見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

大晦日所感2009・よいお年を

2009-12-31 15:04:57 | 日常生活
■「行ったもの」拾遺…行ったけどレポートを書く余裕がなかったもの。覚えている範囲。

東京都美術館『冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展』(後期:2009年11月25日~12月20日)
国立新美術館『THE ハプスブルグ』(2009年9月25日~12月14日)
上野の森美術館『聖地チベット展』(2009年9月19日~2010年1月11日)
江戸東京博物館『いけばな~歴史を彩る日本の美~』(2009年11月23日~2010年1月17日)
サントリー美術館『清方/Kiyokata ノスタルジア―名品でたどる 鏑木清方の美の世界―』展(2009年11月18日~2010年1月11日)
 ※後二者は、つい最近なので、できれば年明けに記事を書きたい。

■「読んでないもの」…読むつもりで買ったけど、挫折したもの。これもいま、拾い出せたもののみ。

金庭『韓国のメディア・コントロール』ブイツーソリューション 2009.5
長谷川一『アトラクションの日常』 河出書房新社 2009.7
前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(学術文庫) 講談社 2007.5
上村忠男『ヴィーコ』(中公新書) 中央公論新社 2009.12
デイヴィッド・ハルバースタム『朝鮮戦争』上 2009.10

■その他、雑感

 今年の初めは、もしかしたら職場が変わって(連動して住まいも変わって)心機一転のスタートを切れるのではないか、という期待があった。それが期待外れに終わって、ずるずると惰性で地を這っているような1年間だった。その憂さを晴らしたいという無意識の衝動か、デジカメ、携帯、ノートPCを買い換え、最後にシステム手帳も買い替えることにした。たぶん9年使ったと思う。展覧会の会場には、いつもこれだけ持って入った。人前で出すのが恥ずかしいくらいボロボロになっていたが、マジックテープの安っぽさが便利で(資料を挟み込んで膨らんでもOK)、なかなか手放せなかったのだ。後継は、革製のちょっと高級品。新しい革の匂いが新春を告げているようで、嬉しい。



 さて、来年こそは「心機一転」の年になるはずである。春とおからざることを信じて、皆様も、よいお年を。
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こういう大人になりたい/黄昏(南伸坊、糸井重里)

2009-12-30 21:23:33 | 読んだもの(書籍)
○南伸坊、糸井重里『黄昏(たそがれ)』 東京糸井重里事務所 2009.10

 南伸坊と糸井重里。いつの間にか還暦を超えた、昔なじみの2人のおじさんが、鎌倉、日光、松島などを小旅行しながら、どうでもいい無駄話に花を咲かせる。まさにそれだけの本。観光地で撮った写真は楽しそうだけど、特にその土地にゆかりのある話題で盛り上がるわけでもない。まして、人生や社会を考える上で有益な情報や警句がちりばめられているわけでもない。ただ漫々然と続く、贅沢な雑談。

 でも、大好きだ、こういう本。どうしたら、こういうおじさんになれるだろうか、と真剣に考える。(おばさんには無理なんだろうか、ということは、ひとまず措いて)いつまでも現役ぶって、社会の役に立とう、と頑張っている人間は駄目だろう。中高年は、正しく人生の「黄昏」を受け入れなければならない。いや、中高年になって心を入れ替えては遅いのかも。子どもの頃から、セミの幼虫探しに熱中し、コウモリを捕まえ、長じては、天狗になったり、聖徳太子になったり、辞書で「にべ」を発見し、眠りたいときに眠り、しょんべんをしながら歩き…まあ、そうした態度で、存分に人生を楽しみながら駈けてこなければ、老年に至って、突然、悟りすましたような真似をしても、何も面白いことはないのだと思う。

 2人とも、もっと年を取って、半分ボケたようになっても、雑談本を出してほしいと思う。また読みたい。10年余りの差をおいて、追いかけて年を取っていく私には、ちょうどよい道標のようなものだ。本書の要約は不可能だが、私が好きなのは、幼稚園の昼寝の時間に現れる天狗の話。「生なまはげ」の話。降る雨と同期する話、など。

※豊富な写真にいやされる→ほぼ日刊イトイ新聞『黄昏(たそがれ)』
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安心から信頼へ/ネット評判社会(山岸俊男)

2009-12-29 23:42:09 | 読んだもの(書籍)
○山岸俊男、吉開範章『ネット評判社会』 NTT出版 2009.10

 立ち読みしていて、やれやれ、学者って、変なことを証明するために、変な実験を考えつくんだなあ、と思って呆れた。あんまり「変」なので、詳しく読みたくなって買ってしまった。

 まず前提である。著者らは「安心」と「信頼」を分けて考える。相手の人間性を見極めた上で、その人に投資したり、お金を貸したりするのは「信頼」関係である。しかし、「信頼」がなくても、私たちは人にお金を貸すことができる。それは、嘘をつけば確実な報復を受ける、いわば「針千本マシン」を相手が装着している場合だ。この状態を「安心」関係と呼ぶ。伝統的なな共同体においては、相互監視(評判の共有)と、裏切り者の集団からの排除が、強力な針千本マシンとして機能してきた。このような集団主義的な秩序に基づく「安心」社会は、個人主義的な「信頼」社会(司法や警察組織の整備、社会的知性の涵養)に比べて、コストがかからないという点ですぐれている。しかし、集団の外部に対して新たな関係を開拓することは困難である。

 では、集団主義的な不正の解決方法は、ネットの上でも有効か否か。著者らは、模擬的なネットオークション市場のプログラムを開発し、参加者の行動を観察・解析してみた。その結果、完全な匿名市場では、詐欺をはたらいた参加者が別IDで再参入できる(集団が閉じられていない)ため、商品の品質がどんどん落ちていくことが観察された。売り手が誰であるか分かる顕名市場や、売り手の評判値を知ることのできる評判市場では、商品の品質は比較的高く保たれた。当たり前の結果のようだけど、「同じ人間の行動でも、どのような社会制度に置かれるかによって大幅に変わってくる」という指摘は、けっこう含蓄するところが深いと思う。

 でも、評価や評判というのは、あればいいというものではない。「適切な評価がなされるためには、適切な評価をすることで、そうした評価をした人間の評価が上昇する必要がある」。そうなんだなー。学生による教員評価とか、部下による上司の評価システムを取り入れている経営者に、ぜひとも読ませたいところだ。また、「いくら評価者が適切な能力をもっていても、その評価が評判の利用者にとって適切な評判を作り出すとは限らない」。具体例をあげれば、ネットで格安ビジネスホテルを探すとき、「部屋が狭い」という理由で星の数が少なくても私はあまり気にならない、というようなことである。

 本書で最も面白いところ(私が本書を買って読もうと決意したところ)は、実は最終章である。「この社会のほとんどの人は信頼できる」と思うかどうかを訊ねた国際調査によると、日本人の信頼水準は、アジアで最低であり、紛争の絶えないアフリカや東欧の国々並みに低いのだそうだ。いやー笑った。そうなんだよな、日本って「信頼」社会でなくて、「安心」社会なんだよな。しかし、「安心社会では信頼が生まれにくい」(裏切られる心配がない→社会的知性が育たない)という著者の指摘は重要である。政府と諸官庁は「安心・安全」の回復を一生懸命めざしているようだが、本当に志すべきは、「信頼」社会なのではなかろうか。

 ちなみに上記の調査で、騙しと偽装が横行し、不信の国と見られている中国は、北欧諸国並みに一般的信頼が高いのだそうだ。著者たちは「この調査結果に大きな衝撃を受け、頭を抱え込んでしまった」って、正直すぎ(笑)。これも上記の裏返しと考えれば、よく分かる。中国社会は、日本に比べれば、ずっと個人主義的で、相互に「信頼」を示し合うことによって、はじめて人と人との「関係」が作られる傾向があるのだと思う。
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どちらを選ぶか/自由と平等の昭和史(坂野潤治)

2009-12-28 23:11:40 | 読んだもの(書籍)
○ 坂野潤治編『自由と平等の昭和史:1930年代の日本政治』(選書メチエ) 講談社 2009.12

 本書は、1930年代の日本政治史を「自由」と「平等」の相克として描こうとしたものだという。一見、常識を混乱させるような見取り図だが、編者の坂野潤治の著作を読んできた者には、おなじみのものだ。片側に「ファシズム」とか「人権蹂躙」とか「未開・野蛮」とか、常識的に「悪」の範疇に属するものをおいて、「自由」「平等」その他もろもろ、われわれが追求すべき、近代市民社会的な「善」を、もう一方の側においた歴史は分かりやすい。しかし、残念ながら、現実は、そうたやすいものではないらしい。「善きもの」どうし、Aを取ればBが成り立たない、ということが、往々にして起こるのである。

 編者は『昭和史の決定的瞬間』(2004)において、「平和」と「改革」は、しばしば両立しないと語り、『未完の明治維新』(2007)においては、「殖産興業(富国)」「外征(強兵)」「議会設立」「憲法制定」という4つの維新の目標が、協調・対立を繰り返した過程を描き出してきた。本書は、『昭和史の決定的瞬間』と同じ1930年代を、「平和と自由」=政治的平等を唱える自由主義者と、「格差是正」=経済的平等を重視する社会主義者の相克として捉えたものだ。編者の論考は、2人の言論人、評論家の馬場恒吾と行政学者の蝋山政道を取り上げる。また、田村裕美は、民政党の2人の政治家、永井柳太郎と斎藤隆夫によって、同じ問題を論ずる。最後に、北村公子は、さらに「革命」というファクターを投げ入れ、学生の左翼運動と、青年将校の反乱、二・二六事件に共通するものを見出していた野上彌生子の視点を分析する。野上の日記は読み得だった。こんな理知的な文章を書く作家だとは知らなかった。

 編者は、「社会の底辺で何が起こっているかに全く無関心な『自由主義者』は、自陣の内側で何をしているかに無関心な『社会主義者』と同程度に嫌いだ」と断りつつも、自分の立場は「『自由』六分に『平等』四分」だと述べている。近代史の見方としては、それで正しいと思うのだけど、いまの日本の建て直しに必要なのは、「自由」四分に「平等」六分の視点なんじゃないかと思う。その点で、蝋山政道や永井柳太郎に学ぶべきことは多い。

 永井は、早稲田大学雄弁会の演説で、産業保護政策とは、関税の障壁を高くするというような「姑息な」手段ではなく、労働者に十分な生活の保障を与えることだと述べている。そうすることで、労働者は、知識と技術を磨き、健全な心身を養い、生産効率を高めることができる。だから、まず労働者に保護の手を差し伸べることが真の産業保護政策だという。なんかなー。著者の田村裕美氏じゃないけど、2009年の日本に、もう一回現れて同じことを訴えてほしいと思う。
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色悪と市民社会/ドン・ジョヴァンニ(オペラ映画フェスティバル2009)

2009-12-26 23:56:37 | 見たもの(Webサイト・TV)
東京都写真美術館 『東京オペラ映画フェスティバル2009~モーツァルト4大オペラ~』(2009年12月5日~12月27日)より

 今年も、写真美術館のシアターで、オペラ映画フェスティバルが開かれている。昨年の「イタリアオペラ名作の森」に続き、今年はモーツァルトの特集(→詳細:楽画会)だ。そうねえ、モーツァルトなら、昔から好きだった「ドン・ジョヴァンニ」だな、と思って観に行った。

 映画は、ジョセフ・ロージー監督、1979年制作。この時代(70年代後半~80年代)って、私の知らないオペラ映画がたくさん作られているんだなあ。ドン・ジョヴァンニ役はルッジェーロ・ライモンディ。この役は、もう少し陽性のイメージがあったので、ちょっと端正で貴族的すぎるんじゃないかと思ったが、演出にはぴたりとハマっていた。終始、白と黒の衣装しか着ないし。背が高く、所作も美しい。「色悪」と評しているブログを見つけたが、なるほどそんな感じ。従者レポレッロは、実は大事な役だということが、映画で観ると、舞台以上によく分かる。ホセ・ファンダムは、ライモンディとは対照的なタイプだけど、歌唱も演技も最高に巧い。

 女性陣では、テレサ・ベルガンサのツェルリーナは、好奇心旺盛なじゃじゃ馬だけど、根は純情な可愛らしさがよく出ていた。ドンナ・エルヴィラはキリ・テ・カナワ。生真面目な感じが役柄に合ってはいたけど、ちょっと婚期を逃した女教師っぽかったな。最後にドン・ジョヴァンニに改心を迫るところは、もう少し女の哀れさと可憐さがにじみ出ていてほしい。

 高校生の頃、はじめて(テレビで)全編を見たときは、ツェルリーナが婚約者のマゼットをハラハラさせた末にめでたく元の鞘に収まることや、だまされっぱなしのドンナ・エルヴィラが、それでもドン・ジョヴァンニを慕い続ける気持ちがよく分からなくて、首をかしげたものだった。やっぱり、これって大人の戯曲だと思う。また、この作品(映画)では、ドン・ジョヴァンニの属する貴族(騎士)階級の時代が終わり、市民の時代が始まろうとしていることが、そこはかとなく告げられていると思う。ドン・ジョヴァンニに影のように従う、終始無言の若い従者(映画オリジナル)の存在も効いている。

 ドン・ジョヴァンニ(バリトン)を地獄に引きずり落とす騎士長(バス)のドラマチックな掛け合いのあと、残されたドンナ・エルヴィラたちが「罪人は去った。報いを受けた」と歌う最後の軽やかな合唱(5人で歌う四重唱?)は、表面的には影のない明るい市民社会の幕開けのように感じられた。でも、耳の中には、ドン・ジョヴァンニの野太いバリトンが、まだ圧倒的な余韻となって、鳴り響いていたのだけれど。

 作品のほとんどはロケ(たぶん)。いやー美しかった。劇場では、絶対に味わうことのできない贅沢である。海(ヴェネツィア)と山(ドン・ジョヴァンニの館のある農村)を行き来し、北イタリアの自然と古建築の引き締まった美しさをふんだんに見せてくれる。

 ひとつだけ、騎士長の石像(亡霊)の描き方はいまいちだなあ。詳細は忘れたが、初めてテレビで見たときの演出は、違和感がなくて感動した。2度目に見たときは、お前はウルトラ大怪獣か!とツッコミたいような下手な演出(扮装)だったので、失笑してしまったことを今でも覚えている。今回は、失笑まではいかないが、あまり感動もできなかった。こういうのは、CGのほうが上手く処理できるんじゃないかと思う。将来に期待したい。
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経済と文化の担い手/江戸の本屋さん(今田洋三)

2009-12-24 23:54:05 | 読んだもの(書籍)
○今田洋三『江戸の本屋さん:近世文化史の側面』(平凡社ライブラリー) 平凡社 2009.11

 近世以前、印刷(プリンティング)という文化現象はあっても、出版業(パブリッシング)はなかった――という説明になるほど、と思った。一般に「出版文化史」は、この二つを一括りに論じてしまうのだけど。では、日本において、経済活動としての出版業(本屋さん)は、どのように成立し、発達したか。あとで参照できるように、ポイントをまとめておくと以下の通り。

■近世初期(17世紀初頭)

 秀吉の朝鮮侵略を機に活字印刷がもたらされ、権力者の保護のもとで数百種に及ぶ開版活動が起こる。印刷部数は少なく、流通層も限られていたが、次第に、士大夫層・豪商に書籍への関心が高まる。

■寛永期(17世紀前半)

 読者の拡大とともに、活字→製版印刷への切り替えが起こり、出版業者が登場する。担い手は京都町衆。(1)仏書→(2)日本古典→(3)漢籍→(4)仮名草子、俳諧書と進む。

■元禄期(17席後半)

 寛文12年(1672)、西廻り海運航路が開かれ、裏日本の物産は海路大坂へ輸送されることになり、京都は平安以来の中央市場としての機能を急速に失っていく。大坂の新興書商が出版した日用教養書や重宝記、万宝記などの簡易百科は、周辺の農村地主商人層にも読者を獲得した。西鶴の浮世草子は元禄のベストセラーとなり、好色本が人気を博した。代表的な出版者に、京都の八文字屋八左衛門がいる。この時期は、出版統制令が相次いで出された。対象は、(1)時事報道、(2)好色本、(3)大名・旗本の先祖に関すること、など。特に江戸が厳しかった。また、書物屋仲間が結成され、版権の保護と自己規制が行われるようになった。

■田沼時代~寛政期(18世紀)

 三都の出版物の合計は、1750年代に爆発的な増大を見せ、寛政期(1780年代以降)には、江戸の出版が上方(京都+大坂)を完全に追い抜く。この時期、注目すべき書商として、須原屋市兵衛と蔦屋重三郎(吉原細見、黄表紙、狂歌本などを手がけた)がいる。

■化政期(19世紀前半)

 老中松平定信の辞職以降も、文化期に至るまで寛政改革の基調は守られ、出版取り締まりも緩められなかった。厳しい抑圧の中、文化の享受層は、かつての上層町人層から中下層の町人・職人層に拡大したが、出版の質は停滞した。その一方、書本を大量にかかえた貸本屋が、庶民の裏道コミュニケーションとして活躍した。

■幕末から明治へ(19世紀後半)

 天保期以後、社会変革期の危機意識の中で、庶民の生活向上、防衛の一環として、読書・学問への欲求が高まる。寺子屋の増加、教科書の商品価値の増大、読売の発達、地方書商の発達など、みな同根である。しかし、明治20年代には、博文館などの新興出版業者によって出版界は席巻され、江戸の本屋たちは知らぬ前に消え、忘れ去られてしまった。

 面白かったのは、西廻り海運の開拓によって出版業の中心地が京都から大坂へ移動したり、幕末の社会変革の予感が学問の需要を高めたり、一見、あまり関係なさそうな社会の動きと出版業の興廃が密接に結びついていること。人物では須原屋市兵衛である。八文字屋と蔦重(蔦屋重三郎)は国文学史で習ったが、啓蒙科学書の開版に積極的に携わった須原屋市兵衛の名前は知らなかった。禁書すれすれの危険を冒しながら(実際に罪にも問われた)、杉田玄白の『解体新書』や平賀源内の『物類品隲』『火浣布略説』、森島中良の『紅毛雑話』などを刊行しているんだからすごい。さらに、一地方知識人・建部清庵の『民間備荒録』を、採算を度外視して出版した話には打たれた。なお、同じ須原屋一門で、「武鑑」の出版にかかわった須原屋茂兵衛についても、一章を設けて、詳しく論じており、こちらも興味深い。

 本書の底本は、1977年の刊行である。巻末解説の著者、鈴木俊幸氏は、大学生当時にこの本を読み、近世の書籍文化史研究の道に進まれたそうで、本書の先進性、革新性を高く評価するとともに、「考察の甘い部分や思い誤り」をきちんと指摘しているのは、気持ちのよい解説だと思った。
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顔真卿特集(書道博物館)と子規庵蕪村忌

2009-12-23 23:53:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
書道博物館 企画展『顔真卿特集』(2009年10月6日~12月23日)

 中国の書家も、いろいろ名前だけは知っているが、このひとの作品が好き、と言える書家は少ない。その中で、顔真卿(709-785)の楷書は、男っぽくて、四角四面で、確実に私好みである。顔真卿の生誕1300年を記念し、顔真卿作品の蒐集に情熱を傾けた中村不折コレクションから30種余りの名品を紹介。顔真卿と言えば、重量感のある楷書だと思っていたが、楷・行・草をまじえた『斐将軍詩』や、軽やかな行書の『与蔡明遠帖』、ふっくらして可愛らしい『麻姑仙壇記(中字本)』など、多面的な作品世界に触れることができた。願書の多様性は、「一碑一面貌」という言葉で表現されるそうである。

 その中でも、すごいなーと思ったのは『祭姪文稿』で、賊軍に殺された甥の霊に捧げられた祭文。怒りと悲しみのため、字の大きさ、筆圧、スピード、楷・行・草が目まぐるしく変化し、よそゆきの碑文には見られない生々しい感情が表現されている。展示は明代の拓本だが、現物は台湾故宮博物院にあり(→画像:日本語解説付き)。同様に『争坐位稿』もいい。上官に取り入り、儀式の席順を犯した人物に対する抗議の書だ。これも怒ってるな~。草稿がぐちゃぐちゃになるほど怒っている。融通のきかない、一徹者の風貌が、とても身近に感じられるとともに、謝罪状ばっかり残した、日本の書の名人、藤原佐理(このひとも好き)を思い合わせて、可笑しくなった。

 さて、展示作品の中で唯一の肉筆が『朱巨川告身』。いや、こんな(言っちゃ悪いが、小さな)区立博物館に、顔真卿の肉筆があるということに驚く。しかも、顔真卿の確たる肉筆楷書作品としては「世界唯一」なのだそうだ。正直なところ、拓本に見るほどの力強さが感じられなくて、あれっと思った。この魅力を解するには、私はまだ眼の修行が必要である。巻頭の乾隆御筆のほうが、平板だけど、ひきつけられてしまう。

子規庵(台東区根岸)

 書道博物館の斜め向かいが、子規庵(正岡子規旧居跡)である。いつも通り過ぎていたのだが、NHKドラマ『坂の上の雲』の縁もあるので、初めて入ってみることにした。中心となるのは、句会の催された八畳の客間と、子規が病臥した六畳の居間。ほかに小さな部屋を使って、『仰臥漫録』原本の写真パネルなどが展示されていた。子規の病床日記『仰臥漫録』の原本は、昭和25年頃から行方不明となっていたが、平成13年5月、子規庵の土蔵から見つかったのだそうだ(→神戸新聞2002/1/30)。こんな色鮮やかな水彩画が添えられているなんて、知らなかった。年譜を見ていたら、「従軍中、鴎外に面会する」という記載があって、先日のドラマの対面シーンはフィクションではなかったんだな、と思う。

 調べていたら、子規と鴎外との交友は日本へ帰ったあとも続き、明治29年の正月には、子規庵での発句初めに鴎外も招かれて参加した、という記述をネットで見つけた(壺齋閑話「子規と鴎外:日清戦争への従軍」)。おお、あの八畳間(復元建築だけど)に鴎外も座ったのか、と思うと、ちょっとわくわくする。いやー漱石も鴎外も、この根岸周辺の道を何度も歩いているんだよなあ、きっと。鴎外は馬で来たのかしら。

 子規庵別棟の展示では、大正6年(子規の死後)の写真に、母の八重、妹の律らとともに、着物姿の秋山好古が写っていた。ドラマの影響か、参観客の姿が絶えないなあ、と思っていたが、もうひとつ理由があって、陰暦12月24日(一説に25日)は、子規が発見した俳人・与謝蕪村の命日にあたるため、この日は恒例として、参観者にココアがふるまわれるのだ。なぜココア?と思ったら、子規が好きだったから…ということらしい。子規庵は明日(12/24)より年末休館。今度は、糸瓜忌の頃に来ようか、鶏頭の咲く頃に来ようか。
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歳末巡礼(2):青蓮院、法住寺

2009-12-22 23:56:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
青蓮院門跡(京都市東山区)

 歳末巡礼2日目(12/20)、いつもの友人2人と落ち合うべく、青蓮院に向かう。一足先に到着した友人から、携帯メールで「予想外の行列」という報告が入る。ええ~?行列って…。開門(9:30)直前、青蓮院に到着すると、確かに、知恩院方向に向かって長い長い列が伸びていた。しかし、国宝『青不動明王二童子像』ご開帳(2009年9月18日~12月20日)は既に3カ月も行われていたはずなのに、この大行列は『近畿三十六不動尊霊場会開創三十周年出開帳』(12月16日~20日)目当てということか。

 状況をよく把握できぬまま、バーゲンセールのような人波に揉まれて、建物の中へ。「近畿三十六不動尊のブースはこちらです!」とお坊さんが誘導している。ブースって…と思ったが、まさにそんな感じ。華頂殿(白書院)から宸殿にかけての各部屋には、三十六不動尊のご本尊(彫像だったり絵画だったり)が据え付けられ、各寺院のお坊さんたちが前に座って、ご朱印を受け付けているのだ。1カ所5分でも3時間はかかるが、兵庫から和歌山まで、6府県にわたる36寺院を巡拝することを思えば、効率のいい出開帳である。というわけで、場内は、押すな押すなの大盛況。コミケもかくやと思われる熱気だった(行ったことないけど)。

 出開帳の途中に、人波がじっと固まっている一区画があり、それが青蓮院の「青不動」ご開帳だった。向かって右には曼殊院の「黄不動」、左には和歌山・高野山明王院の「赤不動」(いずれも模本)。「青不動」は思ったよりも色鮮やか。しかし、遠いなー。三十六不動尊の出開帳がなければ、もうちょっと近くに寄れたのかなあ、と思うと、やや後悔の残る拝観だった。

■法住寺(京都市東山区)

 それから、友人と別れて、三十三間堂に近い法住寺へ。数日前に「後水尾天皇形見の仏像か 東山・法住寺 修理中に発見」(京都新聞2009/12/13)という記事をネットで見たので、20日から28日まで一般公開するという、この仏像が見たくて立ち寄ったのである。拝観をお願い(500円)すると、おじいちゃんがそばについて、古風な不動明王、赤穂四十七士像などを、1対1で解説してくれた。しかし、肝腎の仏像の話には一向に触れないので、「あのう、先日、新聞に出ていた…」と誘いかけてみると、ぽんと額を叩いて「そうでんな。今日からって書いてましたな」とおっしゃって、別の書院に案内してくれた。古風で端正な仏像。阿弥陀如来だろうか。あとからもう1名、男性客が拝観に加わり、「あんたがたが初めてのお客さんだよ」とおっしゃっていただいた。ちょっと嬉しい。

京都大学総合博物館 特別展『日本文化に見た夢 お雇い外国人建築家コンドル先生 重要文化財「ジョサイア・コンドル建築図面」』(2009年12月2日~12月24日)

 最後にもう1カ所。京大工学研究科建築学専攻が所蔵し、2006年6月に歴史資料としてはじめて重要文化財に指定された「ジョサイア・コンドル博士建築図面」を紹介する展覧会。コンドル先生といえば、工部大学校および(東京)帝国大学のお雇い外国人として知られる建築家なので、京大にその建築図面が伝わっているののは不思議だったが、購入品だそうだ。図面に付けられた完成図の水彩画は、絵画としても鑑賞に堪える。図面は残っていても「実際に建てられたか不明」というものが随分あること、また、建てられても、震災、戦災、失火などで失われた作品が多いことを知った。建築って、絵画や工芸に比べて、意外と後世に残りにくい芸術なのだなあ。
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歳末巡礼(1):長谷寺、龍蓋寺(岡寺)

2009-12-21 01:08:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
 年の瀬を前に、年内最後の西国巡礼へ。年末までご開帳の続く大和の三札所(長谷寺、岡寺、壺坂寺)をまわってこようと思ったが、冬季は路線バスの便が極端に少なくなる壺坂寺は断念。まあ2箇所なら余裕だろうと思い、金曜の夜に京都入りする。土曜の朝は早起きして、大和路方面に向かおうとしたところ、乗っていた近鉄急行が人身事故で竹田駅でストップ。せっかちな自分は、地下鉄で京都駅に戻り、JRで奈良に向かう。ところが、この列車も、奈良駅目前、「線路内人立ち入り」のため、15分ほど遅延してしまう。結局、長谷寺駅に到着したのは、11時頃。曇り空を、細かな白いものが舞っていた。

■西国番外 長谷寺開山堂法起院(ほうきいん)(奈良県桜井市)

 長谷寺に向かう道の途中で、番外札所の法起院に寄り、ご朱印をいただく。小さなお寺だが、西国三十三観音霊場の創始者である徳道上人(長谷寺の開基でもある)が晩年隠棲したと伝える由緒あるお寺である。

■西国第八番 豊山長谷寺(奈良県桜井市)

 法起院から、もうしばらく歩くと長谷寺。わりと最近、来た記憶があるのだが、いつ以来だっけ? それと、私の実家は「真言宗豊山派」なので、長谷寺は総本山なのだ。今回のご開帳では、ご本尊のおみ足に触れて、ご縁を結ぶことができるという。本堂の横、「特別拝観」の看板の出ている入口から入ると、短い廊下を経て、納戸のような狭い空間の戸口が現れる。目の前には、金の裳裾からのぞく、大きなおみ足。え?と思って上を見ると、頭上には、錫杖を握り、水瓶を握った観音様の両手。さらに上方には、あごの下から見上げたお顔がある。そうか、ここはご本尊のお厨子の中なのだ…。

 案内のお坊さんに促されて、両のおみ足に触れて、礼拝する。お坊さんは「こういうかたちのご開帳は初めてです」とおっしゃっていたけれど、それにしては、観音様のおみ足が、つるつると黒光りしていたなあ。厨子の内壁には、四天王と三十三応現身の色絵。ご本尊の背後には円形の掛仏。お坊さんにお加持をしていただき、厨子の外側をひとまわりする。厨子の背面には、阿弥陀来迎図が描かれ、金身の十一面観音が祀られていた。お厨子の脇には薬師如来と十二神将。

 本堂の正面にまわり、もう一度、ご本尊を拝する。適度に古色を帯びた巨像で、鈍い金色が美しい。左右に開け放たれた扉に、彩色の小さな彫像が多数並んでいる(三十三応現身だそうだ)。豪奢で沈鬱な印象が、冬の曇り空に似合いで、どこかカトリックの教会を思わせる。

■西国第七番 東光山龍蓋寺(岡寺)(奈良県高市郡)

 長谷寺→橿原神宮前駅へ移動。冬季は1時間に1本のバスをつかまえ、岡寺に向かう。飛鳥は大好きなんだけど、今日はバスの車窓から眺めるだけ。岡寺のご本尊は如意輪観音だが、一般に「美人」の多い如意輪観音にしては、逞しく男性的である。視線が上向きのせいで、正面から見ると、ぼんやりした印象だが、内陣の右脇に小窓があって、ここから横顔を拝見すると、なかなか、りりしい好男子に見える。

唐招提寺(奈良市五条町)

 これで本日の予定は終了だが、忙しく時間を計算し、まだ1カ所寄れる!という結論に。帰り道の西の京で下車して、唐招提寺に寄ることにした。10年にわたる金堂平成大修理が終わり、11月1日に落慶法要が行われたはずである。夕暮れの迫る山門をくぐると、正面には「天平の甍」をいただいた金堂の姿。あまりにも見慣れた光景に思えたけど、これって10年ぶりなのかなあ。少なくとも、昨年2008年2月に来たときは、この金堂の位置に、大きな覆い屋が建っていたのであるが…。ゆっくり近づいていくと、3つの窓から、かすかに中が見える。左端、そこはかとなく金色に輝いているのは、千手観音である。中央は毘盧遮那仏。そして、右端の薬師如来は、2001年1月から2006年7月まで、奈良博に預けられていた。奈良博の本館では、ずいぶん巨大に感じられたのに、ここに戻ってくると、全然大きい感じがしない。隣りの2体が破格に大きすぎるためである。

 それにしても、『壊れても仏像』の飯泉太子宗さんは、仏像を動かすときは気をつかう、と書いていらしたが、空調の管理された博物館から、屋外同然(天井があるだけ)の金堂に戻ってきて、大丈夫なのかな、と気にかかる。境内に建てられた修理所で修復の間に、少しずつ慣らしているのかしら。プレハブみたいな修理所は境内の隅にまだそのまま残されていたが、そのほかは、ほぼ10年前の風景に戻っている。10年なんて、このお寺が過ごしてきた歳月に比べたら、ほんのわずかのブレイクに過ぎないのだな、と感慨にふける。
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口ごもる人々/戦後日本の大衆文化史1945~1980年(鶴見俊輔)

2009-12-17 23:57:43 | 読んだもの(書籍)
○鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史1945~1980年』(岩波現代文庫) 岩波書店 2001.4

 今年は『1968』や『戦後日本スタディーズ』で、べ平連の活動について知ることが多かったので、あらためて鶴見俊輔を読んでみようと思った。本書は、カナダのマッギル大学で著者が1980年1月から3月にかけておこなった講義を底本にしたものである。

 冒頭の2編は、連合国(実質的には米国)による占領(1945-1952)が、日本に与えた影響について論ずる。初編は、占領軍の対日政策をおおまかに追いながら、戦前と戦後の日本で、変ったものと変わらなかったものを拾い出す。占領は、日本人の風俗、ライフスタイル、とくに男女のつきあい方を大きく変えた、と著者はいう(ほんとかな?)。けれども、米国政府が日本に植えつけようとした「新しい正義の感覚」は、敗戦国民として公然と批判することはないとしても「心から受け入れるというふうであったかどうかは疑わしい」という。良し悪しは別として、そうだろうな、と思う。

 第2編では、この「正義の感覚」の問題を、戦争裁判にしぼって論じる。「戦争裁判は、避けることのできない自然の災害であるかのように受け入れられました」(ただし)「裁判官たちが主張した正義の基準がそのまま正義の基準として日本国民に受け入れられたということではありません」というのは、身もフタもない表現だが、真実を穿っていると思う。受け入れがたい事象を「自然の災害」として受け入れるというのは、日本人の習い性である。「災害」に襲われた人々は、不運であったかもしれない。愚かであったかもしれない。その曖昧な庶民の感情を、著者は取り出そうとしている。でも、講義を聞いたカナダの大学生たちは、どこまで理解できたかしら。

 そのあとは、戦後日本の個別風俗に立ち入り、「漫画」「寄席」「大河ドラマ」「連続テレビ小説」「紅白歌合戦」「流行歌」などが取り上げられている。江戸、戦前から占領期を経て、もはや懐かしい80年代、ピンクレディー、「がきデカ」までが入り乱れて登場する。

 心に残ったのは、漫画「サザエさん」の分析。「サザエさん」は、戦前の軍国主義を否定し、平均的な人間の生活を愛しており、岸総理に対する大衆の抗議運動や公害反対運動には共感を抱いている。それは、過激な革命運動への共感ではないけれど、「市民運動から遠い市民もまたただの無関心の中にいるのではなく、ある種の理想に支えられていることを」示していると著者はいう。ポスト60年代の市民運動の停滞の中で、市民運動の理想がどこに行ってしまったのかを考える上で、興味深い指摘である。

 本書は、鷲田清一さんの解説に言うとおり、明晰な異議のことばも持たず、「でも」と口ごもるだけの、無名の人々(大衆)の口もとに、じっと視線を合わせたような労作である。スッキリ割り切れないところはもどかしい。でも、このもどかしさにつきあうことが、確かに大切なのだ。
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