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貧しさについて(その-2)
(私の隠れ家のあるNLA国際村から、野尻湖の向こうにそびえる妙高山)
(前回、今年のクリスマスパーティーから脱線して、以前に同じテーマで話し合った時のやり取りに言及しましたが、その時の反響として一通のE-メールを受け取ったのを大事に保存していましたので、再録します。)
以下、引用:
私の投げた小石の波紋がユリカモメさんの心の岸辺に反射して、折りたたまれ、掘り下げられて、素晴らしい模様になって広がった感じがしました。これを私が独り占めにして、そのまま受信トレイに埋もれさせるのは、いかにも勿体無いと感じました。
幸い、ご本人の了解が得られましたので、以下に引用させていただくことにします。
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ユリカモメです。
usagi さんのブログを読みました。
かなり登場人物も集約化しているのでしょうが、B さんというのは私の発言が主たるものだとおもいます。
で、意が伝わっていない(もともと言いたいことが完結していなかった)ので、ちょっと書きます。
まずE夫人の「文字通りの空中楼閣(集まった会場は東京の都心のデラックスな高層マンション上層階で実に素晴らしい眺望)で、おいしいご馳走の数々とアルコールを頂きつつ、貧困を論じるのには、なんだか後味が悪く空しく感じました」にはなんの反論もできませんし、私自身も同じ感情を持ちます。が、それでもあの話題はやってよかったとどこかで思っていました。
なぜかと考えたら、「後味悪く空しく感じる」のは、それはY子さんや、北九州市のような個別のケース(=貧困)を話すときに感じることで、政治問題としてとらえたとき(=格差)は、話をすることは有効だと思いました。
なぜなら、格差問題は個人の問題(努力不足とかではなく)ではなく、明らかに政治によって引き起こされる社会問題と思うからです。(私は社会的なことを話して何になるという人の意見には同意できません。)
私は、基本的に政治に皆が関心をもつことにより社会は良くなると信じています。(とはいえ民主主義が誤った決定をすることもあるとは思う。)
で、格差問題にも関心を持つべきです。
私は、所得差が生じるのはやむを得ないが、制度によってできる格差(例えば派遣業による賃金の格差)はなくすべきで、弱者を救うシステムはもっと充実すべきと考えます。
格差拡大がよくないと思うのは、心情的なことも大いにありますが、社会不安が生じると困るというエゴも理由です。
以上が私の基本的スタンスです。
次に、小泉改革ですが、中途半端と官僚にしてやられたというのが私の見方です。
確かに、いろいろな問題が噴出しています。それを理由に小泉改革は間違っていたという既得権益者の巻き返しが始まっているのです。
小泉改革は全く緒に就いたばかりで、まだまだ進めなくてはなりません。いくつか生じた問題を改革そのもののせいにしてはいけないのです。
とはいえ、大きな疑問もあります。
郵政の民営化、道路公団の民営化とは、市場化から退出すべきメカニズムが無くてはいけません。民営化とは旨く行くストーリーではなく、退出させられる道(=倒産)社員の失職の道があるということです。でも、これらにはそれが見えないのです。こうして考えると、小泉改革は、方向は示したもののほとんど実態は無いのではないかとも思います。結局官僚の焼け太りに終わりそうです。
この官僚エゴが国家をだめにしたのが共産国家だったのではないでしょうか?
共産主義にはロジックとして格差はないのでしょうが、実際は官僚と一般国民との間の格差はとてつもなくあったのではないでしょうか?(当日話にでたキューバは違うようだが。脱キューバを認めていたので米国からの送金で成り立った=庶民へ入金=との話ある。)
さて、格差問題はどうしたらいいかですが、政治としてなすべきは再配分システムを強化することに尽きるでしょう。私は例えば道路よりこれを優先すべきと思います。再配分システムは単にばら撒くのではなく、付加価値のある労働につけるような教育とか、さらには住所をもてるようにとか本人努力で浮揚できるまでのベースをつくるようにすべきです。(勿論老人には年金などの見直しも必要かも)
政府ではなく経済的余裕のある人達はどうすべきでしょうか?
再配分システムのひとつに寄付がありますが、キリスト教の弱体のせいか、米国に比べ日本はわずか1%程度とのことです。(数年前ですが、寄付先の格付け会社設立に関し相談されたが、その時、年間寄付金は4兆対400億と聞いた:未確認)、日本においては機能していないようです。
もうひとつ血縁同士の助け合いもありますが、これも核家族化や少子化で昔のようには期待できないでしょう。
これに関しては、私としては、国民や地域住民としての最低限の義務は果たすべきという以上の意見はありません。
usagi さんの案もありかもしれませんが、所詮経済問題だけでは成り立たないのではないでしょうか?
生活共同体的宗教団体は経済での結びつきより、寂しさからくるものではないかと思います。
魅力的中心人物がいれば、小さな共同体は成立するかもしれませんが、おおきな共同体は権力を持たない限り(結局は国家=10%より大きく徴収)成立しないのではないでしょうか?
一般的に組織が大きくなると間接部門が急増します。
組織を三角形で考えると底辺が2倍になると面積(つまり支えられるべき組織)は4倍になります。これを防ぐには生産性を挙げるか組織形態を変えるかしかありませんが、生産性向上はこの場合ないですよね。組織形態のひとつとしての鍋蓋型の場合は組織の増大とともに、中心人物の能力が飛躍的に求められるようになると思われます。ネットワーク型の場合は何か強力な共通理念が必要と思われます。(以上を含め単に思い付きです。)
某有力宗教団体が10%召し上げていたとおもいますが、おそらく学校運営や聖堂つくりに使われているのではないか(再配分ではない)と推測します。
ただ、再配分システムとしての機能はなくても、貧困にめげず生きる強さをこうした宗教は与えられると思います。
六本木ヒルズでいつ落ちるかわからない恐怖や、電話ひとつ無い寂しさとともに生活しているのと、貧しい食事(でも今はひもじくはない)でも大勢と共同で暮すのとどっちが幸せなんでしょうね。
最後にひとつ。格差という言葉自体が問題と思っています。単なる所得差で、上下はないと思います。ついでに勝ち組負け組み、底辺(やむ終えずつかったが)もやな言葉です。所得差はなんら恥じることないし、この社会で存在していること自体が価値あること(これを説明すると長くなる)なので、再配分されるものは当然の権利として受取ればいいと思いますし、公平な形で徴収もすべきでしょう。そうしたことを説くのも宗教の役割のように思えるのですが。(神を信じなくても通じる話のように思うのですが。)
ここまで書いたものを読みなおして、やはり空虚に感じます。E婦人の言葉には重みを感じます。
そして、このメールをもっと単純化したメール、貧困や精神に関しても触れたメール、合計3つのメールを作りました。
もっと書き足そうかとも思いました。
さらに、何も送らないという事も考えました。
貧困に関して意見をいうのはやはり気が重いのでやめ、まあ、この程度はせっかく書いたんだから送信しちゃおうと思いました。
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如何でしたか? 素晴らしいコメントでしょう? 私はこんなにインテルジェンスの豊かな人とキャッチボールが出来るのを、いつも楽しみにしています。(usagi)
2010年12月28日
貧困は社会的に生まれる問題であるが、わたし個人が貧困に陥っているなら恥じないといけない。社会の中で最低限の礼儀を守り人のために世話をしていれば、社会との接点が切れることがなく、仕事も見つかり自然と道は開け、生活するだけの収入に困ることはありえないからである。ただし、自分の問題ではなく他人が貧困である場合は、同情を持って対処すべきである。例えば、日本とアフリカの戦乱地域を比較したときに、裕福貧困も個人の努力次第という論理は破綻する。そして、どんな豊かな社会でも不平等が発生し、相対的な貧困感に苦しむ人がいるのは必然だからである。日本の中でも東京と疲弊した特定の地域でも生活レベルに差が生じるわけで東京に居住する有利さは計り知れない。就労だけではなく情報量、劇場、博物館など文化生活の前提が違っている。もちろんこれらのことは個人の幸福とは別問題ではあるが。
貧困は政府の責任でもあるが、政府の役割として孟子が「五十歩百歩」で述べていることは今でも事実であり、その全てでもある。
「人民を使役するのに農繁期を避ければ、食糧は食べきれないほど収穫できるものなのです。池に細かい網を入れて乱獲しなければ、魚は食べきれないほど水揚げできるものなのです。伐採者に山に入る時期を規制すれば、材木は使い切れないほど伐り出せるものなのです。このように飯も魚も材木もありあまるほど得られるようにまず配慮する政策は、これこそ人民が家族を養いきちんとした葬式を行えるようにするものです。家族を養いきちんとした葬式を行えるようにする政策は、王道の始まりです。(土地・家族に対しては、このような制度を採用するべきです。つまり、)
• 一家族につき宅地を五畝(9.1アール)。そこに桑の木を植えさせれば、五十の年寄りが絹を着ることができます。
• 鷄 ・豚・犬の飼育をむやみにせず計画的に繁殖させれば、七十の年寄りが肉を食べることができます。
• 一家族につき農地を百畝(1.82ヘクタール)。農繁期をじゃましないようにすれば、一家族数人ぐらいなら餓えることはありません。
• 道徳学校の教育を徹底させ、親への孝行(孝)と年長者への尊敬(悌)の秩序を教え込ませれば、白髪の老人が道路で重荷を背負って苦しむような光景はなくなります。
こうして、七十歳の老人がみな絹の服を着て肉を食い、人民は餓えも凍えもしなくなります。ここまでして王にならない者は、未だかってありませんでした。
なのに、犬や豚に与える食糧は十分に確保しても、貯蔵庫に食糧を蓄えない。路頭で飢え死にしている者があっても、貯蔵庫を開かない。こんなやり方をしながら人が死ねば「今年は凶作だからしょうがない」などと言うのは、人を刺し殺しておいて「俺がやったんではない」と強弁するのと一緒ではありませんか。王が、人民の困窮を凶作のせいなどにせず、これは自らの責任だと自覚して政治をなさるようならば、天下の人民は王の下に群がり集まってくるでしょう。」(たまたま見つけた鈴元仁氏のHPより抜粋)
つまり、
1 国民が耕作に集中できるように配慮し、乱獲乱伐を防ぐ方策を取れば自然は豊かであるから国民は飢えや寒さに苦しむことは無い。
2 教育を盛んにすると国民は老人などの弱者をいたわるようになる。
3 政府は無駄な出費を防ぎ食料を蓄えておけば災害時など困窮者に配給することができる。
アフリカの戦乱地域では餓死が日常なのに対して、格差社会とか言われている日本で餓死する人は極めてまれである。孟子がこの世に現れれば日本を絶賛するであろう。治療代まで面倒みてくれる生活保護の制度があるというだけでも日本はパラダイスである。
豊かな日本でもその中で収入に差が生じるのは当たり前である。高収入といわれている同じ医者でも流行っている医者と客が来ない医者では収入に数倍、数十倍の差が生じるであろう。また外車を乗り回す理容師もいれば、軽自動車も買えない理容師もいる。これは格差社会だからそうなったのではなく、その人が社会に提供できるサービスに数倍、数十倍の差があるからである。政府のすべきことは孟子の述べたように経済を振興させる条件を整え、教育をきちんとし、かつ最低限のセイフティネットを確保することにあり、それ以上の役割を期待するのは、個人の自由と尊厳を縛り活力ある社会でなくなることを許容していることになるだろう。金日成は国民に絹の服、肉の入ったスープ、瓦の家を目標として、個人の自由と尊厳を奪い社会主義を取り入れたが、未だに達成されていない。
格差社会は政府の問題だという発言だけで自分は弱者の味方だ誤解する人自身が問題なのであって、自分が世の中の貧困問題にどう具体的に関わるかが問われている。飢えと寒さはその人の尊厳を奪うからこそ、キリスト者として、イエスが述べたように、眼の前の飢えている人に食べさせて、寒さに震える人に服を与えることをまずすべきである。その人を市役所に案内し生活保護を受けさせることも愛の実践である。最低限の生活レベルが確保されて初めて人生を切り開く勇気が生まれる。
わたしは縁あって通常の仕事のほかに保護司として保護観察処分を受けたあるいは仮出所した青少年から老人までの保護観察業務を担当している。やはり問題を起こす青少年や大人には問題のある家庭があり、特に両親の仲が問題であると言わざるを得ない。家族の再生、そのための宗教や道徳を含めた教育の充実こそが遠回りに見えて実は一番の近道である。
家族の崩壊で家族も当てにならないとの意見もあるが、それは評論家の意見であり、個別の相談ごとで愛情をもって家庭が崩壊しないようにアドバイスし取り組むことが求められる。総論ではなく各論にいかに一人一人が取り組むかが勝負であろう。人は他人に話しを聞いてもらえるだけで問題点が明らかになり自分で解決する勇気がわいてくるものである。貧困に陥っている人は、社会との接点が少なく、相談する相手もアドバイスしてくれる隣人もいないで袋小路に入り込んでいる。話を聞いてあげる功徳は限りなく大きい。(T.I.)