〇菊池勇夫『飢えと食の日本史』(読みなおす日本史) 吉川弘文館 2019.4
全編読み終わってから、『飢饉:飢えと食の日本史』(集英社、2000年)の復刊であるという注記に気づいた。原本は20年以上前の著作だが、初めて得る知識も多く、おもしろかった。本書は、現代の食料問題を念頭に置きつつ、かつて日本人が体験した飢饉現象の記録の読み直しを意図したものである。はじめに古代から近代までの日本列島の飢饉史を概観する。記録以前の採集狩猟時代(縄文時代)には、そもそも再生可能人口数が食料資源量に制約を受けており、人が餓死するような飢饉状態はなかったのではないかと推測する。弥生時代、稲作農耕が始まると、多くの人口を養うことが可能になるが、その分、自然災害による危険度が高くなるのだ。
江戸時代には多くの飢饉記録が書かれた。古来、飢饉には疫病がつきもので、飢え死にそのものより、飢えた状態で疫病に罹って死んだ者たちが多かった。飢饉時の最もポピュラーな病気は「傷寒」で、腸チフスと考えられている。菅江真澄や橘南谿の記録に人肉食の語りがあることは知っていたが、馬肉食に強い禁忌が働いていたというのは知らなかった。飢饉となれば、犬、猫、鶏を食べるのは当然だったが、馬に関しては「馬を食い、人を食い」と並べて語られるくらい、強い忌避感情があったようだ。おもしろいと言っては不謹慎かもしれないが、興味深い。
近年、日本列島の過去の気候を復元する研究の進展により、異常気象と凶作の因果関係がかなり分かるようになってきた。冷害をもたらす異常気象は、オホーツク高気圧の影響が大きいと考えられている(他の複合的な要因もある)。オホーツク高気圧の勢力が強くなると、太平洋側では湿潤で冷たい東寄りの風(ヤマセ)が吹き付け、曇天や霧雨が多くなる。東北地方では「ひでりに飢渇(ケカチ)なし」と言って、日照りよりも低温・日照不足が恐れられた。
また、江戸時代、新田開発が急速に進むと、鳥獣による作物被害が深刻な問題として浮上してきた。東北では猪の異常繁殖による「猪ケカチ」が記録されている。びっくり。これは、焼畑による山野開発が進み、地味を回復させるために放置された焼畑跡が猪の生育場所に適していたためだという。
焼畑では、自給的作物としての粟や稗に加え、換金作物である麦や大豆がつくられた。特に中心となったのは大豆で、盛岡藩や八戸藩の山地の村々では、江戸方面に売るための大豆の生産が元禄時代には本格化した。柳田国男の『豆の葉と太陽』では、のどかな山村の風景として読んだ記憶しか残っていないが、あれは商品経済の一側面だったのか…。
そして米もまた最大の商品作物だった。天明の飢饉において、仙台藩は、天候不順で米が不足しているにもかかわらず、強制的に米を買い上げ、江戸や上方に「回米」して儲けようした。藩の財政が、そうせざるを得ない逼迫状態だったのだが、領内では商人屋敷の打ちこわしや、回米中止を求める騒動が起きている。天候不順→飢饉は、避けることのできない因果関係だと思っていたが、事実はもう少し複雑なようだ。著者は「飢饉の本質は市場経済の陥穽にはまってしまった、地域経済の機能麻痺という経済現象そのものであった」と述べている。
凶作・飢饉を防ぐには、冷害や旱害に強い品種を植えることが第一である。しかし今も昔も農民たちは、味がよく高く売れる、単位面積当たりの収穫量が多い、などの経済的メリットを優先してしまう。これはそうだろうなあ。農民たちを責められない。また、山野河海の恵みは、凶作時の食料を補完する役割を担ってきた。と言っても、葛や蕨、海藻や魚介類はまだしも、松の樹皮や藁を米の粉・大豆の粉に混ぜて餅にして食べた、という話になると、ちょっと味の想像がつかない。
飢饉に備えて穀物を備蓄する政策は古くから存在した。近世初期には戦争に備えて一定量の囲穀(かこいこく)を保有しておくのは当然のことだった。しかし、全国的な商品経済のネットワークが整うに従い、穀物を貯蔵しておくより、高値の時期に売って利益を得るほうが賢い判断と考えられるようになる。そして飢饉や米騒動などの代償を払った後、近世中後期以降、ようやく備荒貯蓄論が活発になり、松平定信による寛政の改革や、上杉鷹山や池田光政の藩政において一定の実現を見る。
安定した世界なら、食料の生産・流通に経済原理が働くのは悪いことではない。私たちは、それによって美味しいものを安く食べることができるのだから。しかし生命のもとである食料を経済原理に委ねることの危うさは、どこかで気に留めておくべきだろう。