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アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー2)
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この日は幸い車が自由に使えて行動範囲が広くなった。ローマの南東約60キロのネミ湖に向かった。ローマ時代からローマの飲料水は市内を流れるテベレ川からではなくこの湖から引かれていた。湖水面からローマの七つの丘までのわずかな高低差を利用して、一分の狂いもなく一定の傾斜で水道橋を建設したローマ人の土木技術に脱帽する。この技術はローマ帝国の版図が及んだ全地方に伝えられて。今もその遺構はヨーロッパ中に見られる。
途中でラ・フォレスタ(森)という名の高級レストランに寄って昼食をとった。ここはシスターになった姉を一度連れてきたことのある思い出の場所だ。立派な門構えから奥まったところにあるホテル・レストランまで、車で森の中を行く。
昼の12時過ぎはイタリア人の昼食時としては早すぎる。食事客はまだ一人もいなかった。まるで高級レストランを借り切った気分だ。
偉そうなウエイターがサービスしてくれる。
前菜も何も抜きで、いきなり仔羊の炭火焼きと温野菜、それと赤ワインだけで食事とした。デザートにはこの地方の特産の野生のイチゴにレモン汁と砂糖をかけたもの、そしてコーヒー。それでも日本のこのクラスのレストランと比べれば、値段は半額以下だ。
食後にネミ湖に着いた。古い、古い死火山の火口湖だ。これがローマの水道の原点。火口丘の上に指輪の宝石のようなネミの町がある。
ネミの特産はサラミ、ソーセージ、生ハム、イノシシの肉などで、店の中はより取り見取り。
もう一つの特産は、先ほどラ・フォレスタで食べたデザートの森の果実、野イチゴやブルーベリー、ブラックベリー、ラーズベリー等々。
その他、ラベンダーの香水やハーブ酒、ハーブ入りの石鹸など。店頭の飾りの自転車もラベンダー色。
湖を見下ろすテラスで野イチゴのデザートとコーヒーが一番の御馳走。私は日本からのお客さんを何度ここに案内したことだろう。
レストランやカフェーの上の階の住居では洗濯物が万国旗のように干されている。
ネミ湖からロ―マに帰って、ジャニコロの丘に登った。ローマの町のパノラマを一望するのにこれ以上適した場所は他にない。丘にはイタリアの統一と近代国家成立に貢献した大勢の士官や兵士の像が点在している。
丘の頂きにはジュゼッペ・ガリバルディの騎馬像の巨大なモニュメントがある。彼はまずベネチアを落とし、最後に教皇領を奪取してイタリア統一を完成した男だ。イタリア全土にわたった広大な教皇領は小さなバチカンに立てこもり独立国家となった。
ガリバルディのモニュメントの台座には、定規とコンパスをあしらったフリーメーソンの銘板があり、その上に「ローマ(を落とす)か(みずから)死するか」と刻まれている。フリーメーソンはカトリックと絶対に相いれない結社で、旧教会法ではカトリック信者が秘密裏に加入しても、伴事的に(その事実自体によって)破門状態に陥ると言う厳しい制裁が定められていた。
ジャニコロの丘からローマの街を越えて反対側のピンチョの丘を見ると白い2本の塔が小さく見える。2000ミリのズームで引き寄せると、スペイン階段の上のトリニダード・モンテの教会であることが分かった。
夕方ローマ市内に戻ってサンジョバンニ・ラテラノ教会に行った。 残念ながらすでに閉まっていた。この教会は4世紀末にキリスト教がローマ帝国における非合法宗教、皇帝による迫害の対象から、ローマ帝国の国教の座に就く過程で、皇帝の精神的後ろ盾の地位に180度立場が変わった後、最初に皇帝によって建てられた教会だ。すべての教会の母教会と呼ばれ、この正面の入り口を入ってすぐ左側には教会の保護者コンスタンチン大帝の堂々たる騎馬像がある事に気付いている人は少ない。
生前イエスは、「神の物は神に、皇帝の物は皇帝に返せ!」と弟子たちに命じ、天の「神の国」と地上の「皇帝の国」とが馴れあう事を厳しく禁じた。それが、イエスの帰天後300年で教会はキリストの命令の真逆のことを見事にやってのけた。キリストの浄配、「妻」だった教会は、皇帝に囲われ、その「妾」になってしまったかのようだ。教会はこのラテラノ教会を世界中の教会の母教会と呼び、12使徒の頭の聖ペトロ、最初のローマの司教、ローマ教皇の座をこのラテラノ教会に置いた。今でも教皇の「玉座」は聖ペトロ大聖堂ではなくこのラテラノ教会に置かれている。私は司祭の一つ手前の身分、助祭になる叙階式を、この由緒あるラテラノ大聖堂で盛大に受けた。
しかし、17世紀間にわたった教会と皇帝の蜜月は1965年に終わった。第二バチカン公会議は教会と皇帝の決別を決定づけた。公会議を発議したヨハネス23世から、パウロ6世、一か月で謎の死を遂げたヨハネパウロ1世、聖教皇ヨハネパウロ2世、今も存命のベネディクト16世、そして現教皇フランシスコまで、全員がこの公会議の決定を支持し、教会と皇帝の決別、聖と俗の分離を支持している。
トラステベレの聖セシリアの教会はまだ開いていた。広い前庭と噴水の周りにはバラの花が咲き乱れていた。
聖堂の中はひっそりと静まり返っていた。内陣の上の半球形の天井には最盛期を思わせる美しいモザイクで飾られている。
祭壇の下には2世紀の殉教者、聖セシリアの遺体が葬られ、その上に美しいセシリアの像が横たわっている。彼女の亡骸がローマ郊外のカタコンベ(地下埋葬所)で発見され1599年に墓が開けられた時、聖女の遺体は千数百年を経てなお腐敗を免れ生々しく保存されていた。その姿を写実的に写したのがこの大理石像だと言われている。ちなみに、聖セシリアは音楽の保護の聖人として慕われている。
トラステベレと言えば、ローマの胃袋、レストラン街で有名だ。ローマでの最後の日々を、是非カンツオーネレストランで祝いたかった。ダ・メオ・パタッカはお手ごろだ。30年前は同じトラステベレでももう少し高級なラ・チステルナというレストランが行きつけだった。ローマ時代からワインの量り売りをしていたと言う店の地下室には、古色蒼然とした井戸があり、今でもテベレ川の水面と同じ高さに井戸水を湛えている。そこのカンツォーネのテノールはパバロッティの再臨かと思われるほど豊かな声量だった。ある年の大晦日、元NHKの磯村さん御一家と新年のカウントダウンをして踊った思い出があるが、その後、齢と共に歌手の声が衰えていくのを聞くのがつらくてこちらの店に鞍替えした。
食事よりもワインとカンツォーネがお目当てだ。
次々とテーブルを回って歌ってくれる。夜はこうして更けていく。ローマに居ると、ブログの種は尽きない。が、散歩の話はここで終わりとしよう。
(終わり)
貴重なご指摘有難うございました。文字の御変換はつい見落としがちですが、時代の変遷についての記述の真意は私なりの訂正の通りでした。これでよろしいでしょうか?