○松本清張『小説東京帝国大学』上・下(ちくま文庫) 筑摩書房 2008.3
1965年6月から雑誌『サンデー毎日』に連載され、1969年12月に新潮社から刊行されたもの。ちなみに同年1月には、安田講堂で学生と機動隊の衝突が起きている(成田龍一氏の解説を読むまで、そんな時代背景には全く気づかなかった)。
私が東大の歴史に興味を持ち、有名な事件をひととおり知ったのは、2005年に刊行された立花隆氏の大著『天皇と東大』を読んでからである。本書は、明治35年(1902)の哲学館事件から始まるが、続いて、翌年の戸水事件に筆が及ぶと、ああ、あの一件か、とすぐに合点がいった。日露戦争の講和条件をめぐって、法科大学教授の戸水寛人らが、政府の弱腰を批判し、対ロシア強硬策を訴えた事件である。戸水は休職、山川健次郎総長は免官を命じられた。東大・京大の教授たちは、これを大学の自治と学問の自由への侵害と捉え、総辞職を宣言した。その結果、戸水は復職。山川は東大には戻らなかったが、のち京大・九州大の総長になっている。
戸水事件の評価は難しいが、その後の滝川事件などに比べれば、なんとか「学問の自由」が守られたように見える。立花隆氏も、当時の『時事新報』の社説を引いて、日本では政府と大学が一体化しているところに根本的な問題があると指摘しながらも、「大学の団結力の前に政府が敗北したのはこのときだけで、あとは大学側が敗北に次ぐ敗北を重ねていく」と書いているので、この一件だけは「大学の勝利」と認めているようだ(立花氏の『天皇と東大』には、本書への言及はなし)。
ところが、松本清張の評価は、もっと辛い。明治39年に発表された鳥谷部春汀の意見を引いて言う。教授たちの唱える大学の独立、学問の自由は単なる口実であると。当時の文部大臣・久保田譲は学制改革の急先鋒だった。学制改革とは、近代日本の教育制度の「ねじれ」を背景にしている。最高学府である帝国大学は、文部省とは無関係の起源を持ち、教育程度が高すぎて、小中学校の普通教育と上手くつながらない。この弊害を是正することが茗渓派(師範学校閥)の官僚たちの念願で、帝国大学の権威を守ろうとする大学派(帝大閥)は猛反対だった。この戸水事件は、要するに大学人たちによる「久保田文相追い落とし」が真相だったというのである。
さらに著者は、教授たちが戸水を擁護できたのは、この問題が「皇室の尊厳と衝突することではなかった」からだ、と鋭く本質をつく。明治25年、文科大学教授の久米邦武が「神道は祭天の古俗」という論文によって辞職に追い込まれたときは、誰ひとり「学問の自由」を主張しなかった。「帝国大学教授の本質がここに露骨なまでに現れている」と手厳しい。
本書は、続いて明治41年9月から本格的に着手された国定教科書の改訂と、南北朝正閏問題に触れる。そもそも教科用図書調査委員総会で、南北朝併立を書き入れるよう主張したのが、山川健次郎と加藤弘之だったとは! このシーン、あまりにも小説的だと思ったけれど、当然、何かの典拠があるのだろう。
渦中の人となる喜田貞吉の人物像もよく書けている。史実に対する学者らしい誠実さと、いくぶん倣岸不遜で無愛想なところも。明治44年、喜田は休職を命じられるが、このとき、文部省や政府に楯ついた帝国大学教授は誰もいなかった。なお、この南北朝正閏問題も、実は国定教科書から締め出された私立大学(早稲田)教授連の、文部省と帝国大学に対する反感から発しているという説もある。どこまでも生臭い話だ。その後の喜田は不遇に見られているが、広い分野で数々の著作を残したという。著者が「こういう幅の広い学者は現在ではいない」と評価しているのが、なんとなく嬉しい結末だった。
■参考:加藤秀俊著作データベースより
「茗渓派」で検索したら、たまたま見つけた論文。
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/3176.html
1965年6月から雑誌『サンデー毎日』に連載され、1969年12月に新潮社から刊行されたもの。ちなみに同年1月には、安田講堂で学生と機動隊の衝突が起きている(成田龍一氏の解説を読むまで、そんな時代背景には全く気づかなかった)。
私が東大の歴史に興味を持ち、有名な事件をひととおり知ったのは、2005年に刊行された立花隆氏の大著『天皇と東大』を読んでからである。本書は、明治35年(1902)の哲学館事件から始まるが、続いて、翌年の戸水事件に筆が及ぶと、ああ、あの一件か、とすぐに合点がいった。日露戦争の講和条件をめぐって、法科大学教授の戸水寛人らが、政府の弱腰を批判し、対ロシア強硬策を訴えた事件である。戸水は休職、山川健次郎総長は免官を命じられた。東大・京大の教授たちは、これを大学の自治と学問の自由への侵害と捉え、総辞職を宣言した。その結果、戸水は復職。山川は東大には戻らなかったが、のち京大・九州大の総長になっている。
戸水事件の評価は難しいが、その後の滝川事件などに比べれば、なんとか「学問の自由」が守られたように見える。立花隆氏も、当時の『時事新報』の社説を引いて、日本では政府と大学が一体化しているところに根本的な問題があると指摘しながらも、「大学の団結力の前に政府が敗北したのはこのときだけで、あとは大学側が敗北に次ぐ敗北を重ねていく」と書いているので、この一件だけは「大学の勝利」と認めているようだ(立花氏の『天皇と東大』には、本書への言及はなし)。
ところが、松本清張の評価は、もっと辛い。明治39年に発表された鳥谷部春汀の意見を引いて言う。教授たちの唱える大学の独立、学問の自由は単なる口実であると。当時の文部大臣・久保田譲は学制改革の急先鋒だった。学制改革とは、近代日本の教育制度の「ねじれ」を背景にしている。最高学府である帝国大学は、文部省とは無関係の起源を持ち、教育程度が高すぎて、小中学校の普通教育と上手くつながらない。この弊害を是正することが茗渓派(師範学校閥)の官僚たちの念願で、帝国大学の権威を守ろうとする大学派(帝大閥)は猛反対だった。この戸水事件は、要するに大学人たちによる「久保田文相追い落とし」が真相だったというのである。
さらに著者は、教授たちが戸水を擁護できたのは、この問題が「皇室の尊厳と衝突することではなかった」からだ、と鋭く本質をつく。明治25年、文科大学教授の久米邦武が「神道は祭天の古俗」という論文によって辞職に追い込まれたときは、誰ひとり「学問の自由」を主張しなかった。「帝国大学教授の本質がここに露骨なまでに現れている」と手厳しい。
本書は、続いて明治41年9月から本格的に着手された国定教科書の改訂と、南北朝正閏問題に触れる。そもそも教科用図書調査委員総会で、南北朝併立を書き入れるよう主張したのが、山川健次郎と加藤弘之だったとは! このシーン、あまりにも小説的だと思ったけれど、当然、何かの典拠があるのだろう。
渦中の人となる喜田貞吉の人物像もよく書けている。史実に対する学者らしい誠実さと、いくぶん倣岸不遜で無愛想なところも。明治44年、喜田は休職を命じられるが、このとき、文部省や政府に楯ついた帝国大学教授は誰もいなかった。なお、この南北朝正閏問題も、実は国定教科書から締め出された私立大学(早稲田)教授連の、文部省と帝国大学に対する反感から発しているという説もある。どこまでも生臭い話だ。その後の喜田は不遇に見られているが、広い分野で数々の著作を残したという。著者が「こういう幅の広い学者は現在ではいない」と評価しているのが、なんとなく嬉しい結末だった。
■参考:加藤秀俊著作データベースより
「茗渓派」で検索したら、たまたま見つけた論文。
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/3176.html