時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

可愛いすぎてビックリ

2024-06-24 | essay

え?あなた誰?
と二度見!
庭の片隅に何とも可憐な小さなお花を発見。

よく見たら見慣れた多肉植物からニョッキリ伸びて咲いているのだった。
義父が趣味で育てているいろんな植木鉢が庭に無造作に置かれているので、洗濯物を干しながら時に可愛い花にビックリさせられるのだ。
植物はナゾと驚異に満ちている。

雨粒をまとってうつくしいなぁ。君は葉が既に花だよね。
よくよく見たら、葉の先のピンクとお花のピンクはお揃いなのね。
DNAってすごいなあ。




六月の球体

2024-06-21 | essay
ひとには幾つもの顔がある。
それはウラとかオモテとかではなく、どれもそのひとなのである。

ひとのココロは多面体ではなく
球体なのだ。

というわたしなりの持論。
我が身に於いても。

今日は母の命日。
いつも亡くなった時刻に覚醒してしまう。
出来れば泥のように眠ったまま過ぎてしまいたいのに。

そしてまだ生きていた母の
ココロを想う。
母もまたわたしの知らない顔をたくさん持つひとりのヒトだったのだ。
わたしの「母」である以外のヒトとしての彼女。

わたしが「ただのアタシ」でありたいと時に思うように
母もまたわたしの知らない「ただのアタシ」を持っていたはずなのだから。

母のすきだった蒼い紫陽花。
あちらにも紫陽花は咲いているのだろうか。
それとももう別の姿になって此の世で今年の紫陽花をみているのだろうか。

19回目の命日
間もなく午前4時。
道路に響く新聞配達のバイクの音。。。

そして今
早起きのイソヒヨドリが
高らかに鳴いた。

まだ空は暗いのにね。

もうひとねむりしなくちゃ。




スターに変身!

2024-06-19 | essay
木の花って豪快だ。
想いもよらないカタチの花を突然咲かす。
何度も通った道でいつも素通りしていた街路樹がにわかにスターに変身だ。
モシャモシャのふわふわのお花をつけておしゃれしているのはネムノキ。

ネムノキってこんなフシギなお花をつけるのねぇ。

以前から思っていたけれど、ネムノキとオジギソウって葉っぱのカタチがよく似ている。親戚なのかな。ネーミングも何だか同じにおいがする。

一度認識すると、途端に目に飛び込んできやすくなるもの。
たまに通リかかる公園のこの木もふわふわのおしゃれさんに束の間へ〜んしん!




ひととひと、つながる時間

2024-06-16 | essay
ものづくりの活動を拡げていくなかで出逢ったひとびとがこの10年余りでたくさんいる。

それぞれに魅力的な作家さんたち。
わたしがすきになるひとは
皆自分の分野で日々切瑳琢磨し、向上心がありながら謙虚さを忘れないひとたち。
そして何よりものづくりがスキで作家活動をたのしんでいることが皆の共通点だ。

この日は丁度同じ方面に
3人それぞれの作家さんの展示が重なっていたので
お昼前から夕方まで三件ハシゴしてきた。

一件はカフェ展示だったため美味しいものをいただきながらおしゃべりは尽きず、その場でまた輪が広がっていく。
コロナ禍を越えてこうしてまた普通に集うことが出来るようになったことを改めて実感する。
こうして他愛のないおしゃべりができるってしあわせなことだ。

コロナ禍の数年、正に「不要不急」の代表格だったアートの世界。先の見えない時代に悶々としながらもものづくりへの情熱は枯れることはない。

これからも何が起きるかわからないけれど、
こうしてつながりをたいせつに慈しみながら
ものづくりに関わるすべてをたのしんでいけたらしあわせだなぁ。。。

暑い一日。夕やけも夏色でした。



夜の子ども部屋

2024-06-11 | essay
真夜中に目覚めてしまい
眠ろうとしているのに
勝手に思考が彷徨う

子どもの頃
夜更けに母が戸締まりを確認しにそっと子ども部屋に入ってくる光景を何故かふいに想い出す。

母は毎夜窓の鍵を確かめカーテンをきちっと閉めてから
ベッドで寝ているわたしたちのふとんを掛け直してくれた。
近づく母の気配。ふとんを掛け直してくれた時の手の重み。ドアを出ていく逆光の後ろ姿のシルエット…

あたたかな
しあわせな
こどもの頃の想い出

思春期くらいになってからも
真夜中に母の気配を感じると小さいころみたいにふとんを掛け直してとんとんしてほしいな…と感じていたことも覚えている。

そう言えば子どもたちが小さいころ、絵本を何冊も読んだ後で寝かしつける時にわたしも同じようなことをしていたなぁ。
3人の子どもたちに順番に布団を首まで掛け直すと
みんな「ぎゅっぎゅってして」と嬉しそうに言っていたものだ。
わたしもぎゅっぎゅっと言いながらわざとお布団を子どものからだに巻きつけていたっけ。。。

一日の終わり…眠りにつく小さな体にかかるおふとんの重みそして母親の手の重みは、どうやらすこぶる安心感を与える格別な魔法を持っているようだ。

わたしがこうしてふと母を思い出すように
彼らもまた遠い先に
ぎゅっぎゅっとされた感覚を思い出してくれるといい。

子ども時代のささやかなしあわせな時間の記憶がちゃんとからだに沁み込んでいれば
何があってもなんとかなるという気持ちの土台となる。ような気がする。

幼少期の愛情は必須栄養素なんだな。
ヒトもけものもね。

空の上の母に感謝!です。







かかりつけ医難民

2024-06-10 | essay
かかりつけ医難民となって数年。

年一の健康診断も
さぁ今年は何処へ行こうかと迷う有り様。

かつていつも診ていただいていた町医者の先生はとても大らかな御方で、毎年話をしながら気になる検査項目を増やしたり臨機応変に対応してくれていた。
検査結果も細やかに説明してくださり最後に「合格!」と太鼓判を押してもらえると、スキップして帰りたくなるような気持ちになったものだ。

ご病気で急に休業されたあと、あっという間にお亡くなりに…。まだ60代だったと思われる。とても残念だ。今でもそう思っている人はかなりの数に上ることだろう。

あの先生にかかっていた友人知人皆同様に「かかりつけ医難民」だ。

さて、今年行ってみた病院は長男を出産した産院併設の内科。
近年立派に建替えられ健診も多く受け入れていると聞いて行ってみた。

問診にあたった先生は
健診の為だけのアルバイト先生らしく、小さな声でボソボソ話すお爺さん。

「なんかね既往歴を聞けと云われていてね、この中でなんかある?」と病名の表を見せてくる。小さな声な上に小さな文字の表。ググッと近寄らなきゃ聴こえないし見えないよ。
何だかあまりに医者っぽくない事務的な聴き取りに
もしかして医者じゃないのかなと、思わず
「えっと、お医者さん…ですよね?」と首からぶら下がる名札を覗き込んじゃった。
「医者なんだけどね…」とにっこり笑うお爺さん。
失礼しました。

アルバイトだからややこしいこと聞かないでねって
言わないけれど
ココロの声が駄々漏れです。

こんなに他人事みたいに話す腰の引けたお医者さんなんて初めて会いました〜。
それにしても
あまりに近づきすぎてお爺さん先生の見事に真っ白なまつ毛をまじまじと見つめ続けた問診の時間なのでありました。
あんなに全部真っ白になるのねえ、まつ毛。

かかりつけ医難民の日々は続く。。。









夢の中のジブンの姿

2024-06-06 | essay
夢をみた

夢のなかでわたしはすっかりおばあさん。
同じく歳をとった友達らしき仲間とビンテージなおもちゃ屋(雑貨屋?)にいる。
棚にずらりと魅力的なレトロなソフビやら置物やらが並んでいる。
なんて魅惑的な光景。
そしてなんていい味わいの色の洪水。
皆で懐かしがって見ている。
ガラスの置物を欲しがる友に
欲しいなら買ってしまいなさいよと勧めてるわたし。
お金はふんだんにあるようだ。
そして自分も昔欲しかったリスのソフビ人形を手に入れようか迷ってる。(現実では見たことないけれど)

けれども同時に自分のものにしてしまっても年齢的にこの先長く持てるわけではない…と身に沁みて感じて躊躇している。

何だか掲示的なゆめだ。
実は潜在意識では断捨離を望んでいるのか。
いよいよ必要な時期に来ているのかもしれない?

近頃あちこちカラダにガタが来ているせいで
ジブンが年寄りになった夢をみたのかも。

年齢を重ねることにムリに抗う気持ちはないのだけれど、
医者に「加齢が原因」と立て続けに云われるとさすがに萎えるものだなぁ。

気持ちだけはアラサーくらいなんだけどな〜笑
実際は気がつけばアラ還なんだな〜
ダブルアラサーだわ〜。

まあ、今日が一番若い!とジブンに言い聞かせておきましょう!





ちびお稲荷さんたち

2024-06-01 | essay


早朝にぱっきり目覚めた日は朝さんぽへ
時折霧雨が風に舞う気持ちの良い朝。

近所の神社の小さいお稲荷さんたち。わたしのお気に入りさん。

かつては境内の古い小さなお社の暗がりに鎮座していた彼ら。
近年一新されみんな並んでアウトドア生活に!笑
日を浴び雨にも雪にも打たれどんどんいきいきとしてきたようにみえます。

少しずつうっすらと緑をまとってきてこれから時間をかけて苔むすお稲荷さんへと味わいを増すことでしょう。




紫陽花に人生を思う!

2024-05-27 | essay


紫陽花。

初夏の咲き始めの初々しさはなんとも可憐だ。
これから時間をかけて滋味深い秋色へ、そして天然ドライになるまで季節を超えてずっと魅惑的なお花ってそうそうないんじゃないかな

ずっと観察していたいのに
大概花盛りの後バッサリ伐られちゃう。。。
何だか若さばかりもてはやされるニンゲン界の駄目なところに似ているようで残念だなぁ。
なぁんてしみじみ思ってしまうのは
ジブンがいつの間にか人生の晩秋ど真ん中にいるからなのでありましょう。

滋味深い秋色にちょびっとは染まっているだろうか〜。
う〜む。




ヴェネツィアングラスの鳥たち

2024-05-25 | essay
ヴェネチアングラスの置物

長男Sとお嫁ちゃんNちゃんからのイタリア土産。
わかってるなぁ。

長男が幼い頃、デパートで催された「イタリア展」で本場のガラス細工職人さんの実演を観たことがある。
その時に彼が気に入って選んだのも鳥の置物だった。

その時のことを覚えていたのか定かではないけれどこういうのスキなことに変わりはないね。
そして、きっとわたしが気に入るだろうとふたりで選んでくれたことが何より嬉しい。

他のものを入れていたレトロな棚をガラス細工専用飾りにしつらえました。
ヴェネツィア繋がりでモネのヴェネツィアの絵も一緒にね。
そして!先月もうひとりのムスコモドキYくんからいただいた香川旅行のお土産もガラスの鳥さんなのでありました。

この偶然もふしぎなものだなあ。
このコもケースに一緒に入れましょうね。




ピンク空

2024-05-23 | essay
久しぶりのピンク空にうっとり。
夏の夕空だなぁ。
日本の季節感、もうめちゃくちゃだ〜。
4月の夏日、5月に30℃とかなんやそれ。
紫陽花が咲き始めたのを見て
そう言えば梅雨ってこれからなんだっけと思い出す。

紫陽花も年々早まっている。
母の命日頃にしっとりいい色のなるはずなんだけどな。
よそのお宅の紫陽花を通りすがりに毎日鑑賞。


暫く前に見たかわいい紅葉プロペラたちはもう旅に出たかしら。




ユリノキのハナ

2024-05-16 | essay

なんてかわいい!ユリノキの花。
実は毎年見ているのに花が咲いているところは初めて見た。
よっぽど時期が短いのだろうか。

不思議な南国フルーツのようなムードの大きなお花。

ユリノキはどの季節に見ても存在感あるなぁ!






鹿の木と積もった時間

2024-05-09 | essay


きみに出逢ってからもう30年になるんだ。
わたしのすきな木。
近年は「鹿の木」と呼んでいる。
長く伸びた幹が鹿の後ろ姿みたいだから。
春過ぎて、きみが緑の葉に包まれるのを見るとほっとする。
今年も元気そうだ。

たくさんの想い出が沁み込んでいる木。
子どもたちが小さい頃、ここで母が握ってきてくれたおにぎりを皆で食べたよね。

子どもたちが木登りをすきになったのはあなたのおかげ。
(約20年前の子どもたちと鹿の木)

いつも変わらずそこにいて
わたしたちを迎え入れてくれた。
わたしには特別な木。

そして、驚いたことに
この木の話をしたこともなかったのに
亡き父のパソコンの中に
一枚のこの木の写真があったのだ。
10年程前、父が大阪から弟の家に泊まり掛けで上京した時のもの。
そういえば早起きして公園を散歩したと言っていたことがあったなあと思い出す。
大きな公園の中の何百本何千本とある木の中で
父が足を止めてシャッターを押す…なんという奇遇。
これは偶然というより木に呼ばれたとしか思えない。
木のこころが「わたしはあなたの家族のともだちなんですよ」と
袖を引いたに違いない。
と、万年ドリーマーなわたしは確信している。

ここは管理されている公園。
今までにも知っている木が何本も伐られていった。
ヒトに危険が及ばないよう樹木の専門家が病気の木や老木を見定めて伐採を決めているようだ。

永遠のものなど何も無いと
わかってはいるけれど
ずっとそこにいてほしい…と願う。
想い出と時間を共有してくれているたいせつなともだちだから。

子どもたちは皆大人になり、今はひとりでこの木に会いにいく。
昔はまだ細くしなっていた枝も、今ではわたしの力ではびくともしないほど太く逞しく育っている。

会いに行くたび、幹に手を当てる。
木は冬の寒い日でも驚くほど温かい。ちゃんと日々を生きている。

以前、うつくしい木の写真を撮る写真家マイケル・ケンナ氏の個展のインタビュー映像で、氏が語っていた言葉を思い出す。
「木とひとは同じ。会えば会うほど親しくなり、知れば知るほど関係は深さと複雑さを増す…」

ひととひと
ひとと木
ココロのつながりは同じなんだなぁ。




メッセージ♪

コメント欄は設けておりません。お便りはこちらからどうぞ♪

ブログ村

にほんブログ村 写真ブログ フォトエッセイへ
にほんブログ村

心象風景写真へ。

人気ブログランキングへ