本テレビでも、正力と有力社員の間に、激しい軋轢や闘争があったことを、私は本書で初めて知った。巨人軍のスター選手さえも、正力の選挙応援のための「男芸者」扱いされている。

 しかし、正力の「私」が何であったのかも、よく分からない。正力は、最終的に政治家として権力を手にすることを望んだが、あまりにも「我」が強すぎて、選挙民に頭を下げることができず、政治家には向かなかったと言われる。昭和30年、「保守合同」と「原子力の平和利用」を二大公約として富山二区から立候補したというのだから、富山県民もびっくりしただろう。これは日本の将来のための公約だと言ってはばからず、大水で橋が流されて困っているという類の陳情に対しては、「ワシはそういう小さな市町村のために代議士に出たんじゃない」と、けんもほろろだったそうだ。

 旺盛な権力欲に対し、蓄財には不思議なほど無頓着だったことも描かれている。晩年は、仏教世界にのめり込み、数ある事業の中でも「妾」のように金をつぎ込んだよみうりランド内に、霊殿と聖地公園を造営したことも。あ!と思い出したのは、2009年の『道教の美術』展で見た童子形の妙見菩薩像も、もしかしたら正力松太郎に由来したのだろうか。

 個人的な感想だが、私は逗子に住んでいたことがあるので、正力の逗子邸がどのあたりだったのかが気になった(※補記)。それから、ちょうど『陽明文庫名宝展』で、「御堂関白記」を見てきた直後だったので、門外不出だった近衛家の至宝の公開を、昭和4年、東京府美術館の『日本名宝展覧会』で、史上初めて実現させたのが正力である、という下りに、へえ~と思った。万一のことを案じ、展覧会の前後二カ月間は、三人の読売新聞社幹部と正力自身が交替で会場に泊まり込んだともいう。「御堂関白記」も、菊人形も、プロ野球もプロレスも、正力にとっては「人集め」という同一次元にあったのだろうな、と感慨深く思った。

 天性の興行師・正力松太郎の極点が、プロ野球巨人-阪神戦の天覧試合であることは異論を俟たないだろう。そして、長島の天覧ホームランの瞬間をとらえた有名な写真(本書には掲載されていないが、昭和生まれの人間なら、おおかた一度は見たことがあると思う)が、実は「合成」であるという、私にはかなり衝撃的だった事実、さらに貴賓席の天皇の背後に、虎ノ門事件からの長い「因縁」を背負った正力がいたことも、初めて知った。

 「私欲」の塊であるようにも見え、またそうでないようにも見える正力松太郎を、著者は「磁場」にたとえている。さまざまな夢や思惑をかかえた人々が、その周辺に吸い寄せられた。では、そもそも私が本書を読み始めたきっかけである、原子力発電は、誰の夢だったんだろう。新聞業やプロ野球に比べると、そこはいまひとつ、はっきりしない気がした。

※補記。東郷橋(東郷元帥に由来する)のあたりらしい。あまり記憶のないエリアなので、機会があったら、あらためて行ってみよう…。
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京滋日曜散歩・源平の京都を歩く

2012-05-23 01:02:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
三井寺(園城寺)護法善神堂開扉

 土曜の夜に大津入り。日曜はどこへ行こうか調べていたら、三井寺(園城寺)で「千団子祭」が行われており、護法善神立像(重文、平安時代)のご開帳法要があることを知り、朝から出かける。護法善神とは鬼子母神のこと。



 ご朱印をいただきながら、檀家さんらしいお母さんと「どこから来はったの?」「東京から来ました」という会話のあと、「関東は鬼子母神さん多いでしょ。関西は珍しいんですよ」と言われる。ふーん、そうなのか。木像は幕に隠れてよく見えなかったが、餅菓子の飾りや、奉納の伏見人形(若冲の絵そのまま!)が面白かった。

 浜大津に戻る。駅前広場の朝市で売られていた揚げ立ての芋天やあんころ餅が美味そう。あ~次回は、ビジネスホテルの朝食なんかやめて、ここで買い食いしよう。

京都市考古資料館 特別展示『平清盛-院政と京の変革-』(2012年1月28日~6月24日)

 京阪線~地下鉄で京都へ。今出川下車。白峯神宮の崇徳上皇にご挨拶し、堀川通りを渡って、ここを訪ねる。京都市埋蔵文化財研究所に併設された展示施設である。入場無料、しかも展示品は写真撮影OKというのが嬉しい。私は、今年の大河ドラマ『平清盛』の美術・セットは、よく作ってあると思っていて、平氏館に置かれている青磁瓶に、ニヤリとしてしまうのだが、出土している陶磁片を見ると、まだ灰緑色の「青磁」が多い。かと思えば、頼盛邸の出土品に「緑釉黒掻落」の破片が混じっているのを見て、こういう磁器もドラマに出してくれないかなーと思った。

 堀川通りを下ろうと歩き始めたら、何やら人影の多い立派な神社。巨大な鳥居の扁額には「☆(五芒星)」の一文字。晴明神社だった。ええ~いつの間にこうなった!?とびっくりしたが、久しぶりに立ち寄って、ご朱印(ハンコだった)をいただいていく。いつの時代にも流行(はやり)神というのはあったのだから…いいか。

鵺大明神と鵺池

 昭和のたたずまいを残す商店街を眺めながら南下すると、やがて二条城が見えてくる。今回も『平安京探偵団』のコンテンツを参考に、鵺大明神と鵺池を探しにきた。場所は二条城の西北隅の向かいにある二条公園の中。写真は元禄13年建立の鵺池碑(※碑文)。



 二条城の西側(美福通り)を歩くと、民部省跡とか式部省跡などの説明板が建っている。このへんが平安京の内裏だったのかーと初めて認識。迂闊なことに、近世史に興味がないので、あまり二条城周辺に来たことがなかった。さらに歩くコースを考えていたのだが、気がつくともう昼過ぎ。このままでは、京都に来た最大の目的を逃してしまうと思い、二条前で軽い昼食を済ませ、慌ててバスに乗る。

藤井斉成会有鄰館



 21日(月)に仕事で神戸に行かなければならないことになり、直前の週末に何か楽しみはないかなーと思って調べたら、ここが開いていると分かった。よって、二度目の参観。詳しくは別稿とする。

崇徳地蔵(人喰い地蔵)

 藤井有鄰館で東洋美術を堪能したあと、源平史跡めぐりを続ける。東大路通りを北上し、聖護院の塔頭である積善院準提堂にある崇徳地蔵を探しに行く。崇徳地蔵がなまって「人喰い地蔵」と呼ばれたとも。もとは「鴨川の東、春日の末」(現在の京都大学医学部付属病院の敷地)にあった「崇徳天皇廟」旧跡にあったものと『平安京探偵団』に言う。木枠の中に封じ込められたような姿で、じっとこちらを見つめている様子が、少し怖い。



 それから、東大路通りを南下し、疏水のあたりで西に折れる。このへんが、保元の乱で、崇徳上皇・頼長方の拠点となった白河北殿の跡。現在は、風情のある町家ふうの住宅と、昭和のアパートがまぜこぜに建っている。なんか音楽のうるさい、学校ふうの建物があるなあ、と思ったのが京大の熊野寮で、その敷地内に白河北殿址の碑だけはあったらしい。気がつかなかった。

三条東殿遺址

 最後は烏丸御池に出る。新風館という複合商業施設の北西の隅に、三条東殿の碑が建つ。平治物語で藤原信頼・源義朝の軍勢が押し寄せたところ。いま、ボストン美術館から来ている『平治物語絵巻・三条殿夜討の巻』の舞台だ。まぶたに残る凄惨な焼討シーンと、瀟洒なショッピングビルが結びつかなくて、しばし呆然とする。



 本日の散歩はここまでとし、宿泊先の神戸三ノ宮に向かう。ホテルで、ドラマ第20回 「前夜の決断」を見ながら、ああ、もうちょっと先の高松殿遺址と信西邸址まで歩いてみるんだった、と悔やんだが、また次の機会に。

※京都観光Navi:平清盛の京都を歩く
「新旧重ね地図」はけっこう楽しい。観光案内所で貰えるパンフレットもお役立ち。
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中華ドラマ『倚天屠龍記』2009年版、看完了

2012-05-19 13:36:38 | 見たもの(Webサイト・TV)
○『倚天屠龍記』(2009年、中国華誼兄弟電視節目事業有限公司製作)

 金庸原作の古装武侠ドラマ、全40集。1話が4~5分割されて、全編YouTubeにUPされているのを見つけて、正月からダラダラ見ていたが、最近ようやく見終わった。違法コンテンツであることは承知の上。中国語版だが、中国語字幕があるので、だいたい筋を追うことはできる。込み入ったところは、関連サイト(チャンネルNECO)や個人ブログ(温故知新的生活など)で情報を補った。

 舞台は、元代末期(14世紀)の中国。Wiki『倚天屠龍記』(小説)の概要によれば、「それを手にしたものは武林を制覇し、天下に号令することができる」と言い伝えられる、伝説の倚天剣と屠龍刀を巡る争奪戦に巻き込まれて、幼くして両親を失った主人公・張無忌が、邪教とされた明教の教主となって江湖の英雄豪傑を束ね、元朝に立ち向かい、明朝成立へと導く姿を描く…という物語。

 ただし、ドラマは「倚天剣と屠龍刀を巡る争奪戦」にあまり重きを置いていなくて、優柔不断な主人公・張無忌をめぐる、四人の強くて美しいヒロインたちによる争奪戦が見どころ…らしい。万事控えめで一途な小昭(のちにペルシャ総教の教主となって西域に去る)、過激な妹キャラの蛛児(殷離)、ねっとり怖い性格の周芷若(のちに峨嵋派掌門となる)、元朝の奔放な郡主(王女)趙敏(モンゴル名はミンミンテムール)。

 確かに終盤「倚天剣と屠龍刀」の所在が明らかになるのだが、そこにあまりカタルシスはなく、アッサリ片付けられていたように思う。中国のドラマって、壮大な世界観から始まり、多彩なキャラクターがどんどん集まり、いったいどうなるんだろう、と期待させれるのだが、実はその「過程」がいちばんの楽しみどころで、日本人が終盤に期待するような「クライマックス」は、無しに終わってしまうものが多い気がする。まあ古典小説の『水滸伝』や『三国志演義』からしてそんな感じなので、中国人は、あまり不満は感じないのかもしれない。

 また、ドラマの最終回は、移動式パオに揺られて(行き先はモンゴル?)、趙敏とくつろぐ幸せいっぱいの張無忌で終わり、「明朝成立へと導く」姿までは描かれない。確かに、朱元璋はチラリと登場していたし、明朝の武将、徐達と常遇春も、徐アニキ、常アニキとして登場する(最終回では将軍と呼ばれていた)。朱元璋と天下を争った陳友諒は、終盤の重要な悪役だった。私は、このドラマの前に『大明帝国 朱元璋』を見ていたことが、時代背景を理解する助けになった。小説が明朝成立までを描いているとしたら、このあとの二人には、まだ波乱があるのかな。気になる。

 物語では、武当派、少林派、峨嵋派などの武林勢力とともに、明教(マニ教)が一大勢力として登場し、主人公・張無忌は、この教主に任ぜられる。このへんは、どのくらい史実と関わりがあるのかな…。日本・中国に残存するマニ教美術に関心があるので、気になる。あと、2011年夏の中国旅行(安徽・湖北・西安)で、武当山には行ったのだが、合肥で明教寺という史跡を訪ねている。同行した友人に「あれってマニ教と関係あるの?」と聞いたら、「うーん」と考えていたが、どうなのでしょうか。
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土曜日の朝食

2012-05-19 11:32:46 | 日常生活
いろいろ立てこんでいた月~金をなんとか乗り切って、よく眠り、うれしいことに、よく晴れた朝。
掃除、洗濯で身体を馴らし(頭を休ませ)、遅い朝食。



ああ、五月という季節は、この心地よい日差しと風は、天の贈りものだと感じ、
五月はいちばん好きな季節である、と書いていた澁澤龍彦さんのことを思い出す。

以前、贔屓にしていたパン屋さんが店を閉めてしまったが、
最近は別の美味しいパン屋さんを見つけて、通っている。→ここ

この町、好きだなあ。。。と思うのは、こういうお店を見つけた時。
平日は仕事に行ってるし、休日もあまり多くの時間を過ごしているわけではないけれど。

来週の月曜は関西での仕事から始まる。
土日から移動しようかと思ったけど、今日は疲れ休め。
明日の朝は京都です。
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ショック、再び/蕭白ショック!!(千葉市美術館)

2012-05-15 23:37:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
千葉市美術館 『蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち』(2012年4月10日~5月20日)

 前期・後期という表現は使っていないが、5/2以降、ほとんどの作品が入れ替わったので、再び「蕭白ショック」の電撃に撃たれてきた。導入の「蕭白前史」は、ふむふむ、なるほど、蕭白の画風に似ている、などと訳知り顔で見ているのだが、やっぱり本物の蕭白(後期は『李白酔臥図屏風』)がどーんと現れると、全て木端微塵に吹っ飛んでしまう。

 『草子洗小町』(和様の人物)『鷹図押絵貼屏風』(細密)『鳥獣人物図押絵貼屏風』(略画)『唐人物図』(中国の人物)と、蕭白の多面性を見せたあと、『牧童群牛図』で、右隻のデカイ黒牛に驚く。禅の十牛図?と思わせておいて、左隻では、闘牛をしているのに笑ってしまった。『群童遊戯図』は、図録に収録されている写真よりも、背景の銀箔をずっと暗く感じる。高価な銀地屏風に、こんなハナ垂れの悪童どもを描いてよかったのかな。人気のあった作品らしいけれど。

 次室が、第一の山場。三重・朝田寺の『唐獅子図』。これもデカイ。そして、何度見ても愛嬌があって、かわいい。しかし、目はすでに正面の『群仙図屏風』に吸いつけられている。キャプションに云う、「これが蕭白ショック!!だ」。いや、分かるねえ、納得。かつて私は、この作品、気持ち悪くて正視できなかったのだ。2005年、京博の蕭白展を、わざわざ東京から見に行ったときでさえ、まだ及び腰だった。しかし、歳月は人に耐性をつける。今回、私は、ガラスに顔をすり寄せて、この作品を、舐めるように隅から隅まで楽しんだ。

 描かれた八人は、図録の解説によると、右隻は右から、董奉(医術に長けた仙人。中国の武侠ドラマに登場しそうなキモカッコよさがある)、蕭史(笙の名手)、李鉄拐(足が不自由で鉄の杖をつく。全身が、こわれかけのテレビ画像みたいにブレている)、呂洞賓(龍の角にまたがって、颶風とともに出現)。細い線の執拗な繰り返しで描かれた水の描写が、椎茸の軸みたいだ。

 左隻は、福禄寿の福星(無邪気な子どもたちに懐かれているが、絶対、抱き上げたガキを食う気だろう)、寿星(鯉の頭をつかんで盥で洗っている)、劉海蟾(赤い唇)、西王母(年齢不詳の麗人)。仙人たち以上に魅力的なのが、動物たち。蒼ざめたトラ、王者の風格の鳳凰、黄色い鶴(本当にいるの?)と白い鶴。メレンゲでできたような白いガマ。人面アルマジロみたいな珍獣…。最初の生理的拒絶反応が薄れると、しびれたような酩酊感が湧いてきて、いつしかファンになっている。個人的体験でいうと、諸星大二郎のマンガに抱く感じと少し似ている。

 階下へ。三重県立美術館所蔵の旧永島家襖も『竹林七賢図』を除いて、全て入れ替わっていた。鷹に怯えて身を隠すサルとか、呵々大笑するタヌキとか、小動物の描写がかわいい。いよいよクライマックス「蕭白円熟」。『松に孔雀図襖』に驚く。なんだ、この超絶した気品と美しさは。この作品に先に出会って、『群仙図』みたいな作品を後から見たら、ショックだろうなあ。

 〆めは山水図。久しぶりに京博の『山水図押絵貼屏風』を見て、いつも名品が見放題だった京博の常設展示館(工事閉館中)をなつかしく思い出した。同様に、近江神宮蔵『楼閣山水図(月夜山水図)屏風』を見ると、私は琵琶湖文化館(休館中)の、旧式の細長い展示室を思い出す。でもこの『楼閣山水図』、月の光に照らされた静謐な光景だと思っていたが、よく見ると湖上にも陸上にもたくさん人の姿があって、意外とにぎやかな山水図だと気づいた。

 若冲ブームは2000年の京博から始まったと言われているけど、それに匹敵する蕭白ブーム、くるかな? 観客は、前期より後期のほうが多かったように思う。なんとなくオジサンの姿が目立った。うむ、女性より男性に好かれる画家かもしれない、蕭白って。

※前期レポートは、こちら
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海を超える私小説/大陸へ(リービ英雄)

2012-05-14 00:22:58 | 読んだもの(書籍)
○リービ英雄『大陸へ:アメリカと中国の現在を日本語で書く』 岩波書店 2012.4

 副題のとおりの内容。四つの章からなる。I章は、2009年1月20日、バラク・オバマの大統領就任式を取材するため、ワシントンに滞在した2日間の見聞に始まる。著者が中学生だった頃(1963年当時)、まだ有色人種差別の残っていたジョージタウンに住んでいた、母の友人の日系人の思い出。同じ時代を描いた大統領の自伝。3月末、アジア学会のために再びアメリカに渡った著者は、アフリカン・アメリカン研究の創設者、ジョン・ホープ・フランクリンの追悼記事を読み、1941年のエピソードに驚く。学会会場の出版社ブースで見つけた、本格的な中上健次論。そこに、フランクリンの弟子、ヘンリー・ルイス・ゲイツ・Jr.のことばを見つける。…というように、時間と空間、白人の「アメリカ」と有色人種の「アメリカ」、日本のマイノリティ/差別論などが、めまぐるしく、しかし、ひとつひとつ、鉛のような重みをもって交錯する。

 いま、華やかなスポットライトを浴び、世界中の注目を集めているイベント(オバマの大統領就任)の影に、誰も振り返らなかった人々の苦しみの長い歴史があること、それは「アメリカ大陸」という空間を超えて、極東の私たちの島にもつながりを持っていることを考えさせられた。

 こうした文章を「小説」と呼ぶのは奇異かもしれない。でも、これは、日本の近代文学の正統「私小説(心境小説)」のスタイルだと思う。著者は「日本語」と「日本の近代小説のスタイル」という蟷螂の斧で、「中国」そして「アメリカ」という、二つの大陸に立ち向かっているようにも見える。ほかにこういう小説家を知らない私にとって、著者の挑戦は、日本文学に豊かな果実をもたらす試みとして、深く感謝したい。

 II章は、中国、河南省への旅。河南省は、中国の中でも貧しい省として知られている(洛陽とか開封とか、古い都の置かれた地域なので、そう聞いたときは、ちょっと意外だった)。著者は、地元の大学院生夫妻の家を訪ね、60歳に近い母親から、文化大革命当時の話を聞く。

 III章、再びアメリカ。IV章、再び中国、河南省。道端で知り合いになった農民が、「人民の生活が見たい」という著者を炭鉱労働者の家に案内してくれた。その農民の家に戻ってきたとき、テレビにマクドナルドのコマーシャルが流れ、見ていた少年が「要(ヤオ)!/ほしい!」と画面を叩いて叫ぶ。二つの大陸は、はるかな距離を超えて、こうしてメディアの上で火花を散らすように出会っているのだ、と思った。

 最後のタイトルとなっている「天が黒くなる前に(天黒前)」は、「暗くなる前に」の一般的な表現だが、日本語に直訳すると、シンボリックな意味が感じられる。日本語~中国語~英語を自由に往還することで、言語に対する研ぎ澄まされた感覚を味わうことができる。
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清正スーパー伝奇/文楽・八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)

2012-05-12 22:59:46 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 5月文楽公演『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』『契情倭荘子(けいせいやまとぞうし)』(2012年5月12日)

 『八陣守護城』は全く知らない演目で、期待していなかったのだが、めちゃくちゃ面白かった。文化4年(1807)初演。中村魚眼(魚岸)、佐川藤太の合作による全十一段の時代物だという。この二人の作者の名前も初めて聞く。文楽では、2008年に国立文楽劇場(大阪)で、歌舞伎では、2011年初春に松竹座で上演されているが、国立劇場では昭和54年(1979)9月以来の上演。そうだよね、私、記憶にないもの。

 ポスターを見て、加藤清正の話らしいということは分かったが、ほかには一切、予備知識を仕入れる余裕なく、舞台の幕が上がってしまった。舞台は京都。小田家の若君・春若が将軍宣下の勅使を迎えることになり、その準備をととのえる加藤正清と森三左衛門。…加藤正清が加藤清正なのは分かる。小田家の若君は、織田ではなくて、豊臣秀頼のことか。で、森三左衛門って誰?(→姫路藩主として知られる池田三左衛門=池田輝政らしい)

 歌舞伎や文楽で、実在の武将の名前を少し変えて登場させるのは、よくあることだが、さらに実在の(もっと古い時代の)武将の名前に置き換えたキャラが混じっているので、ややこしい。北条時政を名乗って登場するのは、どうやら徳川家康のようだ。しかも、この時政、情のある大ボスかと思ったら、一転、とんでもない奸物だったことが分かる。古典芸能にしては、ええ~というくらい展開がスピーディで、意外性に富む。ま、今回は四段目と八段目の上演で、中抜きをしているからスピーディに感じるところもあるのだろうけど。

 若い男女の初々しい恋、横恋慕する邪魔者。大奸物の野望と、それを阻む忠義の臣。親子の情と君臣の忠義の葛藤。文楽にはめずらしい忍びの者(すぐやられていた)。妖術で登場する鼠、七星剣の霊験(今ならCGを使うところ)。大海原を行く船を、横→正面に向ける大胆な演出。最後は高楼(熊本城の天守閣か)で哄笑する清正公。とにかく見どころ豊富で飽きない。面白い!

 そうか、そもそも史実の加藤清正って、帰国途中の船内で発病し、熊本で死去したのか。そこを逆手にとって、こういう面白いフィクションを組み上げてしまうのだから、江戸時代の脚本ライターの発想力はすごい。公演パンフレットの解説によると、三段目には「日本征服を目論む南天竺の道士との戦い」もあるのだそうだ。うまく脚色したら、大河ドラマとはいわないが、BS時代劇くらいのネタになるんじゃないだろうか。

 5月公演、本当は重鎮の揃う午後の部(傾城反魂香・艶容女舞衣・壇浦兜軍記)が見たかったのである。最近、人気の演目は全くチケットが取れないので、とうとう「あぜくら会」に入会することにした。これで先行チケットが取れる、と思っていたら、週末の午後の部は、あっという間に完売。ああ、住大夫さんも源大夫さんも、久しく聴いてないなー(涙)。しぶしぶ、午前の部を取ったら、こんな面白い演目に当たってラッキーだった。玉女さんとか、まだお若いと思っていたが、ずいぶん頭髪が白くなられたなあ。でも、大夫さんも三味線も人形も次世代がちゃんと育ってきてることが感じられて、たのもしかった。

 折しも、大阪市から財団法人文楽協会への補助金カット問題、およびこれに反対する著名人のメッセージが話題になっている。産経ニュースの記事に「実は文楽、東京の国立劇場公演では22年度実績で8割の入りと、人気が高い。地元では厳しい状況ですが、振興してないとはいい難いです」という一文を見つけた。全くそのとおりで、東京の文楽ファンの実感では、こんなにチケットが取りにくい状況で、「なぜお客が来ないのか」を問われるのは、狐につままれた感がある。

 公演終了後、伝統芸能情報館に立ち寄って、企画展示『琉球王朝の華「組踊と琉球舞踊」~国立劇場おきなわ収蔵資料を中心に~』(2012年2月4日~5月28日)を見てきた(入場無料)。まさに、テンペストの世界! 悲しいほどに美しい色彩。演奏者の正装は、黒朝(クルチョウ/黒い薄手の着物)とハチマチで、琉球国の官人と同じなんだ。古典舞踊を大成した踊奉行の玉城朝薫(1684-1734)という人物がいたことも知る。ああ、組踊、見てみたい。
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立ち上がる空間/KORIN展(根津美術館)

2012-05-11 22:20:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 特別展『KORIN展 国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」』(2012年4月21日~5月20日)

 これを見に行ったのが、大型連休最終日(5/6)。最後は琳派で肩の力を抜いて、連休明けに備えて英気を養おうと思った。最初の展示室に入ると、もうすぐそこ(向かい側の長い壁)に根津美術館蔵の『燕子花図屏風』六曲一双。その隣り(左)に、さらに六曲一双のメトロポリタン美術館蔵『八橋図屏風』。まあ、なんと贅沢な空間だこと。

 はじめは、やっぱり色彩の美しさに目を奪われる。カキツバタの青(藍?紺?群青?…なんて形容するのが正しいのだろう)。さわやかな緑。かがやく黄金色。根津の『燕子花図』のほうが、色がはっきりしている。花を花として描かず、記号として描いている感じ。メトロポリタンの『八橋図』のカキツバタは、もう少し写実的で、細部の形態にこだわっている分、色の印象は弱い。どうやら木橋の表面は濡れており(雨上がりなのかも)、そこに葉の緑が、かすかに滲んだように映っている。

 しかし、光琳の屏風の本当の面白さは、色彩よりも周到に計算された「構成」だと思う。ほぼ同じ背丈のカキツバタの株が、高く低く、厚く薄く、配置された平面が、前後に折り曲げられ、立ち上がることで、おそろしく変化に富んだ空間が現れる。私は、右へ左へ、うろうろしながら(邪魔だったかなあ)屏風の表情の変化を楽しんだ。『八橋図』の画面を幾何学的に横切る橋の存在は、表情の変化を分かりやすくしているが、少し「ネタバレ」の感もある。根津の『燕子花図』のほうが、表情の変化に予測がつかないので、おもしろい。

 ああ、でもこれって、水墨画の山水図屏風の愉しみに似ている、と思った。そうしたら、急にカキツバタの株が、山水画の松の木や岩山に見えてきた。光琳は、山水図の立体的な「構成」の面白さを、草花図で実現しようとしたのではないかしら…。

 展示室2に進むと、私の大好きな『白楽天図屏風』があった。これも立体的な「構成」の意図が強く感じられる作品。平面で見ると、空間がねじれたような奇妙な感覚があるが、屏風を立てた状態だと、ダイナミックでこそあれ、特に違和感はない。抱一筆『青楓朱楓図屏風』は初めて見た。『光琳百図』に図があることから、光琳作品があり、それを抱一が模写したものと考えられるのだそうだ。赤-緑-金-紺という、強烈な色彩の対比を用いながら、品を失わない。ホントに天才だなあ、光琳。

 最後になるが、もらった展示目録リーフレット(PDFファイル)を読んでいたら、「KORIN」展のロゴは、『燕子花図屏風』の光琳の署名「法橋光琳」の漢字パーツを分解し、調整を加えてデザインしたものだという。たとえば「K」は「橋」の木へんを逆さにしたもの。こういうお遊びは大好きだ。

 展示室5は螺鈿。展示室6は「初夏の茶」で、サッパリしたデザインの釜や水指が涼しげだった。今年こそ庭園のカキツバタを見ていこうと思っていたのに、にわかに掻き曇っての土砂降り。幸い、展示を見ている間に、雨があがったので、長居をせずに帰ることにした。
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