初秋の夕暮れに 野尻湖から望む斑尾の山波
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中秋の名月
= 2013年9月19日の場合 =
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秋晴れで中秋の名月が見られる確率は約50%ぐらいなものだそうです
私は9月か ひょっとしてひと月後れの満月を 毎年のように信州の空に探すのですが
晴れてブログに載せるほどの月を撮れたことは稀です
それが 今年は台風一過の絶好の月見日和でした
野尻湖の国際村の桟橋に陣取り 今や遅しと月の出を待ちました
磁石で東を探しレンズを向けて待ち受けていると
出ました!
斑尾山の裾野の稜線に 突然 ヌッと頭をもたげた中秋の名月です
赤い陽が沈むのも速いが 黄色い月の出も思いの他速く あっと言う間にもう半分が顔を出しました
お盆のような丸い月が 今まさにその全身を現そうとする瞬間です
湖面に映える中秋の名月の明るさ
雲一つない空に 今夜は一晩中満月が見られそう
満足しきって 早々と家路につきました
来年も 秋の満月が見られるだろうか・・・
(終わり)
デジカメではこんなにきれいに撮れません。。。自分の眼のカメラに納めておきましょう。ありがとうございました。
コメントをいただいていたことにすぐに気付きませんでした。
失礼いたしました。
大先輩が私ごときのブログに目を止めて下さったことに驚いています。
私は神様の憐れみで司祭にして頂きました。自分の置かれた境遇で、その恵みにどれだけ応え得ているかに忸怩たるものがあります。どうか私のためにお祈りください。
お言葉、重くうけとめました。
私の周りにもそういうご夫婦が実に多くおられます。
私は、放蕩息子を地で生き、結婚して家庭を営むことをしませんでした。いま独り老いていきつつあります。
一人の異性と生涯愛し合って悔いのない人世を生きることの難しさと、それゆえの素晴らしさを、ただ想像しています。
どうか、未亡人になるまで、そのまま別れず添い遂げて下さい。赦すこと、与えることの神秘をご一緒に黙想しましょう。
最近「ケリグマ」と言う本を翻訳出版しました。お読みいただけると幸いです。何かのヒントがそこにあります。
遠藤周作さんが『沈黙』を書いたためにフランス留学以来の親友の神父と絶交するはめになったと書いているようですが、その神父とはひょっとして井上さんですか。ぶしつけな質問お許しください。
悪魔の存在を信じていらっしゃるとのこと、アウグスチヌスなどのいう悪は存在しない(善の欠如)とどう折り合いをつけるのでしょうか。それから、悪魔の救い(あるとすれば)とはどのようなものなのでしょうか。悪魔の救いはないとすれば、神の愛と悪魔との関係はどうなるのでしょうか。つまり、神の愛は悪魔にはおよばない、というか悪魔はそれを拒絶するというような。遠藤さんなら悪魔は救いに無関心というかもしれません。
キリスト教的な救い(愛)に無関心なのは、遠藤さんが生涯苦闘した日本の泥沼(子宮)的感性だと思いますが、泥沼のキリスト教化(アカルチュレーション)は可能なのでしょうか。私は、江藤淳氏(『成熟と喪失』)の『沈黙』解釈が正しいと思います。つまり、ロドリゴは最初から西洋人の皮を被った日本人(泥沼)であり、彼の棄教は、泥沼(土着)のキリスト教化ではなく、逆にキリスト教の泥沼(子宮)化であると。井上さん、谷口さん、この点についてはどうお考えでしょうか。
砂漠的ユダヤキリスト教の感性(超越一神教、二元論)は泥沼日本(汎神論、非二元論)とは所詮水と油のように原理的に相容れないものではないでしょうか。せいぜいできることは、遠藤さんが『深い河』で一生懸命やったようにインド辺りに行ってキリスト教と日本仏教の折衷(止揚)をこころみることではないでしょうか。私にはあまり成功しているようには思えませんが。
井上さんの神は、和辻の「無限に流動する神聖性の母胎」に親和するようですが、それはキリスト教の神(ファロゴス)ではなく子宮ですね。というか、ファロスも子宮も包み込んだ「神秘的なる無」ですね。芭蕉の古池と蛙です。つまり即非の論理(不易流行)です。
カトリックにはマリアがありますが、井上さんや遠藤さんの「キリスト教」のように、このマリア(子宮)が「神秘なる無」として神(父)の上位にきてしまったらもはやどんな意味でもキリスト教ではないですね。キリスト教、仏教など従来の宗教を超えたもの、従来の意味での宗教ではないものではないでしょうか。