〇神田由築『江戸の浄瑠璃文化』(日本史リブレット 91) 山川出版社 2009.8
新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言の解除が決まって、よし!と思ったのに、国立文楽劇場(大阪)の夏休み文楽特別公演、国立劇場(東京)の8月文楽公演がどちらも中止と発表されて、へたりこんでいる。次は11月の大阪と12月の東京まで待たなければならないのか…。
そんな現実から逃避する意味も込めて読んでみた本書は、近世後期の浄瑠璃文化の諸相を紹介したもの。主人公として登場するのは六代目染太夫(1791-1855)という浄瑠璃太夫である。師匠の五代目染太夫(越前大掾)は「近世後期を代表する太夫の一人」だそうだが、六代目の芸はそれほど評価されていない。しかし「染太夫一代記(金屋新兵衛一代記)」という日記を残しており、近世後期の浄瑠璃をとりまく状況を知るための格好の資料となっている。本書には、何度か原文が引用されているが、浄瑠璃のリズム感を思わせる文体で、とても親しみやすく、理解しやすい。
染太夫は大坂生まれだが、師匠のお供で江戸に下り、足かけ六年(文政~天保)江戸に滞在して芸を磨き、太夫として独り立ちする。そのため彼の日記からは、江戸(東都)における浄瑠璃文化の隆盛ぶりがうかがえる。浄瑠璃といえば文楽、文楽といえば大坂文化だと思ってきた私には、意外な情報がたくさんあって面白かった。
江戸の浄瑠璃の特徴のひとつは女義太夫だという。明治初期の東京で女義太夫が流行ったことは知っていたが、もっと古いんだな。それにしても、町家の娘たちを五、七人ずつ集め浄瑠璃を語らせ、席料を取るとか、女太夫の家に大勢のファンが押しかけ、寝泊まりして宿屋のようになっているとか、現代のアイドルビジネスを彷彿とするところがある。なかには売女同様の働きをしている者もいるというので、男女問わず寄席での浄瑠璃興行が禁止される事態になった。
そこで染太夫は、巡業を兼ねた日光参詣を思い立つ。道中で舞台に立つ機会を得るには、土地の「旦那」「顔役」「通り者」などを訪ねて世話になり、時には先々への紹介状を書いてもらう。また宿場の女郎屋が旅する芸能者の後援者となり、席を設けることも多かった。時には格上の男太夫や女太夫とかちあってしまうこともあった。こういうときに芸能者どうしを調整するのも顔役の役割である。なお、染太夫は丹後や阿波など西国巡業を経験しているが、西国では、そのときの一座とは別に、特別にスター級の太夫を抱える仕組みがあって、これを「追抱(おいだき)」と言った。
さて江戸に戻って、天保12年(1841)天保の改革が浄瑠璃渡世の芸能者に大きな衝撃を与える。興行できるのは、神道講釈・心学・軍書講談・昔咄の4つのジャンルに限られたって、悪い冗談としか思えない。まあしかし、「忠孝昔物語」という正体不明の看板を掲げて、実は浄瑠璃を語っていたなどというのは、「上有政策、下有対策」みたいで大変よい。また、通しでなく「みどり(見取り)」という上演形式が人気を博したのも改革以降であるそうだ。
天保の改革によって江戸市中の寄席は減少し、操座(操り芝居小屋)は経営困難に追い込まれる。操座は市中での興行を願い出るが、町奉行所の隠密廻り同心は「寺社地で興行をさせてはどうか」と提言をまとめている。しかし寺社地は香具師が興行権を握っていた。結局、操座は寺社境内で興行することになるが、かつて香具芝居との差異を誇った権威の象徴「櫓」を掲げることは認められなかった。そうか、櫓にそんな大事な意味があるとは知らなかった。これから舞台や絵画資料を見るときは注意しよう。
江戸の浄瑠璃の特徴が寄席と女義太夫なら、大坂は素人浄瑠璃に特徴があった。片方に玄人すなわち専業の芸能者(≒因講の成員)が居り、片方に、さまざまな職分を持つかたわら浄瑠璃を楽しむ素人集団がいた。そして、義太夫節は、清元節や常磐津節と違って世襲制や家元制を取らなかったので、職人や商人の息子が素人浄瑠璃の舞台を踏んだのち、やがて専業の太夫となって大きな名跡を継ぐこともあったという。風通しのよい芸能だなあと思う。
専業者が素人浄瑠璃の大会に出るときは仇名を使用したこと、大坂市中の人口の3%(約3万人)が素人浄瑠璃を語っていたこと、「素人浄瑠璃評判記」における「黒人請(玄人受)」や「楽屋受」の対極にある「太郎受(大衆受け)」という評語の分析も面白かった。
素人浄瑠璃の盛行が多くの関連出版物を生み出したという話は、どこかで読んだか聞いたことがある、ぼんやりした記憶があった。探してみたが、2006年に東京大学美術博物館(駒場)で行われた「黒木文庫」展で聴いた、ロバート・キャンベル先生のギャラリートークではないかと思う。なつかしい。