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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

この世の楽園/生誕300年記念 若冲展(東京都美術館)

2016-04-28 23:54:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京都美術館 特別展『生誕300年記念 若冲展』(2016年4月22日~5月24日)
 
 今年の連休は、ほとんど東京(関東)にいないので、今のうちに見たい展覧会に行っておこうと思い、日曜日、混雑を覚悟して出かけた。9時半くらいについて、意外とスムーズに建物の中に入れたので、これはいけると思ったら、会場入口に到達するまで結局40分くらい並んだと思う。会場内は広いので、人がたくさんいても、あまり圧迫感がないのは、ありがたかった。

 入ってすぐ目に入るのは、鹿苑寺大書院障壁画の『葡萄小禽図襖絵』。相国寺の承天閣美術館に常設展示されているものなので、飛ばして別の作品に行こうか迷う。しかし、若冲の作品は飛ばせない。どんな小品でも、見ているだけで快感物質が分泌されて、体温が上がる気がする。特に私は、若冲の描くツル植物やニワトリの尾羽の、くるくると巻いたかたちを見ていると、なぜか幸せになる。選んで見るなどというセコイことを考えるのはやめて、1点ずつできるだけゆっくり味わうことにした。

 やっぱり色彩の華やかな作品が人気なので、水墨画の前は比較的空いていて、展示ケースに張り付くように見ることができた。鹿苑寺大書院障壁画(裏表、計4面)は、いつものケースより接近できて、細やかな墨の濃淡が鑑賞できて嬉しかった。細見美術館の『糸瓜群虫図』、三の丸尚蔵館の『旭日鳳凰図』など、噂どおり名品揃いで、若冲ファンなら「あ、○○が所蔵している△△」とすぐ分かる作品が多く、ひとりクイズが楽しめる。きちんと見ておこうと思ったのは、和歌山・草堂寺の『隠元豆・玉蜀黍図』。岡田美術館からは『孔雀鳳凰図』二福対をはじめ、目を見張る作品が多数出ていた。どちらも現地に行きたいと思いつつ、まだ実現していないところ。

 次室の『乗興舟』(京博)は低い展示ケースで人だかりに埋もれていたので諦める。大好きな『花鳥版画』シリーズ(平木浮世絵財団)は壁に飾られていて、なんとか見られた。『玄圃瑤華』(青裳堂書店)は写真パネルで全体を想像しつつ鑑賞。

 上階(1階)へ。かなり広い楕円形の展示室で、中央の三本の弁柄(べんがら)色の円柱が仏殿をイメージさせる。相国寺の『釈迦三尊像』を真ん中に、その両側を楕円形の壁に沿って『動植綵絵』30幅が取り巻く。並び順は『釈迦三尊像』の隣から遠ざかる方向へ以下の通り。

右(上手)/左(下手)
1 老松孔雀図/老松白鳳図
2 薔薇小禽図/牡丹小禽図
3 梅花皓月図/梅花小禽図
4 老松鸚鵡図/老松白鶏図
5 梅花群鶴図/棕櫚雄鶏図
6 向日葵雄鶏図/南天雄鶏図
7 芙蓉双鶏図/紫陽花双鶏図
8 群鶏図/大鶏雌雄図
9 芍薬群蝶図/秋塘群雀図
10 雪中鴛鴦図/雪中錦鶏図
11 芦鵞図/芦雁図
12 池辺群虫図/貝甲図
13 諸魚図/群魚図
14 蓮池遊魚図/菊花流水図
15 紅葉小禽図/桃花小禽図

 題名を見て分かるとおり、左右が一対になるよう配慮されている。実は『動植綵絵』の並び順に「定番」はなく、2009年、東博の『皇室の名宝』では制作年代順に並べたそうだ。今回と同じく『釈迦三尊像』の左右に15幅ずつを並べた、2007年の承天閣美術館の『若冲展』はどうだったんだろう? 探せば図録は持っているはずだが、よく覚えていない。しかし、今回の並び順は、全体を概観すると統一感があって、好ましかった。

 2階では、久しぶりに大好きな『百犬図』を見る。う、嬉しい~! これ「個人蔵」なんだなあ。以前はよく京博で見た記憶があるのだが。西福寺の『蓮池図』は、蓮の花が美しく咲き、散り、枯れてゆく時間経過を描いたもの。2010年の千葉市美術館でしみじみと哲学的な印象を持った作品だが、今回の会場は落ち着かなくて、いまひとつ心に響かなかった。京博の『石燈籠図屏風』があり、MIHOミュージアムの『象と鯨図屏風』があるという、とんでもない贅沢さ。さらに奥にはプライスコレクションの『鳥獣花木図屏風』が待っているし。佐野市立吉澤記念美術館の『菜虫譜』は、人の山に埋もれていて諦めた。やっぱり軸物は難しい。

 出口を出ても、ミュージアムショップがまた楽しい。私はTシャツとマグカップと『果蔬涅槃図』(5/10~展示)のエコバッグを購入。もちろん図録も買った。これ相当な売り上げになるだろうなあ。若冲さん、楽しい絵画を本当にありがとう。
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伴大納言絵巻と真言八祖行状図!/やまと絵の四季(出光美術館)

2016-04-27 21:48:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 開館50周年記念展『美の祝典I-やまと絵の四季』(2016年4月9日~5月8日)

 2016年、開館50周年を迎える出光美術館が、館蔵コレクションから屈指の優品を厳選して三部構成により一挙大公開。第1部のテーマは「やまと絵」である。個人的には、大好きな『伴大納言絵巻』公開のニュースで頭がいっぱいで、ほかにどんな作品が出るかは全くチェックしていなかった。

 日曜日は(東京都美術館の若冲展のあと)出光美術館に寄るつもりで家を出た。電車の中で読みかけの『歴史のなかの大地動乱』(保立道久、岩波新書)を開けたら、すぐさま「伴善男と応天門事件」の文字が目に飛び込んできて、びっくりした。大地動乱の時代背景と、応天門事件をめぐる伴善男、藤原良相、藤原良房、源信らの関係を、思わぬところでしっかり復習させてもらった。

 会場の順路に従うと、はじめに『日月四季花鳥図屏風』。右隻と左隻が90度直角になるように、狭いコーナーに飾られていた。画面がとても濃密なので、右隻と左隻を単独で鑑賞できるこの展示方法は意外といい。右隻には桜と柳、その下に雉の雄雌。左端の草花は常夏か? 左隻には紅葉、菊、松、つがいの鹿。U字になった二本の松の幹のかたちが好き。いま検索して、平成27年度の新指定文化財(重文)だったことを思い出した。

 私の好きな『宇治橋柴舟図屏風』は、逆巻く急流の表現がいかにも宇治川らしい。『吉野龍田図屏風』は根津美術館の同名の屏風を思い出しながら見る。同じくらいデコラティブだけど、こっちのほうが、やや整った印象。白い桜花で埋まった右隻の前には着飾った美女を立たせてみたい。紅葉の濃淡を描き分けた左隻の前には黒衣の茶人が似合いそうだ。『四季花木屏風』は、左右の落款が真ん中にくるように並べてあった。右隻には桜でなく梅、左隻の紅葉はモミジではなくカエデの葉のかたちをしている。ほかに佐竹本三十六歌仙絵の「柿本人麻呂」と「僧正遍照」も。「遍照」は久しぶりに見る気がした。2010年にも同じ感想を書いている。

 第2室は『伴大納言絵巻』の特別展示。ただし作品は仕切り壁の向こうに隠れていて、はじめに『橘直幹申文絵巻』(これにも火事の描写がある)などの関連作品を見て、徐々に頭を平安朝モードにもっていく。原品のまわりは意外なくらい人がいなくて拍子抜けした。何度でも自由に行ったり来たりできるくらい。10年前はもう少し並んだ気がする。

 冒頭の群衆の描写は、何度見てもわくわくする。馬に乗っているのは検非違使の役人たちだろうか。赤い縁の黒い身頃の簡素な鎧を着ている。兜はかぶらず、烏帽子姿。人々の衣装は色も模様も本当にさまざまだ。応天門の手前の朱雀門には、火の粉が飛んで引火しようとしている。その横に小さな雀が飛んでいる。多くの見物人が扇を手に持っていて、私は「扇の骨の隙間から見る」動作には呪術的な意味があるという説を知ったあとで、この絵巻を見たのだけど、いま見直すと、単に火の粉と熱風を避けているんじゃないかと思えてきた。群衆の表情は本当にさまざまで、特に応天門の北(廟堂に近いほう)の会昌門付近では、喧嘩しているっぽい人、失神しそうな人、そろそろとその場を去ろうとしている怪しげな人物も見受けられる。

 良房の奏上を寝所で聞く清和天皇。相次ぐ地震、噴火、飢饉と疫病に悩まされていたところにこの大事件である。平安時代って、全然「平安」ではなかったのだ。そして、青年天皇らしく果断な措置をとった結果、後半生をずっと伴善男の強力な怨霊に祟られることになるとは、このときの清和天皇は知るよしもなかっただろう。そう思って画面を眺めると感慨深い。そして、絵巻の制作にかかわった後白河法皇は、当然、怨霊となった伴善男の怖さ(怨みの深さ)を知っていて、鑑賞しているのだろうな。

 これで見るべきものは見つ、と思っていたら、後半に『真言八祖行状図』(鎌倉時代)八幅対の展示があって驚いた。どれも広々した風景に、小さな人物が描かれている。もと内山永久寺真言堂の障子絵で、龍猛、龍智、金剛智、不空の四幅は西側にあって秋の風景を表し、善無畏、一行、恵果、空海の四幅は東側にあって春の風景を表していた。なるほど前者には紅葉、後者には花の咲いた木々が描かれている。八年かけた修復を終えての展示だというが、私は初めて見る気がする。金剛智の画幅の海原の表現が面白く、描かれた船が『吉備大臣入唐絵巻』の船によく似ていた。不空は暴れ象を倒し、恵果は皇帝の前に大自在天を現前させたとか、物語性が豊かで面白い。

 同館は、意外と仏画も持っているのだな。あまり認識していなかった。『絵因果経』は怪物の集団が釈迦(?)を取り囲んでいる場面で、雷神らしきものもいた。最後は琳派の作品で華やかなエンディング。堪能した。第2部、第3部もこの程度の人の入りでありますように。

五味文彦『絵巻で読む中世』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房新社 2005.8
『伴大納言絵巻』は伴善男の御霊の鎮魂を目的として作成されたものとする。
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怨霊と地震神/歴史のなかの大地動乱(保立道久)

2016-04-26 01:35:57 | 読んだもの(書籍)
○保立道久『歴史のなかの大地動乱:奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書) 岩波書店 2012.8

 4月14日の熊本地震のあと、著者がtwitterで「9世紀の貞観地震の後に起きた肥後国の災害に似ている」という趣旨のことをつぶやいておられたのを見て、本書を思い出した。私は、保立先生の著作に関して、80年代の『中世の愛と従属』以来の愛読者であるが、比較的新しい本書には食指が動かなかった。地震かあ。地学って自然科学の中でもなじみが薄くて、用語もよく分かんないし、と思って敬遠してしまったのだが、読んでみたら面白かった。いや、今は日本人必読の書ではないかと思っている。

 地震学者の今村明恒(1870-1948)によれば、日本列島の地震には、史料で確認できる限り、(1)7世紀末から9世紀、(2)16世紀末から18世紀初頭、(3)19世紀半ば以降、という三つの「旺盛期」がある。そして、これらの「旺盛期」は必ず「三陸沖に於ける地下大活動」によって代表される。本書は、第一の「旺盛期」に起きた地震・噴火を一つ一つ、政治や社会背景とともに詳細に追っていくのだが、この期を代表するのが、869年(貞観11年)の陸奥貞観大地震なのである。

 まず7世紀。664年に新羅の王都・慶州で大地震があった。と聞いてもそれだけの話だが、これが白村江の戦いの翌年と聞くと、当時の東アジアに大きな影響を与えた大事件であったことが推察される。正直、天智天皇はほっとしたことだろう。「隋書」倭国伝には阿蘇山噴火の記事があり、これが日本最古の火山資料だという。天武天皇時代に入ると飛鳥で地震の記事が相次ぎ、筑紫地震(M6.5~7.5)、白鳳南海地震(M8.25)が起きる。理科年表に歴代の推定マグニチュードが記載されていることは覚えておこう。

 8世紀、聖武天皇時代には長屋王事件が起きている。それに続く河内・大和地震は、長屋王の怨霊によるものと観念された。8世紀後半には、地震活動は一時的な静謐期に入ったが、代わって火山噴火が活発になる。なるほど、地震と火山噴火って、同時に起こるものではないんだ。大隅国の海底火山の噴火(京都まで音が聞こえた)、別府鶴見岳の噴火、霧島山など。800年(延暦19年)には富士山が噴火。

 9世紀の平安京では、新たな怨霊が跋扈し始めていた。皇位の継承をめぐって、後ろめたいところのある淳和天皇は、桓武天皇の怒りを恐れ、京都群発地震におののく。仁明天皇の時代には陸奥の火山噴火が活発になり、蝦夷の騒擾とあわせて王権を悩ませた。そして、地震に呪われたような文徳天皇を経て、清和天皇の時代に貞観地震(M8.3)が起きる。「三代実録」等の史料には、もちろん文飾もあるにせよ、振動、地割れ、家屋の倒壊、津波などの生々しく詳細な記録が残されている。

 非常に興味深く思ったのは、怨霊と地震が結びつけられていること。怨霊って、陰気な幽霊みたいなものを想像しがちだったが、もっと猛烈にアクティブなものだったんだな。歴代天皇が「群発地震に悩まされた」と考えると同情が湧く。しかも地震は、巨大な神霊が千万人の軍勢のような足音を立てて、遠くから近づいてくるイメージだったと聞くと、ひしひしと怖い。また今昔物語には、地霊の気配を「気色悪しくて、異なる香ある風の温かなる吹きて渡る」と描写した一節があり、これは静けさの中に怖さがある。

 地震は単独の現象としてあるのではなくて、雷電や噴火とつながり、また疫病とも結びついていた。本書は、9世紀までの地震・噴火を紹介したあと、日本人の災害観と神話について論じた「神話の神々から祟り神へ」という章が設けられている。確かに地震神(火山神)のスサノオは、疫神・牛頭天王と同一視されているのだな。9世紀の大地動乱の中で、民衆は、支配層から要請された「王宮の皇神」の復活に背を向け、より強力な祟り神を祀り(御霊会)、地域社会にその霊威を抱え込むことで国家や支配層に対抗しようとした。そして、ついには朝廷自ら御霊会を開催することになる。このあたりの、日本古来といわれる「神道」の変容の歴史は、日本人ならちゃんと知っておきたいもの。

 そして、いちばん気になったのは、応天門事件で罪に問われた伴善男は、怨霊になったと考えられるにもかかわらず、史料の上からその痕跡が注意深く消されているという指摘。ただ今昔物語だけがその消息を伝えている。ううむ、史料にはこういうこともあるのだな。貞観地震は伴善男の死去の翌年に起きている。「清和にとっての伴善男は、聖武にとっての長屋王のような存在」と著者は指摘している。

 歴史学と神話学と、さらに地震学の知見が盛りだくさんで、多面的に好奇心を刺激される。こういう研究は、史料の読解力にしても考古遺跡の発掘にしても、まず人材の育成に時間を要し、一朝一夕にイノベーションを起こして成果が示せるものではないけれど、絶対守らなければいけないと思った。

※著者のサイト:保立道久の研究雑記
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2016年4月:甲府ミニ旅行

2016-04-24 23:26:54 | なごみ写真帖
先週末、甲府に出張だったので、とりあえず武田神社には参拝してきた。2007年の大河ドラマ『風林火山』にハマって、史跡めぐりに来て以来だから、ずいぶん久しぶりになる。宝物館にはまだ、『風林火山』の内野聖陽さんと市川亀治郎さん(現・猿之助)の小さな写真が飾ってあって、懐かしかった。



この素敵な建物は山梨県立博物館。デザインは(株)梓設計だそうだ。ちょうど見たかった特別展『武田二十四将展』を楽しんでくることができた(レポートは後日)。会期中に売り切れるのではないかと言われていた図録も無事ゲット。



最後に、石和温泉駅の売店で売っていた「桔梗信玄餅クレープ」。冷たいアイスに黒蜜ときなこがマッチして美味! 全国展開してほしいな~。


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少女マンガの革命/少年の名はジルベール(竹宮惠子)

2016-04-23 20:42:20 | 読んだもの(書籍)
○竹宮惠子『少年の名はジルベール』 小学館 2016.4

 マンガ家・竹宮惠子さん(1950-)の自伝エッセイ。1970年の春、徳島大学在学中にデビューした新人マンガ家の著者が、安易に仕事を引き受け過ぎて収拾がつかなくなり、編集者に呼び出されて、東京に出てきたところから始まる。実家に電話がなかったので、隣家で編集者からの電話を受けるとか、缶詰先が八畳一間の旅館だったとか、懐かしい「昭和」の風景が怒濤のようによみがえってくる。1970年は大阪万博の年。私は少女マンガも少年マンガも大好きな小学生だった。

 20歳の著者は各社の缶詰旅館を泊まり歩いて仕事を続けた。そのとき、講談社の編集部で、たまたま九州から上京していた、やはり新人マンガ家の萩尾望都と出会って、お互いが同学年だと知る。すごい! 竹宮惠子と萩尾望都が20歳ですでに出会っているなんて…。うーん、誰と誰に喩えればいいんだ? 映画か小説みたいで、くらくらする。

 著者は萩尾望都さんから、彼女のファンでペンフレンドでもあった増山法恵さんを紹介され、意気投合する。やがて著者は、増山法恵さんの実家の斜め向かいのオンボロ長屋で、萩尾望都さんと共同生活を開始する。この「大泉サロン」に、彼女たちより少し下の世代の、プロやアマチュアのマンガ家たちが出入りするようになる。まだ高校生だった坂田靖子さん、花井悠紀子さん、ささやななえ(こ)さん、山田ミネコさん、佐藤史生さんなど、70~80年代の少女マンガで育った私には、懐かしい名前が並び、それぞれに特徴的な絵柄が目に浮かんでくる。増山法恵さんは、目指していたマンガ家にはならなかったが、映画や音楽など、豊富な知識で多くの少女マンガ家たちに影響を与え、特に著者とは、二人三脚で革命的な少女マンガを世に送り出すことになった。

 著者の代表作といえば、少年愛を描いた『風と木の詩』(1976年、連載開始)であるが、増山さんと出会ってすぐ、電話でその構想を語り合う場面がある。夜10時から明け方の6時まで喋りながら、どんどんイメージの輪郭が明らかになっていった。けれど、なかなか実作には取りかかれない。編集者は「今まで人気があった作品のスタイル」に固執する。彼らはほぼ全て男性。少女マンガの読者である少女が、本当は何を望んでいるか分かっていない。しかし、編集者を説得しなければ、読者にボールは投げられない。

 少年を主人公にした作品を描きたい著者は、予告と内容をすり変えた原稿を出すという暴挙に出て、担当編集者を呆れさせたりもする。ヨーロッパを舞台とした作品を描くには知識が足りないと自覚して、萩尾望都さん、山岸凉子さんらと45日間のヨーロッパ大旅行にも出かけた。成田空港に帰ったときは財布に500円しかなかった、という行動力と決断力が素晴らしい。大泉に帰れば、紙とペンがあれば、明日からなんとかなると思っていたという。こういうポジティブさは若者の特権なんだけど、最近は聞かなくなってしまったなあ。

 そして、若い編集者から、読者アンケートで1位を取ったら『風木』の企画を通してあげる、といわれて、必死で描いたのが『ファラオの墓』。結局、1位は取れなかったけれど、ストーリーの構想力に自信を深めて、ついに『風木』に取り掛かる。『風と木の詩』発表以後のことはあまり詳しく述べられていない。それはまた、別の機会に詳しく書いてほしいと思うが、著者にとっては、作品発表までの長い長い助走のほうが大切なのかもしれない。

 本書には、著者が萩尾望都さんに抱いていた憧れとライバル心が赤裸々に書かれていて、とても印象的だった。本人に会う前から作品を読んでいて、絶対に作者は男の人だと思い、「こういう才能だったら、結婚してもいいなって、勝手に思ってた」と萩尾さんに向かって言ってしまう。竹宮さん、かわいい。二人の共通の友人である増山さんは、萩尾さんの創作活動を評して「淡々と落ち着いてはいるが戦略的」と褒めた。著者が創作の方向性を失ってスランプに陥った時期、「別冊少女コミック」の編集者は、「何ページであろうと萩尾には自由に描かせる」と言い切るまでの信頼をおいていた。これは辛いなあ…。でも当時の一読者として、萩尾望都さんの安定感が抜群だったことには同意せざるを得ない。私は萩尾さんの愛読者であったが、竹宮さんの作品は、絵柄が少し古い感じがして、受け付けなかった。

 本書に書かれた著者の奮闘ぶりは、たぶん現在でも多くの若者、特に女性を元気づけると思う。古い社会の規範を変えようとして、頭の固いおじさんたちに行手を阻まれながら、同時におじさんたちに守られ、育てられたことも著者は忘れていない。少女たちは、同じ夢を持つ仲間を発見して勇気をもらうが、ライバルへの羨望や嫉妬にも葛藤する。いつの時代にも通じる成長と革命の物語である。
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東西交流の十字路/黄金のアフガニスタン(東京国立博物館)

2016-04-21 00:25:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・表慶館 特別展『黄金のアフガニスタン-守りぬかれたシルクロードの秘宝-』(2016年4月12日~6月19日)

 久しぶりの表慶館での展覧会。古くから『文明の十字路』として栄え、シルクロードの拠点として発展したアフガニスタン北部(=古代バクトリア)の発掘文化財を中心に展示し、「テペ・フローラル」「アイ・ハヌム」「ティリヤ・テペ」「ぺグラム」の4つの遺跡を紹介する。

 「テペ・フローラル」では1966年に金器・銀器が出土した。展示品は、素朴な幾何学文や獣文をもつ金杯の断片が3件。紀元前2100~2000年というから、気が遠くなるくらい古い。あまりに古すぎて、歴史の一部としてうまくイメージできない。一方、1964年に調査が開始された「アイ・ハヌム」は前3~2世紀頃の遺跡で、小さな金塊もあったが、ギリシア文明の影響を感じさせるコリントス式柱頭やヘラクレスらしき青銅像など、親しみやすい。ギリシア文字の銘のある石碑の台座や日時計もあった。銀盤に鍍金を施した『キュベーレ女神円盤』は、ギリシアの女神ニケや西アジアふうの神官たち、アナトリア(現トルコ)起源の地母神キュベーレなど、各種の文明が混淆した図様に注意が促されていたが、日本の宗教文化財を見ていても、だいたい文明って混淆するものだと思う。

 2階に進むと、1969年から断続的に発掘されてきた遺跡「ティリヤ・テペ」の紹介。これが本展の中心だろう。前2000年紀の中葉には拝火教神殿が建てられ、この神殿が大火で廃墟と化してから、400~500年後の前1世紀半ば、遊牧民の王たちがやってきて墓をつくった。1~6号墓のうち、4号墓の被葬者は男性、他は女性と見られており、いずれも大量の美麗な黄金で彩られている。女性には髪飾り・首飾り・耳飾り・指輪、男性には腰帯・短剣など。服に縫い付けたと思われる大量の小さな飾板も見られる。埋葬のための副葬品というより、生前からこれら黄金の装飾品を身にまとっていたのだろう。真珠や琥珀、ガーネットなどを嵌め込んだ細工は精巧である。トルコ石を用いたものは特に多く、黄金と明るい緑の対比が美しい。現代の宝飾デザイナーの作品と並べても全く遜色なさそうだ。

 興味深かったのは、6号墓で発見された、繊細な薄板で装飾された王冠と、藤ノ木古墳出土の黄金製冠が比較されていたこと(橿原考古学研究所附属博物館所蔵の復元品の写真と比較)。確かによく似ていて、ユーラシア大陸の西から東の果てまで駆けめぐった遊牧民族の文明が、海を越えて、日本まで渡って来たことを思わせる。この6号墓には「中国・前漢時代の鏡」が収められていたという解説も気になった(展示品はなし)。

 あと4号墓出土のものすごく小さい『インド・メダイヨン』(前1世紀第4四半期)の片面には、体の前で法輪を転がす人物像が彫刻されていて、最古の釈迦像ではないか、という注釈があった。ミュージアムショップにこれを拡大したコイン型チョコレートが売られていて苦笑しながら買ってしまった(※と思ったら、プレスタオルだったというオチあり)

 次に1936-46年に発掘された「ぺグラム」はクシャーン朝時代(1世紀)の王城の遺跡。大きな乳房とくびれた腰を持つ女性像などインド風の遺品が目立つ。その一方、色ガラスの魚形フラスコや彩絵ガラス、アラバスター(石材)の皿、ギリシア風の石膏のメダイヨンや青銅像などもあった。また原品はなかったが、中国・漢代の漆器が発見されているという解説が目に留まった。私の大好きな漢の武帝が張騫を西方に派遣してから、あまり時を隔てない時期の東西交流の物証である。

 再び1階に下りると、最後に日本が保管してきた「アフガニスタン流出文化財」の一部が展示されていた。このことについては、東京芸術大学大学美術館・陳列館の展示(無料)を併せて見ていただくことをおすすめしたい。会場冒頭のパネルに説明が掲げられているとおり、この展覧会は、「ティリヤ・テペの遺宝」を含むアフガニスタン国立博物館のコレクションが、2004年に大統領府で再発見されたことを記念する国際巡回展である。1979年のソ連の軍事介入から続く内戦と混乱の中で、博物館の職員たちは、とりわけ貴重な文化財を運び出し、大統領府地下の金庫に封印した。2004年、アフガニスタン・イスラム共和国が成立すると、金庫がひらかれ、文化財の無事が確認されたという。映画のようにドラマチックだ。

 アフガニスタンの政情・社会状況については、まだいろいろ問題があるように聞いているが、人類共通の宝である文化財が、ひとまず保護されたことはよかったと思う。博物館職員って、こういう緊急事態に冷静沈着に行動し、しかも秘密を守れる資質がないといけないんだな。再開を期してアフガニスタン国立博物館の入口に掲げられたという言葉「自らの文化が生き続ける限り、その国は生きながらえる」には胸を打たれた。逆にいえば、文化を失ったら、国のかたちなんて何もないと同様なのだ。
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藝大コレクション展とアフガニスタン特別企画展(東京芸大)

2016-04-18 22:52:04 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京芸術大学大学美術館 『藝大コレクション展-春の名品選-』(2016年4月2日~5月8日)

 恒例、春の芸大コレクション展。ところが、毎年、この展覧会で見るのを楽しみにしていた黒田清輝の『婦人像(厨房)』は東博の『生誕150年 黒田清輝』展で展示中。また、私は3月に埼玉で見た『原田直次郎展』が、神奈川県立近代美術館(葉山)に巡回中で、こちらに出ている近代洋画も多いはずである。さて、どんな感じかな?と思いながら行ってみた。

 冒頭には、破損の激しい月光菩薩坐像。腰を失い、断裂した上半身と下半身を木の柱が結びつけている。両腕もなく、頭部は両目の続きが割れている。片足を踏み下げた月光菩薩って珍しいんじゃないかと思って調べたら、東博の名品ギャラリーで『日光菩薩踏下像』を見つけた。「東京芸大保管月光菩薩像とともに、もとは高山寺薬師如来像に随侍していた像です。この三尊はさらに古くは京都府亀岡市の金輪寺の像であったといいいます」と注記あり。高く結い上げた髷、写実的で人間的な面持ちで、鎌倉仏?と思ったら、奈良(天平)時代の作だった。

 この会場は、いつも入口から左側の壁に沿って右回りに進むのだが、なぜか今回は左回りだった。『絵因果経』は恒例の出品。『小野雪見御幸絵巻』(鎌倉時代)はちょっと珍しいんじゃないかと思う。牛車の中の貴人(白河院?俗体だった)の姿が、かなり見えるように描かれているのが面白かった。白鳳時代の繍仏裂2件もあり。曽我蕭白の『群仙図屏風』は何度見ても、見れば見るほどすごいなあ。

 展示室の奥は『特集展示 藝コレの「60-70's」』のゾーンになっていて、これも面白かった。1960~70年代って、すでに確固とした「近代史」になりつつある。再び名品展に戻る。すごく目立たないところに高橋由一の『鮭』がいた。闇夜か暁かに咆哮する虎を描いた『猛虎一声』は山本芳翠の作品。最後に平櫛田中の『鏡獅子』があって、国立劇場のロビーにある同名の作を思い出した。

■東京芸術大学大学美術館・陳列館 東京藝術大学アフガニスタン特別企画展『素心 バーミヤン大仏天井壁画~流出文化財とともに~』(2016年4月12日~6月19日)

 東博の『黄金のアフガニスタン』にあわせて開催中の企画展(入場無料)。1階の展示室には、内戦の混乱の下、アフガニスタンから海外に流出し、日本で保護された文化財が展示されている。壁画や塑像(ストゥッコ)の断片など。2001年、バーミヤン大仏がタリバンに爆破された直後から、芸大学長であった故・平山郁夫氏は「流出文化財保護日本委員会」を組織し、日本にたどりついたアフガニスタン流出文化財を「文化財難民」を保護・保管する活動を始めた。年表によれば、2002年7~9月に芸大美術館で『アフガニスタン 悠久の歴史』展が開かれている。私はこの展覧会に強い印象を受けたことを覚えている。「ゼウス神像左足」は確実にこのとき見たものだ。流出文化財102点は、今回、東博で15点、芸大で87点の全点が展示されている。そして、アフガニスタンへの返還が正式に決まったのだという。あの展覧会から14年か。明けない朝はないのだとしみじみ思う。

 展示品は、人間や動物の小さな頭部がとても多い。そして、目の大きさ、鼻の高さ、顎のかたちなど、ひとつひとつ個性的で愛嬌がある。壁画は多くが仏像で、剥落で色彩が曖昧になっていても、顔だけはしっかり残っている(または後補されている)ものが多い。展示室の出口付近には、壁画片の複製があって、触ることができる。いかにも洞窟の壁から剥してきたらしい質感にドキドキした。

 アフガニスタン仏教遺跡のシンボルだったバーミヤンの東西の大仏は、2001年に破壊されてしまった。日本の京都大学中央アジア学術調査隊は1970年代にバーミヤン石窟の調査を行っており、東西の大仏の頭上に壁画があったことが分かっている。このたび、芸大プロジェクトスタッフは、東大仏の仏龕天井にあった太陽神の壁画の復元に取り組んだ。2階会場に上がると、原寸大の復元壁画が、見る者の頭上に広がっている。壁面の立ち上がりは、ごつごつした岩肌を模していた(触ってみた)。図録を読んだら、復元画像データをインクジェットプリンタで印刷し、構造体に貼り付ける手順らしい。すごい。前面の壁には、大仏の頭部から眺めたような地上の村と遠い山並みが映し出され、太陽の高さが刻々と変わっていく。

 なお文化財保護のため1,000円以上寄付すると、流出文化財全点(たぶん)のカラー写真+壁画復元の詳細を述べた『アフガニスタン流出文化財報告書』がいただける。普通に買ってもそれくらいの価値がある報告書だと思うので、絶対にお得。出口の学生さんに「復元した壁画は、この後どうするんですか?」と聞いたら「たぶん分解して保存します」とおっしゃっていた。以前、法隆寺金堂壁画の復元展示を見たときも、気になって同じようなことを聞いた記憶がある。芸大って、こういう復元品がどんどん溜まっているのかしら。仕舞い込まれているのはもったいない。

※参考:展覧会特設サイト
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伊勢物語絵巻を楽しみに/国宝 燕子花図屏風(根津美術館)

2016-04-17 22:49:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 特別展『国宝 燕子花図屏風-歌をまとう絵の系譜』(2016年4月13日~5月15日)

 根津美術館では、毎年この時期、『燕子花図屏風』が公開される。人気の作品だから、とにかくお客が多くて閉口する。一緒に並ぶのも『吉野龍田図屏風』や『武蔵野図屏風』など、おなじみの作品らしいので、今年はパスしようかと思っていたが、二つの理由で行くことにした。

 ひとつは今回のサブタイトル「歌をまとう絵の系譜」のとおり、作品の横(行ってみたら展示ケースのガラス面)に関連の和歌を大きく添える展示方法を取っているのだ。鑑賞者は、嫌でも和歌を意識しながら、絵画作品に向き合うことになる。これは面白いと思った。行ってみたら、『燕子花図屏風』だけではなくて、展示室1の壁面ケースに飾られた作品には全て和歌が添えられていた。『時代不同歌合断簡(藤原兼輔像)』(歌仙絵)や『紅葉流水図』(歌絵)のように、もともと画幅の中に記されていた和歌を掲示したものもある。『吉野龍田図屏風』は画中に何枚もの短冊が描き込まれており、その中から選んだ和歌が春と秋とそれぞれ添えられていた。

 『武蔵野図屏風』には「武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ」の歌。これは画中に書き込まれているわけではないが、当時の人々がこの屏風を見れば、誰もが思い浮かべた和歌である。現代人でも意味は取れる歌だが、「月は山の端に入るもの」という伝統意識を裏切っているから面白い、という点は分かるだろうか。会場に「出典不詳」とあったので、調べたけど、俗謡らしい。多少詞の異同はあっても、文献に採録されている初出は何なんだろう。知りたい。

 会場では、和歌に英訳が付記されていたのも面白かったが、どうしても説明過多で冗長な訳になっているものが多かった。一番いいと思ったのは、冒頭の兼輔像に付いていた「みじかよのふけゆくままに 高砂の峰の松風 ふくかとぞ聞く」で「As the brief night deepens, I think I hear the wind blowing through the pines on Takasago Peak」という。実は詞書に、清原深養父が琴をひくのを聞いてとあるのだが、和歌の表面にそのことが現れていないと同様、英訳でも琴を持ち出さないのがシンプルでよい。ちなみに『燕子花図屏風』の「からころもきつつなれにしつましあれば」は「Since I have a wife familiar to me, as the hem of a well-worn robes」って直訳なので苦笑した。

 大好きな光琳の『白楽天図屏風』が出ていたのは眼福。これには「苔衣きたるいわおの肩にかかり 衣きぬ山の帯をするかな」という和歌が付いていた。謡曲『白楽天』で、白楽天が漢詩を詠むと、すかさず住吉明神が同じ風景を詠んでみせた和歌のようだ(本文に異同あり)。和歌って日本文化の背骨のようなものだなあ、としみじみ思う。

 この展覧会を見に行った理由の二つ目は次の展示室にあった。室町時代(16世紀)の作とみられる個人蔵の『伊勢物語絵巻』全3巻。125段の本文と40段45図が描かれている。これを1室使って、ほぼ全面的に公開(広げられなかった場面は写真パネルで補足)。これが可愛い! 根津美樹館のホームページに小さな写真が載っていたのに惹かれて見に行ったら、想像以上によかった。「稚拙ながら雅味に富み」って書いてあるけど、決して下手ではない。寄り添う男女は色っぽいし、布引の滝の流れ落ちる水には躍動感がある。鷹揚で品のある、気持ちのいい画風だ。ただ、ところどころ描き込みが過剰で、前栽の菊が妙に巨大だったり、隅田川の都鳥の数が多すぎたり(狭い画面に10羽も)、出家した惟喬親王に業平が対面する感動の場面なのに、庭の池に鴨だのオシドリだのが賑やかに群れていたり、くすっとする場面が多い。

 芥川の段で昔男と背負われた女は、一体化してひとつの形になってしまっている。宗達の『伊勢物語図色紙』を彷彿とする情景。武蔵野で恋人たちを追い詰める追手が妙に強そうなのは、やっぱり武士が存在感を増した時代だからか。筒井筒の段(写真パネル)は井戸のかたちが面白かった。四角い井戸に背の高い木枠がついていて、これなら背比べに用いたことが納得できる。そのほかにも、高子の法要に持ち込まれた捧げもの(反物)のかたちとか、川辺の禊で用いる斎串(だろうか?)とか、興味深い風俗がたくさん描かれていた。これ、写真集を出してくれたら、絶対買うんだけどなあ。

 展示室5は「部屋を飾る小品たち」と題して、2010年に藤崎隆三氏から寄贈された中国陶磁器のコレクションを紹介。「当館のコレクションになかった古代の土器や戦国時代の陶器も含まれます」とあって、コレクションの充実は慶賀すべきこと。目を引いたのは、大ぶりな『緑釉博山酒尊』(後漢時代)。青磁に近い薄い緑色だった。また、唐代のまったりした白磁もきれいだった。展示室6は「初風炉(しょぶろ)の茶」。根津美術館の茶道具は、初風炉とか炉開きとか季節の変わり目の展示が、颯爽としていて好きだ。今回、館長自作の茶杓が展示されていた。
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説経節「をぐり」の背景/中世の貧民(塩見鮮一郎)

2016-04-15 22:34:50 | 読んだもの(書籍)
○塩見鮮一郎『中世の貧民:説経師と廻国芸人』(文春新書) 文藝春秋 2012.11

 ずいぶん前に読んだ著者の『貧民の帝都』(文春新書、2008)は、初めて聞く話ばかりでとても面白かった。そのあと、もう1冊『解放令の明治維新』も読んだ。これらは、基本的に史料に即して歴史を語る体裁を取っていたと思う。ところが、本書の主題は説教節の『小栗判官(をぐり)』で、数ある語りもの文芸の中でも、とりわけ奔放な文学的想像力が発揮された作品である。本書は『をぐり』の物語の進行に従いつつ、時には他の説教節『しんとく丸』『さんせう太夫』の世界にも深入りし、一編上人の足跡にも思いを馳せ、中世の日本各地を旅していく。蛇足ながら、本書の著者紹介を見て、著者が大学等の所属ではなく、出版社の編集部勤務を経て「作家」になられた方だいうことを初めて認識した。

 本書は、痩せさらばえた体を土車に乗せ、小田原の宿に向かう小栗の姿の描写から始まる。さきに「物語の進行に従い」と書いたけれど、ここは恐らく倒叙法が用いられていて、京の二条の大納言の家に、鞍馬の毘沙門天の申し子として生まれながら、成長すると「心不調な者」となって常陸の国に勘当され、武蔵の横山屋敷で毒を盛られて、餓鬼のような姿になってしまう。著者は物語の発端を語りなおしながら、説教節『をぐり』の生成過程を考え、京を舞台にした公家の嫡男の堕落と救済の物語と、関東を舞台にした野蛮で野卑な武将の運命が、接ぎ木されたのではないかと推測する。

 茨城県筑西市には小栗一族が実在した。15世紀、東国の大乱に巻き込まれて城落ちした悲劇の父子、小栗満重・助重が「をぐり」のモデルとも考えられている。筑西市の小栗城址も機会があったら行ってみたいが、それより、をぐりが毒を盛られた横山屋敷址が、東京都八王子市に横山神社として残っているというのに驚いた。全く絵空事だと思っていたので。

 をぐりの土車は東海道を下って、青墓の宿に至る。ここに横山党の娘・照手姫が水仕となって働いていた。ここであらためて、関東での二人のなれそめが語られる。この横山屋敷の段が私は大好きなのである。と言っても、説教節の本文を把握しているわけではないが、岩佐又兵衛作と伝える『小栗判官絵巻』の画面が目に浮かぶのだ。をぐりが人食い馬の巨大な鬼鹿毛を乗りこなすところ、毒を盛られて地獄に落ち、閻魔大王によって蘇生させられるところなど、とにかくドラマチックだ。著者がこの一段の改変(創作)について「ひとりの天才的な劇作家の介入」を想像している、と語るのには共感できる。

 そして照手姫が牢輿に閉じ込められて相模川に沈められ、観音の慈悲で流れ着いた「ゆきとせが浦」が、横浜市金沢区六浦だというのにも驚く。むかし住んでいた逗子の近所ではないか。「説経師がフィクションの地名を語ることはない」というさりげない著者の断定に、なるほどと思う。現代人が荒唐無稽に感じる物語でも、当時の人々は、実在の土地で実際に起きたことして聞いていたわけだ。その後、照手姫が転々と売られていく地名は、日本海側の港から京都へ至る物資の運搬ルートであり、人身売買のルートでもあった。また説経語りが往来した道であったとも考えられる。

 再生の地・熊野を目指すをぐりの土車は京の都を通過していくが、著者は少し立ち止まり、逢坂の関と蝉丸神社、清水坂、五条、六道珍皇寺など、や癩者、葬送にかかわった土地について語る。五条の橋(いまの松原橋)の東の橋詰めには、癩者を収容した長棟堂(ながむねどう)四棟があったという。五条通り(現在の松原通り)は京都のについて語るときのキーワードであるという。癩者たちが「ものよし、ものよし」と言祝いだとか、犬神人()たちが弓と弦を製造販売し、「つるめそ」と売り歩いたとか、生き生きした描写が面白い。こういう光景は、洛中洛外図屏風などには描かれないのだろうか。気になる。

 をぐりは大阪(難波)の四天王寺(ここも気になる寺院)を経て、熊野で再生を果たし、照手姫とも再会する。熊野にも行ったことはあるが、中世の熊野本宮は熊野川の白砂の中州にあって、「水に浮く浄土の幻影」のようだった、という記述にハッとした。もしかすると、海中に建つ安芸の厳島神社はここを模倣したのではないか、というのだ。たびたび熊野に詣でた清盛ならあり得る。

 一般に説経節とは、仏教の教説を分かりやすく語るものと説明されているが、庶民の多くは、救済よりも物語の慰謝、解脱よりも俗世間でも安逸を求めたのではないか、と著者はいう。「宗教関係者が説くほどには、あるいは歴史学者が記すほどには、仏教は下層の人びとの心をとらえてはいなかったのではないか」というのは、繰り返し考えてみたい問いかけである。
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聖戦イメージのつくりかた/戦争と広告(森正人)

2016-04-14 21:24:26 | 読んだもの(書籍)
○森正人『戦争と広告:第二次大戦、日本の戦争広告を読み解く』(角川選書) KADOKAWA 2016.2.25

 日中戦争と太平洋戦争の広告を題材に、戦争においてメディアが果たす機能を考える。ここで「広告」とは、人々にあるメッセージを知らせるメディアの意味で、本書は、博覧会や博物館における事物展示と報道雑誌における写真を主に取り上げる。これらは、絵画と異なり「本物らしさ」を強く感じさせる点が共通している。

 本書には、戦時中の『アサヒグラフ』『写真週報』の誌面が多数掲載されている。中には、笑ってしまうような稚拙な合成写真もないではないが、写真作品として、かなりいいと感じたものもあった。たとえば、広大な雪山を背景に銃を構える北辺警備の兵士を鉄条網越しに捉えた写真。静謐な光景がはらむ緊張感が伝わってくる(本書139頁)。あるいは出撃のため、各自の戦闘機に向けて走り出す特攻隊員たちを背後から捉えた写真(本書147頁)など。

 『写真週報』1943年の表紙は、銃剣を手に、手前から奥に向かって横一列に並んだ女性の写真(本書185頁)だが、低い視点で遠近感を強調し、手前の女性の大きさ(力強さ)が際立つ。たぶん効果的なビジュアルデザインの基本なのだろうけど、逆に、昨今、こんなに基本に忠実なデザインを見ることが少ないので、とても新鮮に感じる。「聖戦」を演出し、見たい(見せたい)ものだけを国民に見せようとしたプロパガンダに不愉快を感じつつ、デザインの力強い美しさには、単純に心が躍ってしまう。視覚文化というのは、難しい(因果な?)ものだと思った。

 本書には戦時中の「事物展示」に関する記述もある。支那事変(日中戦争)勃発の翌年にあたる1938年には、阪急西宮球場とその外園で「支那事変聖戦博覧会」が行われた。へええ。中国軍の飛行機、戦車、青龍刀などの戦利品あり、トーチカの体験施設あり、戦地ジオラマあり。蒙疆広場では遊牧民のパオに加えて、羊とラクダも展示。北京の姑娘がサービスする北京茶館や蘇州美人の刺繍実演もあったというから、まだ銃後の認識は平和な時代だったのかなあと思う。美学者の河田明久によれば、日中戦争は理念が曖昧だったため、日本兵と中国兵を善玉・悪玉として描き切れなかったこと、太平洋戦争期になるとこれがはっきりし、戦局が悪化するにつれて「あたかも宗教画における殉教図のような、『蹂躙される正義』のイメージ」に近くなっていくという指摘も、あわせてここに書き抜いておく。

 それから『写真週報』1943年の図版という「参戦中国の精強」も驚きだった。連合国に宣戦布告した「新中国」の兵士たちが剣道着で鍛錬に励む写真である。ここでいう「新中国」とは、親日派の汪兆銘政権のこと。もちろん汪兆銘政権のことは知っていたけれど、重慶政府に宣戦し「米英という真の悪との戦い」への参入に熱狂する「支那民衆」が視覚的に演出され、日本国民向けに発信されていたというのは、罪深いなあと思った。

 私見だが、素朴に自国の兵士を誇るのはまだいい。敵国を貶めるのもまあ許容しよう。見ていてやり切れないのは、一方的に「護られるべきもの」として描かれた人々の姿である。日本によって英米の支配から救い出されたアジア諸国・諸地域では、市民がこぞって日本兵を歓迎した。現地人は日本兵のために土地の開墾を進んで手伝った。「アジヤ ワ ヒトツ」って、こういう文脈で使われていたんだなあ(天心先生…)。指導する日本と指導されるアジアの上下関係は、報道写真において明確に固定化されている。この逆転は、わずかなりとも想像してはならないのだ。

 とりわけ私が嫌いなのは、指導する日本=大人・男、指導されるアジア=子ども・女という、民族的偏見にジェンダーバイアスが重なった記事や写真。いっそ日本兵が現地女性を殴り倒していればいいのだけれど、「やさしく手をとって教えてくれる兵隊さん」という見出しに吐きそうになる。実は、本書の序章には、2014年5月、安倍首相が集団的自衛権の必要を訴えるために使ったパネルの写真が掲載されていて、それが「弱い女性と子ども、それを守る男性」という、伝統的なフォーマットに即していることが語られている。問題は決して過去の戦争広告の話だけではないのだ。

 それにしても、戦争中の日本人は「個人主義」や「民主主義」が本当に嫌いだったんだなあということが、あらためて感じられた。私は戦後民主主義を享受して育った世代なので、昨今の「個人主義」「民主主義」バッシングが不思議でしかたないのだが、本書を読むと、わずか70年か80年前の嗜好に戻っただけか、と納得できてしまった。私は戻りたくないけれど。

 最終章は、21世紀における戦争の見せ方について語っている。博物館展示の「歴史修正主義的」な変化。論議を読んだ映画『永遠の0』。歴史が一つの解釈へ収斂され、ほかの解釈を許さないような状態は、その社会の活力を削いでしまう。酒井直樹氏のいう「ひきこもりの国民主義」は打開すべきものと考える。
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