:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ロサト教授は誤りを教えたか?-(その3)

2008-02-03 00:01:37 | ★ ロサト教授は誤りを教えたか?

2008-02-03 00:01:37

               
         
           ロサト教授は誤りを教えたか?-(その3)

○ 聖書にはなんと書いてある?
  (ヨハネによる福音書10章11-17節)

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)
 この「わたし」は第一義的にはナザレのイエス自身を指す。良い彼は「羊のために」すなわち、全人類のために、2000年近く前にパレスチナのエルサレムの町の丘の上でユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時に、十字架の上で命を捨てた。
 この同じ羊飼いと羊の群れの喩えは、二義的には、個々の教会とその司祭に関しても当てはまる。
 プロテスタントの教会には羊飼いとして牧師家族が居る。羊である教会員と牧師との絆は強く、教会員が牧師を生活的に養い、牧師は教会員を霊的に牧会する。その姿は、一つの生きた生命体として、ロサト教授の細胞の喩えに良く当てはまる。
 カトリック教会の場合も、つい30~40年前までは、ロサト教授の喩えに良く馴染むクラシックな側面を持っていた。そこでは、司祭と信徒は核と細胞質のように一つの命を形成する安定した閉じられた関係にあった。
 何れも、その原型はキリストと弟子たちの関係にあったといえる。要するにそれがキリスト教2000年の変わらぬ姿であった。

 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父がわたしを知っておられ、私が父を知っているのと同じである。」(14-15a節)
 司牧に当たる主任司祭は、自分の教会の信徒の霊的状態、生活状態を良く知っていなければならない。そのためには、司祭は自分の教会の司牧に専念し、自分の教会の信徒一人ひとり、教会員の家庭との接触を密にし、交わりを深めなければならないだろう。その鏡は、天の父とイエスの関係である。
 共同司牧方式は、羊飼いが自分の羊を知る、と言う目的から言うと、聖書の言葉に全く相反する、反福音的な、人間の浅知恵の産物だと言うほかはない。
 カトリックの教会と違って、プロテスタントの教会は、ピラミッド型の強固な組織を持たないから、牧師のなり手が少なくなったからといって、共同司牧などと言う安易な解決方法には、幸いにも極めて馴染みにくい。
 日本のカトリック教会が導入に踏み切ったこの方式は、幾つかの教会を、それらの教会の数より少ない人数の司祭がローテーションを組んで均等に巡回すると言うもので、複数の司祭が複数の教会に広く浅く均等に関わることを特徴とする。それは、必然的に、個々の司祭はどの教会のどの信徒とも希薄なかかわりしか持たないことをも意味する。「牧者が羊を知り、羊も牧者を知る」ことを構造的に困難にするシステムであると言うほかはない。
 羊の側からしても、毎週顔が変わり、同じ顔はたまにしか来ないというのでは、いざと言うときにどの司祭を当てにすればいいのか全く分からないことになる。どの司祭も自分のことを気にかけていてくれる信頼できる牧者とは思えない。結局、ついていくべき牧者を持たない「迷える羊の群れ」となる。

 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。私は命を、再び受けるために、捨てる。」(16-17a節)
 いくつもの教会を掛け持ちする司祭は、誰も「この囲い」と呼べる特定の教会を持たないことになる。したがって、「この囲いに入っていないほかの羊」と呼ぶべきものもない。また、誰も彼の声を聞き分けることはないだろう。だから、共同司牧方式では「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」事が決して起こらないシステムである。司祭達は、自分が関わる教会のどの一つに対しても、そのために命を捨てるほどの愛着も責任も感じないだろう。共同司牧は、よき牧者に関する聖書のキリストのモデルに相反するものであると断定せざるを得ない。

 「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」(12-13節)
 「一人の羊飼いに導かれる一つの群れ」と言う考えからすれば、共同司牧における司祭は、自分が責任を負って導くべき特定の「一つの群」を持たないから、羊飼いではなく、雇われ人に過ぎない。「狼が来る」と言う言葉で象徴される何か深刻な危機に直面すれば、皆一様に責任を回避し、「羊を置き去りにして逃げる」に違いない。その意味で、共同司牧に同調し、それに協力する司祭は、羊のために命を捨てる「良い羊飼い」とは言えないのではないだろうか。そんな司祭が、私は「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」ような事は決してしないと誓っても、はたして羊はそれを信用するだろうか。

○ 教会の頭、ローマ教皇はなんと言っている?

 わたしは、1年間の「サバティカル・イヤー」を申し渡されて、教区を離れてローマに行くことを命じられていた間、ローマで実に多くの収穫を得た。初めの半年間は、教皇庁立ラテラノ大学の「ヨハネパウロ二世研究所」に通って、やや真面目に勉強したが、それに飽きると、亜紀書房の求めに応じて、自分としては処女作になる本の執筆の傍ら、昼間は遺跡や博物館、美術館めぐり、夜はオペラやコンサートや、特に多数ある小さな芝居小屋で、古典や、コメディーや、政治風刺劇などを見てまわるのを楽しみにした。(まだの方は、是非「バンカー、そして神父」-ウオールストリートからバチカンへ-〔亜紀書房〕をお読み下さい。このブログの通奏低音です。) ローマでの1年間、多くの司祭や教授たちとの友情、ワインをかたむけながらの彼らとの議論は、わたしの目を開くために大いに助けとなった。
 現代の少子化、高齢化社会の問題、それとの関連で、世界的な司祭のなり手激減の問題も、そんな対話の中で何度も熱く議論された。そして、或る司祭は、全教皇ヨハネ・パウロ二世の言葉として「司祭不足が今後も続くものと想定し、避け得ない現実としてその前に屈服し、その対策に没頭するのは誤りである。むしろ、司祭のなり手が減少した原因を究明し、司祭の召命が増えるよう抜本的な手を打つことこそ重要である。」と言う意味の言葉を述べられた(書かれた)と言うことを教えてくれた。
 そのとき、わたしはそれがいつ何処で話された(または、どのようなドキュメントの中に収録されている)かについてメモを取ることをしなかったので、今ここに正確に引用することが出来ないのはまことに残念である(インターネットで教皇の全ホミリアと全文章をイタリア語で検索すれば見付かるかもしれない)が、いかにもヨハネ・パウロ二世教皇らしい考え方である。
 彼が、そのとき、自分がローマに開いたレデンプトーリス・マーテル神学院と世界に展開しているその姉妹校(現在7
5校を越え、ますます増えつつある)のこと、それらの神学校を満たしている若い神学生たち、そしてそれらの神学生を生み出している新求道共同体の子沢山の大家族たちを念頭に置いていたことは想像に難くない。

 ヨハネ・パウロ二世は自らの実験のよって自分の言葉を裏づけ、「共同司牧」の誤りであることを暗に示しているのだと思う。(つづく) 

コメント
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