見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

ブルーバックスのマグカップ

2021-12-31 09:47:26 | 日常生活

講談社ブルーバックスのクラウドファンディングでGETしたマグカップが、クリスマスにちょっと遅れて届いた。Starbucksならぬ、Bluebacksのロゴ。安定感のある厚手のカップなので、来年4月以降の職場(また変わるかも?)で使おうかなと思っている。

よく見ると、表と裏で、微妙にロゴが違う。

ブルーバックスをよく読んでいたのは、高校生の頃。私は理系志望クラスだったのである。物理学の都筑卓司さんが好きだったなあ。

ついでに、いま使っているマグカップを並べてみた。

左端は北海道を離れるときに貰った北大オリジナルグッズ。安定感があるので、カトラリー立てになっている。隣りは若冲の『玄圃瑤華』モチーフで、2016年の生誕300年記念若冲展のグッズ。その隣りは、つくば時代に100円か300円均一で買ったもの。ちょっと縁が欠けてしまったのに、捨てられなくてまだ使っている。ふだんはあまり意識しないが、身の回りの品に少しずつ思い出がある。

いろいろあったこの1年も大晦日。新年が、いい年になりますように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界の目から/検証コロナと五輪(吉見俊哉)

2021-12-30 20:35:15 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉編著『検証 コロナと五輪:変われぬ日本の失敗連鎖』(河出新書) 河出書房新社 2021.12

 本書は、東京五輪をめぐる全体状況を編者が論じたあと、若手研究者チームが国内外のメディア言説を分析する構成になっている。編者を代表とする科研費研究「プレ-ポストオリンピック期東京における世界創造都市の積層と接続に関する比較社会学」の一環として企画されたものだという。

 編者の執筆部分は、2020年4月刊行の『五輪と戦後』、2021年6月刊行の『東京復興ならず』の問題意識を引き継ぎ、補完するものだ。2005年夏、石原都知事は、近隣諸国への敵愾心と国威発揚の欲望から、「お祭り」としての東京五輪構想を立ち上げた。その淵源には、90年代に計画された世界都市博が中止となり、湾岸部の開発が「塩漬け」になっていた事情がある。

 2000年代、都心部(丸の内、汐留、大崎など)の再開発は進んだが、これで潤うのは民間大企業だけで、東京都にとっては湾岸部の基盤整備が何としても必要だった。そこで当初の東京五輪構想は、主要な会場を湾岸部に想定していた。もし、当初のザハ・ハディド案の競技場が湾岸にできていたら、海からの新たなランドマークとして評価を受けていたのではないか、という想像には、ちょっと心を動かされた。しかし、やがて多様な思惑を持つステークホルダーが相乗りになると、神宮外苑の「レガシー」重視の声が大きくなり、湾岸五輪の構想は潰えていく。

 震災直後に五輪に立候補するにあたり、安易に使われ始めた「復興五輪」も、被災地・東北と東京の分断を明らかにしただけだった。本書第3章には、2020年の「コロナ来襲」以降、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証し」という新たなお題目が掲げられると、新聞各紙の「復興五輪」への言及が激減した実態が示されている。

 コロナ禍での五輪は、人々の心をひとつにすることはなく、むしろ明らかに「分断」を深めた。五輪を開催するか否かという問題は、与党と野党の政治的対立に巻き込まれていく。大手新聞社は、五輪のスポンサー契約を結んでいる立場から、明確な中止の提言には二の足を踏んでいたが、開催賛成派(産経、読売)、慎重派(朝日、東京)は、それぞれ自社の主張を補強する専門家・有識者を選んで活用した。この「専門知のキャスティング」問題には、今後も注意を払わなければならないと思う。

 私が最も興味深く読んだのは、第5章「海外はどう見たか」で、欧米、韓国、中国の主要メディアによる五輪報道が分析されている。アメリカ、イギリス、ドイツの有力紙や雑誌では、五輪やIOC、そして開催国日本の対応を問題視する記事が目立った。特に批判の矛先はIOCに向いており、英国『ガーディアン』紙には「IOCは解散し、その資産を民主的に構成された新しいグローバルスポーツ組織に受け渡すべきだ」という専門家の意見記事も掲載された。

 韓国では、東京五輪の退屈な開会式に失望するとともに、「文化面において過去に日本に憧れた私たちが、今や日本を追い越した」という、ある種の優越感を表明する記事が目立ったという。どうしてこう両国民とも優劣を競いたがるかなあと苦笑したが、文化芸術面で韓国に勢いがあるのは事実だと思う。中国では、批判はあまり目立たず、好意的な評価が主流だった。日本国内での分裂・分断も伝えられていたが、北京冬季五輪に向けて、五輪という「夢」を損なうまいという中国当局の意思が働いたのだろう。しかし『環球日報』には、上海外国語大学の教授が「東京五輪はチャンスから鶏肋(たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの)に」という評論を書いているそうで、比喩が的確すぎて笑ってしまった。鶏肋、出典は『後漢書』楊修伝である。チャンス=機会 jihui と鶏肋 jilei の音も近い。

  とにかく五輪は終わり、人々は全てなかったような顔をしているが、巨大な負の遺産に向き合わなければならないのはこれからである。2021年東京五輪の挫折は、コロナ禍だけによってもたらされたものではなく、それ以前からあったいくつもの矛盾やごまかし、ビジョンの欠如に依ることはきちんと総括しなければならないだろう。そして、近代オリンピックを継続する意味があるのか?という本格的な問い直しも必要だ。札幌五輪の夢に浮かれている場合ではないのである。

※参考:東京五輪とはいったい何だったのか?(Web河出 2021/12/21):とりあえず「戦後日本の『お祭りドクトリン』」の冒頭を読むと絶望を感じる。この国の政治には、万博とオリンピックしかないのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい変化像/観音像とは何か(君島彩子)

2021-12-29 21:14:00 | 読んだもの(書籍)

〇君島彩子『観音像とは何か:平和モニュメントの近・現代』 青弓社 2021.10

 本書は、新しい信仰対象である「平和を象徴する観音像」の誕生とその展開を明らかにするものである。我が国では、特にアジア太平洋戦争(第二次世界大戦)後に、戦没者の慰霊と平和祈念のために多くの観音像が発願された。ただし本書はさらに歴史を遡り、長い歴史を持つ観音信仰と観音像が、近代の始まりとともに、どのような変化を迎えたかから語り始める。

 明治期には、近世までの庶民的な仏教信仰は薄まり、「哲学」としての仏教と、「美術」として仏像を見る意識が強固になった。日本で美術概念が形成される過渡期の明治20(1887)年前後、美術の主題として観音像が流行した。代表的な絵画作品に狩野芳崖の『慈母観音』(1888年)と原田直次郎の『騎龍観音』(1890年)がある。

 1889年には東京美術学校の彫刻科が開校して美術史教育が始まり、明治中期以降には、飛鳥・白鳳・天平期の仏像が西洋の古典彫刻に対応する「規範」となった。飛鳥・白鳳・天平期が称揚されたのは、近代的な天皇制国家が成立する中で、聖徳太子をはじめ、天皇や皇族が強く仏教に関わった時代に価値が見出されたためで、裏を返せば、江戸時代に流行していた中国趣味(黄檗宗の影響→范道生とか?)が排斥されていく過程であるという。うーん、そうなのか? ちょっとキレイに整理し過ぎの感もあるが…。

 なお、飛鳥・白鳳・天平期の古仏とは異なるもうひとつの流れとして、中世以降に禅宗とともに広まった白衣観音が、明治中期以降、まず絵画で流行し、1900年代に入ると彫刻でも制作されるようになった。ここに聖母マリアや西洋の女神のイメージが付加され、大正期には、創作性の強い、寓意的な観音像もつくられた。

 昭和期に入り、1937年(日中戦争開戦)以後の戦時下では、現世利益(弾除け、護国、興亜)と結びついた、公共的なモニュメントとしての仏像が求められた。1936年の高崎大観音を嚆矢として、大観音像の建立がブームになる。興亜観音は陸軍大将の松井岩根が発願したことで有名だが、怨親平等の思想と結びついた観音信仰は、日中友好のプロパガンダとして中国大陸での宣撫工作にも用いられた。「観音世界運動」なるものも推進されたらしい。このあたり、ひとことで善悪を言えないのが厄介なところだと思う。

 戦時下で日本の軍事政策に追随していた日本仏教界は、敗戦とともに思想を転換する。観音信仰も同様で、戦勝観音や護国観音であった多くの観音像が「平和観音」に名前を変更する。従軍経験のある僧侶・吉井芳純は平和観音会を組織し、法隆寺の夢違観音を写した平和観音を数百体(!)制作し、各地の寺院や個人に譲った。最も有名なのは世田谷観音寺の像だという。ああ、ドラマ『悪夢ちゃん』のロケ地になったところだ。現在、吉井が発願した平和観音(世田谷にあるものは、特に特攻隊の死者を祀るもので特攻平和観音という)とは別に、やはり夢違観音を模したブロンズ像が境内の池の中に建立されている。私は2013年の初詣で参拝した。

 戦後は、平和を祈念する多様な観音像(または観音のような女性像モニュメント)が、各地に多数つくられてきた。何度か訪ねており、印象深いのは長崎・福済寺の万国霊廟長崎観音。もと神奈川県民として親しみ深い大船観音は、はじめ護国観音として計画されたが、寄付金不足や敗戦で放置されてしまい、発願の趣旨を「世界平和」や「戦死者慰霊」に変更し、1960年に落慶したという。苦難の歴史であるが、結果的に大船観音や高崎観音は、地域の観光資源の役割も果たしている。バブル期(1980年代)以降になると、慰霊や平和祈念の意義が薄れ、観光施設としての大観音像が建立が相次いだ。しかし、慰霊や祈願などの参拝客を見込めないと、観光だけで維持は難しく、荒廃が避けられないようである。

 一方で観音像(マリア観音)は、硫黄島やサイパン、レイテ島などにも建立され、キリスト教徒や現地の人々にも受容され、仏教の一菩薩を超越した「平和の象徴」になっているという。もともと「変化応身」は観音の属性で、一切衆生を救うため、状況に応じてさまざまな姿に変じて出現する尊格なのだから、この程度の変容、何ら問題ないのかもしれない。南無観世音菩薩。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

袋小路の現在/学術出版の来た道(有田正規)

2021-12-26 22:54:44 | 読んだもの(書籍)

〇有田正規『学術出版の来た道』(岩波科学ライブラリー 307) 岩波書店 2021.10

 仕事の関係で読んだ本だが、せっかくなので感想を書いておく。本書は、一般にはほとんど知られていない(研究者ですらよく知らない)学術出版の特異な産業構造とその問題点を、歴史的な視点から解き明かしたものである。

 はじめに、学術出版のはじまり(17世紀~)が簡略に語られる。科学に興味を持つアマチュアだったオルデンブルグが自己資金で刊行を続けた、ロンドン王立協会の『哲学紀要(Philosophical Transactions of the Royal Society of London)』。オルデンブルグの功績は、むかし金子務氏の『オルデンバーグ:十七世紀科学・情報革命の演出者』で読んだことを思い出した。ちなみに王立協会は、名前こそロイヤルだが、王室からの資金提供は全くなかった。なお、『哲学紀要』に一歩先んじて、フランスでは『ジュルナル』が刊行されている。17~18世紀のヨーロッパでは、政治と一線を画し、科学者が自主的に運営するアカデミーが設立され、学問の成果は書簡ではなく、学術誌上で公開されるようになった。

 しかし20世紀に入ると、商業出版社が徐々に、やがて急速に影響を広げていく。商業出版社のはじまりは、早いもので18世紀末。20世紀初頭まで科学と学術出版の中心はドイツだったが、1930年代、ナチス政権下で、多くの優秀な研究者がドイツから米国へ移住する。戦後、学術出版社の勢力図は、ドイツ語から英語にシフトするが、ここに代表的な学術出版社エルゼビア、シュプリンガーの動向が大きくかかわっていることは初めて知った。

 そして「学術出版を変えた男」ロバート・マクスウェルの登場。マクスウェルも(彼が設立した)ペルガモンも出版社の名前としては認識していたが、その背後に、こんな怪人物がいたことは、全く知らなかった。スタイリッシュなデザイン、出版サイクルの速さなど、画期的なビジネスモデルで研究者の支持を得、瞬く間に事業を拡大する。通貨ごとに販売価格を設定したり、個人購読と図書館の価格差を大きくしたのもコイツなのか。結局、資本主義は「全ての人」を幸せにせず、どこかにひずみを生み出す気がする…。1960年代、西側諸国が基礎科学に国費をつぎ込む時代となったことを背景に、商業出版は、学会やアカデミーによる出版を圧倒して大躍進した。そして、1990年代、ペルガモンを傘下に加えたエルゼビアの急拡大が始まる。

 1950年代には、学術雑誌に付随するツールとして、ユージン・ガーフィールドらによって、速報サービス『カレント・コンテンツ』や引用索引『SCI(Science Citation Index)』が生まれ、重要な学術雑誌を選ぶ観点から、インパクト・ファクターという指標が編み出され、1970年代には、学術雑誌のランキングが発表(販売)されるようになった。

 1990年代、インターネットの普及に伴って、学術出版は大きな変革期を迎える。日本の大学図書館からは、電子ジャーナルのビッグディール契約開始→価格高騰(購読の破綻)→オープンアクセス運動、というトレンド変化に見えていたが、関連年表を見ると、英国のハーナッドが、研究者が自分の論文をインターネットに公開する(オープンアクセス)ことで、商業出版社を「転覆」させようと提案したのは1994年なのだな。これに対して、商業出版であるアカデミックプレスが、ビッグディールという「起死回生」の契約プランを提案したのが1996年。世界中の大学図書館がこれに飛びついてしまった。

 ビッグディール契約の何が悪いのかは、ぜひ多くの人に知ってほしい。ビッグディールを維持するため、図書館は書籍の購入や小規模出版社の学術雑誌の購読を徐々に縮小するようになった。その結果、図書館は「図書を失った」のである。出版界では、小規模出版社が大手に身売りし、ビッグディールの規模はますます大きくなり、大手出版社の利益率を知った投資家が参入するようになった。図書館連合やアカデミアによる抵抗運動は続いているけれど、その旗印であるオープンアクセスさえ、もはや商業出版社の金脈となっている。

 論文の中身よりも本数、被引用数、インパクトファクターなどの数値を競う(競わされる)研究者と、学問に貢献する気がない営利至上の学術出版社が共生しているのが、今日の学術出版の世界である。「今の学術出版の有様は、国家が科学につぎ込む資金を目当てにした政商に近い」という著者の言葉に、寒々とした気持ちになった。この悲惨な状況を変える途はあるのだろうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021年11-12月@東京:展覧会拾遺

2021-12-25 21:31:40 | 行ったもの(美術館・見仏)

 そろそろ年内の展覧会めぐりも終了なので、記憶を手繰りながら、ひとことメモ。

府中市美術館 開館20周年記念『動物の絵 日本とヨーロッパ ふしぎ・かわいい・へそまがり』(後期:2021年10月26日~11月28日)

 前期を楽しんだ展覧会だが、後期も行ってきた。前期の冒頭にあった若冲の『象と鯨図屏風』がなくなるのは分かっていたので、代わりに何が来るかな?と思っていたら、涅槃図がたくさん並んでいた。日本の涅槃図は、時代が下るにつれて動物の種類が増えるのだそうだ。京博のトラりんこと、光琳の『竹虎図』には久しぶりに対面。頭の大きいゆるキャラのイメージが強くなってしまったが、実は小顔で肩幅が広く、ボディビルダーみたいに逞しい体形であることを再認識した。

日本民藝館 『棟方志功と東北の民藝』(2021年10月1日~11月23日)

 青森に生まれた版画家・棟方志功の代表作『東北経鬼門譜』『善知鳥版画巻』とともに、東北の民藝を展示。背当(ばんどり)、刺子、曲げわっぱ、春慶塗や浄法寺塗、三春人形、自在鉤、鉄瓶など。オシラサマや、藁を編んだ肥え籠もあった。

根津美術館 重要文化財指定記念特別展『鈴木其一・夏秋渓流図屏風』(2021年11月3日~12月19日)

 鈴木其一の異色作『夏秋渓流図屏風』を「江戸におけるヒノキの系譜」「蝉のいる醒めた画面」「渓流の前景化」などの表現要素に分割し、それぞれ、どこから来たかを探る。「渓流の前景化」が応挙に始まるというのは、言われてみれば納得。「炉開き-祝儀の茶会-」には、茶道具のほか、清めの塩と鰹のけずり節(海の幸)、洗い米(山の幸)を盛り合わせたもの(炉に撒く)やお神酒の乗った三宝が飾られていて、面白かった。

神奈川近代文学館 特別展『樋口一葉展-わが詩は人のいのちとなりぬべき』(2021年10月2日~11月28日)

 一葉はむかしから好きな作家で、高校の教員をしていたとき、「たけくらべ」と一葉の日記を教材に使ったことがある。なので、古い友人に会うような懐かしさを感じた。作品の印象はあまり変わらないのに、日記や書簡に残された一葉の言葉には、以前よりも深く気持ちを抉られる点が多かった。あらためて驚いたのは、原稿や日記、書簡など、多様な資料がよく残っていることだ(現在は日本近代文学館の所蔵が多い)。貧窮生活の中、妹の邦子が姉の資料を護り伝えたという話に感銘を受けた。

古代オリエント博物館 秋の特別展『女神繚乱-時空を超えた女神たちの系譜-』(2021年10月2日~12月5日)

 池袋サンシャインシティにある美術館。20年か30年ぶりの訪問だと思う。古今東西で崇拝された女神たちの系譜をたどり、人類史における女神信仰の存在形態とその意義を問いかける展示で、先月、龍谷ミュージアムで見た『アジアの女神たち』の記憶を補完することができた。

国学院大学博物館 特別展『「日本書紀」撰録1300年-神と人とを結ぶ書物-』(2021年9月16日~11月13日)

国学院大学博物館 企画展『アイヌプリ-北方に息づく先住民族の文化-』(2021年11月18日~2022年1月22日)

 このところ、すっかり同館のリピーターになっている。テーマが私の趣味に合うのと、国学院大学図書館の協力のもと、貴重な文献資料を見ることができるのが嬉しいのだ。『日本書紀』展では、神宮文庫、熱田神宮、三島大社など、全国から貴重な古写本が勢ぞろいしていた。『アイヌプリ』には、金田一記念文庫(金田一京助博士旧蔵、同大学の北海道短期大学部が保管)の貴重な資料が多数出ており、先日、歴博の『学びの歴史像』で見て気になっていた、アイヌ語通詞の上原熊次郎の名前もあった。

東京藝術大学大学美術館・正木記念館2階 『「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展』(2021年12月10日~12月19日)

 髙村光雲(1852-1934)、光雲の長男・光太郎(1883-1956)、光太郎の弟・豊周(1890-1972)が使用した原型、道具、下図・スケッチ等を展示する。光雲の彫刻作品は、そんなにたくさん見たことがないので、石膏原型類を興味深く眺めた。道具類は、刃のかたちが少しずつ違う彫刻刀の山。スタッフの方(学生さん?)が「刃物マニアは絶対見た方がいい展示」と話していた。あと、会場に「高村さん」と呼ばれる男性がいらしていたが、ご一族だろうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永遠の少年/聖徳太子 日出づる処の天子(サントリー美術館)

2021-12-23 15:08:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

サントリー美術館 千四百年御聖忌記念特別展『聖徳太子 日出づる処の天子』(2021年11月17日~2022年1月10日)

 2021年が聖徳太子(574-622)の1400年御聖忌に当たることを記念し、太子信仰の中核を担ってきた大阪・四天王寺の寺宝を中心に、今なお人々に親しまれる太子信仰の世界を紐解く展覧会。奈良博と東博で開催された『聖徳太子と法隆寺』が法隆寺中心だったのに対して、こちらは四天王寺が中心である。法隆寺からの出陳が全くないのは、別に仲が悪いわけではなく、住み分けたのだと思いたい。展示品は、鎌倉以降の作が目立ったが、時代の古いものが全くないわけではない。四天王寺所蔵の『七星剣』は、たぶん初めて見たと思うが、飛鳥時代に遡る我が国屈指の古剣で、聖徳太子の佩刀であったという伝説を持つ。わずかな反りを持つ細身の直刀である。めったに公開されないそうで、貴重なものを見た。

 また、四天王寺には、太子ゆかりの「七種宝物」がある。このうち、鳴鏑矢と唐花文袍残欠(太子緋御衣)は飛鳥時代、懸守4種は平安時代のものとあった。龍笛・高麗笛は鎌倉時代の作と推定されるが、寺伝では太子愛用の品とされている。室町時代に後花園天皇がこの二管を京都へ運ばせたところ、粉々に破損しており、四天王寺に持ち帰ると元に戻っていたという伝承から「京不見御笛」と呼ばれる。どこかで聞いた名前?と思ったが、あとで聖徳太子絵伝で、太子の笛の音に誘われて山の神が登場する場面を見て思い出した。天王寺舞楽の「蘇莫者」で使われる笛だ。なお、実は法隆寺にも太子ゆかりの「七種宝物」がある(6件は法隆寺献納宝物として東博が所蔵)。どっちが先に言い始めたのか、調べ切れなかったが、おもしろい。

 展示の冒頭には、東大総合図書館所蔵の『隋書』(明代版本)が出ており、まずは「日出づる処の天子」の由来の確認から始まる。続いて、彫刻でも絵画でも「典型的」な太子像が4躯。太子二歳像(南無太子像)(四天王寺)、童形半跏像(香炉を捧げ持つ孝養像)(四天王寺)、摂政坐像(奈良・達磨寺)、勝鬘経講讃坐像(兵庫・中山寺)である。おや?と思ったのは、前二者はもちろん、後二者にもヒゲがないことだ。

 そのあとも、彫刻や絵画による多様な太子像が続く。絵画では、南北朝時代・14世紀の『聖徳太子童形像・童子像』に惹かれた。記憶では、先だって東博で見た『聖徳太子及び天台高僧像』(兵庫・一乗寺)の太子像によく似た図像だと思ったが、あらためて確認すると、顔の輪郭とか服の色は違う。従う童子がひとりだけであることも。なお、展示キャプションの所蔵者のところに「金田肇」とあって、意味が分からなかったのだが、個人蔵なのだろうか。兵庫・鶴林寺の『聖徳太子童形像・二王子像・二天像』は、たっぷりした黒髪、鋭い目つき(玉眼みたいな、赤茶と黒の二重円で瞳を描く)が印象的。本展のキービジュアルである、華やかな衣装をまとった『聖徳太子童形像』(四天王寺、背景には浮遊する四天王)も見ることができた。

 ヒゲの太子像は、主に太子35歳の勝鬘経講讃図(兵庫・斑鳩寺・鎌倉時代など)で現れる。しかし山形・慈光明院(やわらかで写実的な作風が好き)や奈良・薬師寺の『聖徳太子童形像・二童子像』は、廟窟太子(自ら定めた墓所を巡察する)の図であるとすれば48歳なのだが、角髪の童形で描かれている。桃山時代に描かれた異色の図像『馬上太子像』などを見ても、聖徳太子は永遠の少年(童形)というイメージが強く共有されていたのではないだろうか。

 私は旧一万円札で育った世代なので、マンガ『日出処の天子』の連載が始まった当時、これが聖徳太子かあ、とびっくりしたのも事実である(すぐ馴染んだ)。しかし、長い伝統の中では、むしろ山岸凉子先生の描いた太子のほうが正統で、旧一万円札のヒゲの成人太子像は珍しい部類なのではないかと思った。本展の最後には『日出処の天子』の原画も展示されており、懐かしかった。

 聖徳太子絵伝は、やはりどんな聖人の物語よりドラマチックである。最後が悲劇(一族の滅亡)なのもよい。太子が夢の中で中国の南岳衡山へ飛翔する伝説は、しばしば絵伝に描かれており、全く関係のない『笑傲江湖』を思い出していた。また、太子は如意輪観音(≒救世観音)と同体とみなす信仰があることから、如意輪観音の優品を多数見ることができたのは、思わぬ眼福だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渋谷でおでん忘年会

2021-12-22 09:14:44 | 食べたもの(銘菓・名産)

以前の職場の友人と少人数で忘年会。駒場に勤める友人が、夏場のランチに使っていたという「おでん割烹 ひで」で、コースをお願いした。メインのおでんが出る前に、前菜・お刺身・焼き魚・天ぷらなど、品のいいうつわに盛られた、美味しいお料理が続く。

銅製のネズミの頭はぐい呑み。十二支が揃いでお盆に載って出てきた。今回のメンバーはみんな干支が違うので、問題なく自分の干支を選ぶ。ギンナンの素揚げは、日本酒のアテにぴったり。

ワカサギの天ぷら。衣が軽くて美味。

そして、出汁の効いたおでん。

いつも家で食べる、ちくわやがんもどきもあり、にんじんや車麩、牛すじなど、ちょっと珍しい具も入っていた(写真は、1杯ずつよそってもらったあとの4人分)。

なんとか食べ切ったが、お腹いっぱい。コースとは別に、ごはんものもあると言われたが、とてもお腹に入らないので、これでお開きに。ご馳走さまでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宋版わわしい女/妻と娘の唐宋時代(大澤正昭)

2021-12-20 20:01:12 | 読んだもの(書籍)

〇大澤正昭『妻と娘の唐宋時代:史料に語らせよう』(東方選書 55) 東方書店 2021.7

 中国の唐宋時代(7~13世紀)の妻と娘、つまり女性史や家族史に焦点を当てた7編の研究を紹介する。もともと学部の新入生向けに書いたものが主で、平明な文章で、興味を引く内容を取り上げている。

 著者が用いる史料は多様である。ひとつは絵画史料。しかし現実に忠実だと考えられがちな絵画資料も、実はバイアスがかかっている。たとえば『清明上河図』に描かれた人物の性別は「千男一女」であるが、他の当時の史料には、街なかにいる女性が記述されている。つまり『清明上河図』の画家には、女性は外を出歩くべきでないので、家の中にしかいないことにする、という意図があったと考えられるのだ。おもしろい。同様に『耕織図詩』の、畑仕事は男性、機織りは女性という性別分業図も、現実の反映でないことを、壁画墓の図様を反証に挙げて説明する。

 文献史料も、もちろんバイアスから自由ではない。それを意識した上で、著者は、裁判記録(清明集)や家訓(袁氏世範)や小説(太平広記・夷堅志)の中から、注意深く当時の女性たちの姿を取り出してみる。すると、一般に儒教思想の本場である中国では、古来女性の地位が低く、何の権利も認められていなかったように考えられているが、必ずしもそうでない実態が見えてくる。

 たとえば唐代は離婚・再婚が多く、寡婦が財産を持って再婚するのは普通のことだったし、妻の側から離婚を求めることもあった。当時の小説史料には、いわゆる不倫関係がおおらかに描かれてさえいる。この価値観が逆転し始めるのは宋代だという。

 男女関係が自由であることは、夫婦の結びつきが弱く、妻の立場が弱いことも意味していた。唐代の妻は嫉妬を武器として、自分の地位を確保すべく戦わなければならなかった(日本の平安時代の女性を思わせる)。唐代は宗族的つながりが強固で、家族の姿がよく分からないが、宋代になると、夫婦を核とした小家族の自立度が高まる。唐代では「一夫一妻多妾」だったものが、徐々に「一夫一妻プラス多妾」制へ変化し、妻と妾の権限が明確になるのだという。これは、宋代の庶民(上流階級だけど)の夫婦を主人公にした中国ドラマ『知否知否応是緑肥紅痩(明蘭)』を思い出さずにいられない。なるほど、ドラマで正妻の子か側室の子か、という出自が何度も取沙汰されるのは、こういう時代背景があるのだな。

 女性史から少し外れるのだが、唐代後半期から宋代にかけて「豪民」と呼ばれる人々が活躍した。塩・紙・鉄・石炭など物資の流通に関与して経済力を蓄えるとともに、地域社会のもめごとを裁き、紛争を解決する私的な裁判所として機能していた。ここで著者は、日本の近世社会なら村落共同体が成立しており、村人が支持する指導者たちが紛争の調停をおこなったが、中国に村落共同体はなく、宋朝政府か豪民かの選択になった、と書いている(この差はよく分からないので後で考える)。なお、豪民の活動も寡婦の生業の選択のひとつだったという。『水滸伝』などの女侠のイメージかな。

 また最終章で、唐宋時代の「家族」の平均人数を推定する試みも面白かった。敦煌文書の戸籍を用いたり、正史である『旧唐書』『新唐書』『宋史』の地理志を用いたり、小説史料を用いたりして、その数値を比較している。だいたい平均的な家族は4~5人で、経済力のある上流階級のほうが、やや子供の数が多い(貧乏人の子だくさんではないのだな)。特徴的なのは男女比の不均衡で、女児殺し(溺女)の習俗は根強く、明清時代にも引き継がれた。その結果は、独身男性の嫁不足を引き起こし、妻を売り(売妻)、貸し出し(租妻)、質に入れる(典妻)慣習が広がっていたという。岸本美緒氏に「妻を売ってはいけないか?」という、すさまじい題名の論文があることを知ったのは収穫だった。読んでみたい。

 なお、私は著者が読者(特に年配の?)に想定しているような「圧倒的な男性本位という中国史のイメージ」を全く持っていないので、それを丁寧に解きほぐそうとする著者の努力には敬意を払いつつ、まだこんなことを語らなければいけないかあ…と思ったことも事実である。著者が家族関係の史料として紹介している小説や裁判記録は興味深いものが多く、全編を読んでみたいと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川並地蔵堂の聖観音(東京長浜観音堂)を見る

2021-12-19 18:59:32 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京長浜観音堂 『聖観音立像(長浜市余呉町川並 地蔵堂蔵)』(2021年11月17日~2022年1月10日)

 日本橋の長浜観音堂に3回目の訪問。現在の展示は、余呉町川並の地蔵堂に祀られる聖観音像である。前回、安念寺のいも観音を拝見したとき、学芸員の方が「次は可愛いらしい観音さんですよ」とおっしゃっていた通りのお姿だった。一木造り(内刳りなし)で、平安時代後期の作と考えられている。

 この日の学芸員のおじさんは、整った美しいお顔をしていらっしゃることを強調していた。個人的には、一刀で切り込みを入れたような目の表現と、鼻筋の通った横顔がよいと思う。それに比べて、身体は、やや寸詰まりで、あまり巧くない。厚みはなく、かなり前傾姿勢である。全体にニスを塗ったような色をしているのは、もしかしたら柿渋を塗ったのではないか、という。

 光背もあるのだが、後世のものだし、鑑賞の邪魔になるので置いてきた、宝冠は外せないので着けたままにした、とのこと。右手の蓮華(?)が聖火リレーの聖火みたいな、面白い造型だった。

 余呉湖方面は、一度行きたいと思いながら叶っていない。コロナが明けたら本気で考えよう。やっぱり春か秋がいいなあ。

 東京長浜観音堂、次の展示は、正妙寺の千手千足観音立像だそうだ。「とても人気があって、また見たいという声があるので」と学芸員の方がおっしゃっていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「声」と「文字」/江戸の学びと思想家たち(辻本雅史)

2021-12-17 20:17:09 | 読んだもの(書籍)

〇辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』(岩波新書) 岩波書店 2021.11

 江戸の学びは、素読という「型にはまった」学びを前提としながら、なぜ豊かで個性的な思想を生み出すことができたのか。本書は7人の思想家を取り上げ、「学び」と「メディア」の観点から考える。

 山崎闇斎は、訓詁注釈に堕した明代四書学を拒絶し、真の朱子学の「体認自得」を求めた。言葉や理論ではなく、身体レベルでまるごと朱子の思想に参入しようという主張である。「自分が朱子その人と同じになりたかった」という表現は言い得て妙だ。そのため、闇斎は講釈(パフォーマンス)を重視し、門人たちは、師の言葉の筆記録を伝写し続けた。なお、闇斎が訓詁注釈から方向転換するにあたり、朝鮮の李退渓に大きな影響を受けていることは初めて知った。

 伊藤仁斎は、朱子学の「敬」を求めて思索に沈潜した結果、行き詰まり、「人倫日用」の思想に回帰する。そのメディアとして選ばれたのは同志会における会読で、対等で共同的な議論の成果に基づき、仁斎は自著を生涯アップデートし続けた。ここに京都町衆の文化サロンの伝統を見る指摘は、とても首肯できる。

 荻生徂徠は、「耳に由る」講釈ではなく「目に由る」読書を重視し、積極的に自著を出版した。これは、徂徠が青年期、江戸を離れ、草深い南総で書物だけをたよりに独学した経験によるのではないか。また徂徠が、個を超えた社会全体の側から「道」(安天下の道)を構想したのは、若年期に村落共同体(南総)と大衆社会(江戸)という、異なる二つの社会を体験したことが一因ではないかともいう。

 貝原益軒は、「民生日用」の書を平明な和文で著すことを志した。経学に関する著書は少ない(ほぼない)が、地誌、紀行、本草、礼法など、膨大な著作を出版している。そして、和文の本で教養を身につける文化的中間層(漢文を読む知識人層ではない)の厚みが、益軒のメディア戦略を成功に導いた。余談だが、明治初年、聖書の翻訳文体を探していた宣教師たちは、益軒本を参考にしたという。あと、そもそも益軒は儒者(朱子学者)なのか?という疑問に対して、著者が「私見では、益軒はどこから見ても朱子学者である」と断言しているのも興味深い。

 石田梅岩は、丁稚あがりの奉公人で「耳学問」で学問に志し、忽然として人の道を悟り、講釈を始める。師の講釈を組織化し、不特定多数の聴衆に「心学道話」を語る劇場空間を提供することで、教化運動を全国に拡大したのが門人の手島堵庵である。なお、寛政の改革を主導した松平定信は、伝統的な共同体から排除された民衆の教化に石門心学を活用しようとした。寛政の改革は「たんなる封建反動や思想統制策ではない」「民心も視野に入れた構想力豊かな改革であった」という著者の評価が気になる。

 本居宣長は、古代の声のことばである「やまとことば」の復元に努め、和歌を詠み続けた。和歌を(声に出して)詠み、会衆の共感を引き出す行為を通じて『古事記』の世界に参入できると考えたのだ。一方で宣長は書斎の人で、出版にも熱心であり、「声と文字の相克」がうかがえるという。

 平田篤胤は、民衆の信仰世界を正統の記紀神話の世界につなぎ、新たな神道の語りを構築した。篤胤は自ら各地に赴いて講釈活動を重ね、門弟たちは師の講説の聞書本を出版し、それをテキストにした読書会や勉強会が営まれた。こうして平田国学は、民衆を基盤とした尊王攘夷の政治活動の一翼を担うことになる。

 こうしてみると、通史的にも、また一人の思想家の中でも、学びのメディアとして「声」と「文字」が拮抗し、バランスの針が一方に振れては戻る様子が感じられる。また、成功したメディア戦略の背景には、必ず社会構造の画期(識字層の増加や共同体の動揺など)があるように思う。

 本書は、上記7人の思想家の分析の前段として、江戸時代の標準的な学びの姿を概観している。都市・村を問わず、普通の人々が文字(と算数)の学びを必要とした社会だったこと、手習塾で学ぶのは「御家流」で統一されていたことなど、興味深く読んだ。いまの初等教育の、文字を正しくきれいに「書くこと」への拘りは、このへんに淵源がありそうである。

 最後に本書は、江戸の漢学世代が如何に西洋近代に向き合ったかを、明六社、中村敬宇、中江兆民というケーススタディを通じて語り、唐木順三のいう「型を失った」明治第二世代の問題は、依然として現代に生きる我々に突きつけられていることを示して終わる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする