〇五百旗頭薫『〈嘘〉の政治史:生真面目な社会の不真面目な政治』(中公選書) 中央公論新社 2020.3
近年、政治の世界に蔓延する「嘘」にかなり辟易している。辟易できるのは、まだ正気を保っている証拠で、次第に「嘘」と「真実」が曖昧に混じっていても気にならなくなってしまうかもしれないと思う。著者は、絶対の権力があれば嘘は要らないという。それなりの野党や異議申し立てがあるから権力側は嘘を使うし、異議申し立ての側も権力と闘うために嘘を武器にする。
著者は嘘と虚構(フィクション)を区別する。虚構は事実を偽らず、概念の力によって異なる結論を導くもので、これには効力がある。そして、嘘であっても、本当に騙してくれる嘘は毒にも薬にもならない。問題は、露見してもあつかましく繰り返される嘘(横着な嘘)で、社会に対する信頼感を破壊してしまう。横着な嘘を粉砕し、無効にするのはレトリックであり、レトリックの貯蔵庫となるのが、ある種の文芸の領域である。以上は「はじめに」に示される本書の見取り図。
本書はおおむね近代以降の日本政治史をテーマとするるが、第1章だけは突然500年前に遡り、近世日本が「職分社会」であったことを確認する。明治維新によって職分社会が崩壊すると、アノミー(無規制状態)から逃れるため、人々は新たな紐帯を求めて結社に集まった。なるほど。我々がこの時代の思潮に、帝国主義や民主主義など、全く異なる主義主張を見て取る理由を、著者は「明治の結社の普遍性と無目的性」と喝破している。
やがて政党が誕生するが、当時の日本人の政党理解の糸口になったのは儒教の「朋党」の観念で、利益目当ての小人の「党」を批判し、君子の「朋」を承認するものだったが、複数の「朋」が競い合うことは想定されていなかったというのも面白い。近代日本の政党には、自らを政党システム全体の一部と自覚し、他の政党を同じ一部として承認する姿勢が弱かったように見受けられるという指摘は、現代にも通じる問題で、傍線を引いておきたくなった。
このあと、具体的な題材として、福地桜痴、犬養毅、安達謙蔵を取り上げ、その政治的生涯を嘘の観点から記述するが、近代政治史が不得意な私には読みづらかった。ただ面白かったのは、突然現れる正岡子規への言及である。著者は「野党を支えるレトリック」と題して、以下のように言う。結果を急ぐ者は与党に向いている。成功までの長い時に野党は耐えなければならない。この長い時に伴走するのが、直接的ならぬ因果を繰り返し提示する言説で、そのような言説を支える文芸が俳句だという。
そして、具体的な俳句がいくつか示されている。子規は目の前の空間を印象鮮明に写生することに俳句の活路を見出した。その弟子の虚子は俳句に時間を取り込み、「主観的な時間」を表現しようとした。子規は時間を表すことに虚子よりも警戒的であったが、虚子の意欲を評価した。ここまでは、たぶん文学評論でも語られるところだろう。著者は、さらに一歩を進めて、この「主観的時間」こそ、跳躍や断絶やパラドックスの前提であり、希望の観念の根底であるといい、俳句に「野党のサブカルチャー」の可能性を見出す。文芸は政治から自由であるべきと言われるけど、政治との接点から文芸を考える試みはあってよいと思う。