見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

青花の系譜/松岡美術館

2005-05-31 15:36:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
○松岡美術館『中国青花展-華麗なるコバルトブルーの世界』

http://www.matsuoka-museum.jp/

 この週末は、うちで仕事をしようと思っていた。しかし気が乗らない。集中力がない。やっぱり軽く気晴らしがしたい。そんなときは、陶磁器を見に行く。求心的な形態のせいか、細心な文様のせいか、なんとなく気持ちが落ち着くような気がする。

 この展示は、元(14世紀後半)から明清にかけての青花(チンホア)磁器ばかりを集めたもの。ひとくちに青花と言っても、時代によって使われた顔料が異なり、青の風合いに差がある。展示品は時代順に並んでおり、変遷が分かりやすい。

 中心となるのは明代の青花。その後、清の康煕時代に青花磁器は完成を遂げ、あとは元代や明代の作品の模作が中心になったというが、それでも乾隆時代の青花には、まだ張り詰めた迫力を感じる。
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未来の問題として/靖国問題

2005-05-30 23:24:16 | 読んだもの(書籍)
○高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)筑摩書房 2005.4

 テレビを見ていたら、中国の副首相が小泉首相との会談をキャンセルした問題について、出演者が「どうして何かあるたびに、過去の問題を持ち出してくるのでしょう」と憤懣やるかたない口調でコメントしていた。聞きながら、暗澹とした気持ちになった。中国政府の非礼は非礼として、たぶん「靖国」を「過去の問題」と捉えることに、そもそも認識の差があるのだと思う。

 本書が指摘するように、問題は「過去の靖国」ではなく、現役の首相による公式参拝という「現在の政治行為」であるという見方に私は同意する。いや、2001年10月の日韓首脳会談で、小泉首相が約束した「日本は、靖国神社参拝について、世界中の人々が負担なく参拝できる方案を検討する」という宿題は、未だ果たされていない。

 そもそも、近代国家は、「国民の動員を目的としない、純粋な追悼施設」を作ることができるのか? これは、日本人だけでなく、21世紀に生きる全ての人類が、未来に向かって背負った難問であると思う。

 アメリカのアーリントン墓地、フランスの無名戦士の墓、韓国の国立墓地・顕忠院など、それらは全て自国の戦死者の顕彰を目的としている。不戦の誓いに支えられたドイツの「ノイエ・ヴァッヘ」でさえ、沖縄の「平和の礎」でさえ、ひとたび気を許せばたちまち「靖国化」を免れないことを、著者は、あきれるほど愚直な態度で検証している。途は険しい。しかし「靖国」は、むしろ「未来の問題」として我々の前にあると思いたい。

 私はかねてから中国がA級戦犯の合祀にこだわるのが不思議だった。この態度は、日本の戦争責任を非常に狭い範囲に限定してしまうようで、残念に思っていた。これに対して著者は、中国の意図は、問題を「A級戦犯合祀」に絞り込むことで「靖国」そのものを不問に付し、「一種の政治決着」を図ろうとしているのではないかと指摘する。なるほどね。

 本書は、日本近代史の門外漢である著者が、靖国問題を「どのような筋道で考えていけばいいのかを論理的に明らかにする」目的で書いたものだ。広範な資料を明晰に整理した労作である。「国家の詐術」にだまされないよう、知性を研ぎ澄ますことの大切さを教えてくれる。しかしまた、知性や論理だけでは、この問題が深く根ざした「感情」に対して、何の答えにもなっていないという批判もあると思う。
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時代小説入門/真田太平記

2005-05-29 22:41:47 | 読んだもの(書籍)
○池波正太郎『真田太平記』全12冊(新潮文庫)新潮社 1987-1988

 久しぶりの「読んだもの」更新である。全12冊、さすがに3週間かかってしまったが、長いとは思わなかった。おもしろかった。

 実は、池波正太郎を読むのは初めてである。敬愛する丸谷才一さんが、よく褒めていらっしゃる作家なので、いつかは読んでみようと思っていたが、時代小説というジャンルが苦手で、これまで全く手が出なかった。なるほど、知性的だが情の温かみも備え、濡れ場もあるが下世話になり過ぎない、品のある娯楽小説だと思った。

 これでも私は、学生の頃、司馬遼太郎の歴史小説にハマったことがある。司馬遼太郎もいい。しかし、40を過ぎたら「司馬遼太郎が好き」という人物より、「池波正太郎が好き」という人物と付き合いたい。一緒に飲む酒も旨そうだし。

 私は戦国時代について、小学生並みの知識しかない。真田幸村といえば、私は、NHKの人形劇『真田十勇士』を思い出す世代だが、あの番組も、戦国武将の名前と複雑な歴史背景が理解できなくて、途中で見るのを止めてしまった記憶がある。

 今回はだいじょうぶだった。30年以上の歳月を扱った小説で、有名無名のさまざまな人物が登場するが、ひとりひとり、見事に描き分けられていて、全く混乱しなかった。

 真田昌幸(幸村の父)が築城した上田には、7、8年前に行ったことがある。同じとき、別所温泉と安楽寺にも行った。実は、一昨年、信州松代(幸村の弟・真田信之が移封された)を訪ね、真田宝物館も見ている。

 しかし、詳しいことは記憶に残らなかったので、今年の春、和歌山県九度山町に行ったとき、「真田庵」という遺跡があるのを見て不思議に思った。関ヶ原の合戦以後、昌幸・幸村は九度山に蟄居を強いられ、昌幸はこの地で没したのである。

 幸村は、最後は大阪城南方の茶臼山から出撃し、戦死したという。なんと!茶臼山といえば、この連休に出かけた大阪市立美術館のある天王寺公園のすぐそばではないか。というわけで、私は既に真田氏ゆかりの地を、数々踏破しているのだが、こうなると、上田も九度山も、ぜひもう一度、行ってみたいと思った。

 それにしても、幸村という人物は、思っていたよりずっと損な人生を送っている。慶長5年、関ヶ原合戦の折、上田城で徳川秀忠の軍を迎え討ったのが34歳。しかし、このときは父・昌幸の影に隠れてあまり目立たなかったらしい。以後はひたすら九度山の蟄居を耐えて過ごし、元和元年、大阪夏の陣に出撃し、49歳で戦死した。つまり、いちばん大きな仕事のできる壮年期を無為に過ごしている。そして、ようやく訪れた最後のチャンスは、無能無策な豊臣秀頼の家臣団のもとで、ほとんど勝機のないものだった。にもかかわらず、最後の一瞬において、華々しい武勇を示し、後世に「真田幸村」の名を不朽のものとした。不思議な人物である。

 真田一族以外では、加藤清正という人物を見直した。武断派の印象が強かったが、どうもそれだけの武将ではないらしい。清正が築城技術の全てを投入したという熊本城も見に行きたい!

 作者は、死に赴く幸村とその将兵たちを書くにあたって「直属の上官が信頼に足る人物でなければ、兵は喜んで死ねるものではない」という旨を、さらりと書き添えている。むろんそこには、自身の戦争体験がある。そうか。司馬遼太郎もそうだけど、昭和の歴史小説・時代小説の書き手には、戦争という「死を覚悟した経験」があり、その体験を通して、戦国の武将たち、女性、足軽、草の者たちと向き合っているのだ。だとすれば、もはや「死」を知らない世代の時代小説はどのように変貌していくのだろう? そんなことも考えた。
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《南少林》完結

2005-05-28 19:50:04 | 見たもの(Webサイト・TV)
○電視劇《南少林》 32集

http://www.epochtimes.com/b5/nf2997.htm(中国語・繁体)

 2003年に中国で製作された連続TVドラマ。このところCCTVが深夜に再放送をしていたのを、録画してずっと見ていた。

 主人公は方世玉というお茶目な青年。南少林寺に入門して功夫(カンフー)を学ぶ。奔放な行動で、いろいろ騒動を引き起こしながらも、よき師・よき友を得て成長する。時は清朝、雍正皇帝の時代。謎の盗賊団・天鷹帮や倭寇の跳梁の裏には、第3皇子弘時と悪徳官吏たちの陰謀があった。これを追う第4皇子弘暦(のちの康煕帝)は、ひょんなことから方世玉に接近する。

 とまあ、娯楽時代劇は、どこの国も同じで、設定が分かりやすい。こういうドラマは中国語で見ていても疲れなくていい。セットもアクションもチープだったが、特に文句はない。

 ただ、序盤は主人公の方世玉を中心に、若者たちが活躍し、笑いの中に淡い恋あり友情ありで、明るい学園ドラマのようなストーリーなのに、終盤に至ると、主要人物がバタバタと殺され、暗澹とした雰囲気が漂い始める。最後は、冷徹な政治家の顔をあらわにし、方世玉と袂を分かった弘暦によって、南少林寺焼き討ちの命が下され、方世玉がその再建を誓うところで終わる。

 ふーむ。不思議だなあ。この中国製時代劇の「とってつけたような悲劇好み」には、だいぶ慣れたけど、やっぱり不思議だ。日本の娯楽時代劇は(あまり見たことがないが)こういう終わり方はしないだろう。

 私はこれまでカンフー映画に興味がなく、少林寺方面には全く無知なので、今回、いろいろと新知識を得た。主人公の方世玉という人物は、香港映画では有名なキャラクターらしい。実は、この夏、嵩山少林寺のある河南省への旅行を考えている。ちょっと少林寺伝説の勉強をしておこうかな。

■方世玉(フォン・サイヨ)(香港映画の世界)
http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/hk1-6.htm

■少林寺と南派少林拳(電影王:少林傳説)
http://homepage3.nifty.com/hkaction/sub101a.htm
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漱石の筆跡/鎌倉文学館

2005-05-26 23:12:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
○鎌倉文学館 企画展『夏目漱石 漱石山房の日々』

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/bungaku/

 久しぶりに鎌倉文学館に出かけた。漱石の人気か、ちょうど見頃のバラの花に惹かれてか、びっくりするくらい混んでいた。

 最近、東博で森鴎外の筆跡を見たので、さて、漱石はどんな筆跡だったかしら?と考えていた。漱石は、十分な余白を残して原稿用紙のマス目に収まる、こじんまりした字を書く。マス目がないときも、1字1字が独立していて、読みやすい。理系の学生がよく書く字だと思った。鴎外が、形の崩れをあまり気にせず、勢いのある字を書くのと対照的である。

 それと、漱石の本はどれも装丁がいい。単行本もいいし、全集の装丁も好きだ。この点では、本当に幸せな文学者だなあと思った。
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金大中氏講演を聴く/東京大学シンポジウム

2005-05-24 23:00:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京大学シンポジウム『朝鮮半島の共存と東北アジア地域協力』(05/05/23)

http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/research/symposium/2005/01.html

月曜日、東大の安田講堂で行われたシンポジウムを聴きに行った。冒頭を飾ったのは、金大中(キム・デジュン)氏の記念講演である。

 金大中氏は79歳である。髪は黒く染めていらっしゃるのだと思うが、介添え人に支えられて、小さな歩幅でよろよろと歩む姿はたよりなかった。しかし、用意された椅子に座ると、しゃんと背筋を伸ばし、マイク越しではあるが、力強い声で講演原稿を読み続けた。私は同時通訳の日本語を聞いていたが、主張はきわめて明快だった。

 キム氏は、小泉首相の靖国神社参拝に対して、断固とした批判を言明した。これは、およそ妥協の余地のない問題であるという印象を持った。竹島問題については、1905年、日本政府が竹島を日本の領土であると宣言したとき、「韓国は異議申し立てのできる独立国家ではなかった」という一言に、胸を突かれた。そうか、竹島の領有権も、領土問題であると同時に歴史問題であるわけか。

 一方、根強い反対を押し切り、日本大衆文化の開放を推進したのもキム・デジュン政権である。90年代末、もしも日本の大衆文化の浸透と咀嚼がなかったら、今日、アジアを席巻する韓流ブームは起きていなかったのではないか。これをキム氏は「take(受け入れるもの)」があれば必ず「give(与えるもの)」があり、「give」があれば「take」がある、と語った。

 キム氏は、来日の際、どうやら韓流スターの誰かと同じ飛行機に乗り合わせたらしい。「成田空港で若い女性が数千人も待っていたのでびっくりしたが、お目当ては私ではなかった。しかし、私もお余りの拍手を貰うことができて嬉しかった」と語り、会場の笑いを誘っていたが、ユーモアの中に、長年、日韓関係の改善に努力してきた老政治家の本音が混じっているようにも感じた。

 後半のセッションは、北朝鮮問題が主な話題になった。こうなると、結論は出ない。しかし、各国の外交官も研究者も、我々がまず望むものは「朝鮮半島における安定と繁栄」であり、「武力行使」という選択肢は絶対に避けなければならない、という点は一致していた(「拉致」や「人権侵害」の解決よりも「平和と安定」を優位に置くというのは、一面では、実際の被害者に対して残酷であるが)。

 韓国やロシアの研究者から報告された北朝鮮の変貌(韓国との経済協力の拡大、北朝鮮内部の急速な市場化)は、日本の報道ではあまり知ることができない事柄で、瞠目した。しかし、そうした内部の変化にもかかわらず、北朝鮮の外交態度に変化が見られないのはなぜか?と指摘されると、考え込んでしまう。また、我々日本人が北朝鮮の変化に気づかないように、日本の戦後60年の変化(民主主義と平和国家の定着)も、外部からは全く見えていないのではないか?という指摘は、ブラックジョークみたいだけど、どきりとした。

 プログラムが全て終わったのは、午後6時の終了予定時刻を1時間も過ぎた頃だった。家路を急いで席を立ち始めた聴衆をねぎらうように、「皆さん、お疲れさまでした」と姜尚中氏が暖かい閉会の挨拶を投げかけた。「このシンポジウムは、何が起きるか分からない、と我々は思っていました」という。

 確かに、この企画にはリスキーな面があったと思う。警備はものものしかった。安田講堂には、ふだん大学構内では見ることのない種類の男たちが混じっていた。浅黒い横顔、黒っぽい背広に屈強な肉体を隠し、きびきびと動きながら、いかにも無駄のない会話を朝鮮語で交わしていた(まるで映画みたいだった!)。

 冒頭、壇上に立った姜先生は殉教を覚悟した伝道師のように見えた。「大げさなようですが、このシンポジウムには我々の命運がかかっているのです」なんておっしゃるし。総合司会の吉見俊哉先生の「進行を妨害する行為があったときは、すぐに退席していただきます」という注意事項を述べる声にも、本気の緊張があった。

 そして、夢のように流れた6時間。「しかし、終わってみれば何てことはなかった。疲れましたけどね」と姜先生がおっしゃって、ふと「六者協議もこんなものかも知れませんね」と付け加えたとき、期せずして会場から暖かい拍手が沸いた。

 この日の東京は、夏を思わせる好天に恵まれた。「いちばん心配したのは雨だったんです。でも晴れましたね。私のふだんの行いがいいのかなあ、と思いました」と姜先生はおっしゃって、長丁場に疲れた聴衆をなごませていたが、シンポジウム終了直後、待っていたかのように、スコールのような土砂降りがやってきた。ほとんどの聴衆は、なんとか濡れずに駅まで行き着いたことと思うが、後片付けで安田講堂に残っていた方々は、さんざんな苦労をなさったことと思う。私は雨に濡れながら、少し可笑しかった。
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善養寺のバラ市

2005-05-23 23:50:42 | なごみ写真帖
佐倉の「れきはく」に行った帰り、江戸川区・善養寺の「バラ展示即売市」のポスターを見て、久しぶりに小岩で下りた。



私はこのお寺のすぐ近所で生まれ育った。春は3月の植木市に始まり、5月はバラ・さつき市、夏はラジオ体操、盆踊り、秋は観菊、そして餅つき、除夜の鐘...

友だちが数人集まれば、みんなで善養寺に向かった。とりあえず、車を気にせず鬼ごっこのできる広さがあった。小さい頃は祖母に連れられて来た。少し大きくなると、ひとりで境内を探検するのも好きだった。墓地に入り込んだこともあるが、悪戯しようとは思わなかったし、怒られもしなかった。

半径2キロくらいの範囲で遊んでいると、どこにいても夕方6時の鐘が聞こえた。鐘が鳴ると遊びをやめて家に帰る合図だった。

ふと朝早く目が覚めてしまって、布団の中で、朝の6時の鐘を聞くこともあった。

私が今でも寺好きなのは、こういう育ちのせいではないかと思う。

昭和の時代の話である。
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東アジア・海の道/国立歴史民俗博物館

2005-05-22 19:55:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
○国立歴史民俗博物館 企画展『東アジア中世海道―海商・港・沈没船―』

http://www.rekihaku.ac.jp/index_nj.html

 私が子供の頃、「日本は島国だから鎖国にも成功し、独自の文化が育った」というのは、大人が口を揃えて語る「定説」だった。それが、「海は、人と人、文化と文化を隔てるものでなく、むしろ結びつけるものだ」という説が流行り始めたのは、1980年頃ではなかったか(学問の世界ではもう少し早いのかもしれない)。初めてこの説を聞いたときの新鮮な驚きは今も忘れられない。だから、勝手な推測だが、この展示の企画チームは、比較的若いのではないかと思った。

 さて、3月末から始まっていた企画展に、最終日前日、ようやく行ってきた。千葉県佐倉の「れきはく」まで出かけるのは、東京の住人にとって、ちょっと決意のいる小旅行である。ちょうど14時からのギャラリートークが始まったところで、2組のツアーが館内を動いていた。団体行動があまり好きでない私は、はじめ、集団を無視して、勝手に展示を見ていた。ところが、後発の講師の声がいいのだ。よく響く。しかも要点が明確で話が面白いので、つい目の前の展示品より、トークに耳を傾けてしまう。こういうことは滅多にしたことがないのだが、とうとう途中からツアーに加わってしまった。

 講師のあとに続く集団は20人近くいたので、なかなか展示品のそばに近寄れない。結局、ひととおり説明を聞いたあと、もう一度、初めから見てまわることになり、倍の時間がかかってしまった。しかし、ひとりでは気がつかない展示の意図や要点がよく分かって、非常に面白かった。

 たとえば、ときどき目にする深い緑釉は「華南の焼き物の特徴です」と言われると「なるほど」と思う。「よく使われた銭のランキング」も「北宋銭が圧倒的に多い」と、ひとことコメントが加わると記憶に残る。「石見銀山は、世界遺産指定をねらって整備が進んでいます」なんて余談も。おもしろい話題ならいくらでもありますぜ、という余裕が感じられて、やっぱり、プロのトークは面白い。

 「れきはく」には何度か来ているが、こんなに活気があってお客が多かったのは初めてだ。さほど派手な展示企画ではないのに、営業努力のたまものかもしれない。

 私がすっかり感心したギャラリートークの先生は、帰り際、入口に戻ったら、2回目のツアーを始めていた。もう午後4時を過ぎていて、2回目のツアーは予定にはないはずなのに、自主的なサービスだったのだろうか(ちなみに、お名前は「れきはく」のホームページで分かったけど、敢えてここには記さずにおく)。

 展示については、考古遺物・文献・絵画・地図・工芸品など、さまざな歴史資料を駆使した多面的アプローチが面白い。最後のコーナーで、各地の美術館などが所蔵する「名品」にたどりつく構成になっている。北宋の白磁、南宋の天目茶碗、元の青花、高麗の青磁など、いずれも美術品として純粋な鑑賞に堪える、一級の名品である。しかしまた、それらが日本にもたらされた「海の道」の存在、さまざまな人と物の往来を考えると、自ずと別の興趣が感じられる。

 図録も読み応えがあって満足。このあと、大阪展、山口展が予定されている。
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Blog生活1周年

2005-05-21 23:34:00 | 日常生活
 Blogを初めてちょうど1年が過ぎた。続かなくなったら、いつやめてもいいや、という気持ちで始めたものだが、すっかり生活の一部になってしまった。

 1年前の5月でも、既にgooだけで40,000~50,000件のblogが立ち上がっていて、私など後発の部類だと思っていたが、あれよあれよという間に件数が伸びて、今や210,000件を突破している。すごい。

 もともと日本人は「日記好き」だと言われている。文学史をひもとけば、日記作品が目白押しだ。しかし、こんなにたくさんの個人が、人目に触れる(可能性のある)文章を日々公開し、また、他人のそれを読むという時代はかつてなかったと思う。

 たぶん日本人の言語能力には、必ず何らかの影響が現れると思う。私は、短い期間であるが、教壇に立っていた経験があるので、つい、国語教育への影響を考えてしまうが、現場の教師たちは、このことに気づいているだろうか。

 これまで、ネットに関しては、チャットとかメールとかの「閉じたコミュニケーション」が主流で、どちらかというと悪影響が論じられていたけれど、ブログにはプラスの可能性を感じる。もちろん早期に「ブログ作法」(開かれた世界にむかって、個人が発言する作法)を身につけることが大切だ。まず、教師がその作法を理解できているかどうかが問われるだろう。

 かたい話はこれくらいにして、Blog生活はなかなか楽しい。記事が溜まってくると、検索にひっかかるのか、それなりにアクセス数も増えてくる。(だから、最近ブログを始めたばかりの皆さんもがんばってね!)

 思わぬ有名人からコメントを貰ったり、記事によっては悪意あるコメントも貰った。私の勤め先は明らかにしてないつもりだが、どこでどう類推をつけたのか「ここ、ブログ書いている人いる?」と聞かれてしまったこともある。

 何度かコメントやTBを貰った方のサイトに、半年ぶりくらいで訪ねていったら、引越し(本人が)されて、すっかり生活が一変した由が書いてあって、会ったこともない方なのに、しみじみしてしまったり。

 コメントやTBを下さった方々への返信もあまりマメにしてないし、自分からトラックバックをつける方法も最近やっと覚えたばかりのものぐさブロガーであるが、この1年、アクセスしてくださった方々ありがとう。どうやらまだ続きます。

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「京都非公開文化財特別拝観」始末記

2005-05-20 06:08:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
○平成17年度 春季京都非公開文化財特別拝観(京都古文化保存協会)

 連休の初め、恒例の「京都非公開文化財特別拝観」を見にいった。そうしたら、宣伝ポスターと実際の内容が一部ちがっていて、国宝「北野天神縁起絵巻」(承久本)が見られなかった、ということを5月3日の記事に書いておいた。Blogを書いたあとも、やっぱり納得できないので、同じ日に京都古文化保存協会にメールを書いた。

 その返事が昨日、届いた。「当協会と天満宮の間で、展示神宝に関する刷り合わせの詰めができていなかったため」に起きたことで、「まさに青天の霹靂!」だったという(天神絵巻にひっかけてる?)。たいへん恐縮していただき、「ご自宅までお詫びにお伺いしたく存じます」とおっしゃっていただいたが、これは辞退申し上げた。

 展示品の確認をせずに、宣伝ポスターの掲載図版を選んで印刷してしまったというのは、どう考えても大失態である(お役所に近いところだし、原議書とか作って、大勢がハンコ押してるんだろうなー)。まあ、しかしながら、私も類似する職場にいるので、なんとなく事情は推察できる。昨今、「文化」とか「学術」に対する締め付けは、きわめて厳しい。今回の件が重大な過失だと分かるような、文化財に理解のある職員は、大量の仕事を抱えていて、ひとつひとつの詳細確認まで、とても手がまわらないのではないかと思う。

 一方、現場に派遣されているのは、経験の浅い職員やアルバイトだけで、マニュアルどおりの仕事しかできないのだろう。今回、私がいちばん残念に感じたのは、現場に多くの関係者(大学生のガイドさん)が常駐しながら、誰も不審の声をあげなかったらしいということだ。与えられた原稿を暗記して案内をすることしかできないのかなあ。担当でなくても、ちょっと空き時間に宝物館を見て自主的に勉強しておこうとか、ポスター掲載の展示品くらい確かめておこうと思う学生はいないのかなあ、と思うが、いまどきの大学生に期待するほうが無理か。

 それと、無駄を省く努力は大切であるが、安さ優先で外部にたよってばかりいては、「文化」や「学術」の分かる人材は育たないのである。そこのところ、社会が、少し大目に見てくれないものかしら...
 
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