見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

徳川将軍家の学問・書物のたどる道/江戸東京博物館

2006-03-18 23:50:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
○江戸東京博物館 特集展示『徳川将軍家の学問-紅葉山文庫と昌平坂学問所-』

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

 前の仕事が長引いたため、閉館の1時間前に飛び込むことになってしまった。まあ、常設展の特集展示だから、そんなに時間はかからないだろうと思っていたが、けっこう出品数が多いので、見切れないのでないかとドキドキした。

 本展は、徳川将軍家の学問、および幕府の文教政策について、伝来資料を用いて紹介したものだ。絵画や実物資料も混じっているが、展示品の大半は書物である。企画展『江戸の学び-教育爆発の時代-』に併せたミニ展示だが、書物好きには、こっちのほうが堪えられない”お宝満載”と言えるかもしれない。

 私は書誌学については素人なので、以下、印象批評のみ。まず「伏見版」「駿河版」など、江戸初期の出版物が並ぶ。表紙は少し汚れたり虫が食っているものもあるが、中の料紙や印刷は実にきれいだ。あと二百年や三百年の歳月には、動じる気配も感じさせない。綱吉が刊行した常憲院本『四書章句集注』は、小型だが「ゆったりとした品格のある活字が特徴」だという。なるほどね。慶応大学斯道文庫の所蔵品だった(丸善の展示会にも出品)。江戸初期の和刻本漢籍は、紺や青系の表紙が多いように思った。

 これに対して(急に時代を飛んでしまうが)明治初期の流行本は黄色の表紙が多い。『自由之理』然り、『西国立志編』然り。展示品の『西国立志編』は、江戸博の所蔵品だが、巻頭に「東京女子師範学校○○(所蔵?)印消印之證」という印が押してあった。つまり、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)が購入したが、要らなくなって処分したのだろう。「第○」という番号が朱書きされているところからすると、テキストとして大量に複本を購入したのかもしれない。一方の『自由之理』にも「学務」「払下」という印が見える。これはどこの学校の払い下げ品だろう? 気になる!!

 また、『仏蘭西答屈智機』という、ナポレオンの戦術解説書を翻訳したもの(答屈智機=タクチック=tactics)があった。訳者の村上英俊(1811-1890)は信州松代藩士、独学でフランス語を習得した。日本のフランス学の始祖というべき人物だそうだが、へえー。あまり聞かない名前である。この本は、現在は静岡県立中央図書館の所蔵だが、「駿府学校」「○○(静岡?)師範学校」のほかに、うっすらと「箱館御役所」(北海道松前藩の庁舎)の印が見える。

 『新旧騎士勲章図鑑』と題された資料は、大型の色刷りの洋書である。解説に「文久2年、幕府遣欧使節の将来本」とあった。ということは、福沢諭吉らとともに海を渡ってきたのだなあ。資料は何も語らないけれど、たどってきた道のり(時間的・空間的な移動の足跡)に想像を馳せると、しみじみと興味深い。

 書物以外では、湯島の聖堂の屋根に乗っているという「鬼龍子」にびっくり。ヒグマの子みたいだ。

■葵文庫の概要(静岡県立中央図書館):江戸幕府旧蔵書の印記データあり
http://digital.tosyokan.pref.shizuoka.jp/aoi/1_outline/index.htm
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明るいアンビション/立身出世主義(竹内洋)

2006-03-17 00:17:26 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『立身出世主義:近代日本のロマンと欲望』 世界思想社 2005.3 増補版

 この本の結びの部分を読んだとき、今から10年ほど前の経験を思い出した。私がまだ一介のヒラ係員だった頃のことだ。職場の先輩との会話で、あんなこともしてみたいし、こんなこともしてみたい、という将来の希望を何気なく語ったとき、つくづく感に堪えかねたように「貴方は上昇志向だねえ~」と論評されたことがある。趣味に生き、万事ほどほどを尊ぶ小さな公務員社会(中央官庁ではない)では、よほど珍しかったのであろう。そうか、私は「上昇志向」なのか、とその言葉を胸に刻んだ。

 さて、本書は、NHK人間大学のテキスト『立身出世と日本人』をもとにした書き下ろし(日本放送教会 1997)の増補新装版である。話題の中心は、例によって、受験生とその後身たる旧制高校生、そして帝大生であり、しばしば漱石の小説を例に引いているのが面白い(三四郎のその後の人生とか)。漱石の小説が、すぐれた風俗小説であったことがよく分かる。その一方、本書は「立身出世」という思想を、より幅広い社会的文脈に位置づけようとしている。

 近代日本の立身出世主義の「推進力」は何であったか。それは社会的ダーウィニズムであると言えよう。同じ頃、アメリカでブームとなった成功主義は、聖書とピューリタニズムに多くを負っているが、「ダーウィンやスペンサーの影響はほとんどなかった」という。そうか、社会的ダーウィニズムって、世界的な流行ではなかったのか~。

 ダーウィニズムが表すものは「優勝劣敗」つまり、大きな成功の可能性と大きな失敗の可能性だった。明治初期の日本人は、そこに、成功の希望と同時に落伍の恐怖を感じ取っていた。明治30年代以降、一足飛びの社会的階層移動(立身出世)の機会は減少するが、立身出世熱は冷めることなく「保温」される。立身出世の目標は、大臣や大将になるという大望(アンビション)でなく、町工場の経営者や小学校の校長など、ささやかな上昇移動(キャリアリズム=小さな成功の可能性)に縮小された。

 さらに昭和40年代以降、ダーウィニズム的世界観を崩壊させる豊かな社会が出現した。そこには、ドラマティックな成功も無いかわりに、ドラマティックな失敗も無い。立身出世の物語は、「豊かさのアノミー」によって終焉したのである。

 最後に著者は、日本は本当に学歴偏重社会であるのか?と問いかける。実際には、日本において地位や収入が学歴と結びつく度合は低く、もはや学歴の背後に立身出世のような大きな物語がないことを、多くの日本人も自覚している。にもかかわらず、システム化された受験社会は、目的を空白にしたまま、大衆を過熱し続けてきた。
 
 いわば「空虚な主体」「精神の官僚制化」の蔓延と裏腹の現象として、出世主義は悪であり、組織のトップになりたいなどとは「考えていません」と答えるのが、戦後日本人の正しい回答だった。しかし、「このような社会はどこか病んでいないだろうか」と著者は言う。「競争のための競争」でもなく「脱落の恐怖」でもなく、これからは、構想力という希望を背景にした、新しいアンビション(立身出世)の時代となってほしい、という著者の願いに、私は同意し、「明るい格差社会」の到来をひそかに待ち望むものである。
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大衆の政治学/映画のなかのアメリカ(藤原帰一)

2006-03-14 23:27:56 | 読んだもの(書籍)
○藤原帰一『映画のなかのアメリカ』(朝日選書) 朝日新聞社 2006.3

 映画は藤原先生の得意分野である。ということを、少なからず存じ上げているので、書店で本書を見たときは、にやりとしてしまった。「中学生の昔から、政治の話をする人よりも映画を論ずる人の方がずっと偉いと思ってきた」というのは、ちょっと言い過ぎ?としても、全編を通じて、好きなものの話をしているという嬉しさと晴れがましさが満ちていて、読んでいるほうも楽しい。

 政治学者である著者が、なぜ映画を論ずるのか。政治とは、政策を決定するプロ集団によってのみ行われるものではない。「普通の人がどう考えて生きているのかをつかまえない政治の分析は、やはり狭く、痩せてしまう」と著者は言う。そして、映画とは(多額の資本を必要とするため)宿命的に、観客を離れては成り立たない芸術であり、社会通念や時代精神を映す鏡であるのだ。

 映画を通じて、政治や文化コードを読み解くというのは、もはやおなじみの手法だ。とりわけ、カルチュラル・スタディーズと呼ばれる分野では。著者の立場は、”カルスタ系の人々”とは、やっぱり、どこか異なるように思う。あまりアクロバティックな深読みはしない。「帰還兵」「大統領」「市民宗教」「人種」など、「いかにもアメリカ的」テーマを正面から取り上げて、あまり紹介されることのない、アメリカ社会の実態とからめて、興味深く論じている。

 たとえば、キリストの受難を描いた『パッション』が成功したのは、現代アメリカが、極めて宗教色の強い社会であること、歴史的には、強大な教会権力が存在しなかったために、逆に政治権力の世俗化が進まなかったことなどが背景にある。『大いなる西部』を、遅れた西部が、東部リベラリズムに併呑される過程の表現と見るのも面白い。にもかかわらず、大統領選におけるブッシュの勝利は、東部に対する中西部の荒くれ男たちの逆襲と見ることもできる。

 本書はテーマを「アメリカ」に絞っているので、取り上げた作品も限られている。個人的には『愛の落日』について、善良なアメリカ好青年と、あいまいな不良中年(老大国イギリスの象徴)を対比的に論じた章や、日本とのカルチャー・ギャップをあまりにも正直に描いた『ロスト・イン・トランスレーション』を論じた章が、評論として”ひとり立ち”している感じで、面白かった。次は、もう少し守備範囲を広げてもいいのではないかしら。
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風俗画・身体のリズム/出光美術館

2006-03-13 22:54:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
○出光美術館 企画展『風俗画にみる日本の暮らし-平安から江戸-』

http://www.idemitsu.com/museum/honkantop.html

 「風俗画」に焦点を絞った展覧会である。ただし、その意味するところは、かなり広い。ふーん、風俗画? 室町から江戸期の洛中洛外図とか、花下遊楽図のことかな、と思って行くと、いきなり平安時代の『扇面法華経冊子断簡』が待っていて、びっくりする。経文の下地には、水辺にたたずむ童子と女房(女童か?)の姿が描かれている。なるほど、平安時代の風俗画にちがいない。

 それから、しばらく絵巻が続く。家族の幸せな日常を描いた『橘直幹申文絵巻』(出光美術館の所蔵らしいが、あまり見たことがなかった)。降ってわいた富貴に困惑する老夫婦を描く『福富草紙絵巻』。その隣は『小柴垣草紙絵巻』ではないか! びっくり! これは、絶対清浄であるべき伊勢の斎宮が、警護の武士・平致光(むねみつ)と禁断の恋に落ちるという、超スキャンダラスな物語を絵巻にしたもの。その実態は、「春画の元祖」みたいな、鎌倉時代のポルノ絵巻である。

 さすがに展示では、巻頭で、恋の喜びに輝く斎宮の表情をアップにして、「醜聞という恋愛の魔力のすべてを語っている」という注釈を付けるにとどめているけれど、軸に巻かれた続きの紙面には…。知りたければ、橋本治の『ひらがな日本美術史2』(新潮社 1997.8)を見るのがよい。「科学するもの」という章題で、『小柴垣草子絵巻』が取り上げられている。いや、実際、科学かもな~というくらい、身もフタもない態度で、男女の性行為そのものが描かれているのである(確かめたい...)。

 さて、展示の中心は、やはり江戸時代である。テーマはバラエティに富む。「観光・異国へのあこがれ」では、宣教師一行の買い物風景を描いた『南蛮人交易図屏風』が面白かった。道具屋の店先に腰掛けて、「それだよ、それ!」という風情で売り物を指差す南蛮人。言われた品物を取ろうとする店主。江戸時代の『世界地図・万国人物図屏風』には、さまざまな民族(国民)の男女がペアで描かれている。「日本」にはお公家さん風体の男女が描かれ、男が日の丸の扇子を持っているのが興味深い。

 続く「歌舞伎・遊び」では、邸内や屋外で、遊楽に興ずる人々が描かれている。踊り興ずる人々の体は、大きく揺れている。熱狂を呼ぶ、早いリズムが伝わってくるようだ。いいな。これこそ風俗画の「粋」という感じだ。

 このほかでは、新発見のやまと絵系画家による扇面風俗画が面白かった。なるほど、拡大写真で見ると、狩野派との違いがよく分かる(できれば、拡大鏡を持っていくことをおすすめ)。人気の仙も出ている。
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翻訳された風景・亜欧堂田善/府中市美術館

2006-03-12 21:51:21 | 行ったもの(美術館・見仏)

○府中市美術館 企画展『亜欧堂田善の時代』

http://www.art.city.fuchu.tokyo.jp/index.html

 亜欧堂田善(1748-1822)は江戸後期の銅版画家、洋画家。高橋景保の『新訂万国全図』の作成者でもある。私は、つい先日、天理ギャラリーの『幕末明治の銅版画』で彼の作品に出会い、名前を覚えたばかりである。

 この展覧会でも、会場に入るとすぐ、江戸の名所絵を集めた『銅版画見本帖』が広げてあって、目を引く。奥行きを強調する、極端なまでの遠近法。小さく描かれた人の姿。その結果、まるでローマ遺跡の円柱のように聳え立つ樹木。描かれているのは「佃島」とか「吉原大門」とか、浮世絵でお馴染みの風景なのに、不思議なもので、描画の技法が違うと、「日本でない、どこかの風景」を見ているような気持ちになる。日本語であって日本語でない――明治の翻訳文学の世界を可視化すると、こんな感じになるのではないか、と思った。

 しかし、田善の銅版画には、時として、新しもの好きの驚異以上のものを感じさせる。たとえば、上記『見本帖』の「品川」で、海の見える座敷にひとり佇む痩身の女性には、静謐な情緒が漂っている。

 亜欧堂田善は奥州白河藩(福島県)の生まれ。子供の頃から絵が好きだった。藩主松平定信に認められ、御用を務めるようになったのは47歳のときだという。ずいぶん遅いスタートである。洋画の技法を学ぶため、司馬江漢(田善より1歳年上)に入門するが、すぐ破門されたと伝えられている。江漢が、田善の鈍重さを嫌ったためともいう。

 うーむ、分かるなあ。司馬江漢って江戸っ子だもんね。そして、江漢(関係ないが、この名前は”江湖好漢”から取ってるのかなあ)の洋風画は上手い。誰にでも分かりやすく上手い。歴史の教科書に「洋風画の開拓者」として載せるのは、やはり江漢の作品でなければならない。

 一方の田善。このひとの絵はヘンだ。技術者としては器用だったのかも知れないが、画人としては、鈍重といわれても仕方のない面があったのだろうと思う。しかし、その素人っぽさが、彼の絵に奇妙な魅力を与えている。それは、とりわけ、田善の油彩画に顕著である。愚直に写実的でありながら写実を超え、江戸の町を描きながら、どこでもないネバーランドの光景を描き出してしまった。その魅力は、アンリ・ルソーの絵に少し似ている。緑色が印象的な点でも。

 司馬江漢に破門された田善は、松平定信のお抱え絵師である谷文晁に学んだ。また、定信やその周辺の蘭学者のもとで、西洋の書物に接し、挿絵から銅版画を学んだらしい。『西洋公園図』『ゼルマニア廓中之図』など、風景・人物とも、西洋そのままの模写も残している。

 また、当時、フランスでは「ジュイ(地名)の更紗」と呼ばれる、銅版画をプリントした更紗が人気だった。田善はこれを真似て、自作の銅版画をプリントした帛紗(ふくさ)や帽子や煙草入れを作っている。帽子のプリントに使われた銅版画は、その元ネタとなった挿絵のあるオランダ語の本まで分かっている(静岡県立図書館蔵←南葵文庫←松平定信旧蔵本なのかしら?)。

 さて、この展覧会の後半は、田善と同時代に生きた画家たちを紹介している。実はその中に、東博の特集陳列『幕末の怪しき仏画』で一部にブレイク中(?)の、狩野一信の五百羅漢図の1枚(増上寺蔵のホンモノ)が出品されている。しかも、数ある中から、『日本美術応援団:オトナの社会科見学』(中央公論社 2003.6)で取り上げられていた1枚が出ているのが嬉しい。正直にいうと、私はこの1枚を見るために来たのだが、はからずも、亜欧堂田善という画家にハマってしまった。

 それから、若い頃の田善の師匠、月僊(月遷)もいい。もう1人、全く知らなかったが、安田雷洲という画家もいいなあ。『赤穂義士報讐図』という作品では、討ち入りの後なのだろう、大石内蔵助と思しき人物が、吉良の首を、赤子をあやすように抱いて微笑んでいる。周りの義士たちも嬉しそうだ。キリストの誕生を思わせる構図だが、あまりにもあやしい。江戸の画人たち、あなどれない。

※2023/2/26補記:展覧会名『亜欧堂田善の世界』の誤りに気づき、『亜欧堂田善の時代』に修正。会期は、2006年3月4日~4月12日。

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旧制高校の時代/学歴貴族の栄光と挫折(竹内洋)

2006-03-11 23:54:17 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』(日本の近代12) 中央公論新社 1999.4

 近代教育史のマイブームはまだまだ続く。本書は「1人1巻の書き下ろし」による「日本の近代」シリーズの1冊である。面白いな。私は、大勢で書く講座ものはあまり好きでないのだが、これなら読んでもいい。松本健一の『開国・維新』とか、水谷三公の『官僚の生態学』とか、他の巻も面白そうだ。

 さて、本書のタイトルが示す「学歴貴族」とは誰のことか。どうせ帝大生のことだろう、と思って読み始めたのだが、この予想は微妙に裏切られた。近代日本の「学歴貴族」とは、旧制高校の学生をいう。本書は、旧制高校の誕生から終焉までを、制度史・文化史の両面から描き出し、さらにその余香を、新制大学の時代にまで追ったものである。

 知らないことばかりで、実に面白かった。明治14~15年頃、東京大学予備門では、毎年、在学者の4分の1以上が退学していた。当時の東京大学は、たくさんある高等教育機関の1つに過ぎず、卒業生の行き場で突出した優位性をもった学校ではなかった。そのため、東京大学やその予備門は「生徒を引き止めるほどの大きな魅力をもっていなかった」のである。

 明治19年、帝国大学令の公布によって、帝国大学を頂点とする高等教育の時代が始まる。翌年、帝国大学卒業生は、無試験で高級官吏(試補→奏任官)になることができると定められた。このヒエラルヒー型教育システムを設計したのは、文部大臣森有礼だった。(帝国大学初代総長には、官僚肌の渡辺洪基が選ばれ、東京大学総理の加藤弘之は、森有礼に嫌われて更迭されてしまう。加藤って、つくづく損な役回りのひとだなあ。)

 高等中学校(→旧制高校)は、帝国大学の誕生とセットになって、同じ明治19年に生まれた。旧制高校は次第に増えていったが、進学希望者はそれに勝る勢いで増えていく。それでも、大正末年までは、旧制高校を卒業すれば、ほとんどはどこかの帝国大学に進学することができた。高等学校の卒業生を帝国大学が収容し切れなくなり、帝大入試が行われることになるのは昭和以降のことである。

 したがって、「旧制高校」に入れるか入れないかは、エリートと非エリートを選別する最大の関門だった。なるほど~。永井荷風が父親に「何年かかってもいいから一高を受験しろ」と言われたわけや、川端康成『伊豆の踊り子』で、旅芸人たちが一高生の「私」を、まぶしいエリートとして見つめる感覚が、ようやく分かったように思った。

 いつも思うのだが、著者の本は数字の使い方がうまい。数字嫌いの私でも、つい読まされてしまう。と同時に、具体的なエピソードの使い方もうまい。明治30年代、武士的エートスと、西洋文化を核とした教養主義的エートスがせめぎ合う第一高等学校の様子は、魚住影雄(哲学教授のケーベルに師事、のち漱石門下)を通じて活写されている。

 旧制高校から放逐された武士的エートスは軍学校生の間に生き残った。西洋かぶれの官僚(非軍事)エリート集団と、国粋主義的な軍事エリート集団の「互いに斥け合うエリート・ハビトゥス」は、社会の不安定要因となる。著者はそこに昭和初期のファッショ化の背後構造を見る。

 最終章は、戦後、旧制高校的教養主義が一時的に復活し、次いで決定的に解体した顛末を論じる。本書のあとに執筆された著作『教養主義の没落』や『丸山真男の時代』に、むしろ詳しい。ただし、本書の結論に置かれた、大正時代半ばには、既に高等教育人口の爆発が起こり、大学知識人のゴシップ、学校騒動、大学無用論が頻発していたことを考えると、あの戦争がなかったら「昭和40年代の大規模な大学紛争は昭和10年前後におこっていただろう」という指摘は、重要であると思う。ずいぶんシニカルな結論だけど。
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鎌倉、梅は咲いたか

2006-03-09 22:14:39 | なごみ写真帖
週末、白梅は見ごろ。紅梅はあと少しだった。ふくらんだ蕾がピンクパールのようだ。

例によって逗子から名越切通しを抜けて鎌倉に入った。横須賀線を見下ろす坂の上に、梅の木の多い民家がある。この季節、私のいちばん好きな「梅のお花見ポイント」である。

白髪のご夫婦の姿を見かけて、思わず「きれいに咲きましたね」と声をかけたら、嬉しそうに「もうすぐブンゴウメも咲き出しますよ。どうぞ、座って見ていらっしゃい」と言っていただいた。

ミモザはもう咲いてしまったかしら。梅、モモ、サクラ、海棠、菜の花、藤、アヤメ。このあと、晴れた週末は、当分忙しい。


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ため息の似合う女性美/鏑木清方記念美術館

2006-03-07 12:10:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
○鏑木清方記念美術館 収蔵品展『清方の歳時帳-スケッチ-』

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kaburaki/index.htm

 週末の鎌倉、初めてこの美術館に寄ってみた。小町通りの喧騒を離れて、ひっそりした路地に折れると、住宅街に隠れるようにして、小さな美術館があった。普通のお屋敷のようで、一瞬、門をくぐるのがためらわれる。

 うつむき加減の和服の美女二人を描いた『ためさるゝ日』(右幅)は、たぶん何度かポスターなどで見かけている。しかし、これが、長崎の丸山遊郭の正月行事(!)「踏絵」の風俗を描いたものだとは知らなかった。この日、遊女たちは、なじみの客から贈られた「踏絵衣装」をまとい、華やかな雰囲気が漂う中で行われたという。対幅(写真展示)は、まさに遊女のひとりが、踏絵に歩み寄ろうとする図であった。

 もう1枚、『春宵怨』と題して、道成寺を描いたスケッチも印象的だった。清姫の振袖には、薬師寺塔の水煙が描かれていて、燃え上がる恋の炎のように見える。

 それにしても、清方の描く女性は美しい。表情の知れない小さな目。あたかも、ため息を漏らすためだけの小さな唇。さらに言えば、やわやわした着物に包まれて、太っているのか痩せているのか、体の線も定かでない。全て雛人形に似ている。
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鎌倉のおひなさま/鎌倉国宝館

2006-03-06 22:41:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○鎌倉国宝館 特別展『ひな人形-公開・姉妹都市上田のひな人形-』

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/index.htm

 久しぶりに鎌倉まで遠出した。国宝館は、三月らしく、ひな人形展である。以前にも見たことがあるので、代わりばえしないかなあ、と思っていたが、上田市立博物館の所蔵品、とりわけ「押絵びな」が目新しかった。

 押絵雛は、厚紙に綿をかぶせ、布を貼り付けて作る。羽子板に取り付ける人物飾りの独立したものと思えばいい。竹串が付いていて、ジャワ影絵芝居の人形のようだ。しかも、出品されていたのは、「雛」と言いながら、仮名手本忠臣蔵の一場面で、討ち入り姿の浪士たちである。ほつれた髪の毛がリアル。昔の「ひなまつり」って、こんなのを飾ったのか!

■松本の伝統工芸押絵雛
http://www.localinfo.nagano-idc.com/kita/kanko/dento/oshie/index.html

 常設展には、平たい厨子に入った釈迦涅槃像が出ていた。頭部と足元に、それぞれ1人ずつの弟子が跪いている。阿難と迦葉かな。厨子の扉の内側には、嘆き悲しむ大勢の弟子や菩薩や動物たちが描かれている。ドールハウスのようにコンパクトで可愛らしいので、ちょっと雛壇に並べて置きたくなる。それから、建長寺の釈迦如来坐像(南北朝)は、頭部と胸元の繊細な飾りが、これも優美な雛人形のようだった。

 ほかには、仏日庵方丈の地蔵菩薩。体躯の厚みも顔立ちも男性的で、少林寺映画が似合いそうな地蔵である。光触寺の頬焼け阿弥陀も、さりげなくお出ましだった。
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舞台の下の人間ドラマ/京劇(加藤徹)

2006-03-05 23:57:30 | 読んだもの(書籍)
○加藤徹『京劇:「政治の国」の俳優群像』(中公叢書) 中央公論新社 2002.1

 昨年、同じ著者の『西太后』(中公新書 2005.9)を読んだときから、次はこれを読みたいと思っていた。しかし、この「中公叢書」というシリーズは、小さな本屋では、なかなか置いていない。先日、神田の東京堂書店で、竹内洋の『大学という病』(中公叢書 2001.9)を探していて、同じ並びに本書を見つけた。嬉しくて、すぐに一緒に買って帰った。

 本書は、著者によれば「京劇および関連劇種をめぐる人間ドラマを取り上げたノンフィクション」である。結果的に、清初から現代までの三百数十年にわたる京劇の歴史を概観することができるが、個々の演目や技について、詳しい解説があるわけではない。しかし、本書を一読すれば、そんな瑣末な知識をむさぼる以前に、京劇という芸術の「人間味」に圧倒され、まだ見ぬ京劇のファンになること請け合いである。

 いつも思うのだが、中国人の「激烈な人生」というのは、日本人の考える限界をはるかに超えている。本書に登場する京劇の名優たちも、皆(男も女も)目の醒めるような個性を持ち、途方もなく激烈な人生をおくっている。

 近代初期の俳優たちは、時々の権力者たちと意地で戦い抜いた。西太后の気まぐれな「京劇改革」に従うと見せてこれを利用し、芸をみがいた俳優たち。袁世凱の誘いをはねつけ、身を売らず、芸を売る態度をつらぬいた女優・劉喜奎。秘密結社「青帮」にたてついた余叔岩。抗日戦争期には、多くの俳優が、日本人のための舞台に立つことを拒否し、女形の梅蘭芳は髭をのばして抵抗した。しかし、満州国の名優・程永龍のように、国共内戦の混乱によって困窮し、瀋陽大戯院の楽屋でひっそりと餓死した者もいる。

 中華人民共和国の成立から文化大革命の前夜まで(1949-1965)の17年間は、国を挙げての京劇改革が行われた。それも束の間、中国は文革の混乱期に突入する。

 1966年8月23日、造反派は文芸界の幹部たちを北京の孔子廟に連行し、暴行を加えた。このとき、暴行を受けたのは、作家の老舎、蕭軍、京劇俳優の荀慧生、馬富禄など。これを「孔廟事件」と呼び、映画『さらば、わが愛』にも描かれているのだそうだが、認識していなかった(映画も見てるのに)。北京の孔子廟といえば、4年前に行ったところだ。昨年、中国で聞いた話では、北京オリンピックに向けて、孔子廟一帯では、古きよき北京の面影を復活させる計画が進んでいるらしい。歴史は遠くなりにけりか。否、忘れたように見えて、彼ら(中国人)は忘れないんだろうな、一度起きた歴史を。

 文革の犠牲になった俳優たちの逸話は、どれも涙なしには読めない。名優・蓋叫天は80歳近くして造反派の暴行に遭い、半身不随になった。それでも舞台復帰を諦めず、上半身の鍛錬を続けたが、83歳で没した。彼の座右の銘は「学到老(死ぬまで勉強)」だったという。合掌。

 概括的な知識では、京劇のルーツが安徽省の地方劇であるというのが興味深かった。清の乾隆年間、安徽省と湖北省の地方劇が北京で出会って融合し、次第に北京化して、京劇が成立したのだという。これで、安徽省に行ってみたい理由が、また1つ増えた!

 それから、万事に「早熟」な中国文明において、演劇は例外的な「大器晩成」だった(歴史が浅い)という指摘は、言われてみれば、なるほどと思った。また、近代中国は「意外と二次伝統が乏しい」というのも面白い。近代国家に「二次伝統」(共同体のアイデンティティーとして自覚的に再創造された伝統)は、つきものである。アメリカ然り、日本然り。けれど、中国の場合、一次伝統が過剰に存在したためか、二次伝統の再創造よりも、一次伝統を創造的に破壊することに重きが置かれた。だから、京劇には女優が進出できたし、マイクや電子楽器を使うことにも中国人は躊躇がないのである。この観点、中国文明論として、かなり鋭いと思う。
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