○東京大学シンポジウム『朝鮮半島の共存と東北アジア地域協力』(05/05/23)
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/research/symposium/2005/01.html
月曜日、東大の安田講堂で行われたシンポジウムを聴きに行った。冒頭を飾ったのは、金大中(キム・デジュン)氏の記念講演である。
金大中氏は79歳である。髪は黒く染めていらっしゃるのだと思うが、介添え人に支えられて、小さな歩幅でよろよろと歩む姿はたよりなかった。しかし、用意された椅子に座ると、しゃんと背筋を伸ばし、マイク越しではあるが、力強い声で講演原稿を読み続けた。私は同時通訳の日本語を聞いていたが、主張はきわめて明快だった。
キム氏は、小泉首相の靖国神社参拝に対して、断固とした批判を言明した。これは、およそ妥協の余地のない問題であるという印象を持った。竹島問題については、1905年、日本政府が竹島を日本の領土であると宣言したとき、「韓国は異議申し立てのできる独立国家ではなかった」という一言に、胸を突かれた。そうか、竹島の領有権も、領土問題であると同時に歴史問題であるわけか。
一方、根強い反対を押し切り、日本大衆文化の開放を推進したのもキム・デジュン政権である。90年代末、もしも日本の大衆文化の浸透と咀嚼がなかったら、今日、アジアを席巻する韓流ブームは起きていなかったのではないか。これをキム氏は「take(受け入れるもの)」があれば必ず「give(与えるもの)」があり、「give」があれば「take」がある、と語った。
キム氏は、来日の際、どうやら韓流スターの誰かと同じ飛行機に乗り合わせたらしい。「成田空港で若い女性が数千人も待っていたのでびっくりしたが、お目当ては私ではなかった。しかし、私もお余りの拍手を貰うことができて嬉しかった」と語り、会場の笑いを誘っていたが、ユーモアの中に、長年、日韓関係の改善に努力してきた老政治家の本音が混じっているようにも感じた。
後半のセッションは、北朝鮮問題が主な話題になった。こうなると、結論は出ない。しかし、各国の外交官も研究者も、我々がまず望むものは「朝鮮半島における安定と繁栄」であり、「武力行使」という選択肢は絶対に避けなければならない、という点は一致していた(「拉致」や「人権侵害」の解決よりも「平和と安定」を優位に置くというのは、一面では、実際の被害者に対して残酷であるが)。
韓国やロシアの研究者から報告された北朝鮮の変貌(韓国との経済協力の拡大、北朝鮮内部の急速な市場化)は、日本の報道ではあまり知ることができない事柄で、瞠目した。しかし、そうした内部の変化にもかかわらず、北朝鮮の外交態度に変化が見られないのはなぜか?と指摘されると、考え込んでしまう。また、我々日本人が北朝鮮の変化に気づかないように、日本の戦後60年の変化(民主主義と平和国家の定着)も、外部からは全く見えていないのではないか?という指摘は、ブラックジョークみたいだけど、どきりとした。
プログラムが全て終わったのは、午後6時の終了予定時刻を1時間も過ぎた頃だった。家路を急いで席を立ち始めた聴衆をねぎらうように、「皆さん、お疲れさまでした」と姜尚中氏が暖かい閉会の挨拶を投げかけた。「このシンポジウムは、何が起きるか分からない、と我々は思っていました」という。
確かに、この企画にはリスキーな面があったと思う。警備はものものしかった。安田講堂には、ふだん大学構内では見ることのない種類の男たちが混じっていた。浅黒い横顔、黒っぽい背広に屈強な肉体を隠し、きびきびと動きながら、いかにも無駄のない会話を朝鮮語で交わしていた(まるで映画みたいだった!)。
冒頭、壇上に立った姜先生は殉教を覚悟した伝道師のように見えた。「大げさなようですが、このシンポジウムには我々の命運がかかっているのです」なんておっしゃるし。総合司会の吉見俊哉先生の「進行を妨害する行為があったときは、すぐに退席していただきます」という注意事項を述べる声にも、本気の緊張があった。
そして、夢のように流れた6時間。「しかし、終わってみれば何てことはなかった。疲れましたけどね」と姜先生がおっしゃって、ふと「六者協議もこんなものかも知れませんね」と付け加えたとき、期せずして会場から暖かい拍手が沸いた。
この日の東京は、夏を思わせる好天に恵まれた。「いちばん心配したのは雨だったんです。でも晴れましたね。私のふだんの行いがいいのかなあ、と思いました」と姜先生はおっしゃって、長丁場に疲れた聴衆をなごませていたが、シンポジウム終了直後、待っていたかのように、スコールのような土砂降りがやってきた。ほとんどの聴衆は、なんとか濡れずに駅まで行き着いたことと思うが、後片付けで安田講堂に残っていた方々は、さんざんな苦労をなさったことと思う。私は雨に濡れながら、少し可笑しかった。