見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

1960年代の「天皇と東大」/小説東京帝国大学(松本清張)

2008-03-31 00:33:05 | 読んだもの(書籍)
○松本清張『小説東京帝国大学』上・下(ちくま文庫) 筑摩書房 2008.3

 1965年6月から雑誌『サンデー毎日』に連載され、1969年12月に新潮社から刊行されたもの。ちなみに同年1月には、安田講堂で学生と機動隊の衝突が起きている(成田龍一氏の解説を読むまで、そんな時代背景には全く気づかなかった)。

 私が東大の歴史に興味を持ち、有名な事件をひととおり知ったのは、2005年に刊行された立花隆氏の大著『天皇と東大』を読んでからである。本書は、明治35年(1902)の哲学館事件から始まるが、続いて、翌年の戸水事件に筆が及ぶと、ああ、あの一件か、とすぐに合点がいった。日露戦争の講和条件をめぐって、法科大学教授の戸水寛人らが、政府の弱腰を批判し、対ロシア強硬策を訴えた事件である。戸水は休職、山川健次郎総長は免官を命じられた。東大・京大の教授たちは、これを大学の自治と学問の自由への侵害と捉え、総辞職を宣言した。その結果、戸水は復職。山川は東大には戻らなかったが、のち京大・九州大の総長になっている。

 戸水事件の評価は難しいが、その後の滝川事件などに比べれば、なんとか「学問の自由」が守られたように見える。立花隆氏も、当時の『時事新報』の社説を引いて、日本では政府と大学が一体化しているところに根本的な問題があると指摘しながらも、「大学の団結力の前に政府が敗北したのはこのときだけで、あとは大学側が敗北に次ぐ敗北を重ねていく」と書いているので、この一件だけは「大学の勝利」と認めているようだ(立花氏の『天皇と東大』には、本書への言及はなし)。

 ところが、松本清張の評価は、もっと辛い。明治39年に発表された鳥谷部春汀の意見を引いて言う。教授たちの唱える大学の独立、学問の自由は単なる口実であると。当時の文部大臣・久保田譲は学制改革の急先鋒だった。学制改革とは、近代日本の教育制度の「ねじれ」を背景にしている。最高学府である帝国大学は、文部省とは無関係の起源を持ち、教育程度が高すぎて、小中学校の普通教育と上手くつながらない。この弊害を是正することが茗渓派(師範学校閥)の官僚たちの念願で、帝国大学の権威を守ろうとする大学派(帝大閥)は猛反対だった。この戸水事件は、要するに大学人たちによる「久保田文相追い落とし」が真相だったというのである。

 さらに著者は、教授たちが戸水を擁護できたのは、この問題が「皇室の尊厳と衝突することではなかった」からだ、と鋭く本質をつく。明治25年、文科大学教授の久米邦武が「神道は祭天の古俗」という論文によって辞職に追い込まれたときは、誰ひとり「学問の自由」を主張しなかった。「帝国大学教授の本質がここに露骨なまでに現れている」と手厳しい。

 本書は、続いて明治41年9月から本格的に着手された国定教科書の改訂と、南北朝正閏問題に触れる。そもそも教科用図書調査委員総会で、南北朝併立を書き入れるよう主張したのが、山川健次郎と加藤弘之だったとは! このシーン、あまりにも小説的だと思ったけれど、当然、何かの典拠があるのだろう。

 渦中の人となる喜田貞吉の人物像もよく書けている。史実に対する学者らしい誠実さと、いくぶん倣岸不遜で無愛想なところも。明治44年、喜田は休職を命じられるが、このとき、文部省や政府に楯ついた帝国大学教授は誰もいなかった。なお、この南北朝正閏問題も、実は国定教科書から締め出された私立大学(早稲田)教授連の、文部省と帝国大学に対する反感から発しているという説もある。どこまでも生臭い話だ。その後の喜田は不遇に見られているが、広い分野で数々の著作を残したという。著者が「こういう幅の広い学者は現在ではいない」と評価しているのが、なんとなく嬉しい結末だった。

■参考:加藤秀俊著作データベースより
「茗渓派」で検索したら、たまたま見つけた論文。
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/3176.html
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悩める母親たち/「家庭教育」の隘路(本田由紀)

2008-03-30 20:26:25 | 読んだもの(書籍)
○本田由紀『「家庭教育」の隘路:子育てに強迫される母親たち』 勁草書房 2008.2

 『ニートって言うな!』をはじめとして、若者の就労問題の論客として知られる本田由紀さんであるが、私は、最初に『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版,2005)を読んで、社会の求める能力が、近代的な「学力」から、「創造性」「マネージメント力」「コミュニケーション力」などに複雑化したことが、女性たちに子どもを持つことをためらわせているのではないか、という論旨に、深く共感してしまった。

 子どものいない私は、推論で共感しているに過ぎない。でも、もし子どもがいたら、この「パーフェクト・マザー」圧力に抗するのは、本当に難しいことだと思う。けれど、その本音をこれまで誰も言わなかった。著者は本書を書いた動機を「『家庭教育』って言うな!と言うためのちゃんとした根拠を手にしたかった」と説明している。

 日本では、1990年代後半から「家庭教育」への政策的介入が強力に推進されてきた。その背景には、新自由主義政策(市場競争の徹底)が不可避的に共同体の弱体化を伴うため、社会統合と秩序を維持するために、旧来の「伝統」の再強化が奨励されるという事情がある。これは先進諸国で広く観察されるパターンである。その一方、政策とは無関係に、一般の社会的関心は子供の「選抜」と「成功」にあり、この点でも「家庭教育」が重視されるようになった。

 「家庭が大切である」という正論に正面きって反論することは難しい。しかし、過剰な「家庭教育」重視は、「格差」の拡大、「葛藤」の拡大という問題を生んでいると推測される。本書は、小学校高学年の子供をもつ母親39人にインタビュー調査を行い、上述の推測を検証したものである。39人というのは、素人の印象としては、少ないような気もする。でも、詳しいインタビューを調査者が把握・吟味できる対象としては、このくらいが適正なのだろうか。

 最後に著者は「子供に対する母親の影響は相当に大きい」と結論づける。言い換えれば「母親による子育てを通じて、子供世代の内部には様々な格差が生じる」のである。この事実認識は理解できるし、そこに社会的公正の問題が含まれていることも分かる。しかし、「親や家庭の桎梏からいかに個人を解放し、潜在する様々な可能性や機会を開くか」という著者の提言は、なかなか意見の一致を求めるのが難しいところではなかろうか。不惑を越すと、社会なんて不公正なものだ、と割り切って生きるのも一興、と思うのだが。
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週末関西美術館めぐり:佐川美術館の樂吉左衞門館

2008-03-29 23:01:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○佐川美術館・樂吉左衞門館 開館記念Ⅱ吉左衞門『り<RI>展』

http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/

 閉まる美術館があれば、開く美術館もある。休館の決まった琵琶湖文化館のあとは、守山市の佐川美術館を訪ねた。2007年9月に新設された樂吉左衞門館を見るためである。

 楽吉左衛門氏(以下、この表記を用いる)は、茶碗師・楽家の第15代ご当主。”楽茶碗萌え”の私にとって、ご当代は神様みたいな存在である。一度だけ楽美術館でお見かけしたことを、大切な宝物としている。ただ、正直にいうと、楽家初代の長次郎とか、三代道入などの茶碗に比べると、ご当代の作品は、私にはとっつきにくい(萌えにくい)。なんというか、現代アート的で、茶碗らしさが薄いのだ。

 佐川美術館が、楽吉左衛門氏の常設展示館(茶室付き)を建てたらしいということは、昨年秋のオープン以来、なんとなく聞いていた。しかし、その具体的な実相は、2月24日のNHK新日曜美術館『茶室誕生:陶芸家・楽吉左衛門の挑戦』を見て初めて知った。放送が終わって、私は呆然としてしまった。これは、掛け値なしに「恐るべき」建築だと思った。

 設計創案は楽吉左衛門氏。しかし、もちろんご当代は建築の専門家ではないから、芸術家の直感に基づく着想を、実際に施工可能なプランに置換していかなければならない。この困難な仕事を請け負ったのは竹中工務店。私は、新日曜美術館を見ていて、竹中工務店の技師(というのかしら)の皆さんに、本当に感心した。コンクリートの色(黒土を混ぜ、表面に木目を写す)、割石を敷いた床の風合い(選りに選ってジンバブエの石材を使用)など、次々と高い要求を繰り出す吉左衛門氏もすごいが、それに応えるスタッフの技術力もすごい。ある意味、こういう妥協を許さない施主の存在が、日本の「ものづくり」産業を鍛えてきたんだなあ、と思った。

 竹中工務店のサイトに掲げられた楽吉左衛門館の紹介はこちら。ただし、残念ながら、茶室の見学は予約制である。訪問前に、駄目もとで電話をかけてみたのだが、「4月末までいっぱいです」と言われてしまった。というわけで、今回は展示館のみ参観。それでも、水上に張り出した通路のどんづまりから、地下(水面下)に通ずる階段を下り、ガラスの天井越しに水面の光のゆらめきを眺めるホールなど、さまざまな創意を楽しめる。

 展示室は、作品保護という観点ではなく、非日常を演出するため、極端に暗い。スポットライトに輝く釉薬が、街の夜景のように見える。しばらくして、作品ひとつひとつに漢詩が付けられていることに気づいた。吉左衛門氏の作品は、とっつきにくいのだが、今回は、この漢詩に助けられたような気がした。詩があることで、あ、そういう気分で眺めればいいのか、ということがなんとなく了解されるのである。吉左衛門氏の作品は、茶碗としては大ぶりなものが多い。どのくらいの重さなのだろう。楽茶碗は、意外と見た目より軽いことを体験している私としては、ご当代の茶碗を持ってみたくて、手がうずいた。

 帰ってから『芸術新潮』3月号を読んだ。特集は「楽吉左衛門が語りつくす茶碗・茶室・茶の湯とはなにか」。読み応えのある記事の中でも、川瀬敏郎氏の「楽さんの茶碗には切実さを感じる。だから見ていられないんですよ」という発言にドキリとした。
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週末関西美術館めぐり:お疲れさま、琵琶湖文化館

2008-03-27 23:41:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
○琵琶湖文化館 収蔵品特別公開:近江の美術 第3期『仏教美術の精華』

http://www2.ocn.ne.jp/~biwa-bun/

 3月31日で公開中止(休館)となる琵琶湖文化館に行ってきた。昨年12月6日の県議会で上記の方針が表明されて以降、なんとか撤回にならないものかと見守ってきたが、とうとう決定してしまった。この間の経過は、いつもお世話になっている『観仏三昧的生活(Blog)』に詳しい。

 ともかく、休館前、最後の展覧会となる『仏教美術の精華』である。滋賀県が仏教美術の宝庫であることは、誰も異論のないところだろう。本展は、仏像・仏画・法具・経典など貴重な文化財を、大津・湖南/甲賀/湖西/湖東/湖北の5つエリアに分けて紹介する。滋賀の仏教美術を愛する私には、寺院の名前を聞くだけで、懐かしかったり、憧れを掻き立てられたりするものばかりだ。

 何度か当館を訪れたことのある私には、ああ、これ見た!と記憶のよみがえるものが多かった。たとえば乗念寺の木造聖観音立像(平安時代)は、黒光りする木肌が、肩幅の広いがっしりした体躯を余計に堂々と見せている。解説に「顔の表情はとても厳しく」とあったけれど、そうかなあ。もの言いたげな口元からは、優しい言葉が聞かれそうだと私は思った。

 法蔵寺の仏画『如意輪観音像』は、四角い背景に浮かび上がる坐像が、京博の十二天像を思い出させる。嫣然と微笑む如意輪観音は、庶民的な美人女将の趣き。西教寺の『真盛上人像』は、鎌倉ふうの写実的な肖像画で、全くカテゴリーは異なるのだが、「親しみやすく、しかし卑俗に堕ちない」というのは、近江美術の共通項のひとつだと思う。

 長命寺の『勢至菩薩像』は、中国・南宋時代の名品。緑の衣を引き立てる、紅白の花の縁取りが、ひそかに艶かしい。たぶん6、7年前(このブログを始める前)に本作を見たときの記憶が、激しくよみがえってきた。解説に言うように「緑青系を主とした色彩が異国的」である。私は、この緑青色に魅せられて、近江びいきになったのだ。再びこの絵を見ることができて、本当によかった。

 逆に、今回初めて見ると思ったのは、聖衆来迎寺の『六道絵』(国宝)。いや、画幅は初めてでないかも知れないが、旧軸木14本がハダカで展示されているのを興味深く眺めた。「天文」「明応」「永禄」などの年号が黒々と墨書されている。成菩提院の『不動明王ニ童子像』は、ひざまずくニ童子が、無邪気で可愛い。

 雪野廃寺址出土品『塑造断片』にはびっくりした。雪野寺は、奈良時代中期に行基が創建したと伝える寺院だが、法隆寺の塔本塑像に類するものがあったのではないかと見られている。聖衆来迎寺の銅造薬師如来立像、若王寺の(寺伝)弥勒菩薩立像は、どちらも衣の端を握っているのが気になる。スカートをたくし上げる貴婦人みたいだ。東博の特別展『仏像』でも、同じようなポーズの仏像を見たなあ。

 帰りがけに、受付のカウンターに置かれていた広報誌『Duet』を貰ってきた。Web版で特集記事「滋賀県立琵琶湖文化館」が読めるので、リンクを張っておこう。あとで記事を読んで、ああ、受付ホールに椅子を出して座っていたのは、学芸員の上野良信さんだったんだな、と分かった。時々、刊行物の在庫棚を整頓したりしながら、入館者に「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と、淡々と声をかけていらした。4月以降も、休館した博物館で文化財を守るという、却って大変なお仕事が続くのだろう。関係者の皆さん、頑張ってください。私はまた、ここの収蔵品を見たいと願っています。
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週末関西美術館めぐり:京都国立近代美術館

2008-03-26 23:46:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立近代美術館 『ドイツ・ポスター 1890–1933』

http://www.momak.go.jp/

 2月に京都に来たとき、あまりにも印象的なチラシを見て、この展覧会、どうしても行きたいと思っていた。放射線上の中心に大きな目を配したデザインで、国際衛生展覧会のポスターを基にしている。このあと、豊田市と宇都宮にも巡回すると分かっていたが、ちょっとムリをして行ってしまった。そのため、最後は時間が無くなって、駆け足!(涙)

 会場では、まず19世紀末の詩情豊かなポスターに迎えられる。印刷技術の発展を背景に、『ユーゲント(Jugend)』『パン(Pan)』『ジンプリツィシムス(Simplicissimus)』など、美しい雑誌が次々に刊行された。オーストリアではクリムト、フランスではロートレックが活躍していた時代である。1900年代に入ると、いわゆる「即物的ポスター(Sachplakat)」が台頭してくる。靴屋なら靴、酒屋なら酒、スポーツ用品店ならスキー板あるいは乗馬ズボンという具合に、ドイツ語が読めなくても、何を売ろうとしているかが、はっきり分かる商業広告ポスターだ。

 第1次世界大戦(1914~1918)においては、多くのプロパガンダポスターが作られた。戦争公債の購入や義捐金を呼びかけるもの。しかし、直接敵方をなじるポスターが少ないのは、英米仏と比べたとき、ドイツの特徴であるそうだ。興味深い指摘である。戦後、1920年代のドイツポスターには、不思議な既視感がある。力強い造形、朗らかな色彩。健康的で、自信にあふれた前衛。カルピスの古い広告や古賀春江の作品に、確実に影響を与えていると思う。

 各時代を通じて、ドイツポスターに感じたのは、なまめかしいまでの文字の美しさである。さすがフラクトゥール(Fraktur、ひげ文字)を生み出したお国柄。同じアルファベットを使っているのに、イギリスやフランスの印刷芸術に、この感じはないと思う。あと、1920年代までの作品は、ほとんど「リトグラフ」とあるが、これは石版印刷とイコールではないのかな? 印刷技法のことは、いまひとつよく分からない。1930年代になると「オフセット」が登場する。

 それから、ドイツでは、ポスター愛好家協会という団体が作られ、『ダス・プラカート(Das Plakat)』という雑誌まで作られていたことにびっくりした。ボンネット帽をかぶり、柄のついた眼鏡を携えたお嬢さん(?)がマスコット・キャラクターのようだ。後ろ姿が可愛い。英語のサイトに画像を見つけたのでリンクを張っておこう。ちなみに、日本にも杉浦非水が監修した『アフィッシュ』というポスター研究誌があったことを初めて知った。私は展覧会で、気になる雑誌や図書を覚えると、Webcatで検索してみる。すると、日本国内の大学図書館にも、ポツポツとは所蔵されていることが分かって面白い。今回の収穫は、このほかに『大戦ポスター図集』(朝日新聞社、1921年)。そうかー東大に4冊もあったのか。

 最後になるが、上記サイトで展覧会の「広報資料」の項目を探していただくと、大きな目をデザインしたポスターがPDFファイルで載っている。その下に「PDFの画像を拡大・縮小すると、まばたきをしているように見える場合があります。お試しくださいませ。」との注記。ええ~嘘でしょう、と思ったが、やって見たら、実際、まばたきしてるように見える!! これを発見した人はすごい! ぜひお試しあれ。
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週末関西美術館めぐり:神戸市立博物館(承前)

2008-03-25 22:43:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神戸市立博物館 古地図企画展『地図を楽しむ』

http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/main.html

 長くなったので回を分けてみた。南蛮美術室の企画展に併設で開かれている、もうひとつの企画展。地図皿を中心に、少し風変わりな古地図資料を集めて展示している。

 「地図皿」として最も古い例は、平賀源内が讃岐の志度で焼かせた源内焼(18世紀)である。色は黄、緑、濃紫の釉薬が使われていて、古九谷っぽい。続く天保年間(1830~44年)に、地図皿は大流行した。日本だけでなく、世界図や南北アメリカ図の作例もある。ただし、地図としての正確さは源内焼に劣るように思う。「加賀」の版図がやたらに大きいのは、九谷焼と何らかの関係があるか?と推測されているのが面白い。

 また、日蘭の文化交流の諸相に感激を新たにした。16~17世紀のオランダでは、同国をライオンの姿に見立てた「ライオンマップ」が作られた。当時のオランダは海外貿易の成功で黄金期を迎えており、雄々しいライオン像で示された国土は、国威発揚を象徴するものとして人気を博したという。嘉永3年(1850)鷹見泉石製作の『新訳阿蘭陀全図』はものすごく精巧! 先ごろ、私がオランダ行に際して眺めた現代の地図にも全く引けを取らない。ただ、よく見ると北部の締め切り大堤防が完成していないので、埋め立て地の地形は今と異なっている。

 逆に、A.レランドの銅版画『日本帝国図』(1715年)は、石川流宣(いしかわ・とものぶ)の『日本海山潮陸図』(1691年)を原版としたもので、間違いもそのままコピーしているという。オランダ商人が日本の国内情報を必要としたから生まれたものだが、すごいなあ、当時のグローバルな情報流通ぶり。諸国の国名が漢字で記されている。三つ葵紋とともに掲げられた将軍の図が中国風なのはご愛嬌。

※石川流宣の地図は、明治大学蘆田文庫にもあり。
http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/exhibit-2001/contents.html

 このあと、ほかの常設展示もひとまわりした。折しも、有馬・温泉寺伝来の銅製経箱の展示を見られたのはラッキー。『泰西王侯騎馬図』(重要文化財)はさすがに複製品しか出ていなかったが、実物大で、本物の迫力を髣髴とさせた。サントリー美術館の同作品より動きがあっていいかも知れない。いつか本物を見たい。
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週末関西美術館めぐり:神戸市立博物館

2008-03-24 23:50:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神戸市立博物館 南蛮美術企画展『バイオグラフティ異国趣味』

http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/main.html

 今回の関西行、神戸まで足を伸ばすことにしたのは、上記サイトに上がっている南蛮美術企画展の写真に見覚えがあったからだ。昨年、国立歴史民俗博物館の企画展『西のみやこ、東のみやこ』で見て、いたく印象に残った金地扇面『都の南蛮寺図』である。ぜひとも、もう1回見たい。そう思って、土曜日は神戸・三宮に向かった。

 神戸市立博物館のチケット売り場で、私はしばらく立ち尽くしてしまった。どこにも「企画展」の料金表示がなかったからだ。「一般のお客様、200円です」と促されて、慌てて硬貨を探りながら、私、間違えたかな?と胸が騒いだ。しかし、ちゃんと上記2つの企画展は行われていた。館蔵品による企画展は常設展料金で提供されているのである。その内容が半端なものでないことは、以下、順を追って述べよう。これで200円って、関西の公営美術館・博物館は、ちょっと安すぎるんじゃないか…と私は本気で思った。

 まず、南蛮美術室の企画展『バイオグラフティ異国趣味』は、南蛮美術を作り(作らせ)、伝えた人々を、関連作品とともに紹介する。初めて見る作品、初めて知ることが山のようにあって、興奮の連続だった。

 近世初期の八曲屏風『観能図』は、天正16年の聚楽行幸または文禄2年の禁中能を描いたとされるもの。中央に「翁」を演じる能役者。御簾の中で女官に囲まれているのは後陽成天皇(ほとんど顔が見えている)。手前の広縁には秀吉。そして、地下の見物人の中には、南蛮人らしき姿が混じっている。長い煙管を使っているのは黒人だろうか。別の『花下群舞図』は、上賀茂神社の社頭での祭礼の様子を描くが、ここに登場する南蛮人は「南蛮人の扮装をした日本人」らしい。対になった祇園社の図には、恵比寿・大黒(の扮装をした2人)が描かれており、どちらも、海の外から来る財福神と認識されていたようだ。なるほどね。

 沈南蘋と長崎派の作品は、全く知らないわけではなかったが、こんなにまとめて系統立てて見たのは初めてのことだ。いちばん興味深かったのは、鶴亭という画家の『芭蕉太湖石白鷴図』。トリの表情が、同時代の若冲にすごく似ている! 当日見たものではないが、文化遺産オンラインから作品にリンクしておこう。若冲同様、黄檗宗ネットワークの影響圏にあったことも見落とせない。

 長崎派の画家・宋紫石が、平賀源内の著書『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)にヨンストン『動物図譜』の写しを載せていることも初めて知った。『物類品隲』見たことあるのに! 科学史家の視点から見ると、美術史の着眼点は落ちてしまうんだなあ。

 榊原悟さんの本『江戸絵画万華鏡』で知った、司馬江漢の「太陽真景(真形)図」(銅板・木版画集『天球全図』の1枚)の本物にも感激した。これがキルヒャーの『地下世界』を原図としているということにも(アタナシウス・キルヒャーの名前を初めて覚えたのは、澁澤龍彦の本だったか、荒俣宏だったか)。本展には、近世の洋画家や洋学者が所持していたと分かる洋書が展示されている。もちろん、実際に木村蒹葭堂や平賀源内が持っていた「その1冊」ではないのだろうけれど。それにしても、うーむ、木村蒹葭堂はキルヒャーの『地下世界』を持っていたのか!!すごい!

 私の大好きな亜欧堂田善の江戸名勝図19枚は、久しぶりに堪能した。本展では「江戸銅版画のトップアーティスト」なんて称号を贈られていて嬉しい。この人、『青蔭集』という句集の挿絵も描いているのだな。「水墨の洋風画家」石川大浪っていうのも、実に変な画家である。この大浪やら、オランダ通詞の吉雄耕牛やら、天文学者の高橋景保もそうだが、”横文字のサイン”を用いた江戸人はけっこう多い。みんな、新しいものには弱いのである。

 本展の掉尾を飾るのは、近代の南蛮美術コレクターたち。高橋由一筆『初代玄々堂像』があったことを書き留めておこう。銅版画屋の玄々堂は、初期洋画家のサロンでもあったそうだ。最後に控えていたのが、小磯良平の描いた池長孟(いけなが・はじめ)氏の肖像。神戸市立美術館の南蛮美術コレクションの基礎を作った人物である。「池長孟」という珍しい名前には、かすかな見覚えがあったが、恥ずかしながら、何の知識も無かった。「身上つぶして南蛮狂」を名乗った人物だという解説に惹かれて、ミュージアムショップで『特別展・南蛮堂コレクションと池長孟』のカタログを買って帰ってきた。いや面白いな、この人。

※神戸市立博物館:名品撰(南蛮美術)はこちら↓
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/i5_namban.html
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滋賀守山・佐川美術館のカフェ

2008-03-23 23:28:14 | 食べたもの(銘菓・名産)
週末1泊2日でまた関西へ。休館の決まった琵琶湖文化館にお別れをいうのが目的だったが、ついでに足を伸ばしたところが数ヶ所。



・神戸市立博物館
・京都国立近代美術館
・佐川美術館

実は、全て「初訪問」である。

写真は、佐川美術館のコーヒーショップSAMにて。本日のケーキ(選べる)より、桜のモンブラン。
食器はセーヴルかしら?と思ったら、大倉陶園でした。
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騎士の侘び心/西洋陶磁入門(大平雅巳)

2008-03-22 19:45:16 | 読んだもの(書籍)
○大平雅巳『カラー版:西洋陶磁入門』(岩波新書) 岩波書店 2008.2

 きれいなカラー図版多数。書店でふと中を開いたら、記憶に新しい写真が目に入った。オランダで見た、デルフト焼きの巨大なチューリップ専用花瓶である。

 16世紀半ば、東方からオランダにもたらされたチューリップは、投機の対象となり、1634~38年に空前の高騰を見せる。この時期をチューリップ・バブルの時代(チュルペンウッド)と呼ぶ。実は、デルフト陶器のチューリップ花瓶が焼かれたのは1688~1710年の間であるという。しかもこの花瓶、植物学者によれば、チューリップの栽培には適しておらず、ヒヤシンス用ではないかと推測されているそうだ。以上をざっと立ち読みして、面白そうなので、結局、買ってしまった。

 本書は、古代ギリシアの赤絵陶器に始まり、古代・中世・ルネサンスを経て、近代の磁器(マイセン、セーヴル、ウェッジウッド)まで、各種の様式を、その代表的な作品とともに紹介している。日本の柿右衛門や古田織部、楽長次郎みたいに、ヨーロッパにも伝説の陶工がいるんだなあ、と初めて知って、面白かった。

 ヨーロッパで18世紀に至るまで磁器を焼くことができなかった(私も最近知ったのだが、陶器と磁器は別ものなのである)。ザクセンのフリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強王)が、陶工たちに磁器の創生を命じ、ついにヨーロッパ最初の磁器工場設立を宣言したのは1710年のことだという。この磁器マニアの王様、隣国のプロイセンの中国磁器コレクションが欲しくて、600人の竜騎兵と交換したという痛快な逸話もある。

 セーヴル磁器の創成期に、ルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人の庇護と関与があったというのも知らなかった。ジョサイア・ウェッジウッドがアメリカの独立運動を支援し、奴隷解放運動支援のメダルを無償で提供していたというのも。各国の”国民磁器”にそれぞれの歴史があって、面白い。それから、明治の岩倉遣欧使節の一行が、各国の代表的な磁器工場を余すところなく回っているというのも、あまり語られてこなかったことではないかと思う。

 作品としては、中世イギリスの陶器(騎士たちのジャグ=取っ手つきの水差し)が気に入った。素朴な造型で、薄い緑釉が無造作にかかっている。侘助椿でも投げ入れて、古筆の掛け軸と並べてみたい。畳の部屋にも似合うと思う。
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明治人の原稿/鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち(永青文庫)

2008-03-21 01:02:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
○永青文庫 冬季展『鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち』

http://www.eiseibunko.com/

 3/16で終了した展覧会。最終日に、ふと思い出して行ってきた。永青文庫は、肥後熊本藩主細川家伝来の歴史資料や美術品を保存・公開している。これまで日曜日は休みだったが、今月から開館することになった。ありがたい。館内も、以前より公開を意識した雰囲気になった気がする。

 本展の見ものは、明治の二大文豪、漱石と鴎外の直筆原稿らしいと見定めて行った。そうしたら、熊本出身の井上毅関係の文書がたくさんあって、私の興味をひいた。私はこのひと、わりと好きなのだ。『井上家系譜』『憲法意見』は、どちらも柱に「井上家用紙」とある罫紙を用いている。『辞令写』は題名どおり、公職の辞令を歴年順に整理したもの。B5版くらいの小型本だから、たぶん”縮小模写”だと思う。行き届いた整理で、いかにも優秀な実務官僚だった井上毅らしい。

 それから漢学者・狩野直喜の書簡があった。敗戦処理内閣といわれた東久邇宮内閣に、細川護貞が招かれたことに対して、父・護立に宛てて、辞退を勧める文面である。内容も興味深いが、用箋が、真紅や黄色の料紙に模様を摺りだしたものであることに驚いた。当時、上流階級(?)では一般的だったのか。それとも”支那風”なんだろうか。

 さて、漱石の「野分」原稿は、読みやすい字で、きれいな原稿だなあと思った。鴎外の「オルフェウス」訳稿は、ざっと20枚ほどもある薄様紙(タイプライター用箋みたい)で、A4版より少し大きい紙(レターサイズか?)を用いて、原文(ドイツ語)を横書し、各行の上(右)に日本語訳を赤ペンで書き付けている。歌われることを意識してか、丹念にルビを振っている。「エウリヂケ。亡(な)き魂(たま)。」のように。封筒が付属しており、表書は、大正3年(1914)8月26日消印、本居長世宛て。裏に「陸軍省 森林太郎」とある。

 昭和19年3月に、細川護立は「2、3年前に神田の一誠堂で買った」と語っているそうだ。昭和16~17年といえば戦時下だなあ。本件は、グルックの歌劇「オルフェウスとエウリディーチェ」の日本語訳。鴎外は、国民歌劇協会の依頼を受け、1885年6月21日ライプチヒ市立劇場興行本(これは東大総合図書館に現存)をもとに第一訳を行ったが、ピアノスコアと合わなかったため、第2訳を作成した。展示の訳稿の表紙に「訂正『オルフェウス』全」とあるのはそのためである。しかし、第一次世界大戦勃発(1914年)などの理由で、結局、この訳稿が上演されることはなかった。のち、鴎外は、大正9年(1920)にも、上野の音楽学校教師グスタフ・クオロングの依頼で、三たびこの歌劇を訳している。

 このとき「ドイツ語を日本語に直すのは面倒なことでしょう」と聞かれて「漢語を好く識っていればむずかしい事は無い。漢語に求めれば、ドイツ文学の語彙位は痒い所に手の届く位潤沢にある」と答えたそうだ。鴎外らしい! 以上、展示品に付属した木下杢太郎の解説と、東大の「鴎外文庫書入本画像データベース」より適宜構成。
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