10日間の中国旅行を間にはさんで、読んでいた。ちょうど旅行前に読んだ「末摘花」「紅葉賀」「花宴」は、明るく華やかで、ちょっと滑稽で、いかにも若々しい才気にあふれている。
帰国後は「葵」の途中から読み始めた。そのせいか、この巻は、曲がり角をまがるような、または、上り坂がゆるやかな下りに転じるような印象を受けた。
下りというのは衰退の言いではない。物語は、俄然、陰影を濃くし、骨太の長編小説の面貌をあらわにし始める。葵上と六条御息所の車争い、御息所の生霊の出現、葵上の出産と死、紫上との新枕、御息所の伊勢下向(野々宮での別れ)、桐壷院の崩御、源氏藤壷の座所に忍び入る、藤壺突然の出家、朧月夜尚侍との密会の発覚...と、次々に名場面が繰り広げられ、息つく暇もないほどだ。
しかも、それぞれの名場面がちゃんと次の名場面を用意している。車争いに敗れた屈辱が、誇り高い御息所を葵上に取り憑く怨霊にさせ、妄執のあさましさに気づいたとき、御息所は伊勢下向を決意する。葵上を失った悲しみを忘れるように、源氏は紫上との新枕を慰めとする。源氏の藤壺に対する思慕は、院の崩御によって歯止めを失い、ついに藤壺の座所に忍び入る、というふうに、いくつもの因果関係が交差しながら、するすると回る車のように、滑らかに物語の進行を押していく。
たぶん作者は、この「葵」あたりで、作家としての自覚を得たに違いない、と思う。
ああ、うまいなあ、と思うのは、たとえば、葵上の薨去を除目の日(人事異動の発表日)に重ねていること。この日、男性たちは誰も彼も出勤しないわけにはいかないので、源氏も病床に葵上を残して参内する。その晩、葵上は容態が急変し、人数の少ない邸内で、愛する人に看取られることもなく、さびしく息絶えてしまう。この設定の、しびれるような残酷さ...
愛娘に先立たれた左大臣は、立ち上がることもできず、「かかるよはひの末に若く盛りの子に後れ奉りて、もよこふこと」と嘆く。ここは「もよこふ」(這いずりまわる)という古語が効いている。
この老左大臣も愛すべきだが、その息子の三位中将(ここでは)もいい。葵上の死後、沈みがちな源氏を慰めにやってきて、いつもどおりのエロ話などして(例のみだりがはしき事を聞こえ出でつつ慰め聞こえ給ふ)、そのあげく、人の世のはかなさを嘆き交わして、涙を落としたりするのだ(はては、あはれなる世を言ひ言ひて、うち泣きなどもし給ひけり)。く~ぅ、男らしくていい男だなあ。
あと、朧月夜の尚侍との密会を見つけられたときの源氏のふてぶてしさとか...こういうのを読んでいると、作者って、老若とわず男性をよく見ているなあ、と思う。いやあ、こういう男性像は、十代かそこらの少女マンガ家には描けないでしょ。中年男と恋愛したり、中年女の目で若い男を見たりする訓練(?)がないと。
というわけで、3巻に続く。