:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ロサト教授は誤りを教えたか?-(むすび)

2008-02-07 10:30:55 | ★ ロサト教授は誤りを教えたか?

2008-02-07 10:30:55

     


          ロサト教授は誤りを教えたか?-(むすび)

 グアムのご夫人の素朴な失望と違和感は、少子高齢化社会のあおりをうけた圧倒的な司祭不足の対策として日本の教会が導入した、いわゆる「共同司牧」制度に起因するものだった。
 ロサト教授の教会論によれば、教会は生きた細胞のようなもので、細胞質は信徒、核は主任司祭に喩えられ、核を失った細胞質はやがて死に、細胞質に守られない裸の核も生きてはいけないことを言おうとするものであった。だから、幾つかの教会から細胞質である信徒たちに包まれた核である司祭を抜き取り、抜き取った裸の核を寄せ集める「共同司牧」方式は「共同死牧」と呼ぶのが相応しい。
 ローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学は、世界のカトリック神学界の最高峰であると言われている。ロサト教授はそこで教壇に立つことを許されているからには、単に語学に秀でているだけではなく、第二バチカン公会議後のカトリック神学の最先端であると同時に、中庸を得た穏健な学説の提唱者の一人であるはずではないか。
 日本で教会の方針を立案している指導者達は、その大部分が公会議の新しい指針が咀嚼され整理され体系化される以前の、つまり、宗教改革時代の遺物の古い神学で頭が固まった人々ではないだろうか。彼らが、今グレゴリアーナ大学に入りなおして、ロサト教授の講義を受け、少子高齢化に伴う司祭不足に如何に対処すべきか、と言う設問に対して、得意になって「共同死牧方式」を展開したら、みんな間違いなく落第、追試となるに違いない。
 それは、ヨハネによる福音書10章11-17節の聖書の解釈に合わないし、教会の頭、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の考えにも抵触する。
 少子化とその副産物である高齢化社会は、人間の英知も努力も届かない、歴史の必然的・宿命的所与であって、神の摂理が定めた、動かない現実と考え、それを無批判、無抵抗に受け入れ、そこを出発点にして対策を立てるべきものではない。
 少子高齢化は、現代の社会の第一世界における世俗化の産物に過ぎない。それは、2000年の教会の歴史の中で、せいぜいこの40-50年間の間に生じた特異な現象である。
 それは、地球温暖化と同じく、人間の営み、人間の自由な選択が引き起こした現象、人間の罪が招き寄せた災厄であって、人間の英知と努力で克服すべき課題である。
 如何にしてカトリック家庭の少子化に歯止めをかけ、如何にして司祭のなり手を増やすかこそが、先ず第一に考えられなければならない。その意味で、「共同死牧」は、この課題との取り組みを放棄した敗北主義の辻褄合わせに過ぎない。
 少子化は、人間のエゴイズム、快楽主義、唯物主義、お金の神様の偶像化、神への信仰と神の摂理への信頼を放棄したことの必然的帰結に他ならない。少子化は「死の文明」の当然の帰結であり、人間の罪が引き寄せた結果あって、黙って屈服する他は無い自然の摂理でもなければ、まして神の望んだことでもない。
 アンソニー大司教のように、レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院の姉妹校を誘致した先進的な司教たちは、聖書と、教会の伝統と、公会議の教えと、新しい神学に忠実に福音的回心を行えば、少子化は現実に克服できることを証明している。
 以上の一連の考察から、ロサト教授の教会論は正しかった、そして「共同司牧」は間違っている、と結論付けられる。

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                《 教 訓 》

 羊は牧者の声をよく聞き分けなければならない。誰が本当のよき牧者で、誰がただの雇われ人であるか、また、誰が牧者を装った狼であるかを識別しなければならない。それは、我々個々の羊が、聖書を読み、教会の長い伝統に学び、教会の頭であるローマ教皇の声を聞き分け、祈りの中で聖霊の照らしと識別の恵みを求めながら、最後は自分の良心に従ってなすべき、孤独な、しかし自由な作業である。
 大切なことは、グアムのご夫人ように素朴に、「あっ!これは変だぞ、これは何かおかしい!」、と信仰的本能を頼りにストレートに反応することである。期せずして多くの信徒が何かおかしいぞと直感したことがあれば、それぞれに勇気を持って声をあげなければならない。沈黙はいけない。
 しかし、今の教会には、そうした健全な信仰のセンスを自由に開放する場所が無い。そればかりか、その自由を抑圧し、沈黙を強いる重苦しい雰囲気が漂っているように思われる。
 卑近な例が、司教団の官報にも等しいカトリック新聞である。それは、多様な意見、健全な批判精神が自由に反映された活気に満ちた紙面と言うには程遠いものがある。(購読者数の低迷はその当然の結果であろう。)と言うことは、そういう声、そういう意見が編集部に届いても、それを取り上げる度量が編集者に無いことを暗示しているのではなかろうか。どう考えても、それらを握りつぶし、自由な言論を封じ込めるメカニズムが働いているような気がしてならない。現に、信徒の中から、質問をぶつけたが、回答が返ってこなかった、投書したが、紙面に取り上げてもらえなかった、と言う失望の声が上がった事例を知っている。
 教会の中で自由な言論、考えの多様性、「民の声」が封じられれば、羊の群れは簡単に誤りの中に導かれ、迷い、教会は衰えることになる。
 民の声を封じるなら、「石が叫びだす」(ルカ19章40節)というイエスのことばを思い出したい。(終わり)

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