写真は、山西省名物の”布老虎”。てのひらサイズで1匹3元(45円)也。
8年前の旅行のときに比べると、数は少なくなったけど、まだお土産屋の片隅で細々と売られていて懐かしかった。
あしたは職場の同僚たちに”里子”に出してしまうので、記念撮影。
■北京出発、帰国
最終日は、フリーで雍和宮を見学の予定だったが、車を出してくれるというので、チェックアウトを済ませ、于さんのガイド付きで、雍和宮を見学。農業展覧館に立ち寄って、お茶を飲んだあと、空港へ向かう。
この日も王部長のお喋りが止まらない。空港が近づくと、于さんが体を乗り出して、空港への進入経路を目視で確認しようとする。すると、王部長が笑って、 「前回、西遊旅行のツアーのときは、運ちゃんが曲がるところを間違えたんだよ。添乗員の斎藤さんが真っ青になってたよー」とのこと。
また、どこでどう聞き及んだのか、団長の石川さんに向かって、「私の息子は高校生ですが、将来、大学で日本語を専攻するとか、日本に留学するとかいうこ とになって、もしかして東大の図書館を利用させていただくことがありましたら、そのときは、ひとつ、館長、よろしくお願いいたします」と、石川さんを図書 館長扱い。
こうして、印象深い2人のガイドさんとお別れし、空港でチェックイン。あとは、免税店で、安いお土産でも買おうと思っていたのだが、何を見ても、目が眩 むほど高い! パンダチョコレート60元とか、ミニ月餅セット80元とか。冷静に日本の物価に換算すれば、1,000円から2,000円程度で、特に高くはないのだ が、”1食10元(150円)ビール付き”の生活を送ってきたので、すっかり金銭感覚が狂っている。結局、財布のヒモをゆるめることなく、帰国の途につい たのであった。
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■邯鄲市内、河北省へ
午前中は、再び社長の案内で、邯鄲市内を見てまわる。武霊叢台、邯鄲市博物館、黄梁夢(”邯鄲の夢”ゆかりの道教寺院)。邯鄲市博物館では、最近、マイブームの磁州窯の逸品を見ることができて、うれしかった。
この日は、北京まで走り倒す、最後の長距離ドライブが待っている。途中の石家荘は、昼食と、河北省博物館だけの予定だったが、道案内をかねて、初老の ローカルガイドさんが乗り込んできた。昼食後、河北省博物館に到着したのは13時半過ぎ。しかし、なんと、14時半まで昼休みで入れてもらえないという。 むかしの中国ではよくあったが、最近では想定外のシチュエーションだ。
博物館で十分な見学時間を見込みつつ、かつ、北京到着が遅くなり過ぎないように、朝から綿密な予定を立てていた于さんはがっかり。我々は、ローカルガイ ドさんに付いてきてもらって、近所の食品スーパーで、お土産を買う。池浦さんの買った、邯鄲銘酒120元が、この旅のお買い物の、たぶん最高額。
■北京到着
そんなわけもあって、北京市内に到着したのは、もう夜だった。宿泊先の東方文化酒店(どこかの研究所みたいな名前!)は、孔子廟や国子監、雍和宮に近い。3年前の北京ツアーで、さんざん歩きまわった一帯である。
高速道路を降りて、ホテルが近づいた頃、北京のローカルガイドの王さんが乗り込んできた。「いやいや、皆さん、お疲れさま~」と、夜も遅いのに、よく喋 る。于さんとは旧知の仲らしいが、「スルーガイドは于さんだと言ったら、オレの部下、こわがって誰も出たがらないんだよ。しょうがないから、部長のオレが 出てきたんだ」と、漫談の独演会。(ちょっと東文研の大木先生に似てるよなあ)
ホテル到着後、夕食を食べに出たが、あたりは”辣(ラー)”のお店ばかり。北京人は辛い味が大好き。「ここまで来てお腹こわしたくない」という、石川さ んの弱音を容れて、ホテルに戻ってレストランで食べる。最終日の夕食は、また1人10元コースに逆戻り。昨年の最終日、300元ディナーは何だったんで しょう・・・。
■安陽(殷墟)
午前中は、安陽で半日観光。ロータリーで、道案内だという旅行社のお姉さんと、日本語ガイドの女の子が乗り込んでくる。どちらも若い。ガイドさんは、日 本語を勉強中の、現役大学院生だという。これで車内は、運転手さんを入れると、日本人と中国人が、ちょうど5:5。ガイド付きのツアーというより、なんだ か中国人の団体と乗り合わせた気分。天寧寺塔と殷墟博物館を見学する。
殷墟博物館では、甲骨文字の刻まれた甲骨片の山にうずもれた人骨が、発掘現場のまま、展示されていた。「古代の図書館と図書館長さんです」と紹介されて、一同、苦笑。こうはなりたくないな~。
四川料理のレストランで昼食のあと、安陽のガイドさんたちとお別れ。河南省の観光が終わったので、洛陽から一緒だったローカルガイドさんも、バスターミ ナルで下車して帰っていった。しばらく車内が静かになったあと、突然、いちばん前の席の于さんが、慌て出す。「没了(メイラ)~!」と騒いでいるので、何 か無くしたらしい。運転手さんに「よく探せ」と言われている様子。ははあ、いつも首から下げているガイド証だな、と気づく。
思い出したのように我々を振り返り、「なくした」と半泣き顔。携帯電話でレストランを呼び出し、「食事の前まではあったんだ、テーブルの上を見てく れ!」と必死で頼んでいる。と、突然、声の調子が変わって、「有了(ヨウラ)、有了、有了!」。どうやら、カバンのポケットに、仕舞い忘れていたらしい。
■邯鄲(響堂山石窟)
河北省・邯鄲市郊外の響堂山石窟に到着。邯鄲の旅行社の総経理(=社長)が、自らローカルガイドを務めるという。ほかに、この石窟の説明ができる社員が いないから、という理由であった(ただし、北京のガイドさんの話を考え合わせると、疑わしい。→後述)。車を下りると、ポロシャツ姿のスマートな男性が 立っていた。
響堂山石窟は、南北2ヶ所に分かれる。最初に下り立ったところは「南響堂山石窟」で、ここはまあ、普通の寺院だった。それから車で20分ほど走ると、 「北響堂山石窟」に到着する。「下りましょう」と言われるままに車を下りて、山道を歩いていくと、前方に、壁のような険しい山が見えてくる。「あれです か?」と尋ねると、社長は平然と「あれです」と答える。
山の中腹の石窟まで、歩きやすい石段が続いているようではあるが、これは、どう見ても「登山」だ。我々もひるんだが、于さんのひるみ方は相当なもの。 「ほんとに? あれ、ほんとに登るの?」と半信半疑。ここでも、于さんは、山門前でリタイア。青年社長は表情も変えず、スタスタと山を登っていく。さすがこの地方の名士 らしく、山中で出会った老若男女は、みな、嬉しそうに社長に挨拶していた。我々も汗びっしょりになりながら、何とか石窟にたどりついた。
ここも、残念ながら、頭部の残っている仏像はほとんどない。(ヨーロッパの王宮のような)壁の唐草文様や、台座の火焔文様に、往時の華麗さを偲ぶだけである。
■夕食
夕食は、社長の勧めにより、キノコ鍋の店へ。「予算は1人30元(=450円)くらい。だいじょうぶね?」と、于さんが、我々貧乏人のふところ具合を心 配してくれる。しかし、当地では、中の上クラスのレストラン。個室に、給仕役の小姐がついて、1品ずつ鍋に入れ(日本の鍋物のように、ぐちゃぐちゃにしな い)、程よく煮えたところで、各人のお椀によそってくれる。よそわれると、食べずにいられないのが、貧乏人の性。結局、鍋がカラになるまで、完食してし まった。部屋をのぞいた于さんが、「ぜんぶ食べたね~」とびっくりしていた。
さて、私は、なんとかトランクの鍵が開かないかと種々試していたが、どうにもならないので、于さんからホテルのボーイさんに頼んでもらう。「人を寄こ す」というので、道具箱を持った職人さんでも来るのかと思っていたら、ちょいとガタイのいい男の子が、ペンチ1本とねじまわし1本を持って、ふらりとやっ てきた。開かなくなった外付けの鍵を、しばらくいじりまわしていたが、やがて決心を固めると、ものの5分もかからぬうちに、ペンチ1本でねじ切ってしまっ た。兄ちゃん、カッコいい!
翌日、北京で新しい鍵を買って付け替えた。
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■鄭州商城遺跡、河南博物院
鄭州に向かう途中の打虎亭漢墓は、これも有名な観光地ではないため、道を尋ねながらの到着。古代の生活を彷彿とさせる壁画が楽しかった。
久しぶりの大都市・鄭州に到着し、商城遺跡が窓から見える清真(イスラム式)餃子店で、一般客に混じって昼食。その後、繁華街の真ん中にある商城遺跡を見学。ここは、殷代初期の都城の址と言われている。発掘現場に併設する小さな博物館で、老先生が熱心に説明してくれた。
それから、河南博物院をゆっくり見学。石刻の名品が多い。しかし、憧れの館蔵名品”舌出し鎮墓獣”には会えなかった。残念~。続いて、鄭州市の博物館に も寄る予定だったが、「公務員の汚職摘発キャンペーン」の展示しかやっていないというので、参観中止。比較的早い時間に、市の中心部からかなり離れたホテ ルにチェックインする。
しかし、ホテルの周辺には、特におもしろいところもないので、結局、また、商城遺跡に近い市の中心部まで歩いて出る。夕食は、ちょっと奮発して、北京ダック。このあと、大雨になり、タクシーを捕まえてホテルに戻る。
さて、この日、私には困ったことが起きていた。トランクに外付けしていた鍵が壊れて、開かなくなってしまったのだ。そこで、ホテルに戻ったあと、雨が小 降りになったのを幸い、近所の小さなスーパーに買い物に行く。とりあえず、フェイスタオルと明日の着替え(Tシャツと下着)を買って戻る。まあ、これで、 何とかなるだろう。
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■登封、塔めぐり
登封は、不思議なところだ。登封という地名を聞いたことがなくても、「少林寺のあるところ」と説明すれば、たいがいの日本人は(西洋人も)納得するだろ う。街には、西洋人の姿が多い。しかも、静かに東洋趣味を楽しむ学究派や、落ち着いた老夫婦などではなくて、「少林寺」のロゴ入りTシャツを着た、マッ チョな青年が、やたらとウロウロしている。こういう中国の都市は他にないだろうと思われる。
この日は、さらに登封のローカルガイドさんが加わった。男性である。小柄だが、ひきしまった体つき、喋る日本語も、なんとなく武闘派の匂いがする。頭髪が薄いので、年齢がよく分からない(あとで、意外に若いことが判明した)。
午前中は、観星台、中岳廟を見学。昼食は、団体客用のレストランに連れていかれたが、量が多くて、半分以上、残してしまった。
午後は、中岳嵩山の中腹に点在する寺を訪ね、塔を見て歩いた。登封=少林寺=武術というのは、短絡的な連想で、この一帯には、古い仏教遺跡がたくさん 残っている。嵩岳寺塔は、中国最古(北魏時代)の巨大な磚塔である。中は吹き抜けの広いホールになっていて、子供たちがゴザを引いて、気持ちよさそうに寝そべっていた。塔の背景は、嵩山の稜線が、大きくうねる波のようで、美しい。
法王寺は、裏山のだらだら坂を登っていくと、形や時代の違ういくつもの塔が、次々に現れる。息のあがってしまった于さんは、ローカルガイドさんに後を任 せて、途中でギブアップ(それでもこのツアーの終了時には、体重が105キロ→102キロに減ったとか)。永泰寺でも、しばらく坂を登ったが、トウモロコ シ畑に阻まれて、塔のそばには寄れなかった。しかし、今日は文句のない青空。乾いた風が気持ちいい。口笛の似合う遠足気分である。
■少林寺
それから、電気自動車に乗って(中国の”世界遺産”では、これが大流行)少林寺に到着。混雑する境内を歩いたあと、歴代の高僧の墓地である塔林を見学し た。『天龍八部』では、少林寺も重要な舞台として登場するのだが、どこがどう、舞台になっていたかは、定かでない。今度、じっくりビデオを観賞してみよ う。
さて、少林寺の西北1キロに位置する初祖庵という庵室は、河南省に現存する最古の木造建築である。ガイドさんが「乗りものを頼みました」というので、何 が待っているのかと思ったら、ディーゼル・エンジンでのろのろ走る、耕運機みたいなトラック。荷台に乗せられ、木の枝に背中を擦られるようにして、細い山 道を走り抜ける。なかなかスリリング。初祖庵では、まだ若い尼さんが門を開けてくれた。なお、達磨大師が面壁九年の修行を行った洞窟は、この初祖庵に向か い合う峰の山頂にある。
■夕食、買いもの
観光を終えてホテルに戻る。この頃になると、我々が、無理をしているわけでも、意地を張っているわけでもなく、「安くて少ない食事で満足する貧乏人」だ と、ようやく分かってきた于さん、「夕食なら、ホテルの前を左にいくと、小吃(シャオチー)やラーメンのお店があるよ」と教えてくれた。”好消息(耳寄り 情報)”に従い、蘭州ラーメンの店を見つけて入る。ちょっと甘いものが欲しかったので、抜絲香蕉、つまり、バナナの大学イモ仕立てを注文。美味しい!!
満腹はしたものの、思い残しが1つだけある。お土産に「少林寺」のロゴ入りTシャツがほしい。昼間、少林寺の周辺で買い逃してしまったら、ホテルの売店にはない。もしやと思って、別のホテルの売店まで遠征してみたが、やっぱりなかった。
あきらめ切れない帰り道、「念のため」街のスーパーでも探してみることに。男性2人を入口に待たせて、2階に上がると、広い衣料品売り場である。さて、 どうやって探そうか、と思っていると、店員のおじさんが、まさに少林寺Tシャツを持って近づいてくるではないか。菅野さんの「吉祥如意」のおかげ? 大喜びで呼び止め、あれこれ選んで、商品をGET。待たせた男性陣に報いようと、階下の食品売場でビールを買って戻ると、既に池浦さんは自主的に缶ビール を買って、立ち飲みしながら待っていた。
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■龍門石窟、白楽天の墓
今日から、河南省のローカルガイドさんが加わる。山西人らしく、気性の荒い于さんとは対照的に、万事穏やかで優しい雰囲気の女性。車中の話し相手ができた于さんは、ちょっとご機嫌。
まず、山西省の雲崗と並び、中国三大石窟に数えられる龍門へ。日本人には、こちらのほうが人気が高いと思うが、私見では、奉先寺洞の三尊は、容貌が端麗 過ぎて、仏像としての魅力に欠けると思う。今回のメンバーは、いずれもここは2度目あるいは3度目だったので、ちょっと趣向を変えて、対岸にある白楽天の 墓を訪ねてもらうことにする(それにしても、龍門石窟はショートカットし過ぎ!)。
「白楽天は山西省太原の人です」と、同郷の誇りを主張する于さん。しかし、洛陽のガイドさんは「そうだったかしら?」と疑問顔。碑文によれば、白氏は太原の出である、とは書いてあるが、白楽天が太原生まれであるとは書いていなかったので、この勝負、引き分け。
三国志の英雄・関羽を祀った関林では、見学の間に、記念のハンコを彫ってもらう。画数の少ない私の名前を、なかなかカッコよく彫ってくれた。洛陽市博物館、古墓博物館は、時間をたっぷり取ってもらって堪能。夕刻、嵩山のふもとの登封市に到着した。
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■河南省まで
今日で山西省とはお別れ。函谷関を経由して、河南省の洛陽まで走る。午前中は、車に乗りっぱなしの長旅である。
これに先立つ4日目のこと、ガイドの于さんから、我々に「クレーム」の申し入れがあった。このツアー、数年前から、我々は、当初の予約金の中に昼食・夕 食代を含めないスタイルを取っている。と言っても、だいたいは、現地でガイドさんが案内してくれるお店に文句を言ったことはないし、トラブルもなかった。
しかし、于さんは、こういうスタイルは初めてだと言う。初日、自分と運転手の昼食・夕食代は、出してくれないかという申し出が、団長の石川さんにあった らしいが、結局、その件はうやむやになって、于さんがずっと運転手さんの食事代を払っていた。中国では、団体用の定食コースを用意しているレストランに入 ると、運転手とガイドの食事は、自動的に付いてくるらしい。これがあるとないとでは、ガイド商売の収支に大きな違いが出るわけだ。しかも、一品料理の調理 は、コースに比べて時間がかかる。そこで、少なくとも昼食は、団体客用のコースにしてほしいというのが「クレーム」の1つ目。
それと、我々が、あまり于さんに積極的に話しかけないので、喋りたがりの于さんは、業を煮やしていたらしい。「もっと私を信用して、何でも聞いてほしい」というのが「クレーム」の2つ目。
そんなこともあったので、この日、長旅の車中では、石川さんが気をつかって、さかんに于さんに会話の水を向ける(さすが、渉外係長!)。
その結果、学生時代、「そばに図書館があったから勉強できたんだよ」という于さんの波乱の半生記から、山西省を牛耳る石炭会社の横暴・非道ぶり、共産党 幹部のゴシップ、河南人の悪口など、いろいろな話を聞かせてもらった。個人的に、いちばん興味深かったのは、貴州で発見された石に「中国共産党亡」という 文字が刻まれていたという話。ホントらしい。
■函谷関、千唐志斎
黄河を渡り、河南省に入る。函谷関には、「鶏鳴狗盗」の故事にちなんで、大きなニワトリの像があり、小さなポケットにコインを投げ入れると、ニワトリを 鳴かせることができる。女性3人が挑戦したが、中村さんも江川も失敗したあと、菅野さんが見事成功!「吉祥如意(何でも思いどおり) 」のお墨付きをもらった。
洛陽の手前、新安県にある千唐志斎は、唐代の墓誌を中心に、西晋・北魏から清、民国に至る1400点以上の墓誌・石刻を、タイルのように建物の壁に塗りこめて展示している。もと、張鈁という人の個人コレクションだそうだ。
観光地としては、まだ一般的でないため、何度も通行人に道を聞き、迷いながらの到着だった。建物と庭園はなぜか洋風。時間と場所の感覚が失われて、異空間に迷い込んだような、不思議な浮遊感を味わうことができる。
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■喬家大院、平遥
太原から、再び南下を開始。鞏俐(コン・リー)主演の映画『紅夢』(原題『大紅灯籠高高掛』)のロケ地として有名な、喬家大院を見学。平日というのに、何組もの団体客がひしめき合い、ものすごい混雑である。
そして、平遥古城に到着。ここは、街を取り囲む城壁が、奇跡的に残っており、明清時代の城址の姿を伝えている。一見、映画のセットのような街だ。古城の 前で、周遊チケットを買ったあと、近隣の古刹、鎮国寺、双林寺を見てまわる。中国の寺にしてはめずらしく、建築にも仏像にも、あまり修復の手が加わってい ないのが嬉しい。つっかえ棒の丸太で支えられた堂于、雨ざらしの壁画など、このまま朽ちていくのは心配だが、それでもいいような気がする。
再び城内に戻り、輪タクに分乗して、日昇昌記(中国票号博物館)、孔子廟、城隍廟などをまわる。以前より、英語の看板や、観光客相手の商売が増えたような気もするが、あまり大きな変化はないようだ。
山西省には、中国に現存する唐宋以前の建築物の7割が集まっている。なぜ、こんなふうに古建築が残ったかというと、于さんによれば、「山西省が貧乏だっ たからだよ」とのこと。確かに、江南のように豊かな地方では、金持ちが、寺院や住宅・庭園の築造・修復を繰り返したから、古いものは残っていないのだ。
夕食も城内の観光レストランで食べることにしたので、輪タク観光を終えたあとは、しばらく徒歩で城内を散策する。レストランで休憩の于さんに代わり、輪 タクの親方が付き添ってきて、ときどき、カタコトの日本語で、漆工芸など、高級品の土産店に我々を誘導しようとするが、功を奏しない。ふと、菅野さんが、 じっと道端を見つめていたかと思うと、おもむろに磚(せん)、つまり焼きレンガを拾い上げ、嬉しそうに手提げ袋にしまい込んだ。東京に持って帰って、作品 の素材にするためである。親方は目を丸くして見ていた。こんな日本人、初めてだろうね~。
夕食後は、再び輪タクに乗り、城外のホテルまで送ってもらった。旧城内の裏通りは、街灯らしい街灯もなく、日が落ちると真っ暗になってしまう。昔と変わらぬ暮らしぶりを見て、安心していいものか、ちょっと複雑な思いだった。
なお、この日のホテルは、一見、瀟洒な高級家具を揃えたように見えて、実はハリボテ並み。テレビ・冷蔵庫があるのに、電気が通ってなかったり。石川さ ん・池浦さんの部屋では、お風呂のお湯が出ないので、フロントを呼んだところ、その場で大改修工事が始まってしまったとか。
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■天龍山石窟
薄暗い曇り空の下、天龍山石窟に向けて出発。ときどき、激しい雨足が車窓を叩きつける。「私は雨の中でガイドしたことないんだから、絶対晴れるよ」と于 さんは強気だが、我々はひそかに「今日は“山”だからなあ・・・」と思っている。我々の「高いところに行くと悪天候になる」というジンクスは、今のとこ ろ、崩れる気配がない。
車は、勾配のきつい山の斜面をひたすら上がっていく。山頂近くまで上がって、徒歩で下りながら石窟を見るのが、定番コースのようだ。現地に到着すると、 なんとか傘なしでも外を歩ける状態だった。于さん、えらい! しかし、深い霧がかかって、眺望は絶望的。雨男の池浦さんと、晴れ男の于さんの戦い(?)は、どうやら引き分けというところか。
「天龍山石窟」の名前は、日本人には、なじみ深いものだ。大正7年(1918)、関野貞の踏査によって、世界に紹介された石窟で、東京国立博物館、根津 美術館、大阪市立博物館など、各地の美術館・博物館で、仏頭など、その請来品を見ることができる。しかし、日本と欧米諸国の探検隊によって、名品は、現地 から、根こそぎ持ち去られてしまった。
天龍山石窟の中心に位置する楼閣には、左右に文殊・普賢を従えた巨大な十一面観音立像が残されているが、古い写真を見ると、いずれも頭部がない。現在は、頭部が復元されているが、いっそ、「強奪」の結果を、そのまま残しても良かったのではないかと思う。
■山中の遭遇
山頂付近の石窟を見終えて、山道を下っていくと、ボソボソと日本語の話し声が聞こえてきた。2人組の男性が、別の道を下ってくるところだった。もう1 人、付き添っているのは、上下グレーのジャージ姿で、ズボンの裾を少しまくり、スニーカーを履き、お茶の瓶を片手にぶらさげた貧相なおじさんである。”日 曜日のお父さん”が、寝巻のまま、ちょっと表に出てみた、という雰囲気だった。
このお父さんと、ガイドの于さんは、どちらからともなく挨拶を交わすと、連れ立って話し込んでいる。ガイド仲間なのかしら?と思って見ていると、しばら くして振り向いた于さんが、「山西省博物館の館長さん」だと言う。ひえ~。ちなみに、館長に案内されていた男性2人組は、上野の東京文化財研究所からの来 客だったらしい。
于さんの話によれば、昨年、日本の書道団体が、山西省博物館で展覧会を行い、そのレセプション・パーティで、自分は司会をしたので、館長の顔を覚えてい たと言う。「今年も同じ催しがあるのに、なぜ君はこんなところにいるのか」と、館長に聞かれたのだそうだ。そこで「えっ!?」と菅野さんが驚く。その書道 団体というのは、まさしく菅野さんが所属するもの。ということは、昨年、レセプションに出席した菅野さんのお友だちは、于さんに会っているはず・・・。偶 然が偶然を呼ぶ、山中の奇遇であった。
■晋祠、山西博物院
山を下りた頃から、雨は本降りになり、晋祠は、さすがに頑固な于さんも傘を差しての観光となった。
市内に戻り、博物館に向かう。山西省の博物館は、従来、市内の孔子廟と道教寺院の建物を、第一部・第二部として利用していたが、最近、汾河の川岸に、巨 大な新館が建設された。中国では大規模な博物館に限って“博物院”の名称を使うが、山西博物院は、故宮(北京)、上海、南京、河南に続く5つ目の博物院だ という。
しかし、于さんの話では、我々の到着する1週間ほど前、大雨で汾河が氾濫し、太原の町は大混乱に陥ったという。川岸の博物館も地下に水が流れ込み、当 分、開館の目途が立たないということだ。博物館の駐車場に車を止めて、于さんが交渉に向かったが、やはり入館は不可。外観の写真を撮って、引き上げるしか なかった。山西省の文物を誇りとする、太原出身の于さんも、残念でたまらない様子。我々は、これでまた、いつか、山西省に来なければならないことになって しまった。なかなか中国の旅は終わらない。
そのあと、旧・山西省博物館を見学。菅野さんの団体の書道展は、この第二部(道教寺院)で開かれていたはずだが、前日で終了し、まさに会場撤去の最中 だった。残っていた垂れ幕の前で記念写真を撮って、おしまい。まあ、それでも、大洪水の影響もなく、書道展は予定どおり開催されたと聞いて、菅野さんも一 安心。
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