○東浩紀、北田暁大『東京から考える:格差・郊外・ナショナリズム』(NHK Books) 日本放送協会 2007.1
ともに1971年生まれ、東京郊外に育ち、東京近郊で暮らし続けているふたりの若手研究者の対談。私は、年齢こそ彼らよりひとまわり上だが、やはり東京近郊を出たことがない。東側の下町で育ち、大学生のとき、家族と共に23区の西側に引越した。だから、北田さんの言う「荒川区と足立区の差異」もよく分かるし、中央線沿線を「サブカルと全共闘の夢にまどろんでいるテーマパーク」という東さんの分析にも、実感を持ってうなずける。私も中学受験の経験者なので、狭い「地元」とのつながりが希薄で、通学先の都心を「ヴァーチャルな地元」と感じる気持ちにも共感できる。そのほか、「柏」も「横浜」も「青葉台」「下北沢」「池袋」も、いちいち実感できるところが多くて面白かった。
東京を語るには、古典的な「山の手/下町」から、森川嘉一郎が『趣都の誕生』で示した「渋谷/秋葉原」まで、さまざまな対立軸が想定されてきた。本書の対談が進むうち、次第に明らかになってきたのは、「ジャスコ化」もしくは「国道16号線化」というキーワードである。
国道16号線とは、関東近県を結ぶ環状道路である。地図で示せば、こんな具合だ。ファミレス、コンビニ、ファーストフード、ジャスコなどの大型スーパーが軒を連ね、どこまで行っても均質な消費空間が展開する。それは、60~70年代のニュータウンが、アメリカのアッパーミドルクラスの居住地を手本に作り上げた「古典的郊外」とは異なり、80年代以降、大都市の周辺に出現した「新しい郊外」の風景である。
「ジャスコ的空間」は、歴史や共同幻想を必要としないという意味では「動物的」である。しかし、リアルな生活者にとっては、安全で清潔で、適度にバリアフリーで、住みやすい空間でもある。人間工学の観点から、安全や快適さを求めれば、街は多様性を失い、「ジャスコ化」せざるを得ない。いまや、渋谷や恵比寿、六本木においても「ジャスコ化」は着実に進行しつつある。
これに対して、たとえば下北沢のような、個性ある街を存続させたいと煩悶するのが北田暁大氏である。一方、東浩紀氏は、この現象を、わりあい肯定的に受け止めている。この対照には、同じ時代、同じ場所に育った両者の、社会観の違いが見て取れて興味深い。子どもを育て、世代の継続性を受け入れようとしている東さんと、そうでない(のかな?)北田さんのライフスタイルの差にも対応しているように思われる。
やや本筋を外れるが、ベストセラー『下流社会』(三浦展)に対する、東さんの批判はスルドイ。六本木の億ションに住む高額所得者たちは、見かけもライフスタイルも「アメリカ的=ジャスコ的」文化と親和性が高く、ほとんど識別できない。『下流社会』では、たとえば街頭で寝ている若者の写真に、「希望を失った若者が倒れこんでいる」云々というキャプションが付いている。だが、「その被写体の若者を起こしたら、実は資産1億の若手IT起業家かもしれない」。確かに(笑)。「文化資本」の有意性が成立していない社会で、「格差」「階級」とは何を意味するのか。「収入」だけを意味するのだとしたら、実に身もフタもないなあ。
余談であるが、「人間工学的な正しさ」という規範強制力の増大は、社会のさまざまな局面で観察されるように思う。私は、大学という空間の「ジャスコ化」についても考えてしまった。安全、快適、効率と引き換えの画一化。こういう流れでいいのかなあ。著者のおふたりは、どうお考えだろう?
ともに1971年生まれ、東京郊外に育ち、東京近郊で暮らし続けているふたりの若手研究者の対談。私は、年齢こそ彼らよりひとまわり上だが、やはり東京近郊を出たことがない。東側の下町で育ち、大学生のとき、家族と共に23区の西側に引越した。だから、北田さんの言う「荒川区と足立区の差異」もよく分かるし、中央線沿線を「サブカルと全共闘の夢にまどろんでいるテーマパーク」という東さんの分析にも、実感を持ってうなずける。私も中学受験の経験者なので、狭い「地元」とのつながりが希薄で、通学先の都心を「ヴァーチャルな地元」と感じる気持ちにも共感できる。そのほか、「柏」も「横浜」も「青葉台」「下北沢」「池袋」も、いちいち実感できるところが多くて面白かった。
東京を語るには、古典的な「山の手/下町」から、森川嘉一郎が『趣都の誕生』で示した「渋谷/秋葉原」まで、さまざまな対立軸が想定されてきた。本書の対談が進むうち、次第に明らかになってきたのは、「ジャスコ化」もしくは「国道16号線化」というキーワードである。
国道16号線とは、関東近県を結ぶ環状道路である。地図で示せば、こんな具合だ。ファミレス、コンビニ、ファーストフード、ジャスコなどの大型スーパーが軒を連ね、どこまで行っても均質な消費空間が展開する。それは、60~70年代のニュータウンが、アメリカのアッパーミドルクラスの居住地を手本に作り上げた「古典的郊外」とは異なり、80年代以降、大都市の周辺に出現した「新しい郊外」の風景である。
「ジャスコ的空間」は、歴史や共同幻想を必要としないという意味では「動物的」である。しかし、リアルな生活者にとっては、安全で清潔で、適度にバリアフリーで、住みやすい空間でもある。人間工学の観点から、安全や快適さを求めれば、街は多様性を失い、「ジャスコ化」せざるを得ない。いまや、渋谷や恵比寿、六本木においても「ジャスコ化」は着実に進行しつつある。
これに対して、たとえば下北沢のような、個性ある街を存続させたいと煩悶するのが北田暁大氏である。一方、東浩紀氏は、この現象を、わりあい肯定的に受け止めている。この対照には、同じ時代、同じ場所に育った両者の、社会観の違いが見て取れて興味深い。子どもを育て、世代の継続性を受け入れようとしている東さんと、そうでない(のかな?)北田さんのライフスタイルの差にも対応しているように思われる。
やや本筋を外れるが、ベストセラー『下流社会』(三浦展)に対する、東さんの批判はスルドイ。六本木の億ションに住む高額所得者たちは、見かけもライフスタイルも「アメリカ的=ジャスコ的」文化と親和性が高く、ほとんど識別できない。『下流社会』では、たとえば街頭で寝ている若者の写真に、「希望を失った若者が倒れこんでいる」云々というキャプションが付いている。だが、「その被写体の若者を起こしたら、実は資産1億の若手IT起業家かもしれない」。確かに(笑)。「文化資本」の有意性が成立していない社会で、「格差」「階級」とは何を意味するのか。「収入」だけを意味するのだとしたら、実に身もフタもないなあ。
余談であるが、「人間工学的な正しさ」という規範強制力の増大は、社会のさまざまな局面で観察されるように思う。私は、大学という空間の「ジャスコ化」についても考えてしまった。安全、快適、効率と引き換えの画一化。こういう流れでいいのかなあ。著者のおふたりは、どうお考えだろう?