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〔完全版〕教皇のインタビュー(その-6)
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182年ぶりの修道者の教皇・・・
教皇フランシスコは182年前の1831年に選ばれたカマルドレ会士のグレゴリオ16世以来初めての修道会出身の教皇だ。それで「今日では教会における修道者と修道女の特別な地位とはいかなるものか」と質問した。
「修道者たちは預言者だ。彼らはイエスの生き方を御父への従順と、清貧と、共同生活と貞潔によって模倣し、イエスに従うことを選んだ人たちだ。その意味において、修道誓願が物笑いの種に終わることがあってはならない。さもなければ、例えば共同体生活は地獄となり、貞潔はただの老いぼれた独身男の生活に堕してしまう。また貞潔の誓願は多産性(豊穣さ)の誓願でなければならない。教会においては、修道者はイエスがこの地上でどのように生きたかを証しし、自分の完全さを通して神の国がどのようなものであるべきかを告げ知らせる預言者となるように特別に召されている。修道者は決して予言することを放棄してはならない。だからといって、預言的機能と位階的構造とは同一ではないとしても、教会の位階的な側と対立することを意味するものではない。私は常に積極的な提案について話しているのであり、決してそれは臆病なものであってはならない。隠遁者聖アントニオ以来の数多くの隠修士たち、修道士、修道女たちが行った業績の事を考えてみよう。預言者であるということは、時には「ルイド する」(訳注:ruido=スペイン語で「騒音を立てる」)ことを意味することがあり得るのだが、それを何と表言したらいいか・・・。つまり、預言は騒音を立てる、物議を醸す、人によっては《大騒ぎを起こす》と言うかもしれないが、そういうものだ。しかし、そのカリスマは現実にはパン種であろうとすることであり、預言は福音の精神を告げ知らせることにほかならない。」
ローマの省庁、司教会議、エキュメニズム(訳注:キリスト教一致運動)
位階制度について言及することを念頭に置きながら、ここで「ローマの省庁についてどうお考えですか」と教皇に質問した。
「ローマの省庁は教皇と司教達に奉仕するものだ。彼らは個々の教会と司教会議を助けなければならない。つまりそれは支援機関だ。それなのに、正しく理解されなかった場合には、いくつかのケースのようにただの検閲組織になり下がる危険がある。正統性が欠けているのでは、と言う告発がローマまで届くのを見るのは印象的だ。それらのケースは、必要に応じてローマから有効な支援が届くことが有り得るとしても、本来その地域の司教会議で検討されるべきものだと信じる。実際、それらのケースはそれぞれの地域においてより良く処理されうるはずのものだ。ローマの省庁は仲裁者であって、実務者でも問題の処理役でもない。」
昨年の6月29日、34人の首都大司教のパリウム(訳注:大司教の肩衣)の祝福と授与式に際して、教皇が《司教会議性のあるべき道》は《首位権者(教皇)の奉仕と調和のとれた成長》へ一致して教会を導く道だ、と主張したことを思い出す。それで、私は《ペトロの首位権と司教会議性とをどのように調和的に折り合わせるか、いかなる道が教会一致の展望の中で実行可能か》について質問した。
「人々も、司教も、教皇も一緒に歩まねばならない。教会会議性は様々なレベルで生きられなければならない。多分司教協議会のありかたを変更するべき時期に来ているのかもしれない。なぜなら私には今の形のものは発展性に乏しいように思われるからだ。そのことはまた、特に正教会の兄弟たちとの関係で、エキュメニカルな価値を持つことが出来るかもしれない。司教団の性格と司教協議会の伝統について多くの事を彼らから学ぶことが出来る。東西の教会が分裂する以前の最初の数世紀の間教会がどのように統治されてきたかを顧みて共同で熟考する努力は、今の時代に実りをもたらすだろう。エキュメニカルな関係性において、この事は自分たちをより良く知るためだけではなく、私たちのためにもなる恵みとして、他の教会の中に聖霊が種まかれたものを認めるためにも重要だ。私は既に2007年の合同委員会で始められ、ラヴェンナの文書の調印にまで至った、ペトロの首位権を如何に行使すべきかの問題に関する考察を続けていきたいと思う。この道は継続されなければならない。」
私は教皇が教会の一致の未来をどう見ているかを理解しようと思った。私に答えて「違いの中で一緒に歩まなければならない。私たちを一致させるためには他の道はない。これがイエスの道だ。」と彼は言った。
そして教会の中における女性の役割についてはどうか?教皇は様々な機会に、このテーマについて何度も言及した。あるインタビューのなかで彼は、教会の中における女性の存在はあまり頻繁に取り上げられてこなかったが、それは男性主義の誘惑が共同体の中において女性に帰属する役割を目立つようにするために十分な余地を残さなかったからだ、と言った。リオ・デ・ジャネイロからの帰りの旅の中で、教皇はこの問題をまた取り上げ、女性に関してはまだ深い神学的考察はなされていないと断言した。そこで私は「教会の中における女性の役割はどんなものでなければならないか?それを今日もっと見えるようにするにはどうすればいいか?」と質問した。
「教会の中により鮮明な女性の存在の場所を広げる必要がある。女性は実際に男性とは異なった構造を持っているのだから、《スカートをはいた男性優位主義》的な解決を私は恐れる。それなのに、女性の役割について聞かれる話は、しばしばまさに男性優位主義のイデオロギーからインスピレーションを得たものであることが多い。女性たちは取り組まれなければならない深い問題を提起している。教会は女性たちと彼女たちの役割なしには教会であることは出来ないのだ。教会にとって女性は不可欠な存在だ。マリアは女性であって、司教達よりも重要な存在だ。私がこれを言うのは役割と尊厳を混同すべきではないからだ。だから教会における女性像に対する理解をより良く深める必要がある。深い女性の神学を生み出すためにもっと力を入れて働かねばならない。この過程を成し遂げることを通してのみ、教会内部における女性の役割についてより良く考察することが出来るだろう。重要な決定がなされる場所では女性の資質が必要だ。教会の様々な分野において権威が行使されるまさにその場面においても、女性のための特有の場所について考察されること、これこそまさに現代の挑戦だ。」
(つづく)
その点のところを、是非、精神的マッチョ男性社会(神戸の名門男子校、国際大手金融)ご出身である谷口神父様に、所感をお伺いしたいところです。
日本のフェミニズムはもう、「安保闘争の鬼っ子」と堕してしまったとのことです。
やはり、「産めない女」はダメなのでしょうか。
「稼げない女」もダメなのでしょうね・・・。
近年の日本で“女子力”などとマスコミ用語が流布するのも、新しいモデルが生まれるまでの生みの苦しみの一環なのだろうとは思っていますが・・・。
教皇さんたちもやっぱり
貞潔はただの老いぼれた独身男の生活に堕してしまう
という心配はあり得ると思っているんだな。
けっこうなことだ。
J. K.
その-6 有り難う ちょっと難しいね
こちらでは 梅が盛りを過ぎようとしています
Y.