見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

家族のかたち/中華ドラマ『喬家的児女』

2022-11-30 22:19:27 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『喬家的児女』全36集(東陽正午陽光、2021年)

 新作ドラマの見たいものが途切れたので、気になっていた1年前の話題作を見てみた。中国ドラマファンにはおなじみ、東陽正午陽光の制作で、さすが期待は裏切られなかった。

 始まりは1977年、南京市の陋巷に暮らす喬租望夫妻と長男・一成、次男・二強、長女・三麗、次女・四美の四人兄弟たち。ところが母親は五番目(三男)の七七を産んだ直後に亡くなってしまう。七七は叔母の家に引き取られ、自堕落で生活力のない父親に代わって、長男の一成が弟妹たちを守り育てる責任を一身に引き受けることになる。と言っても、貧乏の苦しさがあまり描かれないのは、中国社会がどんどん豊かになっていく時代を背景にしているせいかもしれない。ストーリーの中心となるのは、成人した四人兄弟の愛情・家庭生活である。

 一成(1965年生)は、師範大学でジャーナリズムを学び、電視台(テレビ局)に入社する。新聞記者の葉小朗と結婚するが、海外生活を目指す小朗は、実家を棄てられない一成を置いて一足先に出国してしまう。やがて小朗の希望で離婚を受け入れた一成は、のちに共産党の上級幹部の娘である項南方と再婚する。

 二強(1969年生)は、勤め先の工場で彼の「師父」となった人妻の馬素芹に一目惚れして純愛を捧げる。のちに兄嫁・葉小朗の紹介で書店員の孫小茉と結婚するが、結婚生活はうまくいかない。結局、再会した馬素芹と、周囲の反対を押し切って再婚し、馬素芹の連れ子にも慕われて、幸せな家庭を築く。

 三麗(1971年生)は、幼少の頃、性暴力に遭いかけたことがあり、異性関係に臆病になっていたが、心優しい王一丁に出会って、彼の愛情を受け入れる。王一丁の家族の無理解、子育てをめぐる姑との意見対立、王一丁の怪我などの困難を地道に乗り越えていく。

 四美(1973年生)は、猪突猛進型のロマンチスト。軍人の戚成鋼を赴任先のチベットまで追いかけていき、結婚して女子を儲ける。しかし戚成鋼の浮気が発覚し、離婚してシングルマザーとなる。後悔して復婚を望む戚成鋼とは一定の関係を保ち続ける。

 このほか、七七は学生時代に同級生の女性に迫られて子供ができ、結婚するが、離婚に至る。七七を引き取った魏おばさんは、おじさんの死後、再婚。四兄弟の父親・喬祖望も、財産目当ての阿姨(家政婦)に騙されて再婚を決意しかけるなど、目まぐるしくて飽きない。

 私は、ある家族に焦点を当てつつ現代史を描く中国ドラマが好みである。『大江大河』しかり『人世間』しかり。これまで見てきたドラマは、共産党の政策が、主人公たちの人生の重要なターニングポイントとして描かれていた。しかし本作は、政治経済的な背景はほとんど描かれず、主人公たちは、恋と家庭生活に右往左往しているうちに、なんだか豊かになっていく。この半世紀の中国庶民の実態は(特に政治の中心・北京以外だと)そんなものかもしれない。一成の再婚の披露宴で、新婦・項南方の実家が党の幹部だと知った喬祖望が、急に共産党礼讃・国家礼讃のスピーチを始めるのが、とってつけたようで可笑しかった。

 私は四人兄弟の中では四美(宋租児)が大好きだった。お馬鹿で我儘で口が悪いが、自分の愛するもののためには信じる道を突き進む強さがある。しかも涙もろくて可愛い。まあ日本の朝ドラだったら大炎上のキャラだろう。しかし努力家で控えめな三麗(毛暁彤)も芯の強い性格だし、登場する女性はみんなそれぞれ強いと思う。

 男性陣では二強(張晩意)が幸せになってよかった。一強(白宇)は、兄弟思いで責任感が強い典型的な長男タイプだが、まさにそこが欠点でもある。実家のトラブルを妻に一切告げず、自分だけで解決しようとして、離婚した葉小朗だけでなく、項南方からも責められている。やっぱり中国人にとっては、姓を同じくする(幼少期を一緒に過ごした)兄弟こそ本当の「家族」で、結婚して新たに生まれる「夫婦」よりも強い絆を感じるものなのだろうか。

 我儘三昧を最後まで通した父親・喬祖望(劉鈞)も日本のドラマなら確実に炎上キャラだと思うが、押しかけ家政婦に丸め込まれそうになりつつも、住み慣れた家は息子たちに残すという、最後の一線は守ってくれてほっとした。ドラマの最終話は2005年の正月(春節かな?)、いよいよ取り壊されることになった老屋に四人兄弟とそのパートナー、子供たちが集まり、にぎやかに最後の団欒を楽しむところで終わる。家のかたちも家族のかたちも変わりゆく中国だが、本作の人気から見ると、理想はそんなに変わっていないのかもしれない。

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古筆・絵画の中のイメージ/西行(五島美術館)

2022-11-28 20:31:32 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 特別展『西行 語り継がれる漂泊の歌詠み』(2022年10月22日~12月4日)

 本展は、世に数点しか伝わらない稀少な西行自筆の手紙をはじめ、西行をテーマとした古筆・絵画・書物・工芸の名品約100点を展観し、中世から近代に至るまで、西行が時を越えて人々の心に語りかけてきたものを探る。なお、かなり展示替えがあり、私が参観したのは会期の早い方だった。

 はじめに「西行とその時代」を語るさまざまな資料が出ていた。書写本の『平家物語 延慶本』や『吾妻鏡』、平忠盛筆『紺紙金字阿弥陀経』など。その中に『平治物語絵巻断簡 六波羅合戦絵巻』(大和文華館)があって、あっと思った。この夏、承天閣美術館で別の断簡を見て、すっかり慌ててしまった作品である。これは敗走する義朝主従を描いたものと言われるが、あまり大和文華館で見た記憶がない。公開は珍しいのではないか。MOA美術館の『西行像』(鎌倉時代・14世紀)も初めて見た。面長で精悍な雰囲気のある老僧が、袈裟をかけた墨染の法衣の姿で坐し、右手は冊子を水平に胸の前に掲げ、左手は長い数珠を握っている。

 さて数少ない西行の真筆として、『僧円位書状』(和歌山・金剛峯寺)と『一品経和歌懐紙』(京都国立博物館)が出ていた。あまり連綿状ではなく、線の太さが一定で、万年筆で書いたように読みやすい文字だと思った。冷泉家時雨文庫の『曽丹集』(桝形本)には「のりきよかふて(義清が筆)」という小さな紙片が付いているが、二人ないし三人の寄合描きで、どの部分を西行の筆跡としているかは定かでないそうだ。この『曽丹集』から切り離された断簡も「伝・西行筆」として伝わっているものが多い。そのほかにも「伝・西行筆」の古筆が次から次へと並ぶのだが、ぜんぜん印象が違うものもあって、笑ってしまった。しかし名品揃いなのは間違いなく、古筆好きには眼福である。同時代の、藤原俊成、藤原定家、冷泉為相らの真筆、さらに後鳥羽院筆『熊野懐紙』も見ることができる。

 後半は絵画資料の中の西行。『西行物語絵巻』は鎌倉・室町時代だけでなく、江戸期には宗達や光琳の作品も知られる。狩野派や土佐派の屏風にもなり、工芸品のモチーフにもなった。近代の橋本雅邦や小林古径の作品まで目配りが届いていて楽しかった。私が好きなのは、北村美術館の『西行物語絵巻断簡』(室町時代)に描かれた、桜の木の下に寝そべる西行の図。桜の木と西行のほか、余計なものが一切描かれていないのがよい。井原西鶴の『花見西行偃息図』も実に心のどかで幸せそう。

 最近の同館の展示は、大東急記念文庫の蔵書からテーマに関連する江戸の草双紙等を紹介してくれることが多いのだが、今回も『人間万事西行が猫』『軍法白金猫』等が出ていて、あらすじを読んで笑いをこらえるのに苦労した。浄瑠璃本『軍法富士見西行』もおもしろいなあ。『撰集抄』の西行が人骨を集めて人間を造る話は、むかし澁澤龍彦のエッセイで知ったもの。笑い話から怪奇譚まで、自由に広がる想像力が楽しい。

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鎌倉殿の浄土庭園/永福寺と鎌倉御家人(神奈川県立歴史博物館)

2022-11-26 23:51:12 | 行ったもの(美術館・見仏)

神奈川県立歴史博物館 特別展『源頼朝が愛した幻の大寺院 永福寺と鎌倉御家人-荘厳される鎌倉幕府とそのひろがり-』(2022年10月15日~12月4日)

 鎌倉・二階堂の永福寺(ようふくじ)跡に初めて行ったのは、鎌倉在住の友人に誘われた歴史散歩だったように思う。その後、私は逗子に住んだ時期があって、ときどき近傍(2004年の記事)を歩いていた。最近では2017年に訪ねて、すっかり史跡公園として整備された様子を見てびっくりした。

 本展は、鎌倉幕府の成立とその展開に深く関わった永福寺に注目し、その全貌と軌跡を、文献資料・考古資料・美術資料などの多彩な歴史資料群から複合的かつ立体的に復原する。そろそろ会期末が近くなってきたので、慌てて見に行ったら、講堂で学芸員の渡邊浩貴さんによる展示解説があったので聞かせてもらった。

 永福寺は、源頼朝が奥州合戦で見た平泉の壮麗な浄土世界を模倣したものと言われている。奥州藤原氏が模倣したのは、白河院・鳥羽院が営んだ鳥羽離宮である。この鳥羽殿→平泉→永福寺というルートで、何が継承され、何が新たに創造されたかという話が面白かった。京都では、建造物に用いる金具の、見えない裏面にも装飾を施しているが、平泉では見えない面には装飾がないという。経済的に余裕がないわけではないので、一種の合理主義なのかな、と思った。また、永福寺跡で出土した経筒が、異様に巨大で異形であるというのも面白かった。あとで展示室で見て納得したが、京都→平泉の仏教文化が、細部まで完全に摂取されてはいないのだな。

 永福寺跡で出土した仏像の装身金具片に、愛知・滝山寺の運慶仏とよく似たものがあることは、永福寺の造像に運慶が関与した証左のひとつと考えられている。しかし今日の解説によると、建久2年(1191)「藤原範綱書状」(『和歌真字序集』紙背文書)に「康慶事、委令申候了、下向■(無)異議候歟」という記述が発見されているそうだ。頼朝は康慶(運慶の父)の派遣を求めたが、結果として運慶が来たのではないかという。確かに御家人の北条氏や和田氏が運慶に造像を依頼しているのだから、鎌倉殿・頼朝がワンランク上の康慶を求めることには納得がいく。今日の解説では、上記「藤原範綱書状」らしき画像を投影して見せてくれた(康慶の文字あり)が、最近発表された研究で、今回の展示には間に合わなかった、という趣旨のことをおっしゃっていた。

 ネット(googleブックス)で調べたら、雑誌『明月記研究』9号(2004)に五味文彦氏「和歌史と歴史学-和歌序集『扶桑古文集』を素材に-」に、この「藤原範綱書状」の翻刻が載っているのが分かった。『扶桑古文集』は『和歌真字序集』の別書名らしい(東大史料編纂所所蔵)。五味先生、康慶の名前にあまり反応していないのが不思議。この記録を永福寺の造像と結びつけた研究は別にあるのかな。すぐ見つけられるだろうと甘く見ないで、質問しておけばよかった。

 また本展では、永福寺式軒瓦の出土の分布に注目する。永福寺式軒瓦は頼朝の縁者・側近のほか、所領において「頼朝とのつながり」を誇示する必要があった御家人の遺跡から見つかっているという。講師は緒豊期の金箔瓦との類似について述べていたが、私は古代の銅鏡の機能と似ているように思っていた。

 また、講師の解説では省略されていたが、展示では、音楽を伴う宗教儀礼の整備に、かなり力点が置かれていて興味深かった。鶴岡八幡宮に、こんなに多様な鎌倉時代の舞楽面が伝わっていることを意識していなかったし、千葉・健暦寺や神奈川(箱根)・阿弥陀寺それに日光輪王寺の菩薩行道面、静岡・津毛利神社の『王の舞面』、神奈川・極楽寺の舞楽面など、初めて見るものが多かった。仮面や儀礼の研究をしている研究者が本展を見落とさないといいなあ…。

 鶴岡八幡宮の弁才天坐像(裸形着装)が来ていて久しぶりに見たが、この像の特異な横座りの姿勢に関して、図録に詳しい解説がされていた。あとでゆっくり読むことにする。読みでのある図録(でも軽量でコンパクト)でうれしい。この特別展は、学芸員の渡邊さんが5年くらい前から構想していたもので、大河ドラマの便乗企画ではありません、とおっしゃっていたが、ロビーには『鎌倉殿の13人』の主要キャストの等身大パネルが飾られていた。それもまた良し。なお、最近「ぐるっとパス」を利用するようになったので、無料で入れる常設展示をあわせて参観してみた。盛りだくさんで楽しかった。

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洞戸の地蔵菩薩立像(東京長浜観音堂)を見る

2022-11-24 22:15:33 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京長浜観音堂 『地蔵菩薩立像(鞘仏/胎内仏)(長浜市高月町洞戸自治会蔵)』(2022年11月1日~11月30日)

 何も考えずに立ち寄ったので、ケースの中のお姿を見て、おや、今期は地蔵菩薩像だったか!と新鮮に感じた。この施設は、湖北の観音文化の発信を目的とし、「東京長浜観音堂」を名乗っているくらいなので、観音像のご開帳が圧倒的に多い。日本橋に移った2021年7月以降の公開は、これまですべて観音様だった。

 大きいほうの地蔵菩薩(鞘仏)は江戸時代の作。卵型の整った頭部。肩幅が広く肉厚で、黒光りする木肌と相まって、堂々とした威厳を感じる。

 背後にまわると背中が刳り貫かれ、蓋板が嵌められているのが、はっきり分かる。この中に収められている(いた?)のが、展示では隣に置かれている胎内仏の地蔵菩薩。室町時代の作。素朴な一木造で、専門仏師ではなく、当地の民衆が刻んだものと見られている。鞘仏と並んでいると、親子みたいでかわいい。

 洞戸地蔵堂は高月町の北部ということだが、初めて知った。かつて戦乱の中、地蔵菩薩を助けようとした老人が、自らの腹を割いて像を収め、焼失から守ったという(えぐい)伝説があるという。まあ鞘仏が先にあって生まれた伝説かなあと思ったが、真偽は分からない。しかし、特に彫刻的な価値があるとも思われない、たどたどしい造形の地蔵菩薩が、今日まで大切に守られてきたのは尊いと思った。

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「写生」へのこだわり/竹内栖鳳(山種美術館)

2022-11-23 21:40:55 | 行ったもの(美術館・見仏)

山種美術館 特別展・没後80年記念『竹内栖鳳』(2022年10月6日~12月4日)

 没後80年を記念し、山種美術館が10年ぶりに開催する竹内栖鳳(1864-1942)の特別展。探してみたら、2012年に『没後70年・竹内栖鳳-京都画壇の画家たち』という展覧会が開催されているが、私は見逃したようだ。しかし2013年の国立近代美術館『竹内栖鳳展 近代日本画の巨人』は見ていて、この頃から、近代日本画に関心が深まってきた。

 栖鳳は鳥や虫、小動物を多数描いており、「動物を描けばその体臭までも表す」と言われた。その最高傑作『班猫』は会場の入口近くに飾られており、今回、撮影自由なのに驚いた(太っ腹!)。私はイヌ派だが、このネコの何気ないのに圧倒的な王者の気品には感じ入る。栖鳳がこの子を「徽宗皇帝の猫」と呼んでいるのも面白い。

 本展には10点ほど「個人蔵」の栖鳳作品が出陳されている。冒頭の『真桑瓜図』(1903/明治36年)には、栖鳳作品のコレクターである光村利藻(1877-1955、光村図書の設立者)の所蔵品であるという解説が記されていた。1920~30年代の動物画は、小品が多いが、どれも魅力的である。二羽でダンスをするような『双鶴』、無防備な姿勢がかわいい『鴨雛』など。

 中国・南京の城壁を遠望した『南楼晴霽』や、江南の水郷の街並み『城外風薫』も好き。日本では、潮来の風景も気に入っていたそうだ。解説に「栖鳳は揚州の風景に似通ったこの地に魅せられ」とあって、なるほどと思った。『雨中山水』『水墨山水』など、栖鳳の水墨作品もいくつか出ていた。日本中世の水墨山水とは明らかに趣きが違うけれど、明清の水墨画とも違っていた。『飛瀑』(個人蔵、初公開)は絹本彩色で水墨画ではないのだが、一目見て石濤を思い出した。

 『艸影帖・色紙十二ヶ月』は、思わず欲しくなる作品。私は2月の雪に埋もれた鳥居(たぶん本物でなく玩具の)と、11月の寄り添う姫だるまが好き。栖鳳は、こういう琳派的(装飾的・伝統的)な画題もソツなくこなせるのだな。けれども当人は「写生」にこだわり続けた。そのことを示す言葉が、会場のあちこちにさりげなく紹介されている。あまり見つめると物が静止してしまうので、絵に描くときは鳥を前に置かないとか、魚の本来の美しさは陸に上げられた瞬間だけだとか、庭に蛇が出ると写生してぐるぐる線を引いていたとか(体の曲げ伸ばし・動きこそ蛇の本質だと思ったのだろう)、どのエピソードも面白かった。橋本雅邦は「あの人(栖鳳)は写生から脱しなければ、上手の域に達しても第一義の人にはなれない」と評していたらしい。ひどい言われ方だが、それでも「写生」という武器を手放さなかった頑固な栖鳳が好きだ。

 栖鳳は画塾「竹杖会」を主宰し、多くの後進(京都画壇)を育てた。本展では、西村五雲、上村松篁など栖鳳の弟子たちの作品も紹介する。池田遙邨の『まっすぐな道でさみしい-山頭火-』は初めて見たように思うが、秋の野のやわらかい色調が気に入った。また、栖鳳に学んだ新進の日本画家たちが立ち上げた国画創作協会の運動を、栖鳳は支持したと考えられている。国画創作協会については、2018年に和歌山県立近代美術館の展示を見て以来、気になっている。本展には、土田麦僊、村上華岳、小野竹喬、入江波光の作品が出ており、竹喬の『晨朝』が気に入った。

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絶え間ない交流/惹かれあう美と創造(出光美術館)

2022-11-21 21:52:39 | 行ったもの(美術館・見仏)

出光美術館 『惹かれあう美と創造-陶磁の東西交流』(2022年10月29日~12月18日)

 「展示概要」の文章がとてもよいので、その最後の部分をそのまま転記しておく――陶磁器は各時代で、互いの美しい装飾や技術に惹かれあって発展してきました。他の国や地域の陶磁器を受容したり、あるいはその魅力に惹かれ、それを模倣したり、また自分たちの美意識を反映させた新しい陶磁器をつくってきたのです。ときに戦争・紛争により断絶する交流の歴史ですが、文化の繋がりを可視化するやきものは、国や民族の境をこえて、わたしたちの想像をはるかに超える東西交流の物語を伝えてくれるのです。 古今東西の交流を通して生み出された陶磁器の美の世界をお楽しみください。

 そうなのだ。私は、もともと絵画や彫刻に比べると、陶磁器への関心は薄かった。それが「東西交流」という視点を入れると、俄然おもしろくなると教えられたのは、この出光美術館の展示である。2008年の『陶磁の東西交流』展は、今でも強く記憶に残っている。2018年に台湾の故宮博物院で見た『アジア探検記-17世紀東西交流物語』にも(今回の展示にも出ている)「傘持美人文皿」の各国版が出ていて楽しかった。

 本展は、これまでの同テーマの展覧会に比べて「東西交流」の時代と地域をぐんと大きく広げているように思う。冒頭には、イランの金製杯(前10世紀頃)や東地中海地域の金彩ガラス鉢(前3~2世紀、美麗!)など、私にとっては珍しい西アジア・中央アジアの品々がたくさん出ていた。

 陶磁器の「模倣」は一筋縄ではいかなくて、色を真似たり、かたちを真似たり、モチーフ(狩猟文、有翼人物など)を真似たり、さまざまである。並べてみて初めて、なるほどと思うものも多い。中国の白磁弁口水注(唐時代)のかたちは、確かに南イタリアやギリシャのオイノコエ(把手のついた香油瓶、酒注)と一致する。イランの多彩釉刻線花文鉢(9-10世紀)は、緑・黄褐・紫褐釉を使っていて、唐三彩によく似ていた。

 イスラム(イスラーム)陶器は、数学の知識に基づく幾何文があるかと思えば、素朴な民画調の鳥の絵もあって面白かった。ラスター彩とかミナイ手という用語を初めて覚えたのも、出光の展示だったように思う。中国で元時代から大皿が登場するのは、イスラムの食習慣に影響を受けたものと言われている。これも以前、どこかで学んだ。確かに中国の古装ドラマを見ていると、古い時代の宮廷では1人1卓で食事をしているから、大皿は使わないのだな。

 「特集」として、船を描いた陶磁器を集めたミニコーナーも面白かった。鮮やかな色彩で3本マストの洋船を描いた色絵オランダ船文皿は、景徳鎮窯で焼いて、オランダのデルフトで色付けされたものだという。呉州赤絵帆船文字皿(明時代)は、赤と緑(クリスマスカラー!)で描かれた帆船が絵本のように可愛い。「近悦遠来」の文字が入っている。参考パネルの、南京船、広東船、寧波船、がレオン船などの説明をじっくり読んでしまった。中国ジャンク船は帆柱2本なのだな。

 そして「楼閣山水」「粟鶉文」「松竹梅鳥文」などの典型的なモチーフが、世界各地でどのように「模倣」されたかを比較する楽しい展示。必ずしも「模倣」が劣るわけではなく、その土地の美意識によって、新しい味わいが「創造」されていることもある。ドイツ・フランクフルト窯の白地藍彩芙蓉手山水人物文輪花皿なんて、東アジアの山水人物文とは全く別物だけど、なんとなくよい。古伊万里の色絵ケンタウロス文大皿は、山海経に出てくる化け物みたいで笑ってしまった。

 出品件数134件のかなり大規模な展覧会。一部展示替えがあり、司馬温公甕割文八角鉢の比較展示が後期(11/29-)だったのは残念(模倣の写し崩れが大好きなので)。でも、とても満足できる展示で、担当者の「いま世界が困難な時代だからこそ」という企画意図を深く感じとることができた。

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サッポロクラシックで晩酌

2022-11-20 21:33:00 | なごみ写真帖

多事多端の週末が終わって、夕食に晩酌。

金土日と、2022フィギュアスケートNHK杯を3日間現地観戦するつもりで、チケットも札幌旅行のフライトもホテルも取っていたのだが、諸般の事情により断念したのである。

今年もいろいろドラマがあったようで、見たかったなあ。2023年のNHK杯は大阪とのこと。行きたい!

それから、2019年のNHK杯以来、ご無沙汰している札幌にもまた行きたい。

と、来年の夢を思い描きながら、大好きなサッポロクラシックを味わう。

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葬儀私記(その2-2)

2022-11-20 13:50:00 | 日常生活

※葬儀私記(その2-1)の続き。

 11/18(金)弟が世田谷北部病院から介護タクシーで母を連れてくるのを、私は久我山の介護施設で待った。到着してベッドに寝かされた母は、目も開かず、呼びかけてもほとんど反応を示さなかった。けれどもスタッフの皆さんが、クッションや毛布で体勢を整えてくれたり、足の爪を切ってくれたり、気を遣ってくれるのが嬉しかった。訪問医の往診を受け、入居契約の書類を作成するなどして長い1日が終わった。

 11/19(土)は弟と二人で武蔵境の施設に行き、借りていた居室の片付けを終わらせた。スタッフの皆さんの寄せ書き色紙をいだだけて感激した。無人になった部屋の写真を載せておく。父を看取った部屋でもある。

 それから久我山の施設を訪ね、加湿器とひざ掛けまたは毛布があるとよい、と聞いたので、ホームセンターで購入して設置した。

 11/20(日)弟は昼前に母の様子を見に行ったらしい。私は出光美術館で少し息抜きをして、午後から行こうと思っていた。美術館を出て有楽町の駅前あたりを歩いていると、久我山の施設から電話が入って「会いにきたほうがいい」とのこと。弟に連絡をして、久我山へ向かう。

 私が施設に到着したのは13:00過ぎだったと思う。弟はすでに来ていた。母は目を閉じていて、乾燥防止のためマスクをした口元が規則的に動いていた。もっとも酸素ボンベを装着しているので、実際の呼吸は鼻で行われていたはずだ。私が到着したので、弟は食事に出かけていった。まもなく看護師さんが部屋に入って来て、母の痰の吸引をしてくれた。「もう私では心拍数が取れないので…お昼間のうちですかね、夜ですかね」みたいなことを淡々とおっしゃってくれたので、こちらも覚悟ができた。看護師さんが出ていったあと、スマホのYoutubeで童謡を流しながら見守っていたが、痰のからんだ呼吸を続けていた母が、ふつっと静かになったのは13:50頃だった。父の経験があったので、あまり慌てず、ナースコールでスタッフを呼んだ。看護師さんが様子を確認し、「お医者さんを呼びますのでこのままで」と言ってくれた。

 やがて弟が戻ってきたが、父のときも看取りの瞬間に居合わせなかった間の悪い弟なので苦笑してしまった。医師に死亡を確認してもらい、施設に紹介してもらった葬儀屋さんと今後のことを打ち合わせた。父のときは、施設のスタッフの方々が清拭・着替えをさせたあと、葬儀屋さんが管理する安置所に運ばれてしまったが、今回は「エンゼルケア」担当の方々が施設にやってきて、短時間で見違えるようにきれいに整えてくれた。そして、施設のベッドに寝かせたまま一晩置くというので、私と弟は帰宅した。

 翌11/21(月)は納棺の儀のため13:00に施設に集合した。私と弟の二人だけの予定だったが、前日、母の実家に連絡したところ、母のお兄さんから立会いたいという申し出があり、息子夫婦と三人で来てくれた。母の姉(故人)の娘さんも来てくれて、にぎやかなひとときになった。母の遺体は白い布にくるむようにして持ち上げられ、棺に納められた。棺は、マットレスを取り払ったベッドの上に安置された。

 11/23(水)は祭日。小雨の降る寒い日だった。14:10に施設に集合と言われていたが、早めに行って、棺に追加で入れたいものを見つくろう。9月以降に購入して着てもらえなかったブラウスとセーター、履きなれた靴、ひざかけ、文庫本(山本周五郎)、深川伊勢屋の和菓子も入れた。茶道用の扇子をそっと入れようとしたら、葬儀屋さんが、開いて胸の上に置いてくれたので、なんだかずいぶん華やかになった。切り花をたっぷり入れ、施設のスタッフの方々も花束を入れて手を合わせてくれた。そして同じ区内の堀ノ内斎場へ向かう。

 斎場は15:30の予約だったが少し早く着いた。出棺前にゆっくりお別れをしてきたので、斎場でのお別れは簡素だった。焼き上がったお骨を骨壺に収め、入れ歯とペンダント時計と指輪(瑪瑙か?)を一緒に収めた。雨の中、弟の車で久我山の実家に骨壺を持ち帰り、葬儀は終わった。

 そして本日11/27(日)久我山の介護施設の部屋を片付けて退去手続きを済ませてきた。生前に3日、永眠して3日しかお世話になれなかった部屋だが、記念に写真を残しておく。

 まだやることはいろいろあるが、ひとまずここまで。

2022/11/27記。

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葬儀私記(その2ー1)

2022-11-18 17:00:00 | 日常生活

 2022年11月20日に90歳の母が永眠した。父の例に倣って、その前後のことを書き留めておく。

 父と母は2017年5月から武蔵境にある老人ホームで暮らしていたが、2022年2月に父が息を引き取った。以後、私は毎週末、1人暮らしになった母を見舞うようにしたが、新型コロナの影響で、面会室で15分くらいしか話すことができなかった。居室に入れるようになったのは6月半ば頃だったと思う。

 母は噛む力の衰えが目立ち、誤嚥性肺炎で発熱を繰り返すようになった。施設から、6月には刻み食、8月半ばには流動食に切り替える提案を受け、了承した。8/19(水)には肺炎治療のため武蔵野徳州会病院に入院した。この2年くらい、体調は低め安定で入院はなかったので、久しぶりの入院だった。

 9/2(金)退院の日、私は仕事を休み、施設で母を出迎えた。すでに発話が曖昧になっていたが、「病院の食事はどうだった?」と聞くと嫌がる表情をしたり、「新しいブラウスを買ってあげようか?何色がいいかな?ピンク?」と聞くとうなずいたり、コミュニケーションは取れた。次の週末は、施設のスタッフにコロナ陽性者が発生したため、面会受入れが中止になってしまった。私は新しい下着と差入れの果物ゼリー(いちじく味など)を施設に預けてきた。

 9/13(火)深夜、母が再び肺炎のため世田谷北部病院へ入院したことを、私は翌朝、弟からのメールを見て気づいた。9/17(土)には弟と二人で武蔵境の施設を訪ね、掛かりつけ医の話を聞いて、今後のことを考える必要を実感した。とはいえ、この時期、入院先の病院からは「経過良好」「まもなく退院可能」という報告が来ていたので、まだ先の話だと思っていた。

 9/24(土)武蔵境の施設の相談員の方から、退院にあわせた転居を勧められる。はじめは戸惑ったが、確かに今後は24時間看護師のいる施設に移ったほうが安全かもしれない。10/2(日)に同系列の介護施設を見学し、弟の家に近い杉並区久我山の施設に転居を決めて、退院を待つことにした。

 ところが母の容態が悪化し、病院から「胃ろう」または「CVポート」の選択をしないと、介護施設での受入れは難しいだろうという言ってきた。10/15(土)武蔵境の施設で5年間、母を看てきた看護師さんに「どうも話がおかしい」と言ってもらい、「まずは病院を出て家族と会えるようにすることが大事なんじゃないか」という正しい助言をもらった。そこで弟から病院の医師に、家族は延命を望んでいないこと、看取りのために退院させてほしいことを伝えた。

 私は、原則禁止の面会を病院に頼み込んで、10/21(金)に15分だけ面会させてもらった。病室のベッドに横たわった母は、もはや目を開いていても私が見えているのか分からなかった。それでも帰り際に「また会いたいね」と髪を撫ぜると、うなずき、微笑んだように思った。

 その後、しばらく病院から音沙汰がなかったのは、渉外担当のソーシャルワーカーが新型コロナに罹患していたためと後に判明する。10/28(金)に久我山の施設のホーム長から、退院のためのアセスメントが11/4(金)に決まったという連絡をもらう。ところが11/5(土)になっても何も連絡がないので、武蔵境の相談員や久我山のホーム長に電話をしてみると、また母の容体悪化でアセスメントが延期になっていたことが判明。あまりに無責任な連絡体制に私はブチ切れていた。

 退院アセスメントは11/15(火)に再設定された。まさにその日の11:00過ぎ、私の携帯に弟から電話がかかってきた。オンライン会議中で出られなかったので、あとで留守電を聞くと、母の心拍数が弱っているので面会に来てもよいという連絡が病院からあったという。慌てて午後休を取って病院に駆けつけ、目を閉じて呼吸しているだけの母に15分ほど面会させてもらった。この状態では退院できないのではないかと思ったが、アセスメントはあっさり済んで、11/18(金)に退院と久我山の施設への転居が決まった。

 この経験を通じて学んだのは、病院は「肺炎」で入院した患者について、その症状の快癒には責任を持つが、それ以外の健康状態やQOL(生活の質)には関心を持たないらしいということだ。外部との交渉を断たれた状態での2ヵ月にわたる入院生活は、母の体力も生きる楽しみも奪ってしまったように思う。患者家族との連絡・交渉を受け持つソーシャルワーカーが、どう見ても経験不足の若い男子だったことも、運命だが残念でならない(適切な指導者がついてないのであれば、彼も可哀想だ)。ただ、病室で出会った看護スタッフの皆さんは、明るく親切で、ハードな仕事をテキパキこなしていたことは付け加えておく。

※葬儀私記(その2-2)に続く。

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2022深川・富岡八幡宮の酉の市

2022-11-16 21:12:34 | なごみ写真帖

在宅勤務を終えて買い物に出かけて、今日は二の酉だったと気づいたので、富岡八幡宮に寄ってみた。ここの酉の市は小規模で、参道の中ほどに4~5軒の熊手屋が身を寄せ合っているだけ。食べもの屋も、ベビーカステラの屋台が1軒出ていただけだった。

照明も暗くて人も少ないのだが、それはそれで、なかなかエモい。江戸とは言わないけれど、明治の酉の市もこんなふうだったのかな、と想像する。

ダボダボのズボンを穿いた鳶職ふうのお兄ちゃんが、大きな熊手をかついできて、新しいものに取り換えたりしている。「お手を拝借」の手締めも、途切れることなく続いていた。

今年は三の酉まである年。火事に気を付けよう。

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