○井上義和『日本主義と東京大学:昭和期学生思想運動の系譜』(パルマケイア叢書23) 柏書房 2008.7
1ヶ月ほど前、紀伊国屋書店の新宿セミナーを聴きに行った。佐藤優氏と竹内洋氏による、『いま、あらためて<日本主義>を問う-蓑田胸喜的なるものと現代-』と題したトークイベントである。会場ロビーに設けられた、関連図書の販売コーナーを冷やかしていて、本書が目に留まった。初めて見る本だったので、いつ出たんだろう、と思ったら、まだ発行日前の新刊だった。すぐに購入してしまった。
「日本主義」という言葉は、「民族主義」や「国家主義」ほど明確な概念が定着していない(Wikiにも項目がない)ようだが、本書では、1930年代及びその前後、日本国内を席巻した、反近代主義的イデオロギーをいう。おおよそ「右翼思想」としてイメージされるものに等しい。もう少し、著者の言葉を借りて敷衍すれば、具体的・現実的な問題の対処にあたり、「日本歴史や日本思想史に素材を求め国体論的な観点から編集された知・情・意のセット」すなわち「日本主義的教養」から、価値判断や論理展開を引き出そうとする態度のことである。
日本主義は、キリスト教やマルクス主義と異なり、唯一無二の解釈権を主張する教会や党が存在しなかったため、さまざまな思想的立場が並存可能だった。――という、冒頭の著者の指摘を読んでも、私は、ふーん?と思っただけだった。このことの重要性は、本書を最後まで読み通したとき、初めて実感される仕掛けになっている。
昭和13年(1938)、東京帝国大学法学部の小田村寅二郎という学生が、矢部貞治教授の政治学の期末試験で、答案の代わりに詳細な質問状を提出した。講義の内容が西欧的な民主主義に偏り、日本の国体との関係が明らかでない、という批判である。これを発端に、矢部と小田村の間で、手紙による議論が交わされ、矢部が譲歩したかたちで決着する。
その後、小田村が法学部の現状批判と改革提言を雑誌に発表したことから、事件は大きくなり、小田村は無期停学処分を受ける(小田村事件)。田中耕太郎法学部長らは、小田村の背後に、原理日本の蓑田胸喜、あるいは経済学部の土方成美などの示唆を疑った。しかし、それは根拠のない陰謀史観であって、このとき「蓑田的なるもの=日本主義」は、全く独立に、同時的に噴出していたのである。
その後、小田村は、さまざまな学生運動団体を立ち上げ(東大精神科学研究会→東大文化科学研究会→日本学生協会→精神科学研究所)、日本主義(右翼)的な学生思想運動は全国に展開する。しかし、これらの運動は、近衛内閣の新体制運動(1940~)のもと、当局の「危険視」するところとなり、検挙・解散を命じられる。え?戦時体制下で「右翼」学生運動が危険視?というのは、頭の単純な人間には、理解を超えた事態である。しかし、本当のことだ。
ここで著者は、昭和10年代の政治過程において、「革新右翼」と「観念右翼」の対立が顕在化していたことを指摘する。この対比表(175頁)があまりにも面白かったので、そのまま書き抜いておきたい。
この表を眺めていると、いろんなことが分かってくる。高度国防国家の建設を目指した近衛内閣の新体制運動=大政翼賛会の側には、革新官僚とともに、無産政党や国家社会主義者が集結している。これに対して、「日本ファシズム」の批判勢力となり得たのは、伝統的な観念右翼のグループだったのである。この現象を、本書とは逆に「左翼」の側から記述したのが、坂野潤治氏の『昭和史の決定的瞬間』ではないかと思う。同書を読んだときも、戦時体制目前に社会大衆党が議席を増やしていることを奇異に感じたが、それは、左翼/右翼という戦後常識的な対立軸に、目を塞がれてしまうせいだと分かってきた。
小田村の盟友、田所廣泰は、軍の強力な指導による政治体制を、「幕府」の再来という言葉で非難している。なるほど、昭和10年代の軍の暴走は、幕府化の兆候だったのか。1930年代を考える上で、非常に示唆の多い1冊である。なお余談であるが、小田村寅二郎や日本学生協会の著作って、本拠であった東大の図書館に、意外と入っていないんだなあ、ということを確認してしまった。なぜ?
1ヶ月ほど前、紀伊国屋書店の新宿セミナーを聴きに行った。佐藤優氏と竹内洋氏による、『いま、あらためて<日本主義>を問う-蓑田胸喜的なるものと現代-』と題したトークイベントである。会場ロビーに設けられた、関連図書の販売コーナーを冷やかしていて、本書が目に留まった。初めて見る本だったので、いつ出たんだろう、と思ったら、まだ発行日前の新刊だった。すぐに購入してしまった。
「日本主義」という言葉は、「民族主義」や「国家主義」ほど明確な概念が定着していない(Wikiにも項目がない)ようだが、本書では、1930年代及びその前後、日本国内を席巻した、反近代主義的イデオロギーをいう。おおよそ「右翼思想」としてイメージされるものに等しい。もう少し、著者の言葉を借りて敷衍すれば、具体的・現実的な問題の対処にあたり、「日本歴史や日本思想史に素材を求め国体論的な観点から編集された知・情・意のセット」すなわち「日本主義的教養」から、価値判断や論理展開を引き出そうとする態度のことである。
日本主義は、キリスト教やマルクス主義と異なり、唯一無二の解釈権を主張する教会や党が存在しなかったため、さまざまな思想的立場が並存可能だった。――という、冒頭の著者の指摘を読んでも、私は、ふーん?と思っただけだった。このことの重要性は、本書を最後まで読み通したとき、初めて実感される仕掛けになっている。
昭和13年(1938)、東京帝国大学法学部の小田村寅二郎という学生が、矢部貞治教授の政治学の期末試験で、答案の代わりに詳細な質問状を提出した。講義の内容が西欧的な民主主義に偏り、日本の国体との関係が明らかでない、という批判である。これを発端に、矢部と小田村の間で、手紙による議論が交わされ、矢部が譲歩したかたちで決着する。
その後、小田村が法学部の現状批判と改革提言を雑誌に発表したことから、事件は大きくなり、小田村は無期停学処分を受ける(小田村事件)。田中耕太郎法学部長らは、小田村の背後に、原理日本の蓑田胸喜、あるいは経済学部の土方成美などの示唆を疑った。しかし、それは根拠のない陰謀史観であって、このとき「蓑田的なるもの=日本主義」は、全く独立に、同時的に噴出していたのである。
その後、小田村は、さまざまな学生運動団体を立ち上げ(東大精神科学研究会→東大文化科学研究会→日本学生協会→精神科学研究所)、日本主義(右翼)的な学生思想運動は全国に展開する。しかし、これらの運動は、近衛内閣の新体制運動(1940~)のもと、当局の「危険視」するところとなり、検挙・解散を命じられる。え?戦時体制下で「右翼」学生運動が危険視?というのは、頭の単純な人間には、理解を超えた事態である。しかし、本当のことだ。
ここで著者は、昭和10年代の政治過程において、「革新右翼」と「観念右翼」の対立が顕在化していたことを指摘する。この対比表(175頁)があまりにも面白かったので、そのまま書き抜いておきたい。
革新右翼 | 観念右翼 |
国家改造 高度国防国家 解釈改憲 指導者原理 統制経済 親ソ・親独 世界史的な使命 |
国体明徴 国民精神総動員 護憲(不磨の大典) 臣道実践 資本制擁護 反共・反独裁 日本史的な道統 |
陸軍統制派 革新官僚 無産政党 国家社会主義者 |
陸軍皇道派 財界 既成政党(現状維持派) 自由主義者 |
この表を眺めていると、いろんなことが分かってくる。高度国防国家の建設を目指した近衛内閣の新体制運動=大政翼賛会の側には、革新官僚とともに、無産政党や国家社会主義者が集結している。これに対して、「日本ファシズム」の批判勢力となり得たのは、伝統的な観念右翼のグループだったのである。この現象を、本書とは逆に「左翼」の側から記述したのが、坂野潤治氏の『昭和史の決定的瞬間』ではないかと思う。同書を読んだときも、戦時体制目前に社会大衆党が議席を増やしていることを奇異に感じたが、それは、左翼/右翼という戦後常識的な対立軸に、目を塞がれてしまうせいだと分かってきた。
小田村の盟友、田所廣泰は、軍の強力な指導による政治体制を、「幕府」の再来という言葉で非難している。なるほど、昭和10年代の軍の暴走は、幕府化の兆候だったのか。1930年代を考える上で、非常に示唆の多い1冊である。なお余談であるが、小田村寅二郎や日本学生協会の著作って、本拠であった東大の図書館に、意外と入っていないんだなあ、ということを確認してしまった。なぜ?