:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私は、なぜ敢えてホイヴェルス師の「弟子」を僭称(せんしょう)するのか?

2023-01-23 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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私は、なぜ敢えて

ホイヴェルス師の「弟子」

を僭称(せんしょう)するのか?

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 ヘルマン・ホイヴェルス師の弟子は誰か?と問うとき、すぐ脳裏に名の浮かぶのは、師の生前夏毎に開かれていた紀尾井会の総会の光景だ。私が初めて参加したときには、大勢のキラ星のような先輩が顔をそろえていて、私などは20歳にも満たぬ無名の若僧に過ぎなかった。

 ホイヴェルス師の弟子たちが集う紀尾井会の総会には実に錚錚(そうそう)たる顔ぶれがそろっていた。中でも先ず思い出されるのは最高裁長官を努めた田中耕太郎氏だ。

 聖公会からカトリックに改宗した夫人の影響で無教会主義キリスト教からカトリックに改宗し、以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱えた自然法学者だが、第二次世界大戦末期には、カトリックの人脈を生かしてローマ教皇庁を通じた和平工作に関与した。また、1949年には、参議院で優生保護法による人工妊娠中絶に経済的理由を追加する事に反対し、「一家が貧乏だから四人の子供を二人にしろ、人口八千万が多過ぎるから六千万にしろ、そういう考えこそフアツシヨ的、全体主義的の思想である」と喝破(かっぱ)した人だ。

 1957年8月19日の上皇様と美智子様との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。

 このような田中耕太郎がホイヴェルス神父を深く尊敬している姿を私は目の当たりにしていたが、あらためて調べてみると、二人とも同じ1890年生まれで、田中耕太郎は1974年に没し師はその3年後亡くなっていることからして、年齢的に師弟関係と呼ぶにはいささか無理があった。一般にホイヴェルス師の弟子の会と思われている「紀尾井会」においては、田中も、その後任の最高裁長官松田次郎もやや別格だった。

 加藤信朗(東大ギリシャ哲学)、今道友信(東大美学)、神父では沢田和夫、粕谷甲一らは、次の世代を代表して紀尾井会を賑わした人たちだが、彼らは、それぞれに大成していく過程で師に惹かれて近づいたというべきであり、濃密な師弟関係にあったとは必ずしも思えない。

 他にも実に多くの人々が師の周辺にいたが、師との物理的な距離感や接触の度合いから言って、師に見いだされ、手塩にかけて育て上げられた、と言えるほどの人は思いのほか少なかったのではないだろうか。

 そんな中で、私は18歳で上京して、四谷のキャンパス内にあった学生寮「上智会館」に住み始めると、早速イグナチオ教会の毎朝のミサでホイヴェルス神父様のミサ答えとして祭壇に奉仕し始めた。そして、神戸の六甲山を山岳部員と称して山猿のように駆け巡っていた粗野な私の心に、ホイヴェルス師の影響は日々刻み込まれていった。同じ学寮に住むイエズス会志願者らが舎監の神父の監督のもとで寮のチャペルのミサに与っている間に、私は初めから自由に師のそばに入り浸っていた。

 毎週火曜日の午後、ホイヴェルス師は聖イグナチオ教会の主任司祭室で、都下の学生たちを集め、「紀尾井会」と称して哲学や文学や信仰の話をされた。「紀尾井会総会」は長い歴史のあるこの小さな会のOBたちの集まりであった。日常的には10名に満たないグループで、東大生もいたし中大生もいた、青山や、聖心などのミッション系の男女もいたが、もちろん上智哲学科の私はほぼ無欠席の常連だった。二三年目には、会の世話役のような顔をして、オープンデッキの大きな録音機を回して、師のお話を収録したりもした。

 日々、腰巾着のように離れない私を、ホイヴェルス師はいろんなところへ連れて歩かれた。省線電車(今のJR)に乗って病院訪問をされるときも、国内の小旅行をされるときも、ついには師が1964年に初恋の宣教地、インドに旅をされたときにも、私は一人師の傍にいた。

 また、学生だった私の話にも気さくに耳を傾けられ、お誘いすれば曹洞宗の澤木興道老子に会うために、わざわざ遠く信州まで足を運ばれもした。

 

澤木興道老子の参禅会に来てくつろぐホイヴェルス師(右は私)

 

澤木興道老師とともに 昭和の最後の雲水と言われた澤木老師は日露戦争に参戦し、二百三高地の激戦で重傷を負って生還した兵(つわもの)だった

 

 私が師の愛と期待を裏切ってイエズス会を脱会しようとしたときなど、まだ新幹線のなかった遠い広島の修練院まで来られ、「それは悪魔の誘惑だ。お前は将来のイエズス会にとって必要な人間だから辞めてはならぬ。私の言葉に従いなさい!」ときつく言い渡された。私は、口では「はい」と答えたが、数か月後、結局行動でそれ裏切った。

 それでも、師は私を破門することもなく、上京してみたらイグナチオ教会の目と鼻の先に4畳半を私のために借りて待っておられ、また師のミサ答えを毎朝するように命じられた。

 師が東京の歌舞伎座で「細川ガラシャ夫人」を一か月通しで打たれたときも、初日、中の日、落(らく)の日には、師の右隣の席でご一緒に舞台を見守ることが許された。師は私にカトリック新聞のほぼ半ページにも及ぶ演劇評を書かされたが、それが私の文が活字になった最初のケースとなった。

 師が故郷(ふるさと)のノルトライン・ウエストファーレン州、ドレイエルヴァルデに里帰りされたときなど、たまたまデュッセルドルフでドイツの銀行に勤務していた私は、車を駆ってお会いしに行き、生家の二階の師の少年時代の勉強部屋で姪ごさんの手料理を二人でいただいた。その時、師は「来年には『ガラシャ夫人』の歌舞伎をドイツに持っていくから、お前はそのマネジャーをやりなさい」と言われた。しかし、それは実現を見なかった。

 師が無くなられたときは仕事でお葬式に出られなかったが、帰国後は追悼の会に度々参加し、司祭になってからは追悼ミサの共同司式をしたこともあった。そして、第41回目の「偲ぶ会」以降は世話役を引き継ぎ、コロナ禍にもかかわらず毎年「偲ぶ会」を続けることが奇跡的にできた。

 私の青春とその後の人生は、師を抜きにして語れない。私はいま師の面影を知らぬ若い世代に師の遺産を受け渡すことを人生の最後の仕事と心得て励んでいる。

 私も83歳になった。師の周りにいた立派な先輩方は既に世を去って、今では「我こそはホイヴェルス師の一番弟子!」と名乗り出る人も他に見当たらない。これが、不肖の我が身を顧みず敢えて「師の弟子」を僭称(せんしょう)する由縁(ゆえん)だ。この長い「時間(とき)の流れ」に免じてどうかおゆるしいただきたい。

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11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
返信をありがとうございます。 (新米信徒)
2023-03-11 10:21:35
谷口神父様 

返信をありがとうございます。神父様の一冊目の著書を部分的に読み返しました。当時の修練院のことはひっかかりますが、カトリック教会が外の世界に開かれたことを考えると、神父様や森司教様そして本田哲郎神父様(その他多くの方)の道はあとに続く者にとって大変大切なことのように感じます。神父様は学生運動の中、上智大学での研究者の道をたたれ、マンモンの恐ろしさ、精神医療での出来事等、多くのことに出会われておられます。今叙階を受けられる方は、世の多くのことに出会い、信仰に基づいて道を進んでいかなければいけないように思います。神父様が最後に書かれたことからそのようなことを感じました。
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-03-10 13:31:53
新米信徒さまへ
山岡神父様の記事について思ったことを宣べさせていただきます。
私は45歳を過ぎて、回心して、司祭になりたくて教会の門をたたいて歩きました。どこの司教様も、どこの修道会の管区長様も、私の履歴を一瞥して、頑として受け入れを拒否されました。理由は年齢だけではなかったかもしれませんが、年齢以外の理由については語られませんでした。
そのうち、フランシスコ会の当時の管区長の本田哲郎神父様と、東京の森一弘補佐司教様の紹介で、高松の深堀司教様が神学生として受け入れてくださいました。私はその時、すでに49歳でした。
しかし、深堀司教様には自教区の神学生を東京の大神学校に入れて養成する権利をお持ちであったにもかかわらず、神学校の院長は私の受け入れを拒否しました。司教様は面目を失われました。
それで、深堀司教様は私をローマに送られました。そして、言われました。「もしあなたがローマで生き残れなければ、あなたには司祭への召し出しはなかったと思いなさい」というものでした。
私が入ったローマの神学校は、新設3年目の教皇庁立「レデンプトーリス・マーテル」神学院では、私は院長よりも1歳年上の最年長神学生でした。しかし、ほかにも40代の中年神学生がいました。
私は昔上智大学で中世哲学を博士課程修了までしっかり勉強していたので、哲学の勉強が免除され、教皇庁立グレゴリアーナ大学の神学部3年の時ラテラノ教会で助祭に叙階され、年が明けて高松で深堀司教様から司祭に叙階されました。その時私はすでに54歳でした。
私は今年の12月に満84歳を迎えますが、今も現役で宣教と司牧に励んでいます。
少子高齢化の問題は確かにあります。しかし、召命は年齢の問題ではありません。召命の確信と、回心の体験と、確固たる信仰の問題ではないでしょうか。
カトリックの司祭職を、世俗的に考えて、楽をして一生食いっぱぐれの無い安定職と考える人には、給料が生活保護並みで、とても魅力がありません。
召命感と、使命感と、宣教の熱意がなければ持ちません。
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/950695b3ab3fbf82050e29269db1fbb4/#comment-form
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-03-10 10:20:28
上にいただいたコメントには午後ゆっくり対応させていただきます。
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司祭・修道者養成についての一つの報告 (新米信徒)
2023-03-09 08:21:24
谷口神父様 

所属教会以外での朝のミサに与ったときに、ミサの後に司祭の方から、神学生があまりにも少ないという意味のことを聞くことが、いくつかの教会でありました。他人事ではだめだと思い、最近、(最新の)日本の教勢を調べて、大変驚かされました。上智大学のことはよくわかりませんでしたが、次の報告を知りました。

「Journal of Research Society of Buddhism and Cultural Heritage 佛教文化学会紀要
2019 巻, 28 号

カトリック司祭の養成機関としての上智大学神学部の使命と課題 山岡 三治 2019 年 2019 巻 28 号 p. L54-L61 発行日: 2019年 公開日: 2020/06/19
DOIhttps://doi.org/10.5845/bukkyobunka.2019.28_L54

司祭・修道者の養成についての問題点について p. 60 によくわからない箇所がありますので引用します。

「第 2 は少子高齢化の影響です。最近は 30 代、40 代の人も
志願してきますが、そういう人たちが 10 年たってやっとなったら、もうおじいちゃんです。働けないぐらいになってしまうので、あまり意味がない。しかも価値観をそのまま持っているので、なかなか変えにくいという問題があります。」

全くの素人の感想ですが、例えば 35 才で志願して、例えば 15 年後に叙階された場合は、50 才ですが、そのような 50 才の聖職者の方は、(養成の中で疲れ果ててしまい?)もうおじいちゃん(のような?)の聖職者であるということでしょうか?「霊」が燃え、元気で活動的な方はほとんどおられないということでしょうか? 山岡神父様は、イエズス会士のことを念頭においておられるのだろうかとも考えました。短い時間での講演だと思いますので、素人のわたしが行間を読むことは困難で、誤解をしているのだと思います。
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高森草庵 (新米信徒)
2023-02-04 17:46:20
谷口神父様

返信をありがとうございます。

押田成人著作選集 3 「いのちの流れのひびきあいー地下流の霊性」日本キリスト教団出版局 (2020) に、高森草庵 農業等予定(二〇二〇年)があります。詳しいことは何も知りません。

押田神父様は、病者(とくに結核の病者)に負債を負っているというおもいを書いておられます。また、若い人へのおもいも大変強いようです。ホイヴェルス神父様は、そのことを初めから見通され、ホイヴェルス神父様からの「あなたの召出しは確実です。」ということばに対する押田神父様の「わたしの人間への郷愁をよくご存じでしょう?」という返答に対して、「あなたは家庭生活にも修道生活にも適(あ)いません。」と言われたそうです。

「遠いまなざし 押田成人 地湧社 (1983)」に、「危機の状態の中で、何も無い中で、自分たちでかかわりあう。そこに若い者の喜びがあるわけね。だからその要求に応えることが我々の務めなんです。」とあります。このことは、キコ氏の信仰の道と響き合っているように感じますし、「貧しい者は幸いなり」にも響き合っているようにも感じます。衣食住に恵まれることだけではだめなようです。言葉の存在は大変大きいように感じます。
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Unknown (G)
2023-02-02 14:24:48
神父様、劇評楽しみにしております。我々熱心な読者としては、神父様の文がはじめて活字になったものという点からしても興味深いです。
細川ガラシャ夫人は、三島由紀夫が新作歌舞伎を盛んに書いていた頃に続く時代の作品ですね。三島の歌舞伎のほとんどは歌右衛門のために書かれましたが、その歌右衛門が認めたわけですから、ホイヴェルス師の戯曲が三島のそれらと同じくらいの高い芸術性をもつということです。カトリック教会として松竹に再演をお願いしたいですね、玉三郎のガラシャで。(初演の細川忠興は守田勘弥。)
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Gさんへ (谷口 幸紀)
2023-02-01 22:55:48
私の劇評の載った古い新聞、どこかにとってあるはずで、この1年ほどの間に実際目にしているのですが、いざ探してみると身近に見つかりません。多分、野尻湖の家にあるのだと思いますが、今は2メートル余りの雪の下で、近づけません。4月、雪が降りやんだら、探しに行って、見つけたらブログに復刻しましょう。20歳そこそこで書いた、やや気負った青白い文章かもしれませんが・・・
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Unknown (G)
2023-02-01 18:17:28
歌右衛門のガラシャですね。大成駒の全盛期ですからどれほど素晴らしい舞台だったことでしょう。映像も何も残ってないのが残念です。神父様の劇評をぜひ読んでみたいです!(記録によれば今日出海が演出とのこと、この方も紀尾井会のメンバーだったのでしょうか?)
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-01-29 15:36:48
八ヶ岳の麓の高森草庵、押田成人神父、いずれも耳に懐かしい響きですね。私も足を運びました。今は誰かが継いでいるのでしょうか。
カトリックの先達の足跡を巡礼した若い日々を思います。裾野の神山復生病院にはまだかなりの数の癩患者がおられました。岩下壮一神父のもとで看護婦長を勤められたナイチンゲール賞に輝く井深八重子女史に岩下神父の面影の残る施設を案内してもらったのも、青春の追憶の一ページです。
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岩下壮一神父様  (新米信徒)
2023-01-28 17:15:50
谷口神父様 

岩下壮一神父様のことは名前だけ知っていましたが、あることが頭に浮かび、Seseragi せせらぎ、の site のアーカイブ 岩下壮一(神父様)、を読んで大変驚かされました。行動される方とは全くしりませんでした。

ホイヴェルス神父様の著書「人生の秋に」の「司祭 ー 岩下壮一師の思い出に」を黙読の形で唱えることになりました。

Seseragi せせらぎ、から次を引用します。

「キリスト教の説く愛は、ともすれば情緒や感傷にすり替えられかねず、弱者に向けられるのもたんなる憐憫の情や自己満足の施与であったりする自己欺瞞性を、彼の目は見とおしていた。復生病院院長としての岩下神父を特徴づけていたのは、何よりも行動の人としてであった。」

押田成人神父様はホイヴェルス神父様の弟子で、また結核による長期入院の患者のまとゐ(円居)とのかかわりから高森草庵
の道を歩まれたようです。不思議なことですが、交錯しているように感じます。
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ホイヴェルス神父様 (コスモス)
2023-01-23 12:44:14
 作家の犬養道子さんも、上智の教員であった雨宮慧神父様もホイヴェルス神父様から受洗されたと、おうかがいしていました。私は、ホイヴェルス神父様の書かれた文章を、このブログを通して拝見するときに、このような神父様が、また日本に現れますように、と願います。
 神父様とシスターはまた違いますが、かつてのカトリック系ミッションスクールには、カリスマ性があり、厳しいけれども深い慈愛で生徒を導く、偉大な修道女方がおられました。
 ある人は生徒として彼女に接し、ある人は学校の上司として彼女に接し、自然にカトリックの信仰に導かれ、結果よきカトリックの家庭人になった人もいれば、そのまま修道院に入って行かれる方もおられたものです。
 司祭と修道者あってのカトリック教会だと、私は思います。
 優秀で高潔な人格を持つ若者に召し出しがあって、海外の神学校で学ばれ、訓練を受け、やがて日本のカトリック教会で、本物のカトリシズムを伝える司祭として働いてくださることを願います。
 私は、ホイヴェルス神父様の文章が、大好きです。
 一番弟子の谷口神父様には、ホイヴェルス神父様の信じておられたカトリック信仰を、これからも伝えていただきたいと思います。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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